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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ24「WW2(18)プエルトリコ島戦3」-1

 「プエルトリコ島の戦い」は、戦争の転換点の一つだったと言われる事がある。

 攻防戦の末に途中で攻守が逆転した戦場のため、そう見られる向きが強い。

 確かに、激戦が繰り広げられ枢軸と連合の攻守が完全に逆転したキーポイントの戦場だったが、これは戦略レベルでの状況変化が大きく影響している。

 要するに、アメリカの戦時生産がフル稼働を開始して、産み出された兵器と開戦後から訓練された兵士達が戦場に続々と送り込まれるようになったからだ。

 

 だがアメリカの大軍はスタートラインで準備中で、連合軍はもう少し現有兵力で踏ん張らなければならなかった。

 プエルトリコ島が奪われた事そのものが、踏ん張れなかった場合の結果であり、踏ん張らなければそれだけ不利になると同時に、戦争が長引くことになるからだ。

 逆に枢軸側から見れば、無理をしてでも敵の反攻を抑え込む価値のある戦場だった。

 


 プエルトリコ島の戦いは、アメリカを中心とする連合軍が逆上陸作戦を決意した時点で一気にヒートアップする。

 

 上陸部隊を送り込むには制空権と制海権を限定的でも得なければならず、大量の洋上戦力、航空戦力が必要不可欠だったからだ。

 そしてアメリカ海軍は、まだ十分な数の艦艇を有していなかったし、最前線の飛行場から戦場まで1000キロメートルあるため、どうやっても戦闘機が送り込めず洋上での戦いが重要となった。

 

 しかし1942年9月、戦況は明らかに連合軍に優位になりつつあった。

 アメリカの各所で建造されていた護衛艦艇、護衛空母が続々と姿を現し始め、生産と実戦配備が先行していた艦艇や部隊が続々と戦場に姿を見せ始めていたからだ。

 対潜航空隊でも、航空機搭載のレーダーの搭載が始まり、夜間でも活動を本格化するようになる。

 また日本軍も大規模な増援艦隊をカリブに注ぎ込んだ事で、一気に戦力も増した。

 

 まずはアメリカ本土近辺、制空権のあるカリブ海南部、西部で各種部隊の配備が開始されたが、特に対潜水艦部隊の効果はてきめんだった。

 欧州枢軸軍の潜水艦は、8月後半からドイツ、イギリスなどの国を問わず損害が増え始めて9月、10月でほぼ1日1隻のペースで撃沈された。

 海の狼たちは、狩る側から狩られる側へと転落したのだ。

 

 そして優位を確信した連合軍が、対潜部隊を徐々にカリブの最前線へと投入するが、枢軸側は一度中止して体制を立て直すべき潜水艦作戦を続けざるを得なかった。

 制海権を維持するために必要だったからだ。

 しかし8月は、まだ連合軍にとって苦しい時期だった。

 このため、日本海軍による艦砲射撃の成功は貴重な時間を稼ぎだし、さらには連合軍が防戦一方に追いやられるのを阻止した。

 特にアメリカで、三川提督率いる《比叡》《霧島》による艦砲射撃が評価されるのは主にこのためだ。

 戦術的な一撃が、戦略に大きく影響を与えたのだ。

 

 そしてアメリカ軍は時間を無駄にせず、夜間爆撃を中心とした攻撃機による空襲を継続しつつ、その合間合間に島の内陸部に逃れた兵士への小規模な空中補給を実施した。

 また、プエルトリコ島の主要積み出し港には、常時夜間爆撃を行って枢軸側の荷揚げを阻害した。

 さらに、日米合同で多数の潜水艦も配置し直したので、枢軸側の船舶が島に至るまでの移動阻止率もあがった。

 この中で《伊19》潜水艦は、大型輸送船2隻、駆逐艦1隻を一度に撃沈する殊勲を上げた。

 この時の輸送船は、それぞれ1個大隊の歩兵と戦車など多数の重装備を満載していたので、この後の攻防戦に大きな影響を与えた戦果だった。

 

 そしてプエルトリコの枢軸側は、島の内陸部の完全制圧に手間取るばかりか、小規模な逆襲を受けることが多く小さな損害を積み上げた。

 また多くの兵力が、内陸部に拘束される事となった。

 そして増援や物資の輸送は遅々として進まなかった。

 

 さらにアメリカ軍は、キューバに近いバハマの東、エスパニョーラ島の北にある、イギリス領のタークス・カイコス諸島を海兵隊を用いて電撃的に占領する。

 同諸島は、かなり前から占領計画はあるも延び延びとなっていたものだが、プエルトリコ島が占領された事で急ぎ占領計画が進められたものだった。

 

