フェイズ20「WW2(14)ロシア戦線1942」-1
1942年5月から6月にかけて、世界の主要戦線ではそれぞれ象徴的な激戦が繰り広げられた。
カリブ海ではプエルトリコ島の戦いが始まり、インド洋ではインドでの本格的な地上戦の始まりとなるセイロン島侵攻作戦が行われ、そして両軍合わせて1000万人もの兵士が対峙する世界最大規模の陸戦が展開されるロシア戦線では、欧州枢軸の二度目の対ソ夏季攻勢がされる。
今時大戦は、まさに世界大戦だった。
1941年10月末から予定されていたロシア戦線での冬季攻勢は、同盟国との関係を重視する形で、例年より酷いロシアの冬を前にして「延期」という形で中止された。
11月からは陣地固守のための準備が急速に進められ、戦線の整理とロシア人(ソ連赤軍)の冬季反攻を見越した計画的な後退、遅滞防御作戦、機動防御部隊の設置など、多くの準備が進められた。
アドルフ・ヒトラー総統は、当初は計画的とは言えロシアの大地からの後退に否定的だったが、次の夏に勝利するためという多方面からの説得と、フランスなどの同盟国に死守を命じるわけにもいかないという政治的理由もあり、「予め計画された作戦としての後退」は認めた。
そして冬営用の陣地構築に際しては、既に時間がない事と冬のロシアの大地は凍って硬すぎるため、ロシア人がモスクワ防衛に作り上げた陣地の再利用が見られた。
このため、モスクワ前面での最終的なドイツの後退はヴィヤジマと呼ばれるモスクワ防衛線のロシア側から見ての一番外のラインまで下がった。
ヴィヤジマはモスクワとスモレンスクの中間に位置しており、モスクワまでの距離は約150キロメートルだった。
つまりドイツ軍はモスクワ前面から100キロメートルも後退した事になる。
しかし他の地域からの後退はほとんどなく、初期の懸案だったセバストポリ要塞も陥落させたので、南部では戦線はほぼ動かなかった。
中でも、アゾフ海に面したロストフの街が確保され続けたのは、大きな得点と考えられた。
ここを起点として、コーカサス及びボルガ河方面へ進軍しやすくなるからだ。
これはアストラハンまでの中間点ともなるボルガ川にあるスターリングラードまで、約400キロメートルという距離でも分かりやすいかもしれない。
ドイツ軍の電撃戦だと、スターリングラードまで最悪でも6週間で到達でき、秋までにアストラハンを占領できる事を可能とする場所が、起点となるロストフだった。
補給路も鉄道の再整備が進んだので、鉄道兵站駅までの体制は対ソ連戦開始の頃とほぼ同じぐらいに良好となった(必ずしもそうとは言い切れなかったが)。
そして補給が良好になったので、春になる前ぐらいから陣地固守用に多くの欧州各国軍がロシアの大地へと入っていた。
何故固守用で攻撃用ではないかと言えば、攻撃のためには自動車、トラックによる補給が不可欠だが、ヨーロッパ世界は依然として全欧州の大軍を進撃させられるほどの数がなかったからだ。
少し両軍の状況を見てから、戦況を追いかけてみたい。
当時ソ連赤軍は、31個軍を前線に置いていた。
後方には親衛軍や突撃軍という名を冠した精鋭部隊があって、通常部隊よりも戦車や機械化装備など優良な装備を多く持っていたが、赤軍にとって「切り札」のため反攻作戦や攻勢にしか出されないので、数としてカウントできない兵力だった。
そして合わせて約800万の兵士が、これらの巨大な軍団を構成していた。
しかし本当の精鋭部隊や頼りに出来る一般部隊はせいぜい全体の3分の1程度で、無限と思われた兵士のなり手も少しずつ不足していたので、年齢幅を広げて全てのロシア人の徴兵が進んでいた。
この根こそぎ徴兵と兵士を消耗品として扱う戦略は、ロシアの人口問題に戦後長らく暗い影を投げかけることとなる。
ソ連軍以外の連合軍としては、42年春までに80万の兵力に達した満州国軍があった。
と言うよりも、満州軍だけが連合軍としてロシア戦線に加わっていた。
彼らはロシア人から「タタール」と呼ばれ、政治将校や共産党関係者の一部はともかく、ロシアの将兵や市民からは愛された。
ロシアの大地でロシア人の為に戦ってくれるという事が最大の理由で、加えてタタール(モンゴル人)はロシア人にとって歴史的トラウマであると同時に「強い兵士」の代名詞だったからだ。
