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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ17「WW2(11)シンガポール攻略」-2

 スリムの戦いに戻るが、日本軍の戦車隊がイギリス軍の前線を突破すると、それに続いた日本の歩兵など各兵科がなだれ込んでイギリス軍の戦線は消滅し、あとは殲滅戦に移行した。

 ここでイギリス軍は師団1個が降伏し、第4機甲旅団も回復不可能な壊滅的な打撃を被り、他の部隊も多くが撃破されるか降伏するという大打撃を受け、以後の防戦が非常に難しくなっている。

 

 イギリス軍の苦戦はシンガポール前面のジョホールの戦いでも見られ、イギリス軍は最後の防戦と奮闘したのだが、日本軍を中心とする連合軍に完全に押し切られてしまう。

 そして戦いは、誰もが予想したよりも早くシンガポール島攻略戦へと移行する。

 

 シンガポールはイギリスの東洋支配の象徴であり、海に面した側には巨砲を備えるなど防備も固められていた。

 だからこそ日本軍はマレー半島を南下して、後背からシンガポールを攻略しようとしたのだ。

 

 シンガポールの戦いは1942年2月7〜15日の間にかけて行われ、古今東西の要塞戦でよく見られた通り、守る側のイギリス軍の敗北で幕を閉じた。

 

 戦闘開始前、シンガポールに籠もるイギリス軍は、残兵を収容するなどで10万人を数えていた。

 しかしマレー半島の戦いで装備の多くを失い、士気も高いとは言えなかった。

 しかも島の内陸側のジョホール水道方面には重砲など敵を阻止できる装備がほとんど無かった。

 もはや使い道があまりない僅かな戦車をトーチカ代わりに埋めたりもしたが、榴弾のない2ポンド砲では効果も限られていた。

 加えて、もはやイギリス側にまともに飛び立てる機体はなく、インドから増援や支援物資を送り込むことも不可能となっていた。

 要塞砲は15インチ砲など強力で、いちおうは内陸部方面に向けた砲撃も可能だったが、対艦用の徹甲弾しか装備しないので、砲撃の効果はほとんど無かった。

 

 対する日本軍を中心とする連合軍は、陸と海、そして空からシンガポールを完全に包囲していた。

 補給も十分に行われていた為、まずは重砲と艦砲をもちいた砲撃戦が展開され、合わせて島内各所への爆撃が実施された。

 この時の艦砲射撃では、イギリス軍の要塞砲射程外からの戦艦による艦砲射撃が実施され、《長門》など6隻の戦艦が参加している。

 

 総攻撃開始前に、降伏もしくは英連邦自由政府への帰属を求める使者が送り込まれたが、現地イギリス軍の返答は「No」だった。

 

 このため2月8日から島への強襲上陸が実施され、島の各所で歩兵同士による激しい戦いが展開されることになる。

 だがヴェルダンや旅順のような陣地要塞が構築されているわけでもないので、戦闘自体は普通の戦闘と大きな違いは無かった。

 

 そして補給と補充をいくらでも受けられる連合軍と違い、シンガポールのイギリス軍はすぐにも物資不足に陥った。

 特に飲み水(給水池)を失ったのが大きかったと言われる。

 このため総司令官のパーシバル将軍は降伏を選択せざるを得ず、シンガポールでの戦いは大方の予想を裏切って短期間で終息した。

 


 シンガポールには、英連邦自由政府の旗として持ち込んだユニオンジャックが改めて翻ったが、世界情勢に与えた影響は非常に大きかった。

 これをチャーチルは、「日本人を中心とする連合軍は偉大な勝利を掴んだが、連合軍の一角を成す自由政府にとっては大きすぎる痛みを伴う勝利でもあった」と書いている。

 そしてチャーチルが記したように、シンガポール陥落は世界史的にはヨーロッパ世界のアジア支配の終焉を告げるものだと定義される事が多い。

 攻略したのは連合軍だが、その戦力の90%以上が日本軍であり、有色人種が白人勢力に勝利した事になるからだ。

 何しろユニオンジャックの隣には、日本の国旗もアメリカの国旗と共に翻っていたからだ。

 

