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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
22/140

フェイズ15「WW2(9)当時の連合艦隊と東南アジアでの戦い」-1

 1941年7月、約8ヶ月ぶりの大規模出撃となった日本軍の主力艦隊は、既に姿を変え始めていた。

 

 前年の戦いで損傷した戦艦《陸奥》、空母《蒼龍》などの修理も終わり、空母艦載機のほぼ全てが「零戦」などの新型機へと更新されていた。

 《蒼龍》《加賀》には、修理の際に対空火力の増強に加えて実用段階になった空母用カタパルトの装着も実施された。

 他の艦艇も、時間の許す限りの改装が実施された。

 

 そして、1937年度計画艦艇が全て出揃ったのもこの時期だった。

 具体的には、巡洋戦艦《愛宕》《高雄》、装甲空母《翔鶴》《瑞鶴》、軽巡洋艦《秋月》《照月》《涼月》《初月》、《陽炎型》駆逐艦20隻(《準夕雲型》4隻を含めると24隻)、潜水艦各種合計22隻などだ。

 さらに1939年度計画艦も、駆逐艦、海防艦、潜水艦などが就役を開始し、早いものだと戦時計画艦も就役し始めており、旧式艦の再戦力化も合わせると日本海軍の戦力は今までにないほど増強されつつあった。

 

 また、既に就役している工作艦《明石》に続いて重工作艦《三原》、総合工作艦《桃取》が就役し、給糧艦《伊良湖》、給油艦(戦闘補給艦)の《剣埼》《高崎》など、多くの先進的な後方支援艦が就役している。

 これらは、本来なら来るべき欧州遠征に備えたものだったが、この戦争でも縁の下の力持ちとして戦闘艦艇以上に活躍する事となる。

 

 なお《秋月型》軽巡洋艦だが、海外では軽巡洋艦や防空巡洋艦に分類されるが、日本海軍は同型に「直衛艦」という新たな分類を与えている。

 排水量は軽巡洋艦並なのだが、主砲が駆逐艦と同じ12.7cm砲で船体に装甲を施していないためだ。

 海外でも「防空フリゲート」と分類する事がある。

 基準排水量は、《長良型》などに匹敵する5700トン。

 細長い船体に、九六式12.7cm50口径砲連装6基12門、40mm連装機銃8基、爆雷投射器3対(60発)を基本武装としている。

 高射装置を3基積み、逆に魚雷は積まず防空と対潜に特化していた。

 《陽炎型》以後の駆逐艦と同じ新型の両用砲を6基搭載しているので、軽艦艇に対する対艦攻撃力もかなり高かった。

 このタイプのもう一つの特徴は機関のシフト配置で、装甲は断片防御程度に止める代わりに、構造で防御力、耐久力を高めていた。

 さらに就役時から電探レーダーを装備していた。

 そして同型の就役で、艦隊の防空能力が大きく向上した。

 なお同型は、1番艦の《秋月》が1940年11月に就役してこの頃に全艦揃ったのだが、装備の生産に時間がかかり船体などの製作よりも就役を左右した為、戦時予算になると防空関連装備に関してはかなり多めで前倒しに生産するようになっている。

 

 さらに、各艦の対空装備が大幅に強化され、電探レーダーなどの電子装備についても急速な搭載が進んだ。

 とはいえ電探は、まだ増加試作や量産試作の段階なので、この時点では各艦隊に数隻ずつが限界だった。

 

 また《大鷹》型と総称される日本製の戦時急造の特設空母だが、アメリカで言う所の「護衛空母(CVE)」で、1万トン級の高速タンカーの船体を流用して建造されている。

 排水量は1万1000トン近くあり、高角砲を持つなどその後アメリカから供与されるものよりかなり贅沢な作りをしていた。

 またアメリカから護衛空母の供与が決められてからは追加建造がうち切られており、1943年夏頃までに同型艦の建造は終了している。

 


 ではここで、当時の日本海軍・聯合艦隊の編成(書類上)を見ておこう。

 


