フェイズ14「WW2(8)支那戦線3」-1
大西洋の戦闘が激化しつつある時期、東アジアでも戦闘は激化しつつあった。
そしてまずは、日本軍を中心とする連合軍が東南アジアへと進むより前に、中華地域の戦況が大きく動いていた。
1940年内の一連の防戦と局地的な攻勢で、当面の備蓄弾薬を消費してしまった日本軍だったが、半年もすると戦時生産体制が徐々に確立されつつあった。
軍の動員も大きく進められ、特に陸軍では平時の17個師団体制(近衛1、戦車1含む)から、以前に廃止した師団の復活と、後備旅団の戦時師団化によって40個師団へと増加した。
陸軍の兵員数も120万人となった。
また、戦車師団の大幅増設が決まり、既存の戦車旅団などを基幹戦力として、まずは3個師団の増設が進められていた。
また各師団の自動車化、機械化、重武装化も平行して進められ、戦前とは全く異なる規模の陸軍が出現しつつあった。
陸軍の増強はさらに進められる計画で、60個師団200万人体制(航空隊含む)に向けて急ぎ足で進んでいた。
この当時の日本全体の限界動員数が350万人で、海軍も航空隊、陸戦隊を含めて100万人の兵員増強を予定していたので、損害の補充を考えると200万人という数字はほぼ限界の動員数だった。
総人口に対して動員数が他国に比べて少ないと言われることもあるが、これは日本が新興国だった事が影響している。
欧米列強の多くと違い、当時の日本の人口ピラミッドはほぼ三角形で、形が示すように子供が多く成人数が総人口に対して少なかった為だ。
また日本が、生産力維持のために熟練工を中心に動員を抑え気味にした点も忘れてはいけない。
だがそれでも大軍が動員できる事には違いなく、日本の総動員と総力戦体制の構築は着実に進められた。
このため1941年春頃になると、兵力差で大きな劣勢にある中華戦線に、大規模な増援が開始されるようになった。
同時にソ連軍と向き合っている北満州西部の増強も実施されたが、こちらは5月中にドイツ(欧州枢軸)軍がソ連に攻め込んだため増強が不要になる。
そしてソ連の脅威が無くなり、日本陸軍の主力が事実上のフリーハンドとなったことで、日本は中華民国に対する短期決戦を目指した大規模侵攻作戦を決定する。
ヨーロッパを目指すためには、いつまでも東アジアで足を引っ張られているわけにはいかないし、事実上の裏切りを行った中華民国は早期に打倒すべき「敵」だったからだ。
東アジアの連合軍は、主力は間違いなく日本軍だった。
これにフィリピンを拠点とするアメリカ軍と形だけ兵力を派遣する自由英連邦軍(カナダ軍の1個旅団程度)が加わる。
開戦までのアメリカのアジア方面軍のフィリピン駐留軍は、基本的に植民地警備軍以上ではなかった。
加えて、半ば名目の独立のためのフィリピン軍が建設されつつあったが、開戦から一年近く経ってもほとんどが防衛以外に使えない状態だった。
だが夏が終わる頃になると、主に日本列島の西部地域にアメリカ軍が進出してくる。
主力は第1騎兵師団と第24師団で、日本本土で体制を整えた上で中華地域の作戦に参加予定だった。
これ以外だと、既に上海に進出して日本軍と共に中華民国軍と戦っているジョナサン・ウェインライト将軍(当時少将)率いるアメリカ兵を中核とする混成旅団がいた(一部フィリピン兵含む)。
東アジア方面軍と命名された現地アメリカ軍の総指揮は、正式にアメリカ陸軍中将に昇進したダグラス・マッカーサー将軍が行う。
彼はアジアでのアメリカ陸軍の代表ともなるため、実質的には大将待遇とされていた(※1942年には正式に大将に昇進している)。
日本の長崎、佐世保などには、大船団と共にアメリカ本土からやってきたアメリカ兵約5万人が短期間の間溢れることになる。
この二つの港の近くには、アメリカ軍の一時駐屯場所も整備された。
これほどの外国人が一度に日本に滞在するのは初めての事のため、日米双方で小さな混乱が無数に見られた。
一方では、お互いの事を知る機会ともなり、相互理解と同盟関係の促進が進んだ。
その後も、主に横須賀、佐世保はアメリカ軍の寄港地として使われ、周辺の駐屯場所と共にアメリカ兵が一般的に見られる地域になる。
またアジア作戦の間のアメリカ軍将兵の休暇時に、将兵達が日本各地の観光するようになったため、日米交流は日本各地でも見られた。
1941年に入った頃の中華民国の戦線は、北部はほぼ万里の長城での睨み合いとなり、双方ともに最も大軍が配置されていた。