 しかし日本は連合軍の一員であり、同盟国の植民地支配自体は否定していないし、マレー半島以外では侵攻も解放もしていないし、占領後のマレー、シンガポールでも統治は英連邦自由政府に委ねている。

 このため、植民地支配に苦しむ地域からは、日本に失望したという声も大きかった。

 ただしこの頃の日本は、主要参戦国として大国外交を前面に出すしか無かったし、山梨首相など政府中枢の多くの人々が他者から与えられる独立に意味はないと考えて「植民地解放」などの言葉を振りかざさなかったからでもあった。

 加えてアメリカの当時のランドン政権も、今日で言われるほど植民地帝国主義に批判的で無かったことも日本の外交に影響していたことを忘れてはいけないだろう。

 

 また、短期的にはイギリス軍は10万人以上が降伏して捕虜になったが、この敗北はダンケルクで捕虜になったイギリス兵の数よりも多かった。

 これは東洋支配の象徴が有色人種の手によって落とされた事と同様に大きな衝撃となった。

 しかもシンガポールを含むマレーは、戦闘前は最低でも半年、最大で一年以上、アメリカが大軍を派遣するまで陥落しないと考えられており、実質的に日本人の手で落とされた事の衝撃は非常に大きかった。

 

 そしてシンガポールの陥落と、蘭領東インドの連合軍参加によって、東南アジアはわずか3ヶ月で連合軍の勢力圏になってしまう。

 当時はビルマでも日本軍が現地イギリス軍を押して快進撃しており、ドミノ的な瓦解が起きていた。

 そしてそのドミノは、オセアニアまで押しよせる。

 


 シンガポールが陥落して半月ほどした1942年3月1日をもって、オーストラリア連邦、ニュージーランド、フィジーなどイギリス連邦を構成するオセアニア、南太平洋地域の全てが、英連邦自由政府への加盟と連合軍への参加を表明したからだ。

 

 この段階でのオセアニアの連合軍参加は、アジアでのイギリス軍及び枢軸軍の減退により軍事的脅威が低下したので、やっと連合軍に参加できるようになった、という流れになる。

 つまりオーストラリアなどから見たら、悪いのは不甲斐ない日本などの連合軍で自分たちではないという事になる。

 しかもオーストラリアは、連合軍参加後も横柄な態度を取る事が多く、また人種差別的な言動や行動が目立つため、日本からは非常に疎まれた。

 だが英連邦自由政府にとって、オーストラリアを含むオセアニア、南太平洋地域の参加は、国力、潜在軍事力、そして政治、全ての面で大きな効果が見られた。

 これまでほとんどカナダだけだったので、特に政治面での効果が期待できた。

 実際、オセアニアの動きに影響され、まだイギリス本国政府に属しているイギリス連邦構成地域や各植民地では大きな動揺が見られた。

 この時期にインドのビルマ戦線が大きく動いたのも、インド兵の離反が相次いだのも、日本がシンガポールを占領して有色人種に一定の光をもたらしたのと同様に、オセアニアの動きが影響していると見て間違いない。

 


 そして連合軍は、この機会を逃さなかった。

 

 一連のマレー作戦での海空戦力の消耗が少なかった事ともあって、一気にインド洋に押し出した。

 

 当面の目標はビルマの占領。

 ビルマに対しては、12月中ばにはタイを通過した日本軍部隊が、国境を突破して侵攻を開始していた。

 そして国境警備を軽視していた現地イギリス・インド軍を撃破して、主要都市のラングーンを目指した。

 そしてマレー侵攻が進んでマラッカ海峡を越えられるようになると、艦船を続々とインド洋側に持ち込んだ。

 そうしてまずは、インド洋東部外縁と言えるアンダマン海の制海権を獲得する。

 これでシンガポールが完全に孤立すると共に、欧州枢軸側が海路でビルマ主要部へ増援を送り込む事を難しくさせた。

 そしてさらに潜水艦を大量にインド洋、ベンガル湾に放ち、通商破壊戦を開始する。

 通商破壊戦には日本海軍第二艦隊の戦力の多くも投入され、まだ大丈夫と考えていた欧州枢軸側の船舶を次々に撃沈もしくは拿捕した。

 

