フェイズ17「WW2(11)シンガポール攻略」-1
グリニッジ時間1941年12月7日、連合軍は東南アジアのマレー半島各地に上陸作戦を開始した。
上陸は即日連合軍への参加を表明したタイ王国とイギリス領マレー連邦のコタバルに行われた。
コタバルの上陸は敵前での強襲上陸作戦で多くの海上戦力が支援にあたった。
支援艦隊の中には、連合軍の政治的建前を作り出すべく、英連邦自由政府に属する巡洋戦艦 《レパルス》の姿もあった。
上陸したのは3個師団で、日本の第5師団、近衛第2師団、第18師団で、これを戦車旅団、重砲兵旅団などが支援した。
さらにこの後には、2個師団が続く予定だった。
加えて自由イギリス軍が1個旅団派遣し、アメリカ陸軍も大隊規模だが後続部隊として参加を予定していた。
指揮官には山下奉文将軍(当時中将)が任命されたが、これは日本陸軍内の人事としては派閥的に難しいところだったが、戦争前に行われたアメリカ視察に山下将軍が行った事での人脈が評価された形でもあった。
日本陸軍も、自らの中だけを見ている時代では無くなっていた証でもあった。
なお戦前の陸軍は、実質的に日本陸軍随一の逸材と言われた永田鉄山と彼の舎弟といわれた東条英機を中心とした、前世界大戦に従軍した軍人達による従軍派が中枢に位置していた。
山下らは当時本国に止まっていたグループ(保守派)に属しており、従軍派と対立する側の代表的軍人だったが当時左遷に近かったアメリカ陸軍の視察が、思わぬ形で活きてきたのだった。
話しが逸れたが、コタバルには上陸戦に優れた第5師団が強襲上陸作戦を決行し、戦艦、巡洋艦の艦砲射撃、インドシナからの爆撃、空母艦載機による支援を受けながら、イギリス軍が防御陣を敷いていると考えられた場所に突撃した。
短期的な目的はコタバルの飛行場を短時間で占領し、航空隊を進出させる事にあった。
もちろんこのまま第5師団は進撃するし、後続部隊のための拠点を作るのも目的だったが、なにより制空権の確保が重要と考えられた。
もっとも、10月から開始された航空撃滅戦によって、マレー半島のイギリス本国空軍部隊は既に壊滅状態だった。
インド(ビルマ)方面から直接飛来できるのは航続距離の関係で爆撃機だけで、戦闘機は輸送船で運ばなければならないが、この輸送作戦も連合軍の通商破壊戦で半分も達成できていなかった。
そして日本軍を中心とする連合軍による航空撃滅戦が続けられたが、連合軍の戦闘機は空母を用いなければならないため、10月半ばで一旦重爆撃機による空襲だけとなり、イギリス側も一息つけた。
だが、10月の時点で400機近くあった機体は半月で稼働100機を切るまでに激減し、1ヶ月半で補充できた機体は50機程度だった。
幸いにして修理やエンジンの補給で稼働率は多少向上したが、総数で200機程度に落ち込んでいた。
そして連合軍は200機でも十分な脅威と考えており、上陸作戦の3日前から再び航空撃滅戦を開始し、12月7日(現地時間8日)の時点で100機を切るまでに減少していた。
このためマレー半島に籠もるイギリス本国軍は、友軍の制空権を最初から期待できない状態だった。
一方、マレー半島を守るイギリス本国軍だが、平時から駐留している現地警備部隊とインド師団(※インドで動員された兵士とイギリス軍将校によって編成された部隊)を中心として、総数は15万人いた。
そして大量の戦闘機を送り込んだように、大量の戦車、装甲車も送り込んでいた。
インド兵だけでなくイギリス本国からも師団級の部隊が派兵され、第18師団、第4機甲旅団などの姿があった。
インド兵も本国兵並に強力と言われたインド第4師団などの姿もあり、生半可な兵力での攻略は不可能だった。
しかし植民地兵が多く装備や練度に劣る兵力が多いのも事実で、現地部隊は本国兵の増強を常に要請していた。
しかしイギリス本国は、補給線の問題からマレーへの大規模な増援は危険と考えていたし、インド防衛こそが本命と考えてインドへの本国兵投入を平行して行い、結果としてマレー半島には限られた戦力しか増強しなかった。
