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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
23/140

フェイズ15「WW2(9)当時の連合艦隊と東南アジアでの戦い」-2

 そして10月4日朝、黎明に飛び立った空母艦載機が、シンガポールを中心にマレー半島各地を大挙空襲した。

 この空襲には、武部提督率いる第一航空艦隊と第三艦隊所属で角田提督が指揮する軽空母の《龍驤》《龍鳳》が参加。

 もとは対潜水艦用の部隊だったが、中華沿岸での戦い以後に対地支援用の別の航空隊の搭載と訓練を実施していた。

 《龍驤》《龍鳳》はマレー半島の航空基地を空襲し、第一航空艦隊が総力を挙げてシンガポール島に陣取る英本国空軍の主力部隊に挑んだ。

 

 またインドシナ半島南端部からは、日米の重爆撃機部隊が総力を挙げて出撃し、今までしなかった昼間爆撃を仕掛けた。

 

 これに対してマレー半島の英本国空軍部隊は、各種戦闘機合計300機を配備し、シンガポールを中心としたレーダー網と通信管制による防空司令部を設けた迎撃網を作り上げていた。

 ただし、人員不足、資材不足のため、レーダー網と通信管制の司令部はかなり不完全で、特に司令部の指揮所の人員が不足していた。

 また様々な機材の予備部品も十分ではなく、性能が低下したレーダーや無線機があったり、さらには予備のエンジンがないため飛び立てない機体も少なくなかった。

 

 これはカリブ方面でアメリカ軍との戦いが激しさを増していた為、そちらに力を入れざるを得なかった事も影響しており、戦略的には二正面戦闘の不利と言えるだろう。

 

 しかし戦闘機となると、「スーパーマリン・スピットファイア」が約150機、「ホーカー・ハリケーン」約100機が配備され、欧州枢軸内での合同訓練と主にカリブ海での戦況も伝わっていたので自信を取り戻していた。

 しかしその自信が、この時の戦闘では完全に裏目に出てしまう。

 


 日本海軍の最精鋭を集めた第一航空艦隊の第一次攻撃隊は、約200機のうち100機以上を戦闘機で固めていた。

 目的は制空権を得るためで、腕利きのパイロットが選抜されていた。

 これに対してイギリス側は、滞空時間の関係(飛行可能時間が総じて短い)で全ての機体を出せず、約150機を展開した。

 これは長距離レーダーが、約30分の距離を置いて日本軍の第二派の大集団を捉えていたからだった。

 

 そして約80機のスピットファイアが日本軍の戦闘機隊に挑み、ハリケーンはそれを支援しつつも攻撃機を狙おうとした。

 だが日本側の進撃速度がイギリス側の予測よりもかなり速く、航空管制が不完全だった事も重なって、統制の取れた迎撃が出来なかった。

 それでも約80機のスピットファイアが、日本軍攻撃隊でも先行していた戦闘機隊と激突する。

 

 そして勝敗は、ほんの10分程で決してしまった。

 

 結果を言えばイギリス側の完敗だった。

 

 スピットファイアは優れた設計の戦闘機で、機体を改良しエンジンを換装する事でこの戦争中ずっと第一線で使われたほどの名機だった。

 そしてヨーロッパに多い一撃離脱型の戦闘機、液冷機としては、優れた格闘戦能力を有していた。

 この事は、大戦初期から知られており、ドイツ、フランス、イタリア各国との性能比較や演習などでも圧倒的な格闘戦性能を見せつけた。

 さらに1941年春頃からジャマイカ島で始まっていたアメリカ軍との戦闘でも、アメリカ軍が当時主力としていた「カーチス P-40 トマホーク」との対戦で、一撃離脱と共に格闘戦能力を活かして高いキルレシオを叩き出していた。

 「バトル・オブ・ジャマイカ」は、この頃のイギリス本国空軍の語りぐさだった。

 そしてチャイナでの雪辱戦も兼ねて、同じ事をシンガポールの空で再現しようとしたのだが、全く真逆の結果が出てしまう。

 

 答えは単純で、日本海軍の「零戦」の方がより高い格闘戦能力を有していたからだった。

 

