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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
33/140

フェイズ22「WW2(16)プエルトリコ島戦1」-1

 プエルトリコ島は、この戦争での転換点となる戦場だった。

 

 カリブ海にあるプエルトリコ島は、コロンブスの時代にスペイン領となり、その後長らくスペインの植民地として過ごす。

 島の名前もスペイン語で「豊かな港」という意味だった。

 しかし1898年に起きた「米西戦争」の結果、1900年にアメリカ領となる。

 しかし1898年の戦争原因になった自治をアメリカから名目上与えられているので、名目上は植民地ではなくアメリカの自治領だった。

 

 このため第二次世界大戦でのプエルトリコの住民は、一応はアメリカ市民だった(ただし、大統領選挙権が無かった)。

 

 島の面積は約9000平方キロメートル。

 日本だと、四国の半分ぐらいになる。

 住民はヒスパニック系と白人で、歴史的に黒人奴隷を使った砂糖栽培が行われなかった為、黒人は全体の一割程度しかいない。

 

 そして第二次世界大戦の中盤、この島は激戦地の一つとなる。

 


 プエルトリコ島が俄に激戦地となった理由は、ベネズエラに連合軍 (イギリス)の最大級の油田があったからで、もしベネズエラに石油が無いかヨーロッパ世界にとって重要性が低ければ、欧州枢軸軍はカリブ海全体から既に引き揚げていただろう。

 

 しかしベネズエラの石油を運ぶルートを一日でも長く維持するため、カリブ海東部での限定的な制海権が必要だった。

 そしてタンカーがベネズエラの領海を出ると、隣はイギリス領ガイアナ、オランダ領ギアナ、フランス領ギアナと並んでいる。

 このため欧州枢軸は、戦争初期からこれらの地域に軍を派遣してて拠点化し、大西洋を押し渡る船団の集結地にしていた。

 しかしジャングルばかりのギアナ地域は、沿岸部に限られた都市があるだけで孤島も同然だった。

 

 そして小アンティル諸島には欧州諸国の小さな植民地が並んでいたが、ここをアメリカ軍に占領されるとカリブ海に出入りできなくなるばかりか、ギアナが空襲を受けるようになる。

 なによりアメリカ軍のすぐ横のベネズエラ領海内を、丸腰のタンカーが抜けなければならなくなる。

 ギアナに入る場所に艦艇を待機させたとしても、非常に危険が大きくなる。

 このため小アンティル諸島の維持は欠かせなかった。

 そして小アンティル諸島の北端の先に、アメリカ領プエルトリコがあった。

 

 当然だが、プエルトリコ島が最低でも軍事的に無力化されている方が好ましかった。

 なぜなら、プエルトリコ島の隣にあるエスパニョーラ島のドミニカ、ハイチの二つの国は戦火を避けるためとアメリカ、欧州双方への嫌悪感から局外中立を宣言しているため、連合軍の次の拠点となる島はキューバ島になる。

 そしてキューバからだと、プエルトリコ島が戦闘機の行動圏外となるからだ。

 つまり一度プエルトリコ島まで奪ってしまえば、大船団を仕立てて奪回しなければならず、いかにアメリカでも船団を揃えるまで多くの時間が必要となる。

 ベネズエラからの石油輸送を長期間安定化させるために、出来ればプエルトリコ島が欲しかった。

 

 そして1942年春から夏にかけて、プエルトリコ島の抵抗力が大きく低下していた。

 

 原因は欧州枢軸海軍が総力を挙げている通商破壊戦の影響で、無数の潜水艦による海上封鎖がカリブ海での連合軍の勢力を減退させていた。

 アメリカ本土沿岸は、護送船団と哨戒機によって1941年春には通商破壊戦は出来なくなったが、大西洋各所、カリブ海は勢力が拮抗し、特にアメリカ軍の制空権がない場所は欧州枢軸潜水艦の狩り場だった。

 

 プエルトリコ島への補給はアメリカ海軍が行っていたが、アメリカ海軍の対潜艦艇はまだ不足がちで戦術も不十分だった。

 精強な日本艦隊は、他の場所に必要だった。

 制空権のない場所では哨戒機は危険で、護送船団も頻繁に攻撃を受けて大きな損害を出していた。

 情勢は、明らかに欧州枢軸側が優勢だった。

 

 その春に欧州枢軸軍は、ジャマイカから撤退しているので奇異に感じる事もあるだろうが、プエルトリコ島は小アンティル諸島共々両軍の制空権獲得競争の場であり、航空機による潜水艦の制圧が難しい場所だったのが大きな原因だった。

