フェイズ13「WW2(7)初の空母対決」
1941年に入って、アメリカと日本を中心とする戦争が、ようやくまともに動き始めるようになった。
手始めといえるのは、アメリカでの「レンドリース法案」の可決だった。
これによりアメリカ合衆国は、デトロイトでの大統領演説での「世界の兵器工場」の言葉通りとなり、戦争の主導権を握っていくようになる。
アメリカ以外でまともな兵器生産能力を持つ連合軍は日本帝国ぐらいで(後にソビエト連邦ロシアが加わる)、他は亡命政権なので致し方ない面もあるが、レンドリースは第二次世界大戦を象徴するキーワードだった。
しかし戦争は、アメリカ一国でするには過酷で激しいものだった。
このため、「欧州枢軸」を組み上げ「欧州帝国」となったドイツに対向する国際的な組織作りが必要だった。
そしてそのための会議が、北太平洋上のハワイ諸島で行われる。
1941年8月9〜12日、ハワイ諸島のオワフ島の海軍基地が置かれている真珠湾で「太平洋会談」が開催された。
会議には、アメリカ合衆国のアルフレッド・ランドン大統領、日本帝国の山梨勝之進首相、英連邦自由政府のウィンストン・チャーチル首相が顔を揃えた。
それぞれ大型機でハワイへ乗り付けたが、そもそもハワイが会議場に選ばれたのは、戦争で中心的役割を担うアメリカと日本の結束を高めるためだった。
また英連邦自由政府となるべき国や地域が、環太平洋・アジア方面に多いのも理由だった。
そして何より、欧州帝国に対抗することを地理上でも明確に示す事も政治上の目的としていた。
会議では様々なことが話され、そして「憲章」という形で発表された。
憲章という形を取ったのは、まだ戦争に加わっていない国を引き入れやすくする為で、憲章の内容も戦争のための軍事同盟と言うよりは、自由と権利の尊重が主題のような体裁とされていた。
加えて戦後の世界構想を述べたものでもあり、自分たちが欧州枢軸に対抗することを表明するためのものだった。
そしてこの中で重要だったのが、ナチスの暴虐を許さないという名目で、ナチスが行っている酷い人種差別政策を非難する言葉が盛り込まれた事だった。
「国家、政府機関による不当な差別と弾圧は許されない」と記されたのみだったが、これはひとえにナチスという白人勢力の最大級の失策と、日本の外交勝利と言われることが多い。
と言うのも、自由イギリスは本来のイギリスが世界の四分の一の陸地面積を持つ巨大な植民地帝国で、アメリカは国内の白人とそれ以外の人種との差別問題が横たわるため、自国のために人種差別政策を必要としていたからだ。
だがナチスの侵略と横暴、ドイツ以外のヨーロッパ列強の敗北、そして没落が、時代の流れとして人種差別を否定させざるを得なくなったのだ。
ただし決断したランドン大統領については、高く評価するべきだろう。
一方では、別の枠で設定された会議は純然とした軍事会議となった。
そしてこの時の憲章の中で、初めて「連合軍」の名が登場した。
これにより、1940年7月までの英仏連合軍は「連合軍=アライアンス(alliance)」として、こちらは「連合軍=UN(United Nations)」とされるようになる。
「太平洋会談」のあった頃から、連合軍は徐々に守勢から一部攻勢もしくは攻撃的行動を強めるようになった。
理由の多くは、開戦頃の混乱と枢軸側の攻勢からようやく立ち直りつつあったことと、国内の戦時体制構築が進んだ事が原因していた。
しかし、戦時生産の体制が整うにはまだ時間が必要だったし、遠隔地への攻勢に何より必要な艦艇がなかなか揃わないので、出来ることから着手していった。
この時期連合軍が重視したのは、自らの近海の制海権確保だった。
日本は東シナ海、南シナ海北部の制海権を得て、東南アジア侵攻の足がかりを作ることを目的としていた。
このため中華民国の沿岸部を占領する必要に迫られ、いらぬ戦争努力を強いられていた。