 占領に使った戦力は合わせても旅団規模に届かず、敵に近いためほとんど何の防備も出来ていなかった同諸島を2日間で完全占領した。

 欧州枢軸側がプエルトリコ島への攻撃か侵攻と予測して同地域でのみ警戒を強めたのを利用したため、戦闘らしい戦闘はなく鮮やかな勝利となった。

 

 そして占領後は、ただちに工兵部隊を送り込んで飛行場を整備し、一週間を待たずして戦闘機用の飛行場が開設される。

 

 同諸島はプエルトリコ島主要部から直線距離で700キロ程度で、ここからだと「P-38 ライトニング」が随伴出撃可能だった。

 「P-38」は対戦闘機戦闘だと一撃離脱戦以外は苦手だったが、直接の護衛があるのと無いのとでは大違いだった。

 また、アメリカ第3(もしくは4)の軍隊として急速に規模を拡大しつつある海兵隊の航空隊は、新鋭機として「F-4U コルセア」を投入した。

 海賊(正確には地中海のイスラム海賊)というカリブに相応しい名を持つコルセアは、この大戦初の2000馬力級空冷エンジン(ダブルワスプエンジン)を搭載した戦闘機の実戦投入となった。

 もともとは空母艦載機として開発されたが、機体の形状などから着艦が難しいため、まずは海兵隊に配備された。

 戦闘機としての評価が今ひとつと言われることもあるが、この時期に高性能な機体が登場したことは大きな価値があった。

 初陣は散々だったが、「P-40」などよりずっと良い機体で、その後練度、運用の向上により評価も覆されていった。

 なお「F-4U」は、開発途中から日本海軍が採用を決めていた。

 これは久しぶりの海外機導入だった。

 日本海軍は、日本の航空会社の開発力不足を補うため、自前の局地戦闘機(重戦闘機)として様々な資料や実機を検討した上で、加えて東鉄(モルガン財団)を経由したヴォート社からの熱心なロビー活動で決まったものだった(※他に、満州帝国、自由イギリスなどの戦闘機としても採用されている)。

 しかし日本海軍は、重戦闘機というより「支援戦闘機」として同機の採用に踏み切っており、上昇力と高空性能の高い別の機体を本当の意味での局地戦闘機として採用している。

 同機は、基本的に日米友好を演出するために日本海軍で採用されたと見るべきで、古くから日米海軍の関係が良好だったため実現したものだった。

 

 またこの戦場で珍しいのは、アメリカが日本から戦闘機の直接供与を受けていたことだ。

 これは陸軍航空隊が航続距離の長い戦闘機を欲したからで、「零戦32型」を日本人教官を迎え入れて訓練を積んだ一部の部隊が運用して、主に爆撃機の随伴機として活躍を示すことになる。

 もっとも、本来ならアメリカ海軍のF4Fでも良かったのだが、アメリカ陸海軍の勢力争いと面子の結果、日本海軍機が選ばれたと言われている。

 

 そうした努力がされたように、この小さな島々の確保は8月下旬からのプエルトリコ島での空中戦を優位に展開する大きな要素となった。

 


 プエルトリコ島奪回作戦に際して、連合軍は大西洋で投入できる全ての高速空母、高速戦艦の投入を決意する。

 そして日本が大規模な増援艦隊にパナマ運河を越えさせていた事、枢軸側の高速戦艦の近代改装がまだ完了していない事から、カリブ海近辺での洋上戦力差は連合軍が優勢だった。

 

 アメリカ海軍は、空母 《サラトガ》《エンタープライズ》《ホーネット》《レンジャー》の保有空母全ての投入を決意。

 日本は、カリブに到着して現地での慣熟訓練も終わった装甲空母《翔鶴》《瑞鶴》を投入する。

 またこの作戦のため、本来は帰国予定だった軽空母《瑞鳳》が、対潜任務用として戦闘に参加する事になる。

 さらにカナダ方面の防備担当だった自由英艦隊も、空母 《フェーリアス》、戦艦 《ウォースパイト》を中心とする艦隊を支援任務に出すことになった。

 連合軍にとって総力戦だった。

 

 戦艦も《ワシントン》《ノースカロライナ》に加えて新型の《サウスダコタ》《インディアナ》《アラバマ》までが作戦のために用意され、日本海軍も高速戦艦《比叡》《霧島》を今度は空母の護衛に投入する事を決める。

 また日本が2隻持ち込んだ防空専門の直衛艦(秋月型)と似た用途の防空巡洋艦3隻が、アメリカ艦隊に編入されていた。

 日米共に駆逐艦の多くが両用砲を装備しているので、艦隊防空はこの時点では考える限り最良の状態にまで高められていた。

 

