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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ16「WW2(10)カリブの死闘の幕開け」-2

 1941年晩秋に入りつつある頃、欧州枢軸海軍は稼働艦艇が大きく減っていた。

 初夏の戦闘以後、損傷修理、整備補修、さらには大規模な近代化改装に入った大型艦艇が多かったためだ。

 空母はまだイギリス海軍のものしか使えず、アメリカ大西洋艦隊の動向に合わせた睨み合い状態を維持していた。

 

 そして海軍での主軸となるイギリス本国海軍は、万が一の事態に備えて自らの主力艦隊(A部隊=本国艦隊)とジブラルタルの艦隊(H部隊)を安易には動かせなかった。

 その上、東アジアでは10月初旬に東洋艦隊が大きな損害を受けて、インド洋まで後退を余儀なくされていた。

 イギリス以外だと、フランスが本国に旧式戦列艦(戦艦)5隻を中心とした本国艦隊を持っていたが、基本的に旧式艦と小型艦中心のため大西洋上での船団護衛以外では大西洋を越えていなかった。

 イタリア海軍は、巡洋艦を中心とするかなりの規模の艦艇を本国に留め置いていたが、アジアでの大損害に真っ青になり、アジアに増援を送り込むか東洋艦隊を撤退させるかの激論中で混乱して何も出来ない状態だった。

 

 この時点で、南米ギアナのフランス領にある欧州枢軸の拠点(泊地)に駐留する有力な枢軸艦隊は、フランス海軍とドイツ海軍だった。

 フランス艦隊は5月に受けた傷も癒えた戦列艦 《ダンケルク》《ストラスブール》と重巡洋艦を中心とした高速打撃艦隊で、ドイツも装甲艦 《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》、重巡洋艦 《アドミラル・ヒッパー》を中心とした艦隊を駐留させていた。

 またイギリスは、《ケント級》重巡洋艦を中心とする艦隊を駐留させていた。

 これら艦隊は味方制空権下での行動が基本とされていたが、ジャマイカに船団が向かうときに必ず艦隊が一つ支援のため出撃していた。

 

 これに対してアメリカ海軍は、襲撃の主力は巡洋艦だと考えていた。

 この時期のアメリカ海軍には、重巡洋艦11隻と重巡に匹敵する《ブルックリン級》大型軽巡洋艦が14隻あった。

 さらに《オマハ級》軽巡洋艦8隻がこの時も健在だった。

 さらに連合軍としては、日本の遣米艦隊の重巡洋艦《那智》《足柄》、水雷戦隊を率いる《那珂》《酒匂》があった。

 またカナダ方面にほぼ限定だが、自由英連邦艦隊にも重巡、軽巡が複数存在している。

 

 アメリカ海軍のうち、半数程度は本国近辺や北大西洋に向けて配備されており、残りのさらに半数は主にカリブ海での海上護衛にかり出されていた。

 また重巡、大型軽巡、軽巡各1隻がアジアに派遣されていた。

 このうち損傷や整備で動けない艦もあった。

 そして巡洋艦には何でも任務を押しつけられるため、いくらあっても足りない状態だった。

 このためジャマイカに向かう船団に差し向けられる巡洋艦は、最大でも6隻しかなかった。

 

 そこで船団護衛を専属任務としていた日本の遣米艦隊に、支援が要請された。

 日本の重巡《那智》《足柄》は、世界最高と言われる重武装を誇るので世界の海軍では有名な巡洋艦の一つだった。

 そのうち2隻がカリブにいるのに、護送船団の側で航行しているだけというのは戦力の無駄遣いだ、という事になる。

 しかも《那智》《足柄》は、5月の戦闘で空母艦載機と共同とはいえ《ダンケルク》《ストラスブール》を退ける武勲をあげていた。

 


 連合軍の作戦は、幾重にも欺瞞を重ねて一番大きな戦力の艦隊が攻撃できるよう配慮した。

 さらに「B-17」「B-25」も投入して攻撃を実施し、最低でもジャマイカ入りを阻止する事を目的とした。

 不振の続く潜水艦も投入し、戦隊単位での群狼戦を仕掛ける予定になっていた。

 攻撃の主力は巡洋艦6隻を固めたアメリカ・カリブ艦隊が担い、日本の巡洋艦部隊は他のアメリカの駆逐戦隊などと同様に牽制や戦力誘因の役割を担う予定だった。

 この作戦に空母の投入は予定されず、航空支援は陸軍機のみとなった。

 空母を縦横に使うには、カリブ海は狭かった。

 