そうしなければ、中華民国に駐留するイギリス本国軍など枢軸軍が日本のシーレーンを脅かす可能性があり、これからの長くなるであろうヨーロッパに向けての第一歩すら記せないからだ。
アメリカは、カリブ海の主に西部での制海権の安定を重視し、それを5月のビスマルク追撃戦の結果として得ると、次の段階へと移行した。
アメリカ軍の次の目的は、カリブ海全体の制海権の獲得だ。
これによりアメリカが自らの中庭とすら考える地域の安定を得ることが出来るし、欧州枢軸に大きな戦略的打撃を与えることが出来るからだ。
大きな打撃とは、ベネズエラで産出される膨大な石油資源の輸送途絶だ。
大戦前から、ベネズエラはイギリス資本の大油田があった。
ベネズエラの沿岸部に膨大な埋蔵量を誇る油田があり、しかも比較的採掘がしやすかった。
このため採掘開始から産油量は激増し、大戦前の段階で年間採掘量約3000万トンの石油が採掘されていた。
同じイギリスが持つペルシャ(イラン)のアバダン油田が年間採掘量が1000万トン程度だったことで、その重要性が分かるだろう。
アメリカのテキサス、ソ連のバクーと並ぶ当時の世界最大級の油田だった。
(※次点は1930年代に採掘開始された北満州の昭和油田)
しかし欠点もあった。
硫黄分が多いため専用の製油施設が必要で、しかも油質が重いためガソリンなど軽質油が採れる割合が少なかった。
反面船の燃料となる重油は大量に採れるので、海運立国のイギリスとしては非常に得難くもあった。
なお、当時のヨーロッパは、ルーマニア、ハンガリーに油田があるだけで、石油の多くをイギリスの油田に依存していた。
一部は、東南アジアのオランダ領及びイギリス領のインドネシア地域からももたらされていた。
他に、先述した中東ペルシャの油田も、生命線の一つだった。
一応、石炭に水素を化学合成して人造石油という形でガソリンを精製することは出来て、ドイツには大きなプラント(精製工場)もあったが、採算と効率を考えると油田から油を得るほうがはるかに良かった。
このため40年夏以後、ドイツでは人造石油の生産は大きく落ち込んでいた。
そしてアメリカを中心とする大西洋方面の連合軍は、ヨーロッパ世界の生命線と言えるベネズエラの油田を狙った。
と言っても、ベネズエラへの侵攻を企てたわけではない。
ベネズエラは中立国で、そもそも参戦していなかった。
イギリス資本の油田はあるが、中立国にある施設を攻撃する事もできない。
またアメリカの外交戦略として、中南米、特にカリブ海沿岸は自らの勢力圏という自認があり、政治的コントロールの対象と見ていた。
このため、安易に攻め込んでコントロールを失うことを強く警戒していた。
しかもこの時期は、ナチスや欧州列強が中南米への政治工作を強めていたので、なおさら安易なベネズエラへの侵攻は選択出来なかった。
また侵攻以前の問題として、当時のアメリカに侵攻能力そのものが無かった。
このためアメリカは、ヨーロッパの海上交通路遮断を計画する。
要するに、自分たちが本国近海とカリブ海でされた事を、欧州枢軸に仕返そうとしたのだ。
そして太平洋からも潜水艦が集められ、アメリカ海軍が保有するほとんど全ての潜水艦が作戦を開始する。
当時のアメリカ海軍は、開戦前の時点で約90隻の潜水艦を保有していた。
しかし多くが旧式の小型艦で、これらは限定した任務にしか使用できず、実質は50隻程度で作戦を行わなくてはならなかった。
しかも通商破壊戦以外にも、大西洋、特に欧州近辺での偵察任務にも一定数が必要なため、実際任務に割くことが出来る潜水艦数は限られていた。
このため水上艦艇の投入が考えられたが、既に欧州枢軸側が自分たちに対して失敗している事を考えると、安易な投入は避けるべきだった。
それでも優位な状況での投入は効果的と考えられたが、現状での戦力差はカリブ海東部、南部では拮抗に近く、むしろアメリカ側が不利だった。