 「零戦」の格闘戦能力が高いのは、既に自分たちも中華の空で思い知らされていた。

 しかし性能の劣る「ハリケーン」だから苦戦したのであり、「スピットファイア」(しかも多くが新型のMk.V)なら復讐が出来ると考えていたのだが、事態はより酷い結果となった。

 

 最初の空戦で、自らの圧倒的優位を信じて格闘戦を挑んだ英本国空軍機は、日本軍艦載機との格闘戦で次々に、そして殆ど一方的に撃墜されていった。

 しかもその後も格闘戦に拘ったため、9割が一度の戦闘で撃墜されるという信じられない惨状となってしまった。

 そして主力の戦闘機隊が呆気なく全滅(軍事的表現以上の意味での全滅だ)したため、その後のイギリス側の迎撃は全く調整の取れないものとなってしまった。

 

 決死の覚悟で挑んだ日本軍パイロット達が首を傾げたほどで、シンガポールの空は僅か半日で日本軍のものとなった。

 しかもその後も「スピットファイア」の多くが、日本軍機を見ると格闘戦を仕掛ける傾向に変化は見られなかった。

 これを戦争の七不思議の一つと捉える向きがあるほどだった。

 

 港湾施設は殆ど攻撃されなかったが、イギリス側のレーダーサイトは徹底して破壊され、飛行場、高射砲、要塞砲なども攻撃を受けて大きな損害が出た。

 

 そして翌日になると、初日の80%以上の攻撃隊を送り込んだ日本側に対して、イギリス空軍は最初から全力で迎撃しても100機の戦闘機を空に上げる事ができなくなっていた。

 予備部品が不足するため、機体が無事でもエンジンが動かず飛び立てない機体もかなり出始めていた。

 

 そして日本の第一航空艦隊が攻撃の効率を上げるために大胆に接近してきた為、イギリス側は配備されていた「ソードフィッシュ」雷撃機と双発雷撃機の「ボーフォート」による攻撃隊を送り込み、護衛の戦闘機として「ハリケーン」も随伴させた。

 だがこれは戦力(戦闘機)の分散になり、尚のことシンガポール上空での迎撃戦は不利となった。

 イギリス空軍機は、出来るだけ格闘戦は挑まず零戦が苦手とする一撃離脱や降下速度の高さを活かした離脱を行ったが、精鋭パイロットが操る零戦を前にしては、数が大きく減ったイギリス空軍機の出来る事は限られており、時間と共に空を舞う機体の数は減った。

 しかも訓辞や命令を守らずに格闘戦を挑むパイロットは後を絶たず、尚のこと損害を積み上げた。

 


 また、特にスピットファイアだけではないが、亜熱帯、熱帯では液冷エンジンの稼働率は下がりがちで、交換用のエンジンを多数揃えなければ稼働率は簡単に低下した。

 さらに速度を一定に保つ定速装置のオイルは、上昇時の気温の急激な低下で簡単に凝固してエンジンが停止してしまうため、これ以後イギリス軍機だけでなく、多くの欧州枢軸軍機は性能を発揮できず苦戦する事となる。

 しかしジャマイカなどカリブの戦闘では、アメリカ陸軍航空隊も液冷エンジン機が殆どのため、条件に大きな違いは無かった。

 違いは空冷エンジンを非常に好む日本海軍、アメリカ海軍機との戦闘で見られた。

 


 なお、6隻の航空母艦で編成された先進的な日本艦隊への攻撃だが、約100機の機体が調整の取れない攻撃を行った為、ほとんど戦果は得られなかった。

 

 しかも日本側もレーダー情報によって事前に迎撃戦闘機を艦隊前面に展開していたので、「ハリケーン」戦闘機が随伴していない編隊は、単なる餌食でしかなかった。

 「ソードフィッシュ」も「ボーフォート」も旧式機なので、速度もしくは運動性で零戦から逃れることは出来ず、多くが攻撃前に撃墜されるか、攻撃を諦めて武器を投棄して待避していった。