 この時、欧州枢軸側はビルマでの制空権獲得競争にこそかなりの力を入れるが、混乱が続いていた。

 あまりにも呆気なくマレーの空軍部隊が壊滅し、陸でも連戦連敗が伝えられていたからだ。

 しかもイギリス、イタリア東洋艦隊は戦闘初期の段階でシンガポールから逃げ出し、あまつさえ海上で包囲されて大損害を受けていた。

 インド各地の僅かでも修理能力を持つ港は、欧州枢軸陣営の東洋艦隊修理、補修にかかりきりとなり、能力が十分ではないので艦隊の再編成もままならなかった。

 自ら戦闘を仕掛けるのは論外だし、マレーへの反撃など夢物語でしかなかった。

 

 このためイギリス、イタリア東洋艦隊の稼働艦艇は、日本海軍との戦闘を避けるためインド洋に密かに建設されていたアッズ (アッドゥ)環礁の基地(泊地)に潜んでいた。

 セイロン島の主要港湾は大艦隊の駐留には危険が大きいため、日本との戦争が始まってすぐに設置された「秘密基地」だった。

 


 この頃の連合軍のインド侵攻の最大の障害は大きく二つ。

 一つはイギリス空軍。

 もう一つはいまだ大きな戦力を有している枢軸東洋艦隊だった。

 

 空軍は出来るだけ短い航空撃滅戦で壊滅させるより他無いが、本国からの補給をさせなければ簡単に壊滅できるのは、チャイナ、マレー、さらにはジャマイカの戦闘でも立証されていた。

 しかしインドは広大であり、インド洋全体を封鎖するには東洋艦隊を撃破して、最低でもセイロン島を占領して自らの基地としなければならなかった。

 

 そして一言で東洋艦隊の撃破と言っても簡単では無かった。

 戦艦10隻を中心とする艦隊を撃破するには自らも大艦隊が必要で、しかも東洋艦隊は自らが不利になったら戦場から逃げ出すので、今までのような戦闘ではラチが明かなかった。

 何しろ、度々撃滅の機会があったのに、常に逃げられていたからだ。

 

 そこで日本海軍・聯合艦隊司令長官だった山本五十六大将は、一つの秘策の決行を提案する。

 アッズ環礁を空母機動部隊を用いて奇襲的攻撃で強襲し、一気に敵艦隊主力を撃破する事だった。

 

 アッズの存在は、リンガから撤退した東洋艦隊を潜水艦などで探し回った時の副産物で日本軍潜水艦が既に発見していた。

 その後も慎重な内偵を進め、枢軸側に発見を気取られた気配も無かった。

 そして未完成の秘密基地、防御力のない孤立無援の秘密基地など、不安定な場所に卵を積み上げる行為に等しかった。

 

 だが、攻撃のタイミングだけは問題だった。

 蛻の殻では、大軍を用いる意味がない。

 かといって潜水艦で監視して通信を送るのでは、相手に気付かれてしまう。

 このため監視は遠くから行い、通信も半日程度移動してから行うという慎重さで実施された。

 

 また環礁内では雷撃が難しい場所も多い筈なので、攻撃は水平爆撃、急降下爆撃に頼らなければならなかった。

 このため空襲で艦隊を環礁外にあぶり出し、待ちかまえた潜水艦複数の雷撃で撃破するというのが攻撃プランとしては妥当とされた。

 

 だが攻撃を担う第一航空艦隊の武部提督は、環礁からいぶりだした上での洋上攻撃を望んだ。

 当然だが、敵に逃げられたら元も子もないので、奇襲もしくは奇襲に近い強襲攻撃が前提での事だった。

 そして短期間で全貌の掴めない場所への奇襲攻撃は不確定要素が大きすぎると考えられたため、可能な限り戦力を揃えた上での攻撃が決定する。

 

 第1航空艦隊としては、マレーの戦いではどうしてもシンガポールのイギリス本国空軍を相手にせざるを得なかったので、今度こそ艦隊攻撃、できれば洋上での戦艦撃沈を果たしたいと考えていた。