 対する欧州枢軸側は、カリブへと向かう8隻の高速輸送船には、多数の戦闘機、航空燃料、銃弾、その他の兵站物資を満載してた。

 これを重巡洋艦 《ケント》《サフォーク》に、3隻の軽巡洋艦と7隻の駆逐艦が直接護衛し、連合軍が何かしそうなのでドイツ艦隊がさらに支援する予定になっていた。

 他には小アンティル諸島とジャマイカ島から爆撃機が哨戒任務に出て、敵艦隊が出現したら攻撃を予定していた。

 そして船団は、一晩で最後の航路を進みきって、夜明けにジャマイカ島の十分な制空権下に到達するタイミングで航行を予定してた。

 

 欧州枢軸側は、連合軍のカリブでの活動が活発化する予兆は掴んでいたが、今まで同様の戦力でしのげると予測していた。

 それに、これ以上の戦力を投入する事は、現時点では難しかった。

 無理をすれば出せなくもないが、その後のローテーションや各地の配備が崩れてしまうからだ。

 カリブ海の奥地に戦力を投じることは、欧州枢軸陣営にとって負担が大きくなりつつあったのがこの時期でもあったのだ。

 


 ジャマイカへの輸送船団をめぐる戦闘は、今まで同様に枢軸側の小アンティル諸島からプエルトリコ島への空爆から開始された。

 空爆によってアメリカ軍機に船団攻撃をさせないようにする、一種の阻止爆撃だった。

 そして今までよりも戦力を蓄えていたプエルトリコ島の米陸軍航空隊は、迎撃戦で奮闘して攻撃を不十分なものとさせ、その後も続く空爆に耐えつつ偵察機を飛ばし、船団が攻撃範囲に入ると攻撃隊を送り込んだ。

 

 一番手の「B-25」16機による攻撃隊だったが、攻撃手段は基本的に水平爆撃だった。

 この頃は機銃を多数搭載したガンシップ型はないし、スキップボミング戦法が登場するのはまだずっと先の事だった。

 

 対するイギリス船団は、護衛の巡洋艦3隻を防空巡洋艦の《ダイドー級》の《ナイアド》《シリアス》《ボナヴェンチャー》で固めていた。

 このため濃密な弾幕射撃が実施され、攻撃は失敗する。

 その後も延べ50機で行われた空襲も不調に終わった。

 潜水艦の襲撃も、熟練した駆逐艦の前にうまくはいかず、逆に1隻撃沈された。

 

 これで行程の半分程度が消化されていた。

 枢軸側の小アンティル諸島とジャマイカ島の制空権の間は高速輸送船が出せる15ノットでほぼ丸二日の行程で、今まで残り半分の行程ではキューバからの攻撃だけを警戒すればよかった。

 

 しかし今回は違っていた。

 

 パナマ方面から南米大陸寄りに進んでいた連合軍の艦隊が、虎視眈々と進んでいたからだ。

 しかも陽動としてグアンタナモからは日本艦隊が出撃し、米軍の航空支援を受けつつエスパニョーラ島を大西洋側に沿って迂回し、プエルトリコ島の西側から枢軸船団の北西に出る形で出現していた。

 

 これに枢軸側は気を取られ、枢軸側の輸送船団は進路をやや北西寄りに取り、護衛支援に出撃していたドイツ艦隊が日本艦隊との間に入る航路を進んだ。

 日本艦隊の動きは明らかな陽動と考えたので、枢軸船団は空襲を警戒して進んだ。

 このため日本艦隊への空襲で戦力を割くことを避けて、キューバのアメリカ軍基地の動きに神経を集中させた。

 また、日本艦隊の出動を察知してからは、ギアナの拠点にいたフランス艦隊も緊急出撃を実施し、各地の偵察機もさらに飛ばされた。

 欧州枢軸軍は、別の艦隊、特にアメリカ軍の空母が不意に出現する事を警戒しての行動だった。

 