・聯合艦隊(旗艦:《長門》)

直轄艦多数(割愛)


・第1艦隊  :山本大将

第1戦隊、第2戦隊、第6戦隊

第3航空戦隊

第1水雷戦隊


・第2艦隊  :近藤中将

第3戦隊、第4戦隊、第5戦隊、第7戦隊、第8戦隊

第2水雷戦隊


・第3艦隊(東シナ海艦隊) :高橋中将

旗艦:CL《橿原》

第9戦隊、第18戦隊、第22戦隊

第4航空戦隊、第11航空戦隊

第6水雷戦隊、第5潜水戦隊、第7潜水戦隊


・第4艦隊(中部太平洋艦隊) :細菅中将

旗艦:CL《香椎》

第21戦隊、第12航空戦隊

第7水雷戦隊、第6潜水戦隊


・第5艦隊(遣米艦隊) :南雲中将

旗艦:CL《香取》

第6航空戦隊

第5水雷戦隊、第3潜水戦隊


・第6艦隊(潜水艦隊) :清水中将

旗艦:CL《鹿島》

第1潜水戦隊、第2潜水戦隊、第4潜水戦隊


・第8艦隊(カリブ艦隊) :三川中将

第16戦隊、第3水雷戦隊


・第1航空艦隊(空母機動部隊) :武部中将

第10戦隊、第11戦隊、第12戦隊

第1航空戦隊、第2航空戦隊、第5航空戦隊

第4水雷戦隊


・第11航空艦隊(基地航空隊) :塚原中将

第21航空戦隊、第22航空戦隊、第23航空戦隊


・第12航空艦隊(基地航空隊) :小澤中将

第24航空戦隊、第26航空戦隊


・海上護衛艦隊 :井上中将

第7航空戦隊

第25航空戦隊(対潜航空隊)

護衛戦隊など他多数


※聯合艦隊直轄として特殊な艦船が属している事が多い。

 

※第21〜第26航空戦隊は海軍の地上配備の航空隊。

 主に3つの航空隊(大隊)から編成されている。

 