兵力差は依然として中華民国有利だったが、日本軍も続々と大軍を増強しつつあり、夏までには十分攻勢が行えるほどとなっていた。
次に大きな戦線は上海橋頭堡と呼ばれる中部地域で、日本軍は上海とその周辺部を支配し、それを囲むように中華民国の大軍が布陣していた。
上海の約300キロ西方には首都南京があったが、既に国民党政府は奥地の四川盆地にある重慶を臨時首都として逃げ出していた。
残りは広東方面で、こちらは双方ともに兵力は少なく、連合軍としては中華民国の補給ルートを絶つのが主な目的だった。
加えて兵力が増強されると、英本国に属していた香港の陸路からの包囲及び緩やかな進撃が開始された。
対する中華民国軍は、開戦時300万の兵力があると豪語していたが、満州への侵攻失敗と上海での敗北で国民党の直属軍はほぼ全滅し、満州に攻め込んだ直隷平野の軍閥も壊滅状態だった。
兵力数は、その後の増強があっても250万人程度で、既に重火器が不足し始めていた。
しかも軍のほとんどは地方軍閥で、軍隊と言うよりは野盗や食い詰め者の群が武装したような集団でしか無かった。
加えて華中、華南方面にはイギリス空軍を中心とした欧州枢軸軍が展開していたが、既に日本軍との戦いと長大な補給路の二つによって壊滅状態だった。
そして広東の補給路が使えなくなりフランス領インドシナが反枢軸の姿勢を取っていたので、41年夏頃には機材の多くを中華民国に供与すると東南アジアへの実質的な後退を開始していた。
英本国軍を中心とする欧州枢軸としては、チャイナで可能な限り時間を稼いで、その後マレー方面で日本軍を迎え撃つ目算だった。
だが中華民国を完全に見捨てる気はなく、インド帝国のビルマ方面から陸路の構築を41年に入る頃から始めており、中華民国の人海戦術もあって夏にはある程度使えるようになっていた。
1941年4月、日本軍を中心とする連合軍が中華民国に対する攻勢を開始する。
だが、まだソ連との関係が思わしくないので、満州にいる軍隊は動かせなかった。
攻勢の主軸は、陸軍航空隊だった。
日本陸軍航空隊は、開戦まで主力は満州北部に展開していた。
ソ連が第一の仮想敵なのだから当然の配置だった。
その隙を突かれる形で中華民国の侵攻を受けて、満州南部の部隊は短期間の航空撃滅戦で半壊した。
それでも主力は動かせない為、当面の空の主役を海軍に譲らざるを得なかった。
だが、半年の時間を掛けて再編成と共に大幅な増強が実施され、各地に続々と配備されていった。
そして陸軍航空隊の配備を受けて、基地所属の海軍航空隊は一旦後方に下がって休養と整備そして規模拡大のための再編成に入り、さらに東南アジア侵攻の為の準備に入った。
これは二つの空軍組織を巧く使った事例とも言われ、以後日本軍は陸海軍航空隊の二人三脚によって戦争を進めるようになる。
もちろんこれには弊害もあり、両者の共同作戦自体は長らく実施されず、欧州枢軸に後れをとる場面も見られた。
後の事はともかく、1941年春の中華民国、英本国空軍のアジア派遣軍に対する航空攻勢は、日本陸軍航空隊が主力となった。
当時の主力機は、1939年秋から急ぎ増産された「九七式戦闘機」、「九七式軽爆撃機」、「九七式重爆撃機」の俗に言う「九七式トリオ」だった。
どれも採用当時では列強水準の機体だったが、日進月歩の航空機の発展のため既に旧式化が見られた機体で、特にどれも武装が軽かった。
陸軍もこの事は気にしており、1938年秋のズデーデン問題以後に強力な機体の開発や、既存の開発プランの強化を指示している。
この中で、当時世界中から液冷エンジンのノウハウを集めていた川崎飛行機が開発するも採用されなかった「九八式軽爆撃機」を、慌てて採用、生産している。
また陸軍は、海軍があまり興味を示さなかったアメリカのアリソン社が開発した液冷エンジンのライセンス購入を政府に行わせ、川崎に生産を行わせる体制を大戦前までに作り上げた。
さらに大戦が始まるとイギリスとの交渉を熱心に進め、イギリス空軍が主力機に急速に導入しつつあったマーリンエンジンのライセンス生産の話しを進めた。
当時イギリスは、アメリカでの機体を含めた航空機の代替生産の考えており、日本は眼中に無かった。
しかし自国が窮地に陥り日本が参戦すると態度を180度変更し、日本陸軍との間にライセンス生産の契約を結ぶ。
そして計画なら、1940年夏までに現物、冶具、図面が日本にもたらされる予定だった。
