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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ12「WW2(6)バルバロッサ作戦」-2

 10月6日から7日にかけて、欧州ロシア中原で初雪が降った。

 例年よりも早い雪で、非常に厳しい冬の始まりだった。

 

 そして「スプーン1杯の水でバケツ1杯の泥になる」といわれる欧州ロシアの「泥の季節」が到来する。

 この季節が到来すると、厳しい冬が来て地面を凍らせる約一ヶ月後までは、陸上の道はまともに使えなくなる。

 しかもこの時代、ソ連領内には大量の自動車の往来を前提とした自動車用の舗装道路(高速道路)は、首都モスクワからミンスクの間にしかなかった。

 

 なおこの時代は、ロシア人達は自動車用道路をそれほど必要としていなかった。

 鉄道が敷設されるまでのロシアの大地での主な交通手段とは、河川だったからだ。

 

 かつてバイキングの一派は、バルト海から河川を南に遡り、さらに別の河川を南に下って黒海へと出て、東ローマ帝国やアラビア帝国と貿易を行った。

 彼らこそがロシアの語源となるルーシと呼ばれた人々で、小さな船で往来することからその名が付けられた。

 そして時代が違っても、ロシアの大地では河川を利用するのが賢い方法だった。

 ナポレオン戦争でも、ナポレオンは進撃と補給で失敗したが、ロシア人は何食わぬ顔で戦争が出来た理由も、ロシア人が移動や輸送に河川を多用したからだった。

 

 そしてこの戦争でも、ロシア人は河川を多用した。

 このため泥の海にもドイツ人ほど苦労はせず、しかも防戦の優位もあるので、補給の面倒はドイツ軍率いる欧州枢軸軍よりはるかに少なかった。

 


 9月12日に開始された「タイフーン作戦」は、作戦発動前から混乱した。

 既に100万以上の大軍をロシアに派兵しているフランス軍が、自らも攻勢正面を担当すると譲らなかったのが一番の原因だった。

 フランス軍以外にも、イタリア軍、ルーマニア軍、ハンガリー軍など多くの国が軍を派遣していたが、他国はあえて攻勢に参加することまでは望まなかったが、フランスだけは譲らなかった。

 だが当時のドイツ軍には、投入した自国部隊以外に対する補給能力が無かった。

 そして前線での補給ができなければ、いくら部隊数が多くても烏合の衆となってしまう。

 それどころか、ただの無駄飯喰らいでしかなくなってしまう。

 

 そしてフランス軍は、前線で100万の大軍に補給をする能力が無かった。

 せいぜい30万人程度までが限界で、それもドイツ軍の助けを受けて達成できる机上の数字だった。

 とはいえ、少し前に大量の自動車をドイツに接収されていたので、フランスの自動車数が激減していた事も勘案しなければならなかった。

 要するに、ロシアを征服出来るだけの補給車両が、当時のヨーロッパには存在しなかったのだ。

 

 また原因の一つに、イギリスの非協力的な態度を挙げる者も少なくない。

 だがイギリスは、東アジアへの派兵、日本軍との戦闘、中華民国への支援、インド防備の強化等のため、多くの努力を傾けねばならず、北大西洋、カリブ海でも多くの戦力を投じつつあった。

 だからこそドイツも、イギリスがロシアに来ないことを了承していた。

 そして欧州全体としてもアジアを切り捨てられない以上、ドイツなどの国々はイギリスに無理を言うわけにもいかなかった。

 

 故に、乏しい台所事情を見つつ、ドイツはフランスとの調整を行い、少なくない面で政治的妥協が図られる事となった。

 多国籍軍による統合的な司令部組織がないのに、多数の国で連合軍を編成したことへのツケだった。

 

 結果として「タイフーン作戦」は、書類上は欧州枢軸軍の圧倒的大軍が参加するも、内情が伴っていなかった。

 発起点こそようやく前線近くまで到達した鉄道の物資集積地なので問題も少ないが、進めば進むほど無理が重なって攻勢不可能になる点は、初夏の攻勢開始の頃よりもむしろ酷くなっていた。

 


 「タイフーン作戦」は、当初非常にうまく進んだ。

 

 攻勢開始二週間で、実質的にモスクワ前面のソ連軍部隊の多くを包囲殲滅した。

 

 ソ連軍は相変わらず最前線での死守戦術を取り、モスクワのスターリンからの縦の命令と死守命令によって縛られていたので、集中攻撃で一部の前線を突破してしまうと、あとは機械化部隊で包囲殲滅戦を行えばいいだけだった。

 各所で包囲して降伏させた敵部隊の総数は、ウクライナでの大包囲作戦を上回るほどだった。

 

 問題は、次の突破戦闘がいつ行えるかだった。

 

 モスクワ前面には当初400万の大軍が展開しており、攻勢発起点のスモレンスクからの距離は、まだ300キロメートルもあった。

 一度の進撃では落とせない距離と敵の密度だった。

 

 そして欧州枢軸軍の敵は常に補給だった。

 

 しかも次の進撃準備、モスクワへの最後の総攻撃を準備している時、補給路をロシア恒例の晩秋の泥の海が襲った。

 「冬将軍」の前座とも言える「泥将軍」の到来だ。

 ドイツの予想よりも早く、例年よりずっと早い冬の訪れのためで、予定していた一ヶ月でモスクワを落とす目処が立たなくなった。

 本来ならば、10月半ばには実質的に作戦は終わっているはずだったのだ。

 

 そして、モスクワ前面は深い縦深を持つ重厚な防衛体制となっていたので、戦いは常に白兵戦で前進速度は第一次世界大戦のようになった。

 

 泥の海での戦いは悪夢のように続いたが、10月31日にモスクワ攻略に参加していた全軍に停止命令が出て、ドイツ軍78個師団、フランス軍12個師団が一斉に前進を停止した。