・各戦隊の編成

第1戦隊  BB《長門》BB《陸奥》

第2戦隊  BB《伊勢》BB《日向》BB《扶桑》BB《山城》

第3戦隊  BB《金剛》BB《榛名》

第4戦隊  BC《高雄》BC《愛宕》

第5戦隊  CG《妙高》CG《羽黒》

第6戦隊  CG《青葉》CG《衣笠》CG《加古》CG《古鷹》

第7戦隊  CL《最上》CL《三隈》CL《鈴谷》CL《熊野》

第8戦隊  CL《利根》CL《筑摩》

第9戦隊  CL《大井》CL《北上》

第10戦隊 FA《秋月》FA《照月》FA《涼月》FA《初月》

第11戦隊 BB《比叡》BB《霧島》

第12戦隊 CL《大淀》CL《仁淀》

第16戦隊 CG《那智》CG《足柄》

第18戦隊 CL《天龍》CL《龍田》

第21戦隊 CL《球磨》CL《多摩》CL《木曾》

第22戦隊 CL《阿武隈》CL《鬼怒》CL《由良》


第1航空戦隊 CV《赤城》CV《加賀》

第2航空戦隊 CV《蒼龍》CV《飛龍》

第3航空戦隊 CVL《鳳祥》

第4航空戦隊 CVL《龍驤》CVL《龍鳳》

第5航空戦隊 CV《翔鶴》CV《瑞鶴》

第6航空戦隊 CVL《祥鳳》CVL《瑞鳳》

第7航空戦隊 CVE《大鷹》CVE《冲鷹》CVE《雲鷹》

第11航空戦隊 AV《千歳》AV《千代田》

第12航空戦隊 AV《瑞穂》AV《日進》

第13航空戦隊 AV《秋津洲》 他


第1水雷戦隊 CL《阿賀野》

 第6駆逐隊、第17駆逐隊、第21駆逐隊、第27駆逐隊

第2水雷戦隊 CL《能代》

 第8駆逐隊、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第18駆逐隊

第3水雷戦隊 CL《那珂》

 第11駆逐隊、第12駆逐隊、第19駆逐隊、第20駆逐隊

第4水雷戦隊 CL《矢矧》

 第2駆逐隊、第4駆逐隊、第9駆逐隊、第24駆逐隊

第5水雷戦隊 CL《酒匂》

 第1駆逐隊、第5駆逐隊、第22駆逐隊、第34駆逐隊

第6水雷戦隊 CL《神通》

 第3駆逐隊、第13駆逐隊

第7水雷戦隊 CL《川内》

 第29駆逐隊、第30駆逐隊


※《睦月型》以前に建造された一等駆逐艦、全ての二等駆逐艦は、全艦が駆逐隊には含まれず護衛隊に所属。

 


第1潜水戦隊 AS《大鯨》

 第1潜水隊、第2潜水隊、第3潜水隊、第4潜水隊

第2潜水戦隊 AS《黒鯨》

 第5潜水隊、第6潜水隊、第7潜水隊、第8潜水隊

第3潜水戦隊 AS《白鯨》

 第11潜水隊、第12潜水隊、第20潜水隊、第22潜水隊

第4潜水戦隊 AS《さんとす丸》

 第18潜水隊、第19潜水隊、第21潜水隊

第5潜水戦隊 AS《りおでぃじゃねいろ丸》

 第28潜水隊、第29潜水隊、第30潜水隊

第6潜水戦隊 AS《長鯨》

 第9潜水隊、第13潜水隊

第7潜水戦隊 AS《迅鯨》

 第10潜水隊、第12潜水隊


※駆逐隊は、基本的に駆逐艦4隻で編成。

 

※潜水隊は、基本的に潜水艦3隻で編成。

 


・その他:

護衛戦隊の旗艦任務

 CL《長良》CL《名取》CL《五十鈴》

※護衛戦隊は旗艦と4隻が基本の護衛隊4つで編成。

 

各艦隊旗艦

 CL《香取》CL《鹿島》CL《香椎》CL《樫原》

・実験艦扱い

 CL《夕張》 他


・掃海艇、駆潜艇などの小型艇、給油艦、補給艦、給糧艦、工作艦、敷設艦、各種特設艦など各種支援艦艇は割愛


・駆逐艦名称一覧:

《睦月型》12隻:

 《睦月》《如月》《弥生》《卯月》《皐月》《水無月》《文月》《長月》《菊月》《三日月》《望月》《夕月》

《特型》10隻:

 《吹雪》《白雪》《初雪》《深雪》《叢雲》《東雲》《薄雲》《白雲》《磯波》《浦波》

《綾波型》16隻:

 《綾波》《敷波》《朝霧》《夕霧》《天霧》《狭霧》《山霧》*《海霧》*

 《朧》《曙》《漣》《潮》《暁》《響》《雷》《電》

《初春型》8隻:

 《初春》《子の日》《若葉》《初霜》《有明》《夕暮》《朝波》*《夕波》*

《白露型》12隻:

 《白露》《時雨》《村雨》《夕立》《春雨》《五月雨》《海風》《山風》《江風》《涼風》《東風こち》*《南風はえ》*

《朝潮型》12隻:

 《朝潮》《大潮》《満潮》《荒潮》《朝雲》《山雲》《夏雲》《峰雲》《霞》《霰》《ひょう》*《おろし》*

《陽炎型》24隻:

 《陽炎》《不知火》《黒潮》《親潮》《早潮》《夏潮》《初風》《雪風》《天津風》《時津風》《浦風》《磯風》《浜風》《谷風》《野分》《嵐》《萩風》《舞風》《沖津風》*《朝東風》*《霜風》*《大風》*《早風》*《島風》*

《夕雲型》:(1939年度計画艦。まずは32隻の計画で1941年夏から就役開始。)