だが、日本まで到着したのは先行していた図面だけで、他はイギリスの停戦で中止され、ライセンス生産の契約だけが宙に浮いた形で残された。
日本がマーリンエンジンの現物を手に入れるのは、1940年の秋に中華民国に派遣された英本国空軍機の不時着機獲得まで待たねばならなかった。
このため1941年の時点では、川崎飛行機が独自に機械式過給器を付けたアリソンエンジン(=アツタ)を生産しながら、マーリンエンジンの複製に近い生産を進めている段階だった。
一方、空冷エンジンの機体の開発も急ぎ足で進められ、海軍向けに三菱が開発した零戦、一式陸攻の開発を横目で見つつ、三菱のライバル社の中島飛行機が新型機を製作した。
川崎飛行機も対抗心を燃やし、あまり日本らしくない戦闘機を陸軍に売り込んだ。
そして「一式軽戦闘機(隼)」、「一式重戦闘機(飛燕)」と「一式重爆撃機(呑龍)」が開発される。
「一式」と名付けられているが、実質的には1940年に量産が開始されており、41年春には一部が実戦部隊に配備されつつあった。
陸軍が求めた後の「一式戦闘機」の開発は中島と川崎が競い合い、中島は自社のコンパクトな栄エンジンを搭載した戦闘機を開発し、真っ向勝負を挑んだ川崎はアリソンエンジンの自社生産型を搭載した速度性能に重点を置いた重戦闘機を開発した。
中島の機体は非常に運動性が高く、またエンジンの燃費がよいため航続距離も長かった。
ただし、オクタン価100のガソリンを用いても、時速510km/hがせいぜいだった。
川崎の機体は時速580km/hと当時日本最速を示し、機体も海軍機以上に丈夫なため降下速度も非常に高かった。
武装は武式12.7mm4門で、日本陸軍としては重武装だった(中島は同砲2門だった)。
機体強度も高く、また改良の余地を受け入れるだけの余裕も持たされていた。
ただし航続距離は要求に達しておらず、川崎は海軍と同じ落下増槽で補うとしていた。
さらに川崎の機体は、投下装置を付けることで最大で310kgの爆弾が搭載できた。
この数字は、当時の軽爆撃機並の搭載量だった。
全ては1150馬力ある液冷エンジンのお陰だった。
だが、開発当初は自社エンジンの不調が酷く、アメリカからの輸入品 (オリジナルのアリソンエンジン)が使われていた。
しかし二つの機体に対して、陸軍航空隊のパイロットはどちらにも難色を示した。
優れた格闘戦能力を誇る「九七式戦闘機」に対して、どちらも劣った格闘戦能力しか無かったからだ。
川崎の機体など「真っ直ぐしか飛ばない」と最低の評価だった。
そして当初は、パイロット達の言葉が重視され、陸軍は事実上の開発やり直しを命令する。
この決定を覆したのが1940年7月のイギリス降伏で、すぐに使える機体が必要になったので双方に量産指示を出した。
そしてさらに同年秋、海軍の零戦が敵に対して圧倒的性能を示して活躍したことで、少なくとも陸軍上層部は高い格闘戦能力は必ずしも必要ではないと考え、本格的な増産と改良を指示している。
陸軍航空隊では、航続距離や機体特性から「一式軽戦闘機(隼)」は侵攻戦闘機、「一式重戦闘機(飛燕)」は防空戦闘機として当初は運用する事にした。
中華領内のイギリス本国空軍による日本本土爆撃もあったので、高性能な迎撃戦闘機が必要だった事も二種類の機体採用を後押しした。
そして1941年夏頃には、それぞれ3個飛行戦隊(大隊相当)が編成され各戦線で活躍することになる。
「一式重爆撃機(呑龍)」は、当時としては標準的な双発の中型爆撃機だった。
速度性能に優れていたが、爆弾積載量は最大で1トンで決して多くはない。
このため対外的には中型爆撃機に分類され、日本陸軍は日本海軍と違って重爆撃機は保有していなかった事になる。
陸軍が4発の重爆撃機を持たなかったのは、整備の面倒さや予算の問題ではなく、基本的に戦術空軍として編成、運用されていたので必要性を感じていなかったからだ。
この点はドイツ空軍に近い思考と言える。
だが、遠距離進出が当たり前になると性能不足が目立った為、結局海軍の「一式陸上攻撃機(深山)」の陸軍型を「二式重爆撃機(飛龍)」として採用する事になる。
1941年春、中華民国駐留のイギリス空軍が疲れ切った間隙を突き、新規戦力を充実させた陸軍航空隊が、それまで活発に活動していた海軍航空隊に代わって航空攻勢を開始した。
この時期中華地域の枢軸軍は、イギリス空軍約80機、中華民国空軍約40機にまで稼働機が激減していた。