 そして連合軍は、大量の空母と艦隊の強固な防御力を武器にして、枢軸軍から島の制空権を一時的に奪い、師団規模の部隊を強襲上陸させようとした。

 

 空母は主に三つに分けられ、アメリカ海軍は《レンジャー》が船団の護衛、残りの空母3隻が全部隊の主力として枢軸側空母機動部隊に備える。

 自由イギリス艦隊も船団護衛に組み込まれた。

 日本の空母部隊は、防御力の高さを活かして初手の枢軸軍航空基地への強襲を担うことになっていた。

 ただし日本艦隊は一種の囮で、日本艦隊の迎撃に枢軸艦隊が出てきたところを一網打尽にして制海権を得た上で、一気に航空撃滅戦と上陸作戦を行うつもりだった。

 奪われっぱなしだった戦闘のイニシアチブを奪うのも、この作戦の大きな目的だった。

 

 対する枢軸側は、イギリス本国海軍が多少損傷した《イラストリアス》《ヴィクトリアス》を応急修理して強引に出撃させ、ドイツがようやく派遣してきた《ペーター・シュトラッサー(フォーミダブル)》《マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(インドミダブル)》を加えて、さらに基地航空隊と連携して連合軍の反攻を挫こうと構想していた。

 戦艦もイギリスが《プリンス・オブ・ウェールズ》《デューク・オブ・ヨーク》、ドイツが《ビスマルク》《テルピッツ》、フランスが《ダンケルク》《ストラスブール》を迎撃のためにギニアと小アンティル諸島南部に集めた。

 こちらも総力戦体制だった。

 

 ただし枢軸側には不安要素が多かった。

 一つは占領したプエルトリコの基地機能が大きく低下している事。

 一つは、イギリス軍空母の艦載機部隊が損害から復帰できず、空母自体も小さな傷を抱えたままな事。

 一つは、ドイツ空母機動部隊の戦闘力が未知数な事。

 そして何より、イギリス、ドイツの空母部隊、さらには基地部隊の連携が取れるのかという事。

 特に、洋上での素早い戦闘展開に際して、日米よりも英独の方が明らかに連携で劣ると考えられていた。

 合同訓練をしたことがないのだから、不安になるのも当然だった。

 

 連合軍の作戦開始は9月22日。

 大規模作戦のため、準備には流石に一ヶ月が必要だった。

 


 キューバ島南端からフランス領ギアナまで約2500キロメートル。

 その中間となる地域に、プエルトリコ島と小アンティル諸島の北部が位置している。

 そして枢軸軍にとって、戦闘機が溢れかえるキューバ島はもはや手が出せない場所となっていた。

 もちろん長距離偵察機や重爆撃機を使えば行くことはできるし、偵察機は出されていたが、もはや攻撃は不可能だった。

 さらに外郭となるジャマイカ島、タークス・カイコス諸島は連合軍の手にあった。

 そして周辺の制空権、制海権は連合軍のもので、潜水艦の接近すら極めて難しくなっていた。

 そんな場所が俄に騒々しくなった。

 大艦隊の出撃の予兆だった。

 

 まずは対潜戦隊、対潜航空隊が濃密な潜水艦制圧を実施して、欧州枢軸側の潜水艦を閉め出した。

 日本海軍だと静止状態で潜む術(自動懸吊装置)を持っていたが、当時の欧州枢軸にはないので潜み続けるには人間の方が心身共に持たなかった。

 

 そしてマイアミからは、続々と艦隊が出撃してきた。

 

 それより前に高速補給艦を含んだ艦隊と、大型空母、高速戦艦を含む大艦隊の出撃も確認されていた。

 これに対応して、欧州枢軸側も自らの艦隊に出撃命令を下していた。

 連合軍も次なる艦隊を繰り出した。

 そして双方から多数の偵察機が各島々から出されたが、この時アメリカ軍は、機体内に追加の燃料タンクを増設して航続距離を伸ばした「B-24 リベレーター」爆撃機や「PBY カタリナ」、「マーチンPBM マリナー」飛行艇を多数送り出していた。

 欧州枢軸も偵察機は多数出したが、アメリカに数で大きく負けていた上に、アメリカ軍機は幾つかの偵察機に試作段階だったレーダーを装備しての出撃だった。

 

 そして敵味方合わせて4つの巨大な空母機動部隊と多数の偵察機、潜水艦が大西洋中部海域で活発に動き回ったが、この時は戦闘のイニシアチブを握った連合軍の作戦が図に当たった。

 