 そして翌朝からは、予想通りと言うべきか、アメリカ軍の大規模な空襲がジャマイカ島を激しくそして途切れることなく襲った。

 空襲にはマイアミの「B-17」大隊も参加した。

 枢軸側は、ジャマイカに入ってくる船団の安全を如何に確保するかを考えて行動したが、支援の戦闘機部隊を出せないほどの激しい空襲のため、辛うじて支援用の爆撃機を待機させ、空襲前に偵察機、哨戒機を飛ばせただけだった。

 

 そして意外な事に、あからさまな陽動と考えられた日本艦隊は、船団への接近を止めず突進するように進んできた。

 このため護衛のドイツ艦隊は対応して動かざるを得ず、輸送船団から少し距離を取った。

 万が一戦闘になった場合、船団を巻き込まないようにするためだった。

 

 そうして二日目の午後を過ぎて、空襲がないことに安堵した船団だったが、水上警戒レーダーが未確認艦隊を捉えた。

 しかも捉えたのは二つで、合わせて10隻以上の有力な艦隊だった。

 

 この艦隊は、南から接近したのが大型軽巡洋艦 《ホノルル》《セントルイス》《へレナ》と駆逐艦3隻の艦隊で、南西方向から迫ったのが重巡洋艦 《ソルトレークシティ》《ペンサコラ》《シカゴ》と駆逐艦3隻の艦隊だった。

 しかも接近を続けた日本艦隊も、燃費を無視した急接近によってこの日のうちにドイツ艦隊と接触するまでになっていた。

 日本艦隊は重巡洋艦《那智》《足柄》と駆逐艦4隻で、駆逐艦はかつて世界を驚かせた重武装を誇る《吹雪型》の《吹雪》《白雪》《初雪》《叢雲》から編成されていた。

 日本艦隊は、奇しくもかつての軍縮を呼び込んだ重武装艦で編成されていた事になる。

 


 カリブ海での5月以来の約半年ぶりの、そして二度目となる戦いは、前回と違って迫る側と守る側が逆転した形だったが、守る側のドイツ艦艇の砲撃によって火蓋が切られた。

 

 砲撃したのはドイツの装甲艦2隻で、自慢の28cm砲を用いて日本艦隊をアウトレンジで牽制するためだった。

 これに対して日本艦隊は、回避を優先したランダムでのジグザグ進路を取って接近を続けるも、接近速度は少し衰えざるを得なかった。

 船団の方は三方を敵艦隊に囲まれた形のため、阻止のための護衛部隊主力を前方に残して、2隻の駆逐艦に伴われた輸送船は進路を北北東に取って待避を開始した。

 そしてこれを見たアメリカの二つの艦隊は、それぞれ残された護衛艦隊に突進するか、船団への猛追を開始した。

 護衛艦隊を追いかけたのが重巡部隊で、大型軽巡部隊が船団を追いかけた。

 

 これに対して護衛艦隊は、煙幕を展開しつつ二つの艦隊を横切るように進路を取る。

 目視での追撃の妨害と、できれば二つの艦隊の両方を自分たちに引きつけるためだった。

 また敵を発見してすぐにジャマイカに救援要請が出され、常に待機しているウェリントン爆撃機の中隊が、米軍の空襲の合間を縫って急ぎ飛び立った。

 ウェリントンの航続距離なら十分にジャマイカ島からカリブ海のほぼ全域を行動圏内に収めているので、相手に戦闘機の護衛がなければ十分に活躍が期待できた。

 距離的にはハリケーン戦闘機の護衛も随伴できたが、防空戦にかり出されたので爆撃機のみの出撃となった。

 しかし、爆撃機が到着するまでには時間がかかり、それまでに水上戦闘が実施された。

 

 アメリカの二つの艦隊は、敵との相対距離1万8100メートル(2万ヤード)辺りで重巡洋艦部隊が砲撃を開始し、大型軽巡洋艦部隊は牽制の砲撃をしつつも、イギリス艦隊を無視して輸送船へ突進した。

 これに対してイギリスの護衛艦隊も、艦隊をさらに二分して重巡と軽巡にそれぞれ分かれて、アメリカ艦隊の阻止を図った。

 

 なお両軍の装備だが、重巡 《ケント》《サフォーク》は8インチ砲連装4基8門、《ダイドー級》軽巡洋艦は13.3cm両用砲を連装5基10門装備していたので、アメリカ艦隊が全力で攻撃すれば砲撃力はアメリカ海軍の方が大きかった。