 泥の海のため前線への補給が完全に途絶えた為、何も出来なくなったのだ。

 それでもドイツ軍は前進したかったが、フランス軍の士気低下が大きく、補給無くして前線が動かなくなった。

 ドイツ軍にしても、士気の面以外ではフランス軍と同じだった。

 

 モスクワ市内(外縁)まであと30キロ。

 長距離砲の砲弾なら、すでにモスクワ郊外に落下し始めていた。

 クレムリンでは、包囲網が閉じられる前に疎開するべく、引っ越し作業と平行して膨大な書類の破棄など懸命の努力が行われていた。

 

 前進は停止したが、モスクワは風前の灯火だった。

 


 これに対してソ連軍は、秋から本格的にシベリア方面の大部隊を全てモスクワ方面に集中した。

 日本との間に妥協が成立した時から大規模な移動が始まっており、しかも彼らは日本などから供与された武器も携えていた。

 この部隊は、最悪は反攻前に戦線に投じられる予定の精鋭部隊だったが、幸い投入されたのは一部に止まり、主力はモスクワの後方で反撃の時を待った。

 

 しかも10月になると、異なる国旗を掲げた部隊までがモスクワの後方に姿を見せるようになる。

 アメリカのレンドリースと日本で生産された最新鋭の武器で身を固めた、満州国軍の兵士達だった。

 多くは中華民国からの移民や流民、またはその子孫だったが、部隊の指揮は満州人で実質的には多くの日本将校が統率していた。

 

 だが兵士達は、従軍による国民資格などの恩恵や退役後のさらなる優遇措置を約束されているため士気はかなり高く、満州国自体も自らの国を国際的に認めさせる事を政治目標にしているため、大軍投入に躊躇が無かった。

 

 なお、国民資格が恩賞とされていたのは、従軍していた兵士の少なくない者が、数ヶ月前まで中華民国軍兵士だったからだ。

 彼らは降伏後に宣誓を行って満州国へと「亡命」し、短期間の訓練を経てシベリア鉄道へその身を委ねた。

 それ以外の兵士の多くも、満州国内では低賃金労働者が多く、成功者となるための賭けに乗った人々だった。

 このため士気は比較的高かったのだ。

 

 ほぼ日本陸軍の防寒装備、日本製鉄兜、アメリカ製のM1カービン小銃と手榴弾という満州国兵は、同時に運ばれたフォードやGM製のトラックに揺られながら、兵士以外のロシア国民が不眠不休で構築した最前線の陣地へと配備されていった。

 

 その数は12月までに50万、翌年春までに80万に達した。

 

 この結果、東部戦線の連合軍兵力は、約500万人に増加していた。

 

 アジアからの大軍をロシア人達は伝統に従って「タタール」と呼び、予想外の援軍到来に僅かながら士気を回復させた。

 

 また10月からは、ソ連自体がアメリカのレンドリースの対象とされたため、早くも11月には最初のレンドリースがソ連に引き渡された。

 太平洋は安全な海であり、日本や満州を経由して、以後続々とレンドリースが行われることとなる。

 


 モスクワ前面に至って俄に情勢が変わりつつあることを、枢軸側も気が付いていた。

 

 例年より早く厳しい冬将軍の事ではなく、ロシア人の装備が一部で変化が見られた事だった。

 しかも既に連合軍と言われるようになっていた国々は、ソビエト連邦ロシアを救援するため大軍を派遣すると宣伝していたし、断片的に伝わってくる情報は、北太平洋航路の活発化とシベリア鉄道の運行本数の激増を伝えていた。

 奪い取ったソ連軍の陣地からは、明らかにロシア製ではない兵器や製品が押収された。

 

 この点に敏感に反応したのはフランスだった。

 そして冬になってからのモスクワ総攻撃は危険が多すぎるとして、軍の引き揚げすらちらつかせて、ドイツ軍の無謀とも言える冬のモスクワ総攻撃に強く異を唱えた。

 空軍を少し派遣しただけのイギリスも、今からのモスクワ攻略は常識を疑うと抗議を行った。

 不凍液が凍るほどの状態の為、当初は圧倒的だった制空権すら危うくなっていた。

 

 10月31日の進撃停止も、泥将軍だけでなく政治的取引の結果だったのだ。

 

 それでもドイツ軍、特に東部戦線のドイツ軍部隊は、前進以外、モスクワ攻略以外あり得ないと強行に唱えた。

 フランス軍などいらず、ドイツ軍だけで戦争をすると放言する将校も後を絶たず、枢軸軍内に亀裂が見られる事態となった。

 このため、欧州各国間で会議や交渉が何度も行われた。

 

 そして政治的取引とヒトラー総統の独断といえる決断の結果、1941年冬のモスクワ攻略は見送って防衛体制を固め、ウクライナ方面での攻勢を強化することが決まる。

 ヒトラーとしてはモスクワにこだわりも少なかった事も、この決定に影響した。

 一説には、ヒトラーはフランスに内心感謝したとすら言われるほどだった。

 

 結果、モスクワ正面では戦線の整理と冬営の準備を急ぎ進め、同時に冬将軍と共に大挙逆襲に転じるであろうロシア人の大規模な冬季反攻に備えることになった。

 一方では、ウクライナ攻略の完遂が命じられ、当座の補給の優先と増援部隊の派遣が実施された。

 モスクワ攻略から取りあえず解放された中央軍集団からも、南部にいた一部の部隊がウクライナ作戦の支援に当たった。

 

 ウクライナへ侵攻していた南方軍集団にはフランス軍とイタリア軍の大部隊もいたが、主力はあくまで多数の装甲部隊(機械化部隊)を有するドイツ軍であり、彼らの当座の