 作戦行動中の戦艦撃沈は、当時の空母指揮官にとって全ての人に空母の価値と可能性を示す最大のチャンスと考えられており、春にアメリカ海軍のハルゼー提督が今一歩までいきながら果たせていなかった命題でもあった。

 


 そして次の攻撃のために、日本海軍は新たな戦力を十分な数を用意することに腐心した。

 このため航空隊の転換訓練を大急ぎで実施し、作戦に間に合わせた。

 

 用意されたのが一式艦上攻撃機「天山」、一式艦上爆撃機「彗星」で、既にシンガポールの戦いでは先に機種転換訓練を受けていた一部航空隊が使用していたものだった。

 

 一式艦上攻撃機「天山」、一式艦上爆撃機「彗星」共に、空母用カタパルトでの発艦が可能な次世代機として開発された機体だった。

 カタパルト発艦が可能な丈夫な機体構造と機体性能を支える大馬力エンジンが最優先され、他は二の次として開発が進められた。

 どちらかと言えば、開発時間を優先した「つなぎの機体」として位置づけられていたからだ。

 しかしフリーハンドが得られた事は多くが良性に働き、予定より早く完成、試験、実戦配備と進んだ。

 戦時だったことも開発促進に大きく影響したが、海軍があれこれと欲張らなかった事が良性に働いた形だった。

 

 一式艦上攻撃機「天山」は、十二試艦上攻撃機として再び三菱と中島が一騎打ちの形で開発を競った末、自社の火星発動機を搭載した三菱製が勝利して採用されたものだった。

 三菱は九七式での敗北を教訓として、アメリカのメーカーや技術者からも様々な意見や技術を取り入れた上で同機体を開発した。

 この時の開発情報は、アメリカ軍の後の機体にも大いに反映されたほどだった。

 

 このため「天山」は、少し日本軍機らしくない無骨な姿をしており、試験開始当初は日本機らしいラインを持つ中島の機体が優勢と見られていた。

 三菱が優位な点は、丈夫さを除けば旋回機銃がブローニングM2ぐらいと言われた。

 だが、中島の機体が搭載する新型の「護」エンジンは所定の性能に達せず、また構造上の問題から前線配備後のトラブルが懸念され海軍側が採用を嫌った。

 三菱の機体は、カタログ性能は中島の機体に劣っていたが、エンジン共々堅実な構造を有していた。

 また、実戦において弾幕の中を進むことを考えた丈夫な構造は、現場将校からは軟弱との批判も出たが、司令部を中心に総じて高い評価を得た。

 

 一式艦上爆撃機「彗星」は、九九式艦上爆撃機などを開発した愛知飛行機が開発した。

 当初は十三試水上爆撃機として開発がスタートしたものを、艦上爆撃機に改設計したものだった。

 この背景には、アリソンエンジンの国産型(空技廠製)を積んだ空技廠の機体が、エンジンの出力不足と不調から開発が難航し、さらにカタパルト発進という規定の方針に十分沿えなかったので、急遽代案として計画が進められたという経緯があった。

 この空技廠の機体は、その後艦上偵察機として何とか正式化されて高速と航続距離から活躍したが、艦上爆撃機として大量配備していたらエンジンの不調が大いに問題視されたと言われている。

 

 なお、愛知が九九式艦上爆撃機での不満点解消を目指して開発していた機体で元の設計が優れていた為、改設計以後の製作はスムーズに進み、艦載機としての翼を大きく折り畳む構造を加えても翼の強度は十分に確保出来た。

 

 そして元々フロートを付けた上で250kg爆弾による急降下爆撃が可能な丈夫さと積載量のため、エンジンを強化したこともあって最大で500kg爆弾と60kg爆弾2発を搭載できるだけのペイロードがあった(800kgでも過積載で何とか可能だった。)。

 非常に良好な成績を収めた為、海軍は元計画通りの水上偵察爆撃機も製造と量産を急がせ、こちらは「彗雲」として採用されることになる。

 


 この新たな牙が、欧州枢軸軍に放たれようとしていた。


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