 戦闘当日の9月24日に偵察で優位に立った連合軍は、連携を密に取りつつ自分たちの艦隊を動かした。

 そして欧州枢軸より先に敵機動部隊発見に成功する。

 この時「カタリナ」が発見したのは、イギリス海軍の空母機動部隊だった。

 発見はレーダーによるもので、上空を舞う護衛戦闘機のエコーから発見していった。

 この偵察機は戦闘機に撃墜されてしまうが、周辺から続々と偵察機が集まり、ついには空母艦載機の小型機、日本海軍の「二式艦上偵察機」までがイギリス艦隊上空に至ってしまう。

 スマートな高速偵察機の接触は、日本の空母機動部隊がイギリス艦隊を攻撃できる距離だと言う現れだっだ。

 だが、日本側はすぐには攻撃隊を放たなかった。

 これは先の戦闘で、アメリカ軍が圧倒的優位な状況で先制したにも関わらず、防戦に徹せられて反撃を受けたため大きな損害を受け、戦果を得られなかったからだった。

 

 そして艦隊の防空力、防御力に自信を持つ日本艦隊は、さらなる突進を続ける。

 艦隊指揮を新たに任せられた角田提督(当時中将)は、「敵に接近せよ」と全艦隊に伝えたのみだった。

 だがさらに偵察機を放ち、近くにもう一つの空母機動部隊がいないかを探った。

 しかし自らはまだ発見されていないので、無線封鎖を守っての突進だった。

 


 欧州枢軸側は、先に発見された事に焦りを持つと同時に、まずは迎撃に専念しようとする。

 先の戦いでも防御力の高さは立証されていたし、敵艦隊が分からないからだ。

 偵察機は概略位置に向けてさらに放たれたが、未帰還機が相次いだ。

 明らかに敵の迎撃を受けているが、相手がよく分からなかった。

 日本艦隊だけなのか、アメリカ艦隊も近くにいるのかすら分からなかった。

 しかも日本艦隊が攻撃してこないので、焦りを強めた。

 

 このため、互いの機動の結果50海里以上離れていたドイツ艦隊に連絡を行うが、ドイツ艦隊は沈黙を決め込んでいた。

 イギリス艦隊と違い、見つかっていない以上無線封鎖は当然だが、かえってイギリス側の焦りとドイツに対する不信を強めさせてしまう。

 

 このためイギリス艦隊は、接近するよりも出来る限り離れることを選んだ。

 これ以上接近されることがないまま防戦に務めれば、前の海戦のように後手の一撃で勝機が得られるかも知れないからだ。

 

 だがこの時、一つの報告がイギリス艦隊に舞い込む。

 

 ドイツ機動部隊の偵察機が、敵を発見したという報告だった。

 しかも位置は自分たちを見付けている艦隊とは全く違う場所で、ドイツ艦隊はすぐさま攻撃隊を放ったという報告まであった。

 そしてドイツ艦隊、新たな敵艦隊の位置が分かったが、敵の位置は連合軍の機体なら枢軸側の艦隊を攻撃可能だった。

 この時点で時間はまだ午前9時前半。

 戦闘はまだまだこれからの時間だった。

 そしてそのすぐ後、ドイツ艦隊が自分たちも発見されたという報告を送ってきた。

 ドイツ艦隊は共同攻撃を求めていたが、イギリス艦隊の位置だと自分たちの艦載機の航続距離では攻撃機でギリギリ、シーファイアでは話しにもならない距離だった。

 しかも日本艦隊の位置は、まだ正確には分かっていなかった。

 だがドイツ艦隊が動いた以上、イギリス側も逃げている場合ではなかった。

 危険を承知でアメリカ艦隊の方に進路を取った。

 

 10時半頃、イギリス艦隊に次に届いた電報は悲報だった。

 ドイツ機動部隊が、二つの方向から敵大編隊が接近しつつあり、直ちに救援を求めたものだ。

 

 この攻撃隊は、ハルゼー提督のアメリカ艦隊と自分たちを見付けた筈だった角田提督の日本艦隊が放ったものだった。

 日本艦隊の位置だと、航続距離の長さからイギリス、ドイツ双方の艦隊を攻撃可能な上に、ドイツ艦隊はアメリカ艦隊を自分たちが攻撃できる位置まで接近していた。

 このドイツ艦隊の積極姿勢は、後年批判される事が多い。

 だが成果を挙げることを、海軍はレーダー元帥とヒトラー総統から、艦載機の空軍部隊はゲーリング元帥から半ば強制されていた。

 つまりドイツ艦隊の動きには、合理性が欠けていた。

 

 そしてドイツ艦隊は、自らの行いの報いを受けることになる。


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