 それでも、戦闘機の護衛を受けた編隊は、日本艦隊を捉えることに成功した。

 しかしここでも勝手が違った。

 一年前に上海沖で無様な姿を見せた日本艦隊の姿はなく、替わりに当時としては異常なほどの弾幕を張り巡らせた重厚な輪形陣があった。

 

 《秋月型》直衛艦の威力は圧倒的で、中高度から接近した双発の「ボーフォート」は「鴨撃ち」と言われたほどいい的でしかなかった。

 いっぽう持ち前の運動性を活かして低空を進んだ「ソードフィッシュ」隊だったが、弾幕の規模が違いすぎて次々に高角砲弾の破片を浴びて傷だらけになり海に落ちていった。

 

 日本艦隊の輪形陣の外側を構成する駆逐艦は、《秋月型》と同じ両用砲と高射装置を装備する甲型と呼ばれる大型駆逐艦で、1隻だけだとそれほどの脅威ではないが、数が多いと非常に濃密な弾幕を形成していた。

 

 輪形陣の内側に入ると、今度は《秋月型》が四隅で機関砲を並べて待ちかまえており、空母の脇に位置する《比叡》《霧島》、《大淀》《仁淀》が重厚な弾幕を形成していた。

 それでも何機かの魚雷を抱えた「ソードフィッシュ」が空母への最後の突撃へと入ったが、空母自身も一年前より格段に分厚い弾幕を形成するようになっており、「ソードフィッシュ」では輪形陣の中心への接近は叶わなかった。

 

 イギリス軍の反撃は完全に失敗し、攻撃隊のほとんど失うというショッキングな損害を受ける事となった。

 

 そしてシンガポール上空での迎撃戦の大失敗もあり、日本側が補給のために一旦シンガポールから離れる空襲から3日後には、重爆撃機のみの昼間空襲すらまともに迎撃できないまでに消耗してしまう。

 

 一方、シンガポール以外のマレー半島各地に存在する中小の航空基地を狙った日本軍の軽空母部隊は、シンガポール以外に配備されていた機体の多くが旧式か性能の低い機体がほとんどで、各基地の多くが整備能力が低いため戦闘力が低下し、しかも戦力が分散されているため、思うままに蹂躙戦を展開した。

 本来マレー半島各地は、シンガポールから随時増援を得て迎撃を行う予定だったのだが、日本側のシンガポール総攻撃の為に増援が送れず、不十分な体制のまま各個撃破された形だった。

 《龍驤》《龍鳳》は軽空母にカテゴリーされ、艦載機は合わせて60機程度だったが、第一航空艦隊と共に一旦後退するまでに、機体数よりも多い戦果を挙げていた。

 


 しかし日本側にも大きな誤算があった。

 

 シンガポール港に、軍艦の姿が殆ど無かった事だ。

 攻撃できたのは、輸送船や小型艦を除けば駆逐艦程度だった。

 

 リンガ島にイギリス、イタリアの艦隊が移動していることは察知していたが、ほとんど全てが移動しているとまでは考えていなかったのだ。

 そしてシンガポールの英空軍撃滅とシンガポール攻撃が第一目標だったため、第一撃ではリンガの攻撃も見送られていた。

 

 そしてその失点を取り返すべく、1日で洋上補給を済ませた第一航空艦隊と共に第二艦隊が大きく前進し、欧州枢軸艦隊に対する挑発を実施した。

 第一航空艦隊は、引き続きシンガポール攻撃に専念するが、後方に待機していた部隊から機体(+パイロット)の補充も受け取っていたため艦載機数はまだ350機程度あった。

 

 これを迎撃するべきシンガポール島の英本国空軍は、稼働機は輸送機を含めても100機を割り込んでおり、とてもではないがリンガの友軍艦隊の支援は無理だった。

 それでも日本艦隊への散発的攻撃を実施したが、戦力が少なかった事と迎撃機(零戦)と艦隊の対空砲火のため成果はなかった。

 

 このためリンガの枢軸艦隊は、日本の第一艦隊までが進撃してくる前にリンガからの転進、つまりインド洋方面への退却を行おうと行動を開始する。

 

 しかしどのルートを選ぶか問題があった。

 

