フェイズ22「WW2(16)プエルトリコ島戦1」-2
「プエルトリコ島に枢軸軍襲来!」。
この報告が大西洋方面の全連合軍に知らされたとき、対処できる連合軍の戦力は限られていた。
すぐに対処したのは、サンファン以外に駐留していた陸軍航空隊と、グアンタナモに駐留していた「B-25」隊と、マイアミに展開する「B-17G」隊だった。
島の南部、東部さらにサンファン近辺の航空隊は、折からの空襲と敵艦隊襲来時の空母艦載機の攻撃でほぼ戦力を失っていた。
残っているのは、少し内陸にある戦闘機基地の僅かな機体だけで、それも最初の戦闘後に島内の別の場所へと待避している。
このため島の東半分の制空権は、完全に欧州枢軸側のものとなった。
残る西半分も、連合軍の劣勢だった。
「B-17G」、「B-25」の護衛には、遠距離進出訓練を積んでいた「ロッキード P-38 ライトニング」戦闘機隊が当たったが、一撃離脱戦用の双胴機に護衛は難しかった。
このため「B-25」隊はかなりの損害を受け、攻撃は不成功となる。
マイアミから護衛なしで飛んだ「B-17G」は、持ち前の重火力とボックスフォーメーション(箱形陣形)と言われる防御陣のおかげで損害は少なかったが、水平爆撃の効果は限られていたし2000キロも離れた拠点からの爆撃は、そもそも無理が多いうえに1日1回しか出来なかった。
上陸作戦の阻止は最初が肝心なため、航空機以外の攻撃手段が求められた。
とはいえ現地軍では、逆襲どころか現状維持すら難しかった。
このため海軍に出撃要請が出る。
当時キューバ東部の連合軍カリブ最大の拠点の一つであるグァンタナモには、アメリカと日本の艦隊が駐留していた。
ここ以外だと、パナマとアメリカ本土のマイアミに艦隊が駐留しており、これらを合わせて連合軍・カリブ艦隊を編成している。
アメリカ海軍だと、太平洋艦隊が形だけとなっていたので大西洋艦隊に次ぐ大きな艦隊でキンケイド中将が指揮にあたっていた。
日本もアメリカ派遣艦隊が増えた前年秋にカリブ艦隊(第八艦隊)を新設しており、この二つを合わせて一つの艦隊司令部とされていた。
艦隊司令長官はアメリカ軍の海軍大将で、当時はニミッツ提督がマイアミに将旗を掲げていた。
戦艦を含む主力部隊はマイアミにあり、当時グアンタナモには巡洋艦中心の艦隊しかなかった。
そして空襲を警戒してと、現地の防衛と船団護衛が主な任務だったので、本国の軍港ほど大きな戦力は配備されていなかった。
そして現地を同じく根城としている日本のカリブ艦隊主力は、護衛任務で当時パナマのため頼りの《那智》《足柄》はいなかった。
しかし主力となる《ミネアポリス級》は《改ブルックリン級》で、防御を強化して副砲を5インチ両用砲(連装4基8門)とすることで能力が向上していた。
以下が、当時グアンタナモで即時動ける艦艇だった。
・アメリカ海軍カリブ艦隊(第62任務部隊)
重巡洋艦 :《アストリア》
大型軽巡洋艦 :《ミネアポリス》《サンフランシスコ》《クインシー》《ヴィンセンス》
旧式軽巡洋艦 :《リッチモンド》《コンコード》
平甲板型駆逐艦:《スチュアート》
防衛用に使える巡洋艦は多いが、様々な護衛任務で駆逐艦が出払っていた。
これ以外は、水上戦闘は難しい小型の対潜艦艇だけだった。
グアンタナモに残余している日本艦隊も似たようなもので、最大で1000トンの《大鷹型》海防艦が数隻だった。
現地での最高指揮官はキンケイド中将だが、実戦部隊で最高位はアメリカのスコット少将で、迎撃命令を受けたキンケイド中将はスコット少将に稼働全艦艇での出撃を命令する。
作戦は簡単で、まずは友軍制空権が保てる場所は巡航速度で突進するが、敵哨戒機、爆撃機が出てくる可能性のある地域では速度を増して、夕方前に上陸地点に突撃して護衛艦隊を撃破し、さらに船団及び橋頭堡を攻撃して破壊し、闇夜に乗じて一気にプエルトリコ周辺から離脱するというものだった。
艦艇数は8隻だが、それぞれ別行動を取っていた戦隊や艦ばかりで統一行動はこれが初めてのため、単縦陣で常に行動する事となっていた。
連合軍の懸念は枢軸側の空母と潜水艦だったが、潜水艦は途中までは対潜哨戒機で警戒してあった。