(神の視点より:*印付きは史実で存在しない艦です。)


・旧式駆逐艦

《峰風型》15隻:

 《峰風》《沢風》《沖風》《島風》《灘風》《矢風》《羽風》《汐風》《秋風》《夕風》《太刀風》《帆風》《野風》《波風》《沼風》

《神風型》9隻:

 《神風》《朝風》《春風》《松風》《旗風》《追風》《疾風》《朝凪》《夕凪》


※全艦旧式艦で、一部は小規模な改装を施して海防艦、哨戒艇、高速輸送船などに分類も変更。

 戦争に際しては、対潜装備を多く搭載する為の小規模な改装を受けている。

 

※第一次世界大戦中に作った戦時急造型《桜型》63隻、各種二等駆逐艦29隻も《峰風型》と同様の扱い。

 ほとんどが鎮守府の警備艦となるか護衛戦隊に配属。

 


※海防艦は《千鳥型》海防艦以後も計画的に量産が進められ、39年度、1940年度の計画で一気に建造が拡大。

 建造が簡単なため、1940年末頃から続々と就役中。

 徐々に大型化して、1940年度計画の《大鷹型》では排水量は1000トンに迫り、アメリカは護衛駆逐艦に分類している。

 1944年までに148隻を建造。

 その後は、アメリカらのレンドリース艦の供与を受けるため建造を終了。

 


※潜水艦は、種類が分かりにくく途中で艦名(番号)を変更した艦がある為割愛。

 

※1937年度以後の海軍計画については後述。

 


 長くなったが、以上が当時の日本海軍の実戦部隊の概要になる。

 水上部隊の主力は第一艦隊、第二艦隊、第一航空艦隊で、作戦に応じて投入される。

 第三艦隊は主に偵察と前線での護衛任務を受け持ち、第四艦隊は念のためオーストラリアなどを監視するため配備されていた。

 第五艦隊はアメリカ派遣艦隊で、既に艦艇数50隻を越える大所帯になっていた。

 第六艦隊は潜水艦隊で、この時期は通商破壊戦よりも偵察を任務としてインド洋奥地まで出向いている艦が多かった。

 第八艦隊は、大西洋方面への艦隊の増強と任務の多用化に対応するため設立されたばかりだった。

 

 艦隊の多くは台湾の高雄に集結され、新鋭艦《高雄》《愛宕》、戦艦《金剛》《榛名》を中核とする第二艦隊はフィリピンのマニラにまで進出して、巡洋艦を中核とするアメリカ海軍アジア艦隊に合流していた。

 

 作戦目標は海南島。

 ここを奪取して中華民国と欧州枢軸を結ぶ海路を完全に遮断し、同時に仏領インドシナへの海上交通路を開く事にあった。

 当然だが、強襲上陸作戦も企図され、1個師団を乗せた船団も高雄に集結していた。

  

 既に広州に進出した航空隊は、海南島への航空撃滅戦を開始しており、進出した広州にある香港の制空権も完全に得ていた。

 アメリカ軍も増援を送り込み、広州に航空隊を増強すると共にフィリピンには「B-17E フライング・フォートレス」も待機していた。

 

 対する欧州枢軸陣営は、シンガポールと近在のリンガ地域(仮称リンガ泊地)にイギリス東洋艦隊、イタリア東洋艦隊が展開していた。

 だが、海南島は連合軍の空襲が激しいため、補給艦隊が一度立ち寄っただけで、それも空襲と往復双方での潜水艦の襲撃のため、多くの損害を受けて補給作戦自体は半分以上失敗していた。

 このため海南島の抵抗力は、大きく低下していた。

 

 守備隊も、地上部隊は中華民国軍の現地部隊が1個旅団規模(1師)いるだけで、国内派閥の問題から供与武器もあまり装備していなかった。

 


 そして日本海軍が南シナ海に大艦隊を展開して仰々しく始まった海南島攻略だが、ほとんど何事も起きずに順調に進められた。

 