 アメリカは《ソルトレークシティ》《ペンサコラ》が8インチ砲10門、《シカゴ》が9門、大型軽巡は6インチ砲を15門装備していた。

 アメリカ側は魚雷は搭載していなかったが、その分砲撃力と防御力は高く砲撃戦に特化した艦艇と言える。

 これに対してイギリスの巡洋艦は、伝統的に植民地警備を重視しているので航海性、居住性を重視し、その分防御力は低い傾向にあった。

 《ダイドー級》などは駆逐艦に毛が生えた程度の防御力と言われることもあり、日本海軍が開き直って建造した《秋月型》とよく比較されている。

 

 そうした装備と艦の数、艦の規模の差から、砲撃戦はアメリカ艦隊が有利だった。

 《ダイドー級》は対空用も兼ねる両用砲を装備しているので、一般的には射撃速度が速いと思われがちだが、アメリカの6インチ砲とそれほど大きな差はなかった。

 このため主砲口径、砲門数で圧倒するアメリカ側の方が有利だし、6インチ砲への対応防御の装甲を持つ分だけさらに有利だった。

 

 しかし初期の砲撃戦は、どちらかがグロッキーになるまでは続かなかった。

 北東方向で戦闘していた日本とドイツ艦隊の戦闘が、日本艦隊の突破という形で大きく変化したからだった。

 


 日本側は距離1万2000メートルに接近するまで砲撃は行わず、回避に専念しつつ猛烈な勢いで接近した。

 巧みに転進を繰り返しつつ、しかも30ノットを超える艦隊速度で急展開するので、大規模水上戦闘に慣れていないドイツ艦隊は翻弄された。

 距離が開いた状態で回避に専念していると、砲弾は驚くほど命中しなかった。

 この事は、半年前の戦闘でも日本海軍は十分に経験していたが故の戦法でもあった。

 

 そして日本の二隻の重巡洋艦は、8インチ砲(20.3cm)砲10門の火蓋を一斉に切り、まずは28cmを撃ってくる2隻の装甲艦に砲火を集中した。

 この20.3cm砲は55口径と砲身が従来より長く、貴重な重巡洋艦の戦闘力を少しでも伸ばすべく1939年秋に換装されたものだった(※なお、アメリカの重巡洋艦も全て55口径8インチ砲だった)。

 他にも高角砲を新型の両用砲に換装するなどの近代改装が施されており、より重武装の艦に仕上げられていた。

 雷装も列強最強クラスのままで、レーダー(電探)も既に装備していた。

 

 そして十分な砲戦距離に近づいてから砲撃を開始したので、2隻の装甲艦に次々と砲弾が命中した。

 この状態は、第二次世界大戦初期に《アドミラル・グラーフ・シュペー》がイギリス艦隊と戦った時と少し似ており、《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》は3番艦の《シュペー》より防御力が低かった。

 分厚い装甲に囲まれた司令塔と砲塔は何とか無事だったが、艦の各所が次々に被弾、破壊され、距離8000メートルを切る頃には2隻とも機関部に損害を受けた事もあり戦列から脱落していた。

 2隻の装甲艦も、それぞれ2発の命中弾を得ていたが、日本の重巡洋艦に大きな打撃を与えるには至らず、《那智》《足柄》は次の目標へと砲口を転じた。

 

 これでドイツ側の大型艦は《アドミラル・ヒッパー》1隻だけとなり、日本側は駆逐艦までが《ヒッパー》への砲撃を開始していた。

 装甲艦がめった撃ちにあっている間に、2隻いたドイツ側の駆逐艦は2倍の数の差もあって砲撃戦で圧倒されて大破していた。

 

 そして残された《ヒッパー》だが、あまり積極的な姿勢を示さなかった。

 これはドイツ海軍自体が、輸送船の護衛よりも自らの大型艦の保全を優先する命令を事前に出していた為で、既に随伴していた2隻の装甲艦が沈むかもしれない事態を前に、艦隊保全の考えが指揮官の考えの多くを占めていたからだ。

 このため優れた戦闘力を持つ《ヒッパー》は、僚艦が撃破されると中途半端な戦闘に終始して、小破程度の損害を受けると実質的に戦場から離脱してしまう。

 