 これがパナマからメキシコ湾を守護する日本海軍なら、話しは少し違っていたかもしれない。

 

 そして欧州枢軸軍は、ジャマイカの意趣返しと戦線の安定化という二つの目的を満たすプエルトリコ島への侵攻を俄に決める。

 チャンスは今しかなかった。

 

 航空撃滅戦とプエルトリコ島への通商破壊戦をより強化しつつ、急ぎ攻略船団と上陸部隊、支援艦隊が用意された。

 

 作戦に参加可能な空母に不安はあったが、小アンティル諸島からの航空支援で賄うことになった。

 この時期には、基本的にドロップタンクを搭載するようになっていたので、航続距離の短いスピットファイアでも300から400キロメートルぐらいの進出は可能だった。

 


 欧州枢軸軍の航空基地は、プエルトリコ島に最も近い場所だと英領ヴァージン諸島だが、島との距離は約100キロ程度しかないので流石に近すぎ、緊急用、不時着用の基地としてしか使用されず、移動式のレーダーサイトが最も重要な施設でもあった。

 戦闘機の主な基地は、少し南東の小アンティル諸島のセントネッツ島、バーブーダ島、アンティグア島などに展開されていた。

 これより南だと、スピットファイアがプエルトリコ島を行動圏内に入れられなくなる場所だった。

 一番北西のグスタビアには、無理矢理開設した小さな飛行場と共に水上機用の基地もあった。

 

 爆撃機基地はさらに南東にあり、フランス領グアドループやさらに南東の比較的大きな島で平地が確保できる場所に存在した。

 1940年秋から42年秋にかけて、小アンティル諸島各所には大量の土木機械を入れた工事で急造の飛行場が無数に設置され、多数の欧州枢軸軍機が展開した。

 その飛行場の多くは、今日も民間飛行場として使用されている。

 

 カリブでの欧州枢軸空軍の主軸はイギリス本国空軍だったが、フランス空軍、イタリア空軍、オランダ空軍も展開していた。

 使用される航空機は、ドイツがロシア戦線に全力でかかりきりな為、必要な国に対しては主にイギリスが供与もしくは貸与していた。

 特にエンジンはイギリスが無ければどの国も話しにならず、この時期カリブを飛んでいた欧州枢軸機は、高性能機のほぼ全てがイギリス製エンジンを搭載していた。

 特に戦闘機用のマーリンエンジンは欠かせず、イギリスの「スピットファイア Mk.V」、イタリアの「マッキMC.202M」、フランスの「アルゼナル VG33M」は同じエンジンを搭載した。

 そしてマーリンエンジンは、戦闘機との相性が非常によいエンジンで、エンジンを換装するだけで性能が飛躍的に向上した例が多々見られた。

 あまりの優秀さに、日本、アメリカでもイギリス本国が降伏前に結んだ契約を自由政府と結び直した上で大量生産したほどだった。

 

 もちろん液冷エンジンは南方での使用に難点があったが、アメリカ陸軍航空隊も条件は同じなのでマーリンエンジン搭載機は非常に強力だった。

 


 欧州枢軸によるカリブ侵攻は、当初は夏の占領を目指して5月初旬に予定されていたが、4月8日に一旦無期延期となった。

 インド洋で東洋艦隊が全滅したからだ。

 このため世界の海軍バランスが大きく変化し、欧州枢軸は戦力の再編成と再配置を迫られた。

 そしてイタリア海軍の再編成とインド再派兵、イギリス東洋艦隊の増強で対処し、大西洋、カリブ方面を今まで通り重視する事になった。

 インド戦は陸戦でまだ十分対処できると考えられていたし、ベネズエラの石油の重要性が高かったからだ。

 

 なお、侵攻に使う洋上戦力だが、やはり上陸戦当初は空母の投入が必要だった。

 このためイギリス、ドイツの有する合計4隻の装甲空母が動員される事になる。

 しかしドイツ海軍は3月の作戦が不十分な結果に終わると、ギアナから本国へ帰投して機種改変の混乱に突入してしまう。

 このため最低でも3ヶ月、出来れば半年の時間が必要となってしまう。

 しかしこれでは枢軸の盟主としての立場がないので、ドイツ海軍は当時の総力を挙げた水上艦隊を出すことを決める。

 1年前の1941年5月に沈みかけた戦艦 《ビスマルク》も、修理と徹底した対空装備の増強が終わり、姉妹艦 《テルピッツ》との初めての共同出撃となった。

 半年前に損傷した《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》も戦列復帰し、修理の際に旧式化した装備の刷新を行っていた。