 シンガポールのイギリス、イタリア東洋艦隊は南シナ海南部に展開こそすれ、牽制以上の行動には出なかった。

 それどころか、日本軍の偵察機に発見されると一目散にマレー半島方面に進路を取り、友軍の制空権下へと逃れた。

 

 中華中部には、まだ武漢に英空軍の残存部隊がいたが、こちらは他方からの連合軍の攻撃のため、海南島への支援すら出せなかった。

 

 結局海南島では殆どまともな抵抗にもあわず、わずか3日で大勢は決し、半月を経ずして完全占領される事となる。

 

 そして間を置かずに、一気にインドシナへの進駐を実施した。

 進駐にはフランス救国政府軍も参加しており、現地総督府は熱烈歓迎の様相で連合軍の進駐を受け入れた。

 これはフランスの植民地の多くで、伝統的な反英意識の強さを見せる事例の一つとも言えるだろう。

 

 この進駐にも、枢軸側は艦隊こそシンガポールから出撃させたが、積極的な行動には出なかった。

 

 8月に実施されたインドシナ進駐には、本来は海南島侵攻で使うはずの兵站物資が使われており、既に準備が進められた進駐部隊によって速やかに実施できた。

 そして同時に、工兵部隊、航空隊が続々と進出して、9月までにインドシナ南部に航空基地を展開してしまう。

 この工事にはアメリカ軍の誇る工兵隊も旅団規模で参加しており、機械化途上だった日本の海軍設営隊(工兵隊)との違いを見せつけた。

 

 サイゴン郊外など、メコンデルタの数カ所に設置された航空基地には、ただちに日本陸海軍、アメリカ陸軍航空隊が進出。

 日本の「一式陸上攻撃機(深山)」、アメリカの「B-17E フライングフォートレス」が数多く含まれており、進出してすぐにもシンガポールなどマレー半島への航空偵察を開始する。

 

 しかし偵察では苦戦を強いられた。

 既にマレー半島には、シンガポールを中心にして300機以上のイギリス本国空軍機が進出しており、ダンケルク作戦で実質的なデビューを飾った「スピットファイア」が100機以上含まれていた。

 加えてシンガポールにはレーダー監視網と航空管制施設が設置されており、非常に高い防空網を形成していた。

 その上、航空隊は、毎月50機(1個大隊)のペースで続々と増強中だった。

 

 またイギリス側も、航続距離の長いヴィッカース・ウェリントン爆撃機を用いてインドシナへの偵察、主に嫌がらせを目的とした爆撃も開始し、東南アジアでの戦闘が容易でない事を連合軍に教えた。

 

 この時点で連合軍は、シンガポールの航空要塞を大きな脅威であり、艦隊と合わせて大きな障壁だという認識を持った。

 


 1941年10月に予定されたマレー半島侵攻に際して、日本軍を中心とする連合軍はまずは短期間の航空撃滅戦とシンガポールへの海路遮断を計画する。

 

 作戦には日本海軍の空母6隻を中心とする空母機動部隊の第1航空艦隊と基地航空隊の主力である第11航空艦隊、アメリカ陸軍のアジア航空軍団が準備された。

 今後三ヶ月の間に作戦に投入される予定の第一線航空機の数はおおよそ1000機に達し(当座は基地航空隊の戦闘機は航続距離が足りず)、アジア戦線では最大級の戦力が準備されたことになる。

 これだけの戦力が準備できたのは、中華での戦いの目処が見えたと考えられた事と、何より日本とアメリカの戦時体制が整い始めたからだった。

 

 作戦開始は9月半ばを予定。

 対するマレーの欧州枢軸軍というよりイギリス本国空軍は約500機を準備して、その80%をシンガポールに集中していた。

 

 海では、連合軍が日本海軍の潜水艦隊である第六艦隊が、10月から全力でインド洋に展開して大規模な通商破壊戦を開始した。

 南シナ海方面では、常に1個艦隊が洋上に展開して、欧州枢軸艦隊を牽制した。

 