機体はこの倍近い数(約250機)あったが、補給が滞ったり整備不良だったりで、稼働率が50%程度しか無かった。
液冷エンジン機は、交換用のエンジンがないと簡単に稼働率が落ちた。
これに対して、満州北西部、上海橋頭堡に展開した日本陸軍航空隊は稼働機として約200機を準備して、さらに短期間での交代用として100機が用意された。
用意された機体総数は、予備を含めて400機を数えた。
100機程度だが交代用の航空隊も準備された。
ロシア人と睨み合っている航空隊を除けば、ほぼ総力を集結していた事になる。
陸軍航空隊は、間断のない航空戦を仕掛けることで短期間での撃滅を企図していた。
またこの時、アメリカ軍も陸軍航空隊の「カーチス P-40トマホーク」戦闘機1個飛行大隊を戦列に参加させた為、アジアの空で連合軍として肩を並べることとなる。
彼らは「フライング・タイガース」と呼ばれ、アジアで活躍する航空隊だとアメリカ本土向けに宣伝された。
日本を中心とする連合軍の作戦は図に当たり、約一ヶ月で奥地に後退していた枢軸側の航空戦力は、ほとんど活動を停止する。
僅かに重慶に後退した部隊だけが戦力を残していたが、中華の空は日本のものとなった。
「一式軽戦闘機(隼)」は得意の格闘戦で多くの戦果を挙げ、陸軍の新たな主力戦闘機としての地位を確立したが、速力、火力の少なさが明らかな事が早くも露呈した。
一方の「一式重戦闘機(飛燕)」は、まだ技術的な熟成が完全では無かった事、主に後方での防空任務だったことから、この時はほとんど活躍出来なかった。
また日本では珍しい液冷戦闘機だった為、敵味方双方から誤認される事が特にこの時は多かった。
だが制空権さえ得てしまえば、あとはやりたい放題だった。
各地の爆撃が継続的に開始され、陸上侵攻するより前に各地の軍閥の士気を砕いていった。
あまりの惨状に、イギリス軍はインドまで進んでいた航空隊の大規模な増援の投入を見合わせたほどで、この時点で中華地域での戦いの帰趨は決したと言える。
生産力がなく十分な兵器の補給が受けられない国では、十分な兵器生産能力を持つ国との戦争は不可能だった。
実質的な航空撃滅戦の間に、日本陸軍とアメリカ陸軍は内陸部への大規模で電撃的な侵攻の準備を実施したが、この後起きる地上戦は、ほとんど事後処理や消化試合に近かった。
また、近年だと陸戦の経験が浅い日本、アメリカ両軍にとっての教訓を得る場所となった。
しかし41年春の時点で、現地イギリス軍は連合軍が行おうとしている大規模な攻勢に気付いており、中華民国に敵航空基地の破壊のための反撃を強く要請した。
これはイギリス空軍が揚子江内陸部の武漢地域に主に展開していたからでもあるが、後世からも判断の正しさは評価されている。
これに蒋介石は、イギリス空軍の全面的支援があれば上海への反撃を行うと発言し、イギリス側も了承。
早くも4月には上海橋頭堡に対する反撃作戦が実施される。
これが、中華の空での航空戦をより激しくした原因でもあった。
この頃の中華民国軍は、イギリスからかなりの量の武器弾薬を受け取っており、それまで主流だったドイツ軍装備はあまり見られなくなっていた。
ドイツは自国陸軍の増強と拡大に狂奔している時期だったのもあるが、基本的に関心が薄かったからだ。
ソ連軍装備も主に北部で装備されていたので、上海方面ではあまり見られなかった。
対してイギリスは、チャイナは自分たちにとっての「盾」だと正しく理解しているので、「盾」を強くすることには熱心だった。
1941年4月13日、南京東方に主力が展開した中華民国軍は、約80万の兵力で上海を包囲する形で進撃を開始する。
この時期上海橋頭堡と呼ばれる狭い地域には、日本軍がさらに増援を送り込んで6個師団に増えていた。
加えてアメリカ軍1個旅団、自由イギリス軍1個連隊(海兵隊)が展開していた。
戦前から上海に駐留していた日本海軍陸戦隊の姿はすでになく、日本本土に帰って再編成中だった。
連合軍の戦力は、補給担当など後方部隊も合わせて合わせて20万人ほどで、兵力差は歴然だった。
単純な数の差だけなら、中華民国軍の勝利となる数字だった。
しかも戦車や重砲などイギリスの兵器でかなり増強されていたし、武漢に進出していたイギリス空軍の援護もあった。
しかも現地の連合軍部隊は、指揮系統の問題などから統一した司令部が開設できず、日本側も方面軍司令部を作りたくても作れないでいた。
この点は、当時の日米両軍の関係が必ずしも良好ではなかった事を物語っている。