 

 しかし約1年前から大規模改装中の《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》はまだ出撃出来ないので、総力と言っても戦艦2隻、装甲艦2隻、重巡洋艦1隻、大型駆逐艦6隻から抽出された戦力だけだった。

 実際出撃した艦隊規模で言えば、ギアナで頑張っているフランス・カリブ艦隊とあまり違いはなかった。

 

 攻略の中心となるのは、やはりイギリス本国海軍だった。

 

 1942年6月時点で、重巡洋艦7隻(3隻沈没、2隻離反)、大型軽巡洋艦8隻(2隻離反)、条約型軽巡洋艦9隻、旧式軽巡洋艦15隻(多数沈没)、防空巡洋艦4隻(5隻沈没)、戦時型大型軽巡洋艦3隻(4隻がドイツ海軍に賠償で移管)を保有していた。

 

 このうち旧式軽巡洋艦は、アジアでも散々に沈められたように前線には出せないと考えられたし、就役の続く戦時型のそれぞれ2隻は訓練中で出撃はまだ早かった。

 それを差し引いても、稼働巡洋艦数は40隻を越えていた。

 (ただし、開戦時からだと勢力は実質半減している。)

 この巡洋艦を大きく三つに分けて、本国(予備)、カリブ、インドにほぼ均等に配備していた。

 つまりカリブ方面に直接投入可能な巡洋艦数は10隻程度で、さらに本国からの増援が期待できた。

 この作戦でも、空母機動部隊に属する4隻の巡洋艦がカリブ方面に派遣されている。

 

 戦艦も《キングジョージV世級》3番艦の《デューク・オブ・ヨーク》の完全戦力化が春には終わっているので、これで42年秋に《フッド》の大規模改装が終われば、高速戦艦には少し戦力に余力が出る。

 ただし旧式戦艦はインドで全て失ったので、戦艦の投入には慎重だった。

 この作戦にも《レナウン》《プリンス・オブ・ウェールズ》が出撃していたが、基本的に空母機動部隊の護衛としてだった。

 

 フランス艦隊は通商路防衛が最優先任務とされていたので、プエルトリコ作戦では後詰めもしくは支援任務で、戦列艦 《ダンケルク》《ストラスブール》と重巡洋艦2隻を中心とする艦隊が、ギアナで待機していた。

 また旧式戦艦が大規模船団の護衛に就くようになり、護衛の主力となるイギリスとの合同艦隊が増えた。

 

 これらの艦艇から抽出された艦艇によって、船団護衛部隊、砲撃支援艦隊、空母機動部隊の3つが編成され、7月1日をXデイとしたプエルトリコ侵攻作戦を開始する。

 本来はもう2週間早かったのだが、6月初旬のインドのセイロン島に連合軍が侵攻したので、調整のために作戦決行がさらに遅らされた為だった。

 

 なお、プエルトリコ島の占領は、1942年秋中に完了しなければならなかった。

 各種統計資料から、アメリカ軍が海での体制を立て直す可能性が非常に高いからだ。

 このためプエルトリコ作戦は、欧州枢軸海軍最大の賭けと言われることもある程だ。

 


 1942年7月1日、プエルトリコ島はいつもより激しい空襲に見舞われた。

 その空襲はいつもと違って途切れることなく、ただでさえ疲弊していた現地のアメリカ陸軍航空隊に想定以上の消耗を強いた。

 

 当時プエルトリコ島は、欧州枢軸陣営の通商破壊戦と航空撃滅戦により、戦力が著しく低下していた。

 しかも開戦からずっと、アメリカは欧州側からの上陸作戦はあり得ないと考えていたので、島の規模に対して守備隊も少なかった。

 プエルトリコ島には1個師団を置くも、島内の各所に分散配置していた。

 しかも州兵師団型の第96歩兵師団で、1941年春以後にプエルトリコ島に配備されたが、陣地構築は一般的なものしか行わず、敵の上陸を阻止するよりも島内の治安維持に力を入れていた。

 また島内住民の徴兵で3万人が徴兵されたが、これも警備部隊程度の軽い装備しかなく、実際島内の治安維持に投入された。

 この島の「戦力」はあくまで航空隊で、中心都市サンファン周辺などに飛行場を複数建設していた。

 