 対する欧州枢軸は、基本的に艦隊保全によって連合軍の戦力をシンガポールに釘付けにすると同時に、シンガポールより先に一歩も進ませない戦略だった。

 

 制空権が維持できる限り連合軍がシンガポールに進むことは出来ず、戦艦数が同等な以上、日本海軍も無理な侵攻は出来ないはずだからだ。

 

 この点は連合軍も憂慮しており、まずは重爆撃機による夜間爆撃を開始する。

 夜間爆撃には「一式陸上攻撃機(深山)」と「B-17 フライングフォートレス」が動員され、共に1個大隊が最初のシンガポール爆撃を実施した。

 


 そして連合軍の最初の夜間爆撃は、現地シンガポール軍にとって意外なことに不意打ちにとなった。

 

 理由は単純で、1000キロメートルの遠距離をいきなり爆撃、しかも夜間爆撃してくるとは予測していなかったからだった。

 これは洋上での航法能力と飛行能力の違いで、洋上に出て訓練することが一般的だった日本海軍航空隊とアメリカ陸軍航空隊だからできた芸当とも言えるだろう。

 

 そして約100機が合計700トン程度の爆弾(250kg爆弾、500ポンド爆弾)を投下し、いちおう港湾部、軍事施設を狙った。

 この攻撃は、連合軍側が大きな期待を抱いていなかったように物理的な損害は限られていたのだが、心理面では大きな衝撃となった。

 

 港に接岸もしくは停泊していたイギリス、イタリアの艦艇に数発の命中弾と至近弾があり、さらに港の臨時弾薬庫に直撃して大きな火柱を吹き上げた。

 しかし見える友軍の対空砲火やサーチライトはまばらで、敵爆撃機が落ちる気配も無かった。

 少なくともそのように駐留艦隊には見えたのであり、まともに迎撃出来なかったのも事実だった。

 夜間戦闘機がまだ配備されていなかったため、迎撃戦闘機を飛ばすことも出来なかった。

 

 その後夜間爆撃は、主に嫌がらせを目的にして単機できたかと思えば1個大隊規模で空襲するなど、様々な方法と規模で毎日繰り返された。

 昼間の強行偵察も日常となった。

 パラシュートを付けた機雷までが港に投下されたりもした。

 この爆撃が、心理面での大きな負担となった。

 

 このような爆撃がヨーロッパ本土での事だったらすぐに対応できたし、様々な手段が取られただろうが、ここは東南アジアであり、狭いシンガポールは唯一の拠点だった。

 

 そしてなまじ大艦隊が駐留しているため、シンガポール港では回避運動などが面倒だった。

 というのも、シンガポール島の前面は海峡で、長期の停泊や大規模な艦隊の駐留には不向きだった。

 港としては好条件なのだが、軍港としては今ひとつだった。

 それを現すかのように、駆逐艦などによる哨戒線を突破した日本軍潜水艦(伊168号)によって、移動中だったイタリア海軍の戦艦 《コンテ・デュ・カブール》が2本の魚雷を受けて大破し、シンガポールの誇るジョージ五世ドックを占有する事態となった。

 

 このため主にイタリア海軍がシンガポール駐留に及び腰となり、最低でも潜水艦対策が取れる場所を求める。

 その結果、シンガポールから150〜200kmほど離れた場所のリンガ島地域への艦隊駐留場所の移動が急ぎ決定する。

 リンガ島近辺には人もほとんど住まなければ何の施設もないが、訓練ができるほど海域面積は広く、浅瀬も多く島でかこまれているので、出入り口さえ押さえてしまえば敵潜水艦が入り込むことは非常に難しい場所だった。

 またシンガポールからも比較的近いので、航続距離の短いスピットファイアでも何とか活動圏内だった。

 

 この移動は、10月に入ったその日に細心の注意を払って実施された。


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