 大きくルートは二つ。

 一つは、シンガポールを横目に見つつマラッカ海峡を抜けるルート。

 もう一つは蘭領東インドのど真ん中のスンダ海峡を抜けるルートだ。

 マラッカルートは、連合軍の重爆の空襲を受ける危険性が極めて高かった。

 マラッカ海峡の狭隘部を抜けている時に大規模な空襲を受けたら、相手が水平爆撃しかしない重爆撃機でも大損害を覚悟しなければならなかった。

 何しろ全力出撃してきたら一度で100機を越えるのだ。

 その上、日本の高速艦隊である第二艦隊との対決の可能性も十分にあった。

 

 スンダルートは、抜けるまでに一日以上かかるので、艦隊の追撃を受ける可能性があった。

 また蘭領東インドの動向が不明なのも気になるところだった。

 そして、マラッカとは違って海峡もしくはその近辺で日本軍潜水艦が待ち伏せしている可能性も高かった。

 


 リンガのイギリス、イタリア東洋艦隊は、日本軍の空襲も警戒して夜中に行動を開始した。

 うまくいけば丸一日でスンダ海峡を越えてインド洋に出ることが出来る予定だった。

 

 しかし正午頃に、日本海軍機の攻撃を受ける。

 

 攻撃したのは第一航空艦隊ではなく、第四航空戦隊の軽空母だった。

 すでにマレー半島の戦力が十分に低下したので、第二艦隊の支援と偵察のため東洋艦隊追撃任務に就いていたのだ。

 

 この時第四航空戦隊は新型機への改変を終えたばかりで、《龍驤》は零戦9機、一式艦上攻撃機「天山」24機を搭載し、《龍鳳》は零戦18機、一式艦上攻撃機「天山」9機、一式艦上爆撃機「彗星」9機を搭載していた。

 搭載機の全てが翼を大きく折り畳めるため、それまでよりも多く搭載できるようになっており、加えて《龍鳳》は日本の軽空母の中では大きく排水量が1万3000トンあって搭載機数自体が多かった。

 (※神の視点より:艦載機の名前が同じでも全く違う機体です。ここでは文章量的に割愛。詳細は後の節で紹介します。)

 艦載機の消耗も最低限だったため、この時の攻撃では搭載機のほぼ全てが2波に分かれてイギリス、イタリア東洋艦隊を襲撃した。

 攻撃は撃破よりも進路妨害に重点を置いており、集中攻撃ではなく散発的な攻撃に終始した。

 これは第二艦隊が追いつくまでの時間を稼ぐためであり、イギリス東洋艦隊のレーダーは既に自らの左斜め後ろ(北西)方向から急速に距離を詰めてくる大規模な艦隊を捉えていた。

 対するイギリス艦隊は、軽空母 《ハーミーズ》の艦載機隊は壊滅した後再編成が進まず、セイロン島で補充の航空隊を待っている状態だった。

 


 そして空襲により足止めされた欧州枢軸艦隊は、後方から迫る艦隊の煤煙を目視するまでに距離を詰められてしまう。

 このためイギリス東洋艦隊の水雷戦隊が、殿を務めるべく戦列を離れる。

 

 この時、イタリア水雷戦隊、イタリア巡洋艦戦隊、イタリア戦艦戦隊、イギリス戦艦戦隊、イギリス水雷戦隊の順番に進んでおり、イギリスとしても外様のイタリア海軍にかなりの配慮をしていた。

 

 そして軽巡洋艦 《ドラゴン》《ダエナ》に率いられたイギリス水雷戦隊が煙幕を展開し始め、日本側が戦闘速度へと移る頃、イタリア水雷戦隊の前面に艦隊を確認する。

 隊列が長いため、イギリス艦艇のレーダーはまだ前方の艦隊を捉えていなかった。

 

 この艦隊を枢軸側は、ごく常識的にようやく重い腰を上げたオランダ東洋艦隊が水先案内と支援に現れたと考えた。

 そしてこの考えは、一部だけが正しかった。

 

 イタリア水雷戦隊は、突然戦艦クラスからの砲撃を、前面で進路を変えてT字を描いた艦隊から受ける。

 