敵空母の行方は、ようやく配備が進み出した「コンソリデーテッド B-24 リベレーター」と、同じコンソリデーテッド 社の「PBY カタリナ」飛行艇、「マーチン PBM マリナー」飛行艇が濃密で広範な範囲で行っていた。
プエルトリコ島北東部のサンファン東部に上陸した欧州枢軸軍は、イギリス本国軍の海軍コマンド(連隊規模)、1個師団、1個戦車旅団が第一波だった。
この後ろにはさらに2個師団が投入予定で、島を一度は完全占領する積もりだった。
その後陣地構築に努め、島全体を強固な陣地とする事でアメリカ軍の侵攻を躊躇させ、一日でも多く時間を稼ぐつもりだった。
侵攻には力が入れられており、沖合で航空支援をする空母 《ヴィクトリアス》《イラストリアス》を中核とするイギリス機動部隊、既に沖合に待避した戦艦 《ビスマルク》《テルピッツ》を中核とするドイツ艦隊、そして船団の護衛と上陸支援の主力となる支援艦隊から構成されていた。
支援艦隊には、主力を投入できないフランス海軍も艦艇を出しており、英仏合同艦隊となっていた。
支援艦隊と船団は、上陸開始以来プエルトリコ島西部からの散発的な空襲を受け続け、作戦の遅延が積み重なっていた。
このため物資の上陸は、夜を徹して行っても29日夕方までかかる予定だった。
しかもこの船団の半数以上は、ギアナに戻ったら再び兵士や物資を載せて、プエルトリコ島に戻ってこなければならなかった。
欧州枢軸も、外洋航行できる大型高速船は十分な数が無かったからだ。
船団全体の指揮官はサイフレット中将で、護衛の戦闘部隊の指揮はバロー少将がとっていた。
護衛艦隊は、海岸部の船団を囲むように大きく三カ所に配備され、連合軍を一番警戒するべき西側、北側に主力を配置していた。
別働隊は東側のヴァージン諸島との海峡部に配置され、敵がカリブ海側から来るのを警戒していた。
こちらが欧州枢軸の配置になる。
西側・北側:
英
重巡洋艦:《ベリック》《デヴォンシャー》《シュプロッシャー》《サセックス》
《ダイドー級》軽巡洋艦:《ユーライアス》
仏
重巡洋艦:《フォッシュ》《デュプレ》
軽巡洋艦:《マルセイエーズ》
駆逐艦:8隻
東側:
大型軽巡洋艦:《サウザンプトン》《グロスター》《マンチェスター》
駆逐艦:4隻
この艦隊が守るのは約30隻の輸送船で、半分近い船が中に荷物か兵士が乗っていた。
海岸にも物資が山積みで、断続的に続く空襲の前に兵士は消耗していった。
連合軍艦隊についても、「ショート・サンダーランド」飛行艇やウェリントン爆撃機の哨戒飛行で、比較的早い段階で察知していた。
この事も艦隊の警戒を強めさせる要因になったが、発見されると反転したので7日中に艦隊への警戒は解かれた。
それに枢軸軍では、万が一連合軍艦隊がプエルトリコ島にきても、島の西側の自軍勢力圏までしか進出しないと考えていた。
制空権の無い場所に艦隊を送り込む愚かさは、この戦争で両陣営とも既に深く知っている事だからだ。
この段階での欧州枢軸軍の懸案は、島の西側へいかに素早く進み、全島を占領するかだった。
予想以上に現地アメリカ軍が貧弱だったので、早期に進撃を開始する方がよいと考えられた。
だが、島の北側を走る鉄道は、すぐにも現地アメリカ軍が破壊し始めており、空襲も考えたら輸送路、進撃路としては相応しく無かった。
となると車で進むしかないが、車両の揚陸にはまだ時間がかかる。
それに沿岸部の道だけでは、十分迅速な進撃は難しいと見られた。
当然だが、ジャングルが覆う起伏の激しい内陸部を通る案は、最初から却下された。
そしてこの時点でのプエルトリコの欧州枢軸軍は、中心都市サンファンを落とす準備で手一杯だった。
7月8日朝、枢軸軍の哨戒機は、アメリカ艦隊がプエルトリコ島北東部沖合まであと半日の距離まで接近しているのを発見する。
しかし発見されると、アメリカ艦隊は反転した。
しかし前日に反転したのがさらに進んできたので、哨戒機は交代で距離を置いて張り付くこととなった。
その日もプエルトリコ島から「B-25」爆撃機、「P-38」双胴戦闘機、マイアミから「B-17G」重爆撃機のそれぞれ編隊が飛来し、それに合わせて小アンティル諸島各地からも迎撃機が飛び立った。