そこで日本海軍に潜水艦の派遣を要請した。
当時の日本海軍は約60隻の潜水艦を保有し、ほとんどが大型で航続距離も長く、中には小型の水上偵察機すら搭載していたので偵察能力も高かった。
そして今後はともかく現状では、南シナ海での偵察と通商破壊活動しか出来ないに等しく、一時的な派遣が要請されたのだ。
これに対して日本政府は、既に多くの対潜水艦艦艇を派遣しているので、これ以上は難しいと返答した。
実際問題として、東南アジアでの大規模な攻勢と、それに続くインド洋での作戦を考えていたので、三ヶ月程度ならともかく半年を越える派遣には応えたくはなかった。
そこで日米両政府は協議を行い、バーター取引の形で日本の潜水艦1個戦隊(母艦と大型潜水艦12隻)が派遣されることになる。
潜水艦の内訳は、軍縮時代に条約枠内を強引に埋めるように建造された大型潜水艦が半数と、無条約時代になって建造された中型潜水艦がもう半数を占めていた。
どちらも電気溶接を採用するようになってからの艦で、潜水艦必須の技術である静粛性能も列強標準程度に達していた。
アメリカ側がバーターとしてアジアに差し出した戦力は、当面は大西洋方面であまり使い道のない陸軍部隊だった。
この派遣ではマッカーサー将軍の影響力が大いに影響し、アメリカ軍でも精鋭で知られる第一騎兵師団とハワイで編成された第24師団が、まずは派遣されることとなる。
第24師団には、多くの日系移民の兵士が志願兵の形で属しており、日本軍との交流の円滑化と友好を演出するための配置でもあった(※白人以外の人種は、普通兵士になることができなかったが、戦争に伴い日系人は例外とされていた)。
)。
この決定が行われたのが1941年6月で、両者9月にはそれぞれの地域で作戦展開を開始する。
欧州枢軸とカリブ南東部、ベネズエラを結ぶ航路は、基本的には北米迂回航路だった。
イギリス、フランスの東部沿岸から出航してイベリア半島沖合を進み、途中ジブラルタルかモロッコ各地の港を経由して大西洋を押し進み、カリブ海南西部の小アンティル諸島の間を抜けてベネズエラへと至る航路になる。
西アフリカのダカールまで南下してから大西洋を押し渡る航路も開かれていたが、まだ北大西洋の西部は安全だったので、こちらはまだほとんど使われていなかった。
どちらにせよ、かつての奴隷貿易のヨーロッパからの往路に似ていた。
輸送は主にイギリス海軍が行っていたが、フランス海軍、ドイツ海軍も1941年夏頃から護衛に参加するようにもなっていた。
アメリカの水上艦を警戒して、巡洋艦が護衛任務に就くことも多く、南米フランス領ギアナの基地化も急ぎ進められていた。
ジブラルタルなどには、緊急事態を想定して戦艦や空母も配備され、各地に航空隊も展開しているため、連合軍が北大西洋の西部に近寄ることは潜水艦以外では不可能だった。
そして欧州枢軸海軍が示したように、航空機のいない場所では潜水艦が優位と考えられたのだが、アメリカ海軍の潜水艦隊は敵味方双方が不思議がったほど振るわなかった。
潜水艦の性能は列強標準だし、犠牲が大きいわけではないが、とにかく戦果が少なかった。
原因は参戦から1年近くしてから確認されたが、当時秘密兵器扱いだった潜水艦用魚雷が、とんでもない不良品だったのだ。
不発は当たり前で、最高で不発率が80%を越えた事例も確認された。
しかも酷い場合は、魚雷の舵が故障していて、自らが撃った魚雷が迷走したうえに反転してきて沈んだ潜水艦まであった。
笑い話にもならない事態で、潜水艦乗組員からは早くから報告が上げられていたが、開発側、技術者、さらには海軍上層部はあり得ないと無視し続け、全てが改善されるまでに1年半もの時間を要することになる。
これに対して、8月半頃にパナマ運河を通過した日本海軍の第三潜水戦隊は、潜水母艦《大鯨》などがマイアミに展開して自らの拠点として活動を開始する。