 しかし航空戦力は急速に低下した。

 航空機はキューバから飛んでくればよいが、燃料、弾薬、交換用エンジンなどの補充部品などは、基本的に船で運ばなければならない。

 ある程度は空輸も可能だが、輸送力が限られた空輸には限度もある。

 まだ当時のアメリカは、唸るほどの輸送機は持ち合わせていなかった。

 それでも輸送機も島への補給に使われたが、航空撃滅戦の中で優先攻撃対象となって、かなりの数が撃墜されていた。

 

 ヨーロッパに比べれば本土からの距離は近いし、戦時生産も軌道に乗り始めていたが、パイロットが大量に誕生するにはもう1年程度が必要で、この時のプエルトリコ島の苦境は、ひとえにパイロット不足のためだった。

 

 そしてプエルトリコ島の侵攻を許したのは、アメリカ軍の「敵は来るわけない」という先入観だった。

 欧州枢軸が艦隊と陸軍部隊を用意しているのは各種情報からある程度掴んでいたが、小アンティル諸島かギアナへの増援と、大西洋での船団護衛の強化程度にしか考えていなかった。

 アッズで大艦隊を失ってインドで防戦一方に追い込まれた枢軸が、このタイミングで攻撃してくるわけがない、というのがアメリカ人達の考えだった。

 

 同盟国で大規模な艦隊を派遣している日本(遣米艦隊またはカリブ艦隊)は、念のため防衛措置を取るべきだと考えてはいた。

 だが、自分たちは船団護衛以外の能力はなく、使える戦力は常に持ち込んだ戦力の半分までなので、カリブの西の航路維持で手一杯だった。

 インド洋での勝利とアメリカの要請から追加の戦力派遣が決まったが、その戦力はまだ到着していないし、アメリカ軍に注意を促す助言をするに止まっている。

 そしてアメリカ人は、日本人は心配性だと軽く笑って肩をたたくだけだった。

 

 激しい空襲が始まってもアメリカ人の考えは変わらず、一週間後枢軸の大艦隊がプエルトリコ島沖合に現れて、初めて自らの考えの愚かさを悟ることになる。

 


 7月7日、欧州枢軸の大艦隊がプエルトリコ島沖合に現れた。

 

 その日も南東後方からの大編隊が姿を見せたが、アメリカ軍はどうやって邀撃するか以外は考えていなかった。

 そして水上にはあまり注意を払っていなかったので、海岸部の監視哨から目視報告があっても、最初は誤報や冗談と思ったほどだった。

 しかし艦砲射撃が始まると、全てが現実である事を思い知らされる。

 

 アメリカは、自身の思いこみから実質的な奇襲攻撃を受けたのだ。

 

 艦砲射撃はドイツ海軍の戦艦 《ビスマルク》《テルピッツ》、重巡洋艦 《プリンツ・オイゲン》が最初は行い、主に上陸予定の海岸と、沿岸部にあるカロリーナ(カロライナ)飛行場を砲撃した。

 

 カロリーナ飛行場は大型機と飛行艇を運用する飛行場で、プエルトリコ島主要部で最も大きな飛行場だった。

 プエルトリコ島は、かなりの規模の島だが平地は少なく、島は緩やかとは言え多くの山岳部とジャングルに覆われていた。

 このため人が住める場所は沿岸部各所に点在していたが、カリブの島でありがちな広大なサトウキビのプランテーション農場は見られなかった。

 農場は一般的なもので、それぞれの面積は限られていた。

 効率の悪い農業しかできないから、奴隷を使ったサトウキビのプランテーション農場が作られなかったので、この島の黒人人口は少なかったのだ。

 

 島の産業はともかく、島には平地が少なく飛行場や拠点となる場所も一部の沿岸部に限られていた。

 

 その後砲撃はイギリス艦隊に交代して、10時頃には上陸作戦が開始される。

 そして現地アメリカ軍は、まともに阻止する戦力がないばかりか、地上戦が出来る戦力も殆どなかった。

 中心都市のサンファンには師団司令部と一部直轄部隊に1個連隊が駐留していたし、半数程度は海岸に陣地を置いていた。

 重砲連隊も港湾部を中心に沖合を睨んでいた。

 しかし戦力の主体は飛行場やレーダーサイト、重要施設付近に展開する高射砲、高射機銃の部隊で、地上部隊はMP(憲兵)もどきの無駄飯喰らいと見られていた。

 

 そして無駄飯喰らいも、そうでない者も、上陸してきたイギリス兵に同じように撃破された。

 

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