 そして燃え上がるドイツ艦艇を無視して、いまだ脱落艦の無かった日本艦隊は船団へと突撃した。

 


 日本艦隊の突破は、戦場に劇的な効果を及ぼした。

 

 予期せぬ突破報告にイギリスの護衛艦隊が動揺し、その隙を付いてアメリカ艦隊も一気に突撃を実施したからだ。

 そして既にアメリカ艦隊が戦闘を優位に進めていた事もあり、イギリス艦隊が一気に崩れてしまう。

 

 アメリカ艦隊とイギリス艦隊は近距離で砲撃戦となったが、この砲撃戦で6インチ砲を15門も装備する《ブルックリン級》が本領を発揮し、次々にイギリス軍艦艇を撃破していった。

 イギリスの《ダイドー級》も高い砲撃能力を持つのだが、既に戦闘力が半分近く落ちていた事もあり有効な反撃ができず、防御力が低いため次々に戦闘力を喪失し、最終的には全艦沈没してしまう。

 《ケント級》2隻もアメリカ軍の重巡洋艦の前に完全に撃ち負け、旗艦でもあった《ケント》は大破戦線離脱、《サフォーク》は搭載魚雷の誘爆もあって撃沈されてしまう。

 駆逐艦同士の戦闘も、対潜、対空を重視した艦を選抜していたイギリス側が、砲撃戦で撃ち負けていた。

 

 そしてその後は、二つの方角から殺到する巡洋艦の群れを前にして、残された2隻のイギリス軍駆逐艦が絶望的な防戦を実施するも及ばず、8隻の高速輸送船はイギリス軍機が駆けつける前に全て沈むか燃えさかるだけとなった。

 この時日本海軍は、初めて魚雷による統制雷撃戦を実施し、一度に4隻の輸送船に命中弾を与え、魚雷の威力の大きさを見せつけた。

 

 戦闘の最後は、遅れてやって来たイギリス軍爆撃機の攻撃だったが、数が少なかったので《シカゴ》に至近弾を与えただけで、連合軍の圧勝で戦闘は終幕する。

 

 欧州枢軸側で大型艦が生き残ったのはドイツ艦隊で、意外にも2隻の装甲艦も自力で小アンティル諸島まで帰投している。

 ほぼ全滅したのはイギリス艦隊で、輸送船団が全滅した事と重ねてイギリス本国政府及び海軍に大きな衝撃を与えた。

 


 この海戦は、この大戦では珍しく水上艦だけで行われた大規模な水上戦闘だった。

 そして水上戦闘を目標に建造されたアメリカと日本の巡洋艦、駆逐艦の戦闘力と活躍が際だつ結果に終わった。

 また、船団護衛とある種の通商破壊戦を企図して起きた海戦であるにも関わらず、壮絶な砲雷撃戦となった点もかなり珍しいケースだった。

 

 そして初めてと言える大西洋方面での華々しい勝利だったため、アメリカは沸き立った。

 アメリカ軍指揮官のスコット少将(カリブ戦隊指揮官)、日本軍指揮官の三川中将(※6月からカリブ艦隊司令として派遣)は、アメリカで一躍有名人となった。

 ドイツのポケット戦艦を撃破した三川中将は、イギリス本国に残ったハーウッド提督を越えたと言われた。

 

 また一番の功労艦として、いち早く敵艦隊を突破した日本の2隻の重巡洋艦が称えられた。

 これをチャーチルは、かつて《足柄》がイギリスに来訪したときに言われた「飢えた狼」という言葉を再び用いて敢闘を称えている。

 アメリカ市民も、《妙高型》のあまりにも戦闘的な姿と合わせて、世界最強の重巡洋艦と称えた。

 


 ジャマイカを巡る戦いは、この海戦が一つの節目となった。

 補給作戦が失敗したジャマイカ島の抵抗力は大きく落ち、アメリカ軍の戦力が整い始めた事も重なって、以後ジャマイカでの戦いは連合軍の優位で運ぶことになる。

 

 そして42年春にジャマイカ島からイギリス軍が撤退すると、次はカリブ海東部を巡る戦い、そしてベネズエラのタンカー航路を巡る戦いの本格的な幕開けだった。

 

 カリブでの死闘は、いよいよ幕を開けようとしていた。


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