 欧州枢軸艦隊の前に立ちふさがったのは、オランダ東洋艦隊とアメリカ・アジア艦隊、さらには英連邦自由政府・東洋艦隊の合同艦隊だった。

 

 オランダ東洋艦隊は、巡洋艦 《デ・ロイテル》《ジャワ》《トロンプ》と駆逐艦4隻。

 アメリカ・アジア艦隊は、重巡 《ヒューストン》大型軽巡 《ボイス》軽巡 《マーブルヘッド》駆逐艦4隻。

 そして大西洋から駆けつけた英連邦自由政府・東洋艦隊が巡洋戦艦 《レパルス》、重巡洋艦 《エクセター》、駆逐艦3隻だった。

 

 数は多く巡洋戦艦 《レパルス》、重巡 《ヒューストン》《エクセター》を含めるが、雑多な編成で合同訓練は一度も行った事は無かった。

 このため艦隊は大きく二つに分かれ、総合指揮は《レパルス》座乗のフィリップス提督が指揮したが、オランダ艦隊はドールマン提督が半ば独立して指揮せざるをえなかった。

 

 本来、連合軍の合同艦隊はマレー侵攻が本格的に始まってから作戦投入の予定で、ジャワ島のバタビア近辺で集結と訓練をしていたが、枢軸艦隊の撤退を前にして撃滅の機会と考え急ぎ戦場に駆けつけたものだった。

 この時オランダ艦隊は出撃をしない予定だったが、蘭領東インドの総督府はアメリカに存在した「自由オランダ委員会」への所属を決定し、決意を行動で示すべく艦隊が出撃していた。

 


 突然、前面に大規模な敵艦隊が出現した事に、欧州枢軸艦隊は混乱した。

 特に前衛として進んでいたイタリア艦隊の混乱は大きく、撤退する進路から逸れる形で敵を避けつつ、とにかく司令部に指示を仰いだ。

 

 だが、指示も何も前の敵を突破して、インド洋に逃げる以外に手は無かった。

 後ろからは日本の第二艦隊が迫りつつあり、シンガポールの空軍を細切れの肉片にしつつある空母6隻の艦載機群の空襲が本格化する可能性も十分考えられたからだ(この時点で、枢軸側は受けている空襲がどこからのものか分かっていなかった)。

 

 しかし命令が実行に移るまでに時間がかかった。

 そしてその間に、連合軍の合同艦隊が先に突撃を開始し、先鋒のイタリア艦隊は水雷戦隊ばかりか巡洋艦戦隊も先に砲撃を受けてしまう。

 

 そして巡洋戦艦 《レパルス》が、次々にイタリア軍の流麗な巡洋艦を餌食にしていった。

 本来 《レパルス》は、連合軍がシンガポールやインドを奪回するという建前を作り出すため強引にアジアにやって来たもので、このような激しい戦闘は本来は想定外だった。

 だが、ある種の復讐心に燃える自由イギリス艦隊の戦意は高く、イタリア艦艇を次々に撃破していった。

 連合軍の他の艦も、優位な陣形な上に心理的に不意打ちとなった事も重なって、イタリア艦隊に対して優位な戦闘を展開した。

 

 そして困ったのが、枢軸側の戦艦群だった。

 

 イタリア艦隊はこれ以上戦艦を傷つけたくないので及び腰で、イギリス艦隊もこの場での大きな損害は望んでいなかった。

 にもかかわらず、脱出路の前方は大規模な海上戦闘となり混乱状態で、空では散発的な空襲が続き、そのうえ殿しんがりの水雷戦隊と強力な日本海軍第二艦隊との戦闘が既に始まっていた。

 しかも、日本の第一艦隊が迫っている可能性まであった。

 

 枢軸艦隊としては強引に前の敵を排除して突破するしかないが、巡洋艦、駆逐艦による艦隊同士が激しく機動する乱戦に、戦艦の隊列が突っ込む事は危険が大きかった。

 砲撃は大丈夫だが、雷撃を受ける可能性が高まるからだ。

 とはいえ護衛の駆逐艦は出払っているか乱戦に巻き込まれているので、突っ込む以外に選択肢は無かった。

 