この日は、プエルトリコ沖合に艦隊によるレーダー網を作り、サンファン沖合の巡洋艦から航空管制を実施しているので、効率的な防空戦が展開できた。
沖合で作戦行動中の空母機動部隊は、出来る限り出撃は控えて不測の事態に備えた。
というのは半ば建前で、着艦事故による損耗を少しでも防ぐ方便だった。
2隻の空母には36機のシーファイアが搭載されていたが、すでに7機が事故で失われていた。
そして午後に入ってすぐ、不測の事態が発生する。
島のない方位の洋上から数十機の大編隊が飛来したのだ。
飛来したのは予想通り空母艦載機。
「F4F ワイルドキャット」戦闘機、「ダグラスSBD ドーントレス」急降下爆撃機、それに小数の「グラマンTBF/TBM アベンジャー」攻撃機だ。
第一波約80機、第二波約60機で、アメリカの空母は艦載機が多いが、最低でも2隻の空母から放たれたものだった。
突然プエルトリコ島を攻撃したのは、欧州枢軸海軍の動きを警戒して大西洋上で作戦行動中だったハルゼー中将麾下の第17任務部隊だった。
空母 《エンタープライズ》《ホーネット》を中核として編成された、この時期だと世界で二番目に規模の大きな空母機動部隊だった(※1番は日本の第一航空艦隊)。
ハルゼー提督の空母機動部隊は、もともとはイギリスの空母部隊、ドイツの主力艦隊が出撃したという情報を受けてノーフォークを出撃したが、欧州枢軸側の欺瞞情報に惑わされて、枢軸側の目論見通り大西洋を彷徨っていた。
しかし枢軸側の予定よりも早く、プエルトリコ侵攻が始まる前に進路をカリブ海に向けていた。
これは単にハルゼー提督の「勘」で、カリブで何かあるに違いないという根拠のない思惑で南下したものが、予測が適中した形だった。
そして枢軸側が予期せぬ行動と無線封鎖によって、友軍からも位置が分からない状態となった上で、突如プエルトリコ島沖合へと突撃して、航続距離の短いデバステーター攻撃機以外の機体が出せるギリギリの距離で攻撃隊を発進させたものだった。
しかも編隊が飛び立ってからも、機動部隊本隊もプエルトリコへの接近を続けた。
ハルゼー提督の攻撃は、敵味方全てにとって不意打ちとなった。
攻撃隊指揮官のマクラスキー少佐は「奇襲成功」と、高らかに勝利を打電している。
実際はレーダーに察知されて迎撃を受けていたが、完全に敵味方の間隙を突き、少数の空母艦載機のインターセプトを受けただけなので、戦術的にも奇襲といえるタイミングだったのは間違いない。
攻撃隊は急降下爆撃で輸送船を狙い、新型攻撃機のアベンジャーが海岸を爆撃した。
この空襲は、大西洋の欧州枢軸軍が初めて経験する空母艦載機による大規模空襲で、攻撃対象が停泊もしくはゆっくりしか移動できない輸送船が中心のため、大きな損害が出た。
護衛艦艇も、撃沈こそ無かったが少なくない損害が出ていた。
しかし幸いな事に、ハルゼー機動部隊が次の攻撃隊を送り出すと帰投が夜になってしまう為、空母艦載機による攻撃は一度きりだった。
流石のハルゼー提督も、夜間攻撃を命じることはしなかった。
だがその夕方、引き揚げたと思われたアメリカの巡洋艦艦隊が上陸地点めがけて突撃してくる。
ほとんど連絡無き連携で「スタンド・アローン・アタック」とも言われるほどだったが、空母艦載機の空襲で誰もが忘れかけていたので、奇襲効果は非常に大きかった。
水上捜索レーダーに捉えられたのは、外周に展開する警戒駆逐艦から距離25キロ、上陸地点から約40キロの地点だった。
欧州枢軸側は慌てて迎撃体制と、生き残りの輸送船の退避を開始するが、混乱して多くが間に合わなかった。
また損傷艦艇が出ていた事が迎撃を遅らせた。
重巡 《アストリア》を先頭にしたアメリカ艦隊を最初に迎撃したのは、警戒配置の駆逐艦2隻だが船団を守るため煙幕展開など遅滞行動を取ったのが徒となり、砲戦距離に入るやいなや巡洋艦にとっての近距離から集中砲火を浴びて瞬く間に大破炎上してしまう。
次に迎撃に出たのは、次に近くにいた英重巡 《ベリック》と仏重巡 《フォッシュ》の隊だった。
戦いは単縦陣で突撃するアメリカ艦隊に、T字を描いてから同航戦に持ち込もうとする枢軸艦隊の戦いとなる。