しかし、兵士の多くはタタールと呼んでも良いモンゴル系は極めて少なく、モンゴル系に近い満州族も将校や士官などに僅かにいるだけだった。
兵士の殆どは漢族、しかも約半数が再訓練を受けたもと中華民国軍の兵士だった。
そして80万の巨大な軍隊を実質的に運営していたのが、日本人将校と日本陸軍から教育を受けた漢族、満州族の人々だった(※ごく僅かに満州に帰化した朝鮮族と中華民国系将校もいた)。
部隊の編成は当時の日本陸軍に準じており、軍服と鉄兜は日本製で、見た目は日本軍に非常に近かった。
軍服がカーキ色なので、ソ連 (ロシア)軍にも少し似ていた。
だが装備の多くは、アメリカがレンドリースで貸与もしくは無償供与した兵器で占められていた。
小銃 (カービンまたはガーランド)や手榴弾、拳銃から始まって、自動車、トラック、野砲、対戦車砲、戦車に至るまで、ほぼ全てがアメリカ製だった。
塹壕を掘る携帯シャベルまでがメイド・イン・USAだった。
擲弾筒(グレネードランチャーの一種)など日本軍独自の装備も見られたが、すぐに80万人分の装備を満たせたのはアメリカの生産力だけだった。
しかし1941年冬頃のアメリカは、まだ戦時生産が完全に本格化していなかったので、アメリカ陸軍への供給を先延ばしして満州軍の装備を満たしていた。
「M3 グランド」中戦車など、初期生産のほぼ全て(約300両)が満州軍にレンドリースされている。
冬の戦いでは「M3 グランド」が間に合わないので、日本軍の戦車と「M3 スチュアート」軽戦車だけで戦ったが、冬の戦いはドイツ軍やフランス軍にも戦車が殆ど無かったので事なきを得ていた。
冬の戦いでは、満州の極寒の中で培われた日本陸軍の兵器(と防寒装備)が、旧式が多いながらも活躍していた。
80万の内訳は、師団1個当たりの兵員数は約3万人で、1個軍(軍団)で10万、35万で1個方面軍(軍)となり、満州軍は2個軍21個師団で、ロシア派遣総軍(軍集団)を編成していた。
部隊の最上位を軍集団単位としたのは、政治的発言力を得る為もあるが、何より独立性を維持するためだった。
師団のうち戦車師団は総軍直轄の1個しかなく、各方面軍は戦車旅団しか持たないが、各師団は編成表の上では戦車連隊(4個中隊・58両)を有していた。
しかし定数全てを満たすには1600両以上の戦車が必要で、当時の日本とアメリカのレンドリースはこれを満たせなかった。
戦車総数は軽戦車を含めても定数の半数程度で、多くが車両牽引の対戦車砲やハーフトラックの荷台に対戦車砲を乗せた車両で代替されていた。
その代わり、旧式でも対戦車砲は多数持たされており、師団自体の機動性も自動車化か半自動車化されているため高かった。
また、ソ連側の受け入れ体制がない事もあって自前の航空隊を派遣できないので、対戦車砲にも使えるように砲弾なども手配された高射砲が多数装備されており、師団規模で軍団規模の部隊を有していたほどだった。
トラックにM2機関銃を据え付けた輸送車も防空任務に使えるので、満州軍の防空能力はこの当時としては非常に高かった。
ロシア人たちが、野戦防空師団かと勘違いしたほどだった。
また補給や補充のため、シベリア鉄道には専用列車が定期的に運行されており、トラックなどの数もソ連軍より潤沢だった。
満州軍の総指揮官は、もと馬賊で満州がまだ中華民国領だった頃の一時期に東鉄の軍事顧問もしていた満州族の馬占山(大将)だったが、実質的な指揮は日本陸軍が行っていた。
総指揮官の経歴から、傭兵部隊と言われることがあるほどだった。
総軍参謀長には、当時の日本陸軍中枢(というより永田、東条ら)と些細なことから対立した石原完爾中将が当たっており、中将以上の人材が当てられる軍、軍団指揮官から師団長はともかく、各部隊の参謀や将校の多くも日本陸軍の中枢から外された、もしくは事実上パージされた「問題児」たちが多く含まれていた。
特にアメリカ軍との共同作戦で支障をきたすと考えられた合理性に欠けた将校が多く、日本陸軍の中央からは「愚連隊」と陰口を言われることもあった。
実際問題、「精神論」を唱える将校、軍の権威を利用しがちな将校の中でも問題児と考えられた人々は、ほぼ間違いなく満州軍に派遣されていた。
天保銭と呼ばれる人々ですら、戦時と言うことで容赦なかった。
このため永田の下で人事を実質的に差配した東条将軍は、陸軍の一部から蛇蝎のごとく嫌われる事になる。