そしてアメリカ海軍の潜水艦よりも大きな戦果を挙げた。
理由の多くは、所属潜水艦の半数が小型水上機を搭載していたからで、自前の偵察機を駆使することで敵の状態を事前に探り、主に単独で航行する船を次々に餌食とした。
戦法も単に魚雷を浴びせるだけでなく、偵察機で確認した後で接近浮上し、搭載する14cm砲で威嚇して停船さらに自沈させるという、ある意味旧時代的な戦法も使用された。
この場合敵船の乗組員は、脱出ボートに最低限の食料などを乗せて自沈前に下船させるので人的被害も皆無のため、この戦法を好んで使用した潜水艦は敵味方から「水面下のサムライ」として賞賛された。
そしてイギリス本国では、浮上潜水艦対策として全ての船舶への武装搭載を急ぐようになる。
またこの頃から日本の潜水艦は、搭載魚雷によって恐れられるようになっていった。
魚雷は「九五式魚雷」と呼ばれ直径53cmと潜水艦用としては一般的だった。
だが、圧縮空気ではなく純酸素を動力とする点で他と大きく違っていた。
一般的に酸素魚雷と呼ばれる兵器は、1933年に日本海軍で制式装備化されてから、アメリカ軍が試験的に制式化する1942年まで日本海軍だけが装備した。
最大の特徴は、燃料を燃焼するための酸化剤として純酸素を使用する点にある。
圧縮空気だと余分な窒素などが気泡となる。
だが酸素魚雷は、燃焼により炭酸ガスが発生するが、炭酸ガスは水に溶けやすく殆ど気泡による航跡が現れなかった。
また燃焼に有利な酸化剤を魚雷内に多く積載出来るので、推進力が増して航続距離も長くなった。
日本海軍は、航続距離があり過ぎてもあまり意味がないと考えて、もっぱら速力重視で運用していた。
このため、速度調整で50ノット近い速力で突進する事もできた。
一見良いことずくめだが、欠点も多い。
何よりまず、一般的な魚雷よりも整備と保守管理が大変だった。
でないと、何より誤爆の可能性が高まるからだ。
また速度が速すぎるため、磁気信管が反応せず使えなかった。
魚雷に酸素を供給するための専用設備も必要となる。
信管の調整も、戦前から何度も実験して調整が長らく続けられ、艦ごとでの調整は開戦までに取りやめられていた。
また当時の日本海軍では非常に高価な装備のため、訓練でも模擬弾破損を防ぐため雷速を落として演習する事が多く、実戦時の雷速の速さに使用した将兵が驚いたと言われる。
だが日本海軍は、特に仮想敵が存在しない中で、とにかく最大級の敵に対する備えとして大型魚雷の搭載を行うようになり、さらに酸素魚雷の開発を行った。
酸素魚雷は日米同盟締結まで門外不出の秘密兵器扱いで、この時の潜水艦作戦の時に初めてアメリカにも公開され、技術交換の形で提供された。
アメリカに公開したのも、日米同盟を親密化するという政治目的以外に、多数の魚雷を本国から遠く離れた場所で運用するためには、現地での協力を仰ぐ方が良かったからだ。
そしてアメリカ海軍の潜水艦魚雷が不調だったことも重なって、アメリカの潜水艦乗りの羨望を浴び、すぐにもアメリカ海軍内で有名になってしまった。
欧州枢軸も、航跡が見えない魚雷の存在は日本との交戦が増えると報告が上がるようになり、「蒼い殺人者」として強く警戒するようになる。
もっとも、この頃の日本海軍の潜水艦は、大西洋では数が少なく基本的には希少種だった。
欧州枢軸が受ける損害は実質的には少なく、だからこそ人道的な通商破壊戦を誉める余裕も残っていたのだ。
なお、この時期の連合軍の通商破壊戦は、全体として敵に与える損害が小さいまま推移する事になる。
このためアメリカ海軍は、危険を承知で大西洋上での水上艦による通商破壊戦を企図する。
しかしアメリカ海軍には問題があった。
全ての戦艦の速力が遅いという事だった。
重巡洋艦11隻(既に1隻戦没)、大型軽巡洋艦14隻(既に1隻戦没)と豊富だったが、欧州枢軸が高速戦艦を持ち出してきたら、襲撃どころではなかった。