ここで枢軸側は、再び周辺の友軍艦隊が駆けつけるまでの時間稼ぎの戦いを行おうとする。
また既に夕方なので時間稼ぎをしていれば夜になり、夜ならレーダーで優れる自分たちに有利だとも考えていた。
戦闘は、枢軸側が退避と牽制攻撃に終始したためまともに組み合わず、アメリカ艦隊は主力艦艇に雷装がないので、砲撃戦を行いつつ突破を図ろうとする形になる。
そして数が多いこと、戦場から守るべき船団の場所までの距離がないことから、欧州枢軸側の時間稼ぎの戦闘は不十分にならざるを得なかった。
しかし時間を稼いだ効果はあり、イギリスの重巡洋艦 《デヴォンシャー》《シュプロッシャー》《サセックス》が、少し距離は離れていたがアメリカ艦隊と砲撃戦を開始する。
これで8対5となり、大型艦の数では同数となった。
それでも火力ではアメリカ艦隊がまだ勝っており、敵艦隊を押し切って輸送船団への攻撃を行おうとした。
船団攻撃で夜になっても、《アストリア》には新型のSGレーダー(水上捜索レーダー)が他艦に先駆けて搭載されているので、作戦続行は可能と考えられていたからだ。
このためアメリカ艦隊は接近を続け、最終的には砲戦距離1万メートルを切る距離での砲撃戦となる。
そしてこの距離まで近づけば、8インチ砲、6インチ砲でも十分命中を期待できる距離で、両者の砲弾が命中しあう事になる。
ここでもイギリス海軍の重巡洋艦の火力、防御力の不足が露呈した。
砲撃戦しか考えていないようなアメリカ軍の巡洋艦に比べて明らかに劣勢だった。
しかも昼間の空襲で、すでに小破程度に損傷している艦もあった。
このまま戦闘が推移すれば、日が完全に落ちるまでに戦線突破に成功して輸送船への攻撃も可能と見られた。
だが枢軸側は、さらに仏重巡 《デュプレ》、《ダイドー級》軽巡洋艦 《ユーライアス》の隊が戦列に加わって数の不利を補い、加えて東側を警備していた大型軽巡洋艦 《サウザンプトン》《グロスター》《マンチェスター》を中心とした艦隊を呼び寄せ、さらに防御を分厚くした。
しかも、優勢に戦いを展開していたアメリカ艦隊も無傷とはいかず、相次いで被弾してそれぞれ小破程度の損害を受けていた。
この時点で脱落艦は無かったが、イギリス側の激しい砲撃で進路を逸らされてしまい、しかも単縦陣だった陣形も途中で二つに分かれてしまう。
混乱すれば、アメリカ側が警戒する雷撃を受ける恐れもあった。
スコット提督は、これ以上の突撃は困難と考えて艦隊に進路反転を命令する。
そして欧州枢軸艦隊が深追いしなかったので、事実上「第一次プエルトリコ海戦」は幕となった。
もっとも、ハルゼー提督は翌朝の再攻撃を予定していたし、スコット提督も翌朝の空襲を期待しての一時待避だった。
空母が護衛艦隊さえ粉砕すれば、今度こそ船団を蹂躙できると考えていたからだ。
だが欧州枢軸側もやられっぱなしではなく、その日の深夜にイギリス軍の空母艦載機がハルゼー機動部隊の夜襲を決行した。
空母の攻撃に驚いた枢軸側も、送り狼で偵察機を送り込んでハルゼー艦隊の位置を突き止め、迎撃機を凌ぎつつ接触を保ち続けた。
「ソードフィッシュ」雷撃機の夜間空襲は相変わらず鮮やかで、目暗撃ちの対空弾幕をものともせず、照明弾の明かりだけでアメリカ軍の空母2隻ともに命中弾を浴びせ、ハルゼー提督に再び無念の後退を強いている。
この夜間戦闘は「第一次プエルトリコ海戦」とは別に、「バハマ沖海戦」と呼ばれる。
そしてアメリカ側の空母が後退したため、プエルトリコ島の制空権も欧州枢軸側に残った。
戦闘の総決算は、アメリカ軍の逆襲は今一歩及ばず、欧州枢軸軍は上陸船団が半壊に近い損害を受けた。
しかし上陸部隊自体は既に陸地にあり、現地での水や食料の調達も可能なので、取りあえずではあるが撤退するまでには追いつめられなかった。
だが船団の半壊により輸送計画は大きく狂い、護衛の巡洋艦にも大きな損害が出たため、その後のプエルトリコ島での混乱と激戦を呼び込む大きな要因となってしまう。
なお「第一次プエルトリコ海戦」は、アメリカ海軍単独としての戦術的な勝利だったが、アメリカ領に侵攻された事の方がはるかに大きなニュースとなって、もっと徹底するべきだったと現在に至るも言われることが多い。