インドに力を入れていたのは、アメリカ軍が戦時体制を整えて大軍を投入してくる事を警戒しての事だった。
そして現地司令部が不満でも、かなりの戦力である事には違いなく、「この程度の戦力」で十分に日本軍を撃退できるとイギリスは見ていた。
現地司令部ですら、日本軍をかなり過小評価していた。
チャイナで日本軍が猛威を振るっていたが、それは相手が同じ有色人種だからだと考えられた。
そして日本軍は、イギリスが中華への増援を捨て置いた事を殊の外重視した。
制空権獲得を第一に考えた作戦を実行し、さらに上陸部隊も戦車を多数含んだ機械化部隊で固めていた。
日本の各師団は自動車化され、捜索(偵察)連隊は軽戦車中隊、対戦車大隊は砲戦車中隊を持ち、さらに戦車連隊が属していた。
火力も欧米基準に並ぶほどに強化された戦時編制で、制空権さえあれば十分に対抗できると考えられていた。
これほど強化された師団は、当時の日本陸軍では数が限られており、それだけ日本軍がマレー作戦に力を入れている証拠だった。
第5師団が上陸したコタバルには、イギリスも上陸を予測していたので1個旅団のインド師団と戦車部隊を配備していた。
砲兵部隊も沖合を睨んでいたが、戦艦複数を並べた日本軍の攻撃を前に上陸作戦が始まるまでに壊滅状態に陥っていた。
直接的な原因は、トーチカなどの陣地構築が不十分だったから防御力が不足していたからだが、沿岸部の多い細長い半島での防衛戦の難しさを伝えていた。
加えて砲兵部隊の火力も、戦艦相手には決定的に不足していた。
コタバルの飛行場は沿岸からわずか2キロメートルほどの場所で、川の三角州にあった。
このため機械化部隊による攻略は難しいと考えられ、歩兵中心で攻撃が行われた。
そして上陸作戦と進撃を容易とするため、艦砲射撃と爆撃を徹底した。
おかげで現地イギリス軍は大損害を受けるも、飛行場に至る道や地面が砲爆撃で掘り返され、進撃の大きな障害となった。
ここで活躍したのが、ソ連軍の戦車を見て改造した九七式戦車だった。
火力は依然として貧弱だが、相手に戦車がいなければ57mm榴弾砲は歩兵部隊や陣地の制圧には有効だった。
このため主に改造したのは履帯幅で、幅を広く取り合わせて足回りを少し弄ることで接地圧を大きく軽減して、地盤の弱い場所での行動を容易としていた。
しかし同車両は火力の弱さから歩兵支援が中心で、相手が装甲車両(戦車)だと装甲の薄い場合しか対処出来なかった。
だが日本側も既に教訓は得ていたので、対装甲戦用の部隊も準備されていた。
これが「一式砲戦車」で、砲塔を無くして車体に直接75mm機動砲の改良型(一式戦車砲)を搭載し、可能な限り低い車高とした装甲で覆ったものだった。
この75mm砲は、もとが野砲だが初速が比較的早い(38口径砲)ため対戦車砲として既に日本陸軍部隊のかなりに配備が進んでいたものの大幅な改良型だった。
分かりやすい改造点は、発射の際に「紐」を引っ張るのではなく「トリガー」を引く戦車砲としての改造が施され、砲口に発砲煙を制御するマズルブレーキ装着したものだった。
さらに、駐退機も強化した上で短縮し、車外の露出が減らされていた。
見た目は完全に別物で、一式戦車砲と呼ばれた。
車両自体はドイツの「III号突撃砲」ほど完成度は高く無かったが、生産が簡単なためこの頃の日本軍に急ぎ配備が進められていた。
そして専用の強化徹甲弾(タングステン使用弾)を用いれば距離600メートルで「マチルダII」の正面装甲を貫けるので、非常に重宝される事となる。
この戦場でも飛行場近辺で防戦を展開するイギリス軍戦車を撃破して、日本軍の勝利に貢献した。
ただしコタバルの英軍戦車は巡航戦車だけで、この車両が目標とした「マチルダII」との対戦はまた別の場所での事となった。
コタバルの戦いは、強襲上陸作戦だが連合軍が圧倒的という以上の支援部隊を投入していたので、ほぼ全ての場面で連合軍の思惑通り運んだ。
そして水際で撃退できないことはイギリス軍も理解していたので、内陸部の進撃に入ってからが陸戦の本番だった。