このため、通商破壊戦に空母を活用することを決める。
当時のアメリカ海軍は、排水量順に《レキシントン》《サラトガ》《ホーネット》《ヨークタウン》《エンタープライズ》《ワスプ》《レンジャー》の7隻の高速空母を保有していた(※最初に保有した軽空母の《ラングレー》は、既に水上機母艦化)。
このうち《サラトガ》は潜水艦からの雷撃を受けて長期修理中で、《エンタープライズ》もビスマルク追撃線で受けた傷を癒していた。
また《ホーネット》は、就役して間が無く訓練中だった。
そして緊急事態に備えて、全ての空母を投入するわけにもいかなかった。
そこで最も軽量級の《ワスプ》《レンジャー》に白羽の矢が立てられ、1941年10月初旬に巡洋艦や駆逐艦と合わせた二つの任務部隊を編成して、大西洋へと解き放った。
指揮官には、空母運用の経験豊富なフレッチャー提督とそれまで巡洋艦戦隊を率いていたスプルアンス提督が当たった。
そして空母の持つ高い偵察能力、柔軟な攻撃力によって、短期間で多くの戦果を挙げることになる。
単独航行のタンカーなどカモに過ぎず、護衛を付けた小規模な艦隊も遠距離から一方的に攻撃を行えた。
しかも艦隊には、必ず1隻レーダーを搭載した巡洋艦が随伴していたので、不意の奇襲を受ける可能性も低かった。
また作戦海域も、霧の多い北部海域は避けて、欧州枢軸の船舶がより多く往来する南の方を選んでいた。
偵察機によって枢軸国の有力な水上艦隊を発見した事もあったが、無駄な攻撃は行わずに待避した。
米軍のアクティブな行動に対して、欧州枢軸は躊躇した。
理由はごく単純で、アメリカ海軍が空母を通商破壊戦に投入してくるとは考えていなかったからだ。
そしてこの頃の欧州枢軸海軍は、稼働空母数が少なかった。
稼働空母を持つのは実質的にイギリス本国海軍だけで、《イラストリアス》《ヴィクトリアス》《アークロイヤル》《イーグル》が投入可能だった。
これ以外だと、ドイツはイギリスで建造中だった《イラストリアス級》2隻を賠償で取得していたが、この時点では艤装半ばだった(※加えて艦載機問題でももめていた)。
フランスは《ベアルン》を有していたが、最高速力が21ノットと低速で船団護衛任務が精々だった。
またフランスは、イギリスの技術支援を受けて《ジョッフル》《ペインヴェ》の建造を実質的に始めたばかりだった(1945年就役)。
イタリアも似たようなもので、客船改装の空母2隻が他国から援助を受けながら艤装半ばだったが、就役には1年以上の時間が必要だった。
イギリスは他に船団護衛に使える低速の改装空母を保有していたが、これらはカリブへの航空機輸送任務に必要だった。
戦艦から改装した低速の《イーグル》もほぼ同様で、この頃はカリブへの航空機輸送任務に就いていた。
貨物船で運ぶと分解しなければいけないが、空母で運ぶと最悪自前のクレーンで荷下ろしできるし分解もあまりしなくてよいので都合が良かったからだ。
そしてアメリカが本国に留め置いているのと同様に、全ての空母を動かすことも出来なかった。
この結果、ジブラルタルに駐留していた《アークロイヤル》がアメリカ艦隊討伐の中核になる事が決められ、追撃任務を開始した。
《アークロイヤル》は条約時代に建造された空母ながら、英国空母の基本が確立された優れた設計がなされていた。
艦載機数も多く、最大で72機搭載可能だった。
建造時期としては、日本の《蒼龍型》、アメリカの《ヨークタウン級》と同世代になる。
アメリカとイギリス本国による海上交通破壊を巡る空母の追跡戦は、基本的にアメリカが有利だった。
二つの任務部隊が展開しているし、アメリカの目的から考えたら不利な場合逃げればよいからだ。
一方イギリス海軍も、相手を追い払えば戦略的には勝利なので、極端な話し自らの存在を宣伝するだけでも効果があった。
しかし双方ともに、相手を撃破する好機と捉えた。
アメリカ海軍はイギリスが空母を含んだ艦隊を出撃させた事を察知すると、東海岸に待機していた空母部隊の出撃準備を始めた。
さらにマイアミで整備と補給を受けて待機状態だった、日本の遣米艦隊に属する軽空母《祥鳳》を中心とする任務部隊に、偵察支援の出撃を要請している。
構図は少し違うが、アメリカ海軍はビスマルク追撃戦の復讐へと作戦をシフトした状況だった。
イギリス側は、連合軍が活動をさらに活性化させた事に気付くのが遅れ、定石通り偵察を密にしつつ、自らの輸送船を狙う米空母を探し求めた。
この努力は報われ、襲撃された輸送船からの情報から相手の予測位置を突き止め、航空戦が十分に可能な白昼に偵察機による発見に成功する。
イギリス艦隊に発見されたのは、《ワスプ》を中心とする任務部隊だった。
レーダーを搭載した大型軽巡洋艦の《ナッシュビル》と駆逐艦6隻が護衛する艦隊で、《ワスプ》には約70機の艦載機が搭載されていた。
イギリス軍機の接近は《ナッシュビル》の対空捜索レーダーが捉え、連合軍の動きも活発化する。
場所は北大西洋南部のど真ん中で、双方ともに陸上機の航続距離圏外だった。
接触できる可能性がある両軍の戦力は、欧州枢軸が、数隻の護衛艦を伴ったタンカーの護送船団を除けば空母 《アークロイヤル》の艦隊だけだった。
対する連合軍は、《ワスプ》、《レンジャー》さらに《祥鳳》の3つの艦隊が、艦載機を用いれば十分に作戦行動圏内だった。
先手を取ったのは、《ワスプ》を発見した《アークロイヤル》だった。
ただちに、「フェアリー・ソードフィッシュ雷撃機」、「フェアリー・フルマー戦闘爆撃機」をそれぞれ12機発進させ、続いてほぼ同規模の第二次攻撃隊を放った。
これに対して《ワスプ》は、偵察機を放ちつつまずは防戦に徹する。
「F4F ワイルドキャット」戦闘機24機の全てと「SBD-3 ドーントレス」急降下爆撃機12機を迎撃に送り出し、艦内では攻撃隊の準備が急がれた。
《ワスプ》の迎撃戦は、比較的うまくいった。
レーダーからの接近情報を無線で知らせ、概略方向に防空隊を展開することが出来たからだ。
これが洋上での世界初の航空管制だという意見もあるが、管制と言うにはほど遠い。
それでもレーダーと無線が有効に活用されたのは事実で、制空能力の低いイギリス海軍機は、次々にインターセプトを受けて撃墜、撃破された。
《ワスプ》は、爆弾1発の至近弾を受けて僅かに損傷しただけで最初の攻撃を切り抜けた。
そして《アークロイヤル》の第一次攻撃隊と第二次攻撃隊の合間に、連合軍が《アークロイヤル》を発見する。
見付けたのは《レンジャー》のドーントレスで、偵察情報はすぐに付近の友軍にも知らされた。
これで連合軍は3隻の空母から順次攻撃隊を放ちたいところだったが、《ワスプ》は《アークロイヤル》からの第二波の攻撃を受けて、攻撃隊を出すどころではなかった。
そして最初の攻撃で防空隊が追撃しすぎた為、防空網にスキができて多くの機体の攻撃を受けてしまう。
そして妨害が無ければ、旧式と馬鹿にされる事が多いソードフィッシュ雷撃機の攻撃力は侮れなかった。
扱いやすい機体のため、命中率がかなり高かったからだ。
しかも布張りの複葉機だった事が、この時は幸いした。
当時のアメリカ軍は対空機銃にブローニングM2機関銃を多く採用していたが、12.7mm口径で銃弾が炸裂しないので、ソードフィッシュの翼に命中しても小さな穴を開けるだけだったからだ。
このため、日本海軍の25mm機銃を緊急輸入して研究したり、銃弾が炸裂する20mm機銃の採用が一気に進んだと言われたほどだった。
そして《ワスプ》には数発の爆弾(2〜3発、詳細不明)と1発の魚雷が命中してしまう。
飛行甲板を貫通して格納庫内で誘爆が発生、攻撃準備をしていた艦載機に次々に誘爆して、さらには配管を通じて艦のガソリンに引火し、手の施しようがない大火災となった。
イギリス軍攻撃隊の指揮官も、「撃沈確実」と母艦に打電した。
だがその母艦も、同じような災厄に見舞われていた。
予想以上に近距離にいた《レンジャー》の攻撃隊が、距離100海里という近距離から出せるだけの攻撃隊を五月雨式に放ち、イギリス艦隊の防空網を飽和させた。
対する《アークロイヤル》は、12機のフルマーが防空用に残されていたが、6機が上空にあり待機と補充に残り6機が用意されていた。
だが攻撃側は、最初に16機のワイルドキャット戦闘機が襲来したため、後は攻撃を受ける一方となったのだ。
だが、攻撃隊の練度があまり高くなかった為、投弾数に対して命中率は芳しくなかった。
爆弾と魚雷、合計で30発以上投下したのに、命中したのは爆弾2発直撃、至近弾2、魚雷1発命中を得たのみだった。
この攻撃で《アークロイヤル》は中破したが、沈むほどの損害ではなく自力航行も可能だった。
しかし飛行甲板が完全に破壊された為、艦載機は全て破棄せざるを得なかった。
艦載機戦力を無くしたので、艦隊も退避を開始した。
そして夕闇の迫る中、《アークロイヤル》の最後の艦載機が不時着している頃に、夕日を背にして日本軍雷撃機が低空でイギリス艦隊に殺到した。
日本の軽空母《祥鳳》が放った雷撃機6機で、距離が離れ遅れて攻撃隊を放ったのが、運良く奇襲攻撃の形となった。
しかも日本軍の編隊は、既に潜水艦狩りで実戦経験も豊富で、この時も浮上潜水艦を欺くときに使う戦法を使用した。
敵の目視圏内に入る頃に低空に降りてそのまま進み、さらに迂回して夕日を背にしたのだ。
このためイギリス艦隊はレーダーが機体を捉える距離が限られてしまい、また敵味方の識別も遅れた為、対空砲火もほとんど行えなかった。
しかも日本軍機は、イギリスのソードフィッシュはもちろんアメリカのデバステーターよりもずっと速いため、対空砲はまるで対応出来ていなかった。
通り魔のような攻撃と言われた手際の良い雷撃により、既に速力も落ちていた《アークロイヤル》に次々と魚雷が命中する水柱がそそり立った。
このため《アークロイヤル》は激しく浸水して急速に傾き、数分後には総員退艦が命令され、その後30分で横転沈没してしまう。
「東部大西洋海戦」と呼ばれる戦闘の結果は、双方1隻の空母を失って終わった。
そして戦略的にはアメリカ(連合軍)の勝利と言われるが、米英双方の海軍に与えた影響を考えると微妙だった。
空母を用いた通商破壊戦は、効果は大きいがリスクも相応に大きいことが分かった。
また空母の運用には高いコストが必要で、熟練したパイロットを消耗する可能性も高い。
そして空母の数自体が少ない事が、損害を受けたことも重なってその後の作戦中止に繋がっている。
またこの時の戦闘では、空母を単独で運用するよりも、多数で運用する事の優位がハッキリした。
例え1隻が傷ついても、飛び立った艦載機は他の母艦に着艦する事ができる。
実際 《ワスプ》の防空戦闘機は《レンジャー》へ着艦している。
またアメリカ海軍では、《アークロイヤル》にトドメを刺した日本海軍にさらなる借りを作った事になり、これはこれで問題視された(日本海軍側は、単純に初の敵空母撃沈を喜んでいただけだった。)。
なお、双方1隻ずつの空母沈没は、大西洋での戦闘を沈静化させるよりも、むしろ大きくさせる号砲となった。
連合軍としては、ベネズエラ航路は欧州枢軸が空母を投じても守る価値があると実際に分かったからだ。
一方欧州枢軸としては、連合軍が本格的にカリブの制海権、何より明確にカリブ、ベネズエラへの海路を閉ざそうとしていると分かったからだ。
だからこれ以後の戦いは、カリブ海南西部を中心に発生する事になる。
このため、大西洋上での戦闘であるにも関わらず、「カリブ海の死闘」の幕開けと言われることもある。