 2群に分かれた戦艦11隻(イギリス《マレーヤ》《ヴァリアント》《ロイヤル・ソヴェリン》《リヴェンジ》《レゾリューション》《ラミリーズ》、イタリア《リットリオ》《ヴィットリオ・ヴェネト》《ジュリオ・チュザーレ》《アンドレア・ドリア》《カイオ・デュイリオ》)は、敵の撃破ではなく進路の啓開を目的とした砲撃を行いつつ戦場へと突進した。

 

 戦場は、すでに立ち上がる損傷艦の炎と煙、砲撃の煙、煙突の煤煙で視界が低下していた。

 双方40隻近い艦艇が入り乱れた戦いとなっていたので、どこに敵がいて味方がいるのかも判別が難しくなっていた。

 上空には日本軍の艦載機や偵察機が舞って、その情報を受け取る連合軍の方が有利な状態だった。

 この頃のレーダーでは、乱戦になってしまうとほとんど役に立たなかった。

 

 砲力で圧倒する枢軸側の戦艦群だが、戦艦の主砲に最適な遠距離戦闘が十分に出来ないので戦力価値も大きく低下していた。

 

 そして乱戦のため突破したくても簡単には出来ず、時間が経過するとイギリス軍の水雷戦隊を日本の第二艦隊が突破して突撃を続け、戦場はさらなる混乱に見舞われてしまう。

 

 日本の第二艦隊は戦艦《金剛》《榛名》、新鋭巡洋戦艦《高雄》《愛宕》に重巡洋艦《妙高》《羽黒》、軽巡洋艦《最上》《三隈》《鈴谷》《熊野》《利根》《筑摩》に、日本海軍最強をうたわれる第二水雷戦隊で構成され、この時は全ての戦力が戦場にあった。

 イギリスの水雷戦隊は、煙幕を展開しきるよりも早く、日本の戦艦、巡洋艦の釣瓶打ちで混乱に陥って、そこに水雷戦隊の突撃を受けて突破を許していた。

 

 この時点で、戦闘加入した全艦艇数は100隻近くになり、この戦争始まって以来最大規模の艦艇が直接参加する戦闘となっていた。

 また参加した国の数も、自由英連邦を入れると6カ国と非常に多かった。

 混乱するのは当然だった。

 

 逃げる枢軸艦隊は連合軍艦隊の挟み撃ちにあった形だが、包囲された側の方が戦艦数で二倍以上など、総合的な戦力は枢軸艦隊の方が勝っていた。

 弱腰と言われる事の多いイタリア海軍も、外洋での行動を考えて大型艦が多かったため、個艦単位での戦力は意外に大きかった。

 

 しかも双方複数の国によって編成された艦隊のため、統一した艦隊行動が難しかった。

 それでも連合軍の方が、日本とアメリカは戦前から合同訓練も行っていたので、まだマシだった。

 枢軸側はイギリス、イタリアの主力艦隊だが、この半年ほど前に初めて合同するも、大規模な統一行動は実質的にこれが初めてで、この時も本来戦闘は想定していなかった。

 このため枢軸側の混乱の方が大きく、特に前と後ろで戦闘となった事で、新鋭戦艦2隻を抱えるイタリア戦艦戦隊はまともに戦闘できない状態だった。

 イタリア東洋艦隊を率いるイアッチーノ提督は、前面で展開される友軍巡洋艦部隊救援を行う努力していたが、混乱を前にして多くが徒労に終わった。

 枢軸側の総合指揮をとるイギリス東洋艦隊のソマーヴィル提督は、後ろの日本艦隊を可能な限り無視した突破戦を図ったが、なまじ双方の艦隊規模が大きいため、自軍が前面の連合軍艦隊と入り組む結果に終わり、混乱を拡大していた。

 散発的な日本軍艦載機の空襲が、混乱に拍車を掛けた。

 

 それでも、数はともかく戦力に劣る連合軍艦隊は損傷艦が相次いで押し切られ、枢軸軍の主力艦隊は徐々に包囲網を突破していった。

 