ただし、日本陸軍がもとから敵性言語としてロシア語教育に熱心だったので、現地ロシア人との交流が比較的円滑に行えたりもした。
また、厳しすぎるロシアの大地での戦闘で、多くの者が軍人としての本分を尽くさざるを得ず、派兵前に言われたほどの問題は起こさなかった。
ロシアの大地は、安易な精神論を許すような場所ではなく、特に1941年の冬が例年より厳しかったことがその傾向を強めさせていた。
そして何より、巨大な陸軍部隊を中央から五月蠅く言われずに運用できることで充足した毎日を送ったと証言したり記録に残した将校が多かった。
「この戦場で戦うために生を受けた」と言った高級将校も居たほどだった。
こうした将校達は、いまだ腰に軍刀(日本刀)を差しているため、ロシア人から「サムライ」とも呼ばれた。
対する欧州枢軸軍は、ドイツ軍が4個装甲軍と8個歩兵軍を派兵していた。
装甲(戦車または機甲)師団を中核とした装甲軍(機甲軍)を編成しているのはドイツ軍だけで、他は装甲(戦車または機甲)師団や機械化師団をせいぜい軍団単位でしか持っていなかった。
工業力のない東欧の中小国だと歩兵師団しか無かった。
各国にはイギリスから供与された戦車がかなりの数配備されていたが、数が全然足りていなかった。
それでもフランスが3個軍を持ち込み、1個軍を北部、2個軍を南部と中部の間に置いていた。
イタリア軍は2個軍派遣し、2個とも南部に置いていたが、春の時点ではうち1個が戦線後方で待機していた。
他は、ルーマニアが2個軍、ハンガリーが1個軍、ベネルクスが合同で1個軍派兵していた。
あわせて9個軍で、数だとドイツ軍の歩兵部隊に匹敵するが、戦力としてはせいぜい70%程度だった。
特に東欧諸国の軍隊は装備など多くの面で脆弱だった。
戦車どころかまともな装甲車もほとんどないし火力も貧弱なので、密度を高めて使用しても心許なかった。
そしてドイツには、他国に供与できるだけの兵器がなく、辛うじてイギリスが装備のいくらかを供与もしくは貸与したに止まっている。
このためイギリス製兵器を見たら東欧諸国軍だと思えと言われた。
ドイツ軍が頼りに出来るのは、フランス軍とイタリア軍の一部精鋭部隊ぐらいで、侵攻作戦はドイツ軍が担わなければならなかった。
フランス軍とイタリア軍も大規模な機甲部隊の編成は進めていたが、工業力、生産力の限界からドイツ、ソ連に劣っていた。
その上ドイツの無理難題もこなさなければならないので、本来の国力、生産力が全く発揮できていなかった。
フランスは、20トン級の戦車を早くから生産できる能力があるので、この時期はかなりの努力を行っていた。
そうして登場した「S-41」中戦車は、ドイツからの技術指導を得て開発された戦車で、総重量25.5トンと「S-35」を一回り大きくてバスケット型の3人用砲塔を載せていた。
その他、今までの欠点も多く克服されていた。
しかし火砲は新規に開発できず従来通りの47mm砲を長砲身化しただけだったので、ソ連軍戦車に対しては火力不足だった。
この点は、日米双方がフランスが開発した75mm野砲を改造したり発展させ、戦車砲に使用している点と大きな違いと言える。
だが、当時のドイツ軍も42年春の時点で「III号戦車」の50mm長砲身型をようやく主力としたところだったので、それほど劣るとも考えられていなかった。
イギリスでも、現行では2ポンド(40mm)砲が全てだった。
イタリアもロシアに大軍を派遣したので陸軍への予算配分が大きくなり、他国の支援を得て新兵器の開発に力が入れられたが、工業力の限界から成果はなかなか見られなかった。
このため、イギリス軍から一部戦車の供与を受けていた。
既に75mm砲を搭載するソ連やすぐに追随したアメリカ、そして他国に合わせた背伸び感が拭えない日本など連合軍の方が過剰と見られていたほどだった。
そしてフランス軍は、1941年内に再編成に努めてフランス陸軍としては重編成の機甲師団4個と準機械化された自動車化師団を6個編成し、支援部隊を加えてドイツ軍のような装甲軍を一部で編成していた。
戦車の運用も歩兵の支援から独立して使うことを、ドイツとの戦いとロシアでの戦いで思い知らされていたので、運用の根本も変わっていた。