マレー半島は熱帯雨林で覆われており、地形も平坦とは言い難く、高温多湿という悪条件ながら防戦には有利と考えられていた。
大小の河川も多く、撤退時に橋を落とせばそれだけで防戦の時間稼ぎが出来た。
しかも細長い半島なので防衛ラインも絞りやすく、イギリス軍もかなり前から敵を阻止するための陣地構築を行っていた。
最も有名なのが「ジットラ・ライン」だった。
イギリス軍は100万の大軍が押しよせても半年は防げると豪語した陣地群だった。
フランスのマジノ・ラインのような要塞線と言われることもあるが、密度や規模から見ても陣地群でしかなかった。
「〜でしかなかった」と表現したように、ジットラに限らずマレー半島の防衛線はどれも不十分で未完成だった。
原因の多くは熱帯雨林だったからで、ジットラも狭隘な地形ではあるが湿地帯で、工事が難しかった。
しかも工事を受注したタイ政府だったが、イギリス本国がナチスに降伏した事、その後の戦争の進展の影響で、工事をいい加減にした。
しかも日本側のスパイ活動によって、ジットラなどマレー各地の陣地の様子はタイを通じて筒抜けとなった。
そして日本軍は、精鋭の機械化部隊を用いることで、強引に「ジットラ・ライン」などを突破してしまう。
欠点、弱点が分かっているので、この突破は比較的容易だったのだが、半年どころかわずか2日足らずの強引な突破戦で1万の兵士が守備する要塞線が突破されたことに、現地イギリス軍はかなりの衝撃を受けた。
だが日本軍の側は、マレー作戦前からの情報収集に加えて熱帯での作戦行動訓練や演習を海南島などで積んでいたので、敵を侮っていたイギリス軍の完敗だったとも言えるだろう。
日本軍に従軍したアメリカ陸軍の将校も、非常に驚いている私見を残している。
そして白人達が驚いたように、マレーでの戦いはこの大戦始まって以来の白人対有色人種の戦い(陸戦)でもあった。
マレー半島で最大規模の戦いとなったのは、クアラルンプール北方での「スリムの戦い」だった。
両軍合わせて5万以上の兵力が激突した。
特に大規模な戦車戦が実施され、両軍が投じた精鋭戦車部隊が激突した。
日本側は先に説明した「一式砲戦車」と砲塔前面に追加の装甲版をリベット止めした「九七式戦車」、それにこの戦場に急ぎ間に合わせた「九七式戦車改」、そしてこの大戦で初めて戦場に姿を見せた「九九式重戦車」も投入された。
またアメリカが日本に供与した「M3 スチュアート軽戦車」もあった。
日本側の欠点は、主力となる「九七式戦車」の火力の低さで、優れた性能を持つ戦車の数量不足だった。
優れた性能を持つ「九九式重戦車」は、試験投入でもあったのでわずか4両しかなかった。
イギリス側は大量に運び込んだ「クルセイダー」巡航戦車、「バレンタイン」歩兵戦車が主力で、これに「マチルダII」歩兵戦車が脇を固めていた。
イギリス側の欠点は、歩兵戦車の足の遅さ、戦車砲が全て2ポンド(40mm)砲という事、それに強力な対戦車砲に欠くという事だった。
また戦車砲が榴弾を撃てない事も、この時も大きな欠点だった。
戦車の総数は、日本軍が240両、イギリス軍が280両とイギリス軍が若干勝っていた。
日本軍の主力部隊は第三戦車旅団、イギリス軍が第4機甲旅団で、どちらも練度は高かった。
アジアで初めての大規模戦車戦に世界中が注目したが、意外な展開となった。
戦車戦よりも陣地突破を重視した日本軍が、戦車を先頭とした機械化部隊でほとんど正面から夜戦(夜襲)を仕掛けたからだ。
予期せぬ夜戦にイギリス軍は戦闘の初期から混乱し、予想外の時間に始まった重砲弾幕で戦う前から大きな損害を受けた。
しかも不確かな情報に従って反撃を実施したため、大きな損害を受けてしまう。
それでもイギリス軍は、一度は日本軍の前線の一部を突破したのだが、その先には日本軍が防衛用に陣地を展開していた。
そしてそこには、優れた高射砲でもある九八式速射砲、九〇式機動砲が多数展開し、陣地前面には地雷原もあったため戦車の墓場となった。
九八式速射砲には「マチルダII」も距離800メートルで正面から撃破されてしまい、しかも多数の照明弾が打ち上げられる夜戦のため、イギリス軍の戦車の多くが無為に失われた。
機動性に優れた「クルセイダー」だったが、夜の乱戦では威力も発揮出来なかった。
「バレンタイン」歩兵戦車はそれなりの性能なのだが、相手と比べると多くの面で中途半端な性能なうえに速度が遅いため、あまり活躍は出来なかった。
このため、この戦い以後「バレンタイン」歩兵戦車は役立たずと考えられたが、生産ラインの関係でその後も量産が続けられ、42年に入ってからは主に同盟国に供与されている。
先に突破戦を仕掛けた日本軍の方が混乱は少なく、中でもわずか4両の「九九式重戦車」が猛威を振るった。
重量、装甲厚、火力などの数字は、少し後にドイツに登場する「V号戦車」に近いが、機動性など多くの面で劣る古い思想で作られた純然たる重戦車だった。
だがこの戦場では無敵の重騎兵だった。
2両ずつで戦車隊の先頭に立った「九九式重戦車」は、照明弾がぼんやりと辺りを照らす中で、敵の砲撃を一身に受けつつ時速15〜20km/h程度の速度で着実に進撃を続けた。
総重量48トン、最大装甲100mmしかも傾斜装甲を採用した重装甲は、イギリス軍の対戦車砲をまるで受け付けなかった。
2ポンド砲では目の前のような距離ですら弾くことも多く、500m以上の距離だと重砲(75mm)の水平射撃を受けても装甲に少し傷が付いただけだった。
重高射砲(3.7インチ(94mm)砲)の射撃を受けたら流石に撃破されたと言われるが、この頃のイギリス軍は高射砲を陸戦に使うという発想が無かったし、当然ながら装備(徹甲弾)も無かった。
他の戦車のうち、比較的活躍したのが「九七式戦車改」と「M3 スチュアート軽戦車」だった。
ノーマルの「九七式戦車」は、相変わらず対戦車火力が弱く、撃破こそなかなかされないが敵戦車も撃破出来なかった。
搭載していたM2機関銃の方が役に立つと言われたほどだった。
「一式砲戦車」は、射撃時に車体自体を動かさなければならないため、乱戦や陣地突破戦に不向きなのがハッキリした。
砲戦車自体が、基本的に防戦用だと最初に認識されたのも、この時の戦いだとされる。
アメリカ製の「M3 スチュアート軽戦車」の見た目はあまりよくなかったが、軽戦車に似合わず重装甲で、軽戦車らしい軽快な運動性と主砲の高い速射性能、なにより高い機械的信頼性と稼働率を見せつけた。
「九七式戦車改」は、新規設計されたバスケット型の新型砲塔に「一式砲戦車」と同じ一式戦車砲を搭載していたので、非常にバランスの取れた中戦車として活躍ができた。
「九七式戦車改」は重量21.5トン、砲塔前面装甲60mmで、初期型より1.5トン重くなっていたが、これでようやく主力戦車としての性能を獲得したと言えるだろう。
21.5トンはドイツ軍の「III号戦車」と同じ重量で、総合性能では「III号戦車」が勝るが、火力と正面装甲では「九七式戦車改」が勝っていた。
だが、この戦いでの活躍は限られており、「九九式重戦車」の印象があまりにも強かったため、日本陸軍内に重戦車信仰とでも呼ぶべきものを産み出すほどだった。
この時の活躍で、「無敵の鎧武者」と題うって戦意昂揚映画にもなったほどだった。
陸軍内でも、当時国内に20数両しかなかった「九九式重戦車」による独立重戦車部隊が設立され、増産と新型製造に多くの努力が傾けられた事にも象徴されている。
さらに加えて、従来の「九七式戦車」を前線や部隊から引き揚げて順次「九七式戦車改」に改良している事からも、日本陸軍での軽量級戦車の時代が終わったことを伝えている。
そして同時期に「一式中戦車」という25トン級の戦車を開発していたが、それよりも当時は開発中だった「二式重戦車」の開発と量産が急がれるという、他の国ではあまり見られない事態を産んでいる。
ただし日本陸軍が重戦車開発を重視した背景の一つに、開発が失敗しても主力戦車はアメリカからの貸与、供与を受ければいいという、いささか他力本願な考えがあったことは忘れるべきではないだろう。