 戦闘開始1時間も経過すると、追撃していた日本第二艦隊が本格的にイギリス主力艦隊の後ろを捉える。

 だが、日本艦隊も両軍が入り乱れた海域に入っていたため、不意の雷撃などを警戒して慎重な行動に出ざるを得ず、追撃は徹底出来なかった。

 艦載機部隊も、あまりにも入り乱れて敵と味方の判別がつき辛く、しかも弾薬を撃ち尽くしたため多くが一旦帰投し、残りの数機が偵察に残るだけとなる。

 

 そうして双方徐々に距離を開ける形で、戦闘は終息へと向かった。

 あとは損傷して速力の落ちた枢軸軍艦艇を連合軍艦艇が掃討する段階で、連合軍艦隊は枢軸軍の東洋艦隊を取り逃がす結果となる。

 再度行われた軽空母2隻による空襲も、目標とした艦隊の規模が大きすぎるため不十分な攻撃しか出来なかった。

 

 この段階で、既に被弾して速力の落ちたイギリスの戦艦 《マレーヤ》と、日本の第二艦隊の4隻の戦艦の砲撃戦が行われ、《マレーヤ》は集中射撃を浴びて大破漂流の後に魚雷でトドメをさされ沈没する。

 他はイギリス軍が軽巡洋艦2隻(《ドラゴン》《ダエナ》)、駆逐艦4隻、イタリア海軍が《ザラ級》重巡洋艦3隻(《フューメ》《ポーラ》《ザラ》)、軽巡洋艦2隻(《コレオーニ》《ディアス》)、駆逐艦2隻を失った。

 しかもイギリス、イタリア共に各2隻の戦艦が中破程度の損傷を受け、それ以外にも損傷艦は半数近く出ており、合せて50隻近い枢軸東洋艦隊は半壊に近い状態だった。

 大規模な艦艇だけでなく、散発的ながら空襲を受けたことが大きな損害に結びついていた。

 

 対する連合軍は、損傷艦こそ多かったが駆逐艦5隻が大破しただけで戦没艦は出なかったので、結果はやや中途半端ながらほぼワンサイドゲームとなった。

 

 戦闘の最後は、日本の旗艦《高雄》と自由イギリス艦隊の《レパルス》交差と交歓で締めくくられ、東南アジアの海はたった一回の海戦で連合軍のものとなった。

 


 なお、東南アジアの海での戦いには余録があった。

 

 その後、シンガポールのドックで降伏したイタリア海軍の戦艦 《コンテ・デュ・カブール》は、日本軍の接収時にムッソリーニ打倒のための亡命を希望した。

 そしてまたとない宣伝材料と考えた連合軍は、諸手をあげて受け入れたのだが、ここからが面倒だった。

 シンガポール唯一の大型ドックを塞いだままの《コンテ・デュ・カブール》は、日本海軍の潜水艦用酸素魚雷2本を受けて大破しており、本格的な修理をしなければならなかった。

 だがドックは基本的に整備用で修理用ではなく、修理するには日本本土に回航しなければならなかった。

 そして回航するための修理を取りあえず現地でしなければならず、修理を請け負った日本海軍は工作艦《明石》を呼び寄せて工員に回航可能なまでに修理させ、そして日本の呉に回航して本格的な修理を実施した。

 だが、イタリア海軍独自の水中防御構造(プリエーゼ方式)の修理には非常に手間取ることとなった。

 図面も経験もないうえに、魚雷によって酷く破壊されていたからだ。

 

 それでも《コンテ・デュ・カブール》は日本人的職人芸によって修理され、さらには機銃やレーダーの増設などの近代改装まで行い、その後ヨーロッパへと凱旋している。

 

 そうして日本海軍に大きな手間を取らせた《コンテ・デュ・カブール》は、イタリア艦艇の中で連合軍に最も負担を掛けさせた艦と言われる事になる。

 


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― 新着の感想 ―
[一言] >戦争の七不思議 これRAAF(豪空軍)が米軍の忠告を聞かずに零戦相手に格闘戦ばっかり仕掛けて大惨敗したという史実が元ネタですかね?
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