イタリア軍についても同様で、リットリオ、アリエテなどの名称を冠した装甲師団や機械化師団を編成したが、どうしても装甲戦力(戦車)が弱体だった。
このため装備の一部は、イギリスからの供与に頼っていた。
他国の旗を付けた「マチルダII」歩兵戦車は、ロシア戦線でも活躍していた。
なお、兵力の総数は20個軍で合わせて550万ほどになる。
最初は北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の3つに分けて、3〜4個軍で各軍集団を編成していたが、同盟国の戦力が低いからと言っても軍集団の規模が大きくなりすぎていた。
このためソ連軍の冬季反抗が終わった3月に大きく改変され、南方は大量の同盟国軍の編入に伴ってA軍、B軍、C軍集団の3つに分けた。
合計で5個軍集団を平均すれば各軍集団は4〜6個軍ずつ持つことになるが、北方と中央は3〜4個軍、A軍が6個軍、B軍が3個軍、C軍が4個軍を有していた。
南方とコーカサスにはこれからの進撃で広がる戦線を守るためのドイツ軍以外の部隊が後方で待機する形になっており、北に行くほど当面は固守の構えだったので、兵力の極端な比率となっていた。
特にA軍集団の規模が大きいのは、戦線を一時的に大きく広げるための守備用として同盟国軍が多く属していたからだった。
そして同盟軍の軍規模は小さいので、軍集団としての規模の差はそれほど大きく違わなかった。
1942年の初夏から開始予定の対ソ連夏季攻勢の主目標は、バクー、アストラハンの占領。
この戦略目標の決定には、多分に資源問題が絡んでいた。
ドイツ軍参謀本部は、今度こそソ連共産主義体制の打倒を目的としたモスクワを目指すべきだと考えて提案もしたが、ヒトラーから否定されたし各国からも反対が相次いだ。
原因は、ヨーロッパ世界全体の石油事情だった。
当時のヨーロッパ世界の油田は、ルーマニア油田が域内にあるのを除けば、全て海外にあった。
最大規模がベネズエラのマラカイボ湖油田で、次いでペルシャのアバダン油田、東南アジアの東インド油田群となる。
中東には多くの石油が眠っていることは分かっていたが、イラクの一部以外でほとんど開発は進んでいないので、調査こそ進めるが戦争中に役に立つ可能性は無かった。
そして上記した油田のうち、すでに東南アジアの油田は連合軍の占領下や影響圏となっていた。
油質のよいペルシャでの産油と輸送は順調だが、ルーマニアの油田と足してもヨーロッパ全体では足りていなかった。
イギリスなど欧州世界が有する大量の船舶を運航させるためには、ベネズエラの油田が必要だった。
だが、ベネズエラはアメリカに近く、距離と国力の問題からいずれ運べなくなると考えられていた。
そしてベネズエラの油が欧州に来なくなる前に別の油田が必要だった。
ガソリンなら、採算度外視で人造石油の精製という方法もあるが、安価な重油だとそうもいかない。
経済を維持して戦争を続けるためには、欧州と海外を結ぶための船の運航が必要だった。
だからこそのコーカサス侵攻だった。
コーカサス山脈のカスピ海沿岸には、バクー油田と呼ばれる当時世界最大級の油田があり、ソ連の年産約3800万トンの石油の70%程度を産出していた。
しかも油の質もよく、もともと油田を開発したのがドイツの技術者なので、占領できれば短期間で欧州にもバクーの石油を供給できると考えられた。
欧州への石油輸送が仮に出来なくても、ソ連の戦争遂行能力を大きく殺ぐ事が出来るので、戦略上で非常に重要だった。
重要性は欧州各国全てが理解しており、それまでソ連戦にほとんど参加していなかったイギリスですら、大規模な派兵を決定した。
イギリスが派兵を決定した場所は、ソ連領内への空軍の派兵を除けば、中東だった。
イラクのキルクーク(小規模な油田があり、さらに開発中)に空軍基地を設置して、そこから重爆撃機による爆撃を行い、ペルシャと話しをつけて南からバクーへ侵攻する予定を立てた。
しかし集結場所から侵攻する最初の段階まで全て山間部で、中東の貧弱な鉄道網での部隊や物資の集積には問題も多いため、大規模な戦力を短期間で用意するのは不可能だった。
戦線がロシアだけなら何とかなったが、カリブ、インドと大きな戦線を抱えるイギリスとしては、他では補助的な役割しか担えなかった。
にもかかわらず中東に戦力を投じたのは、ベネズエラ油田に対する危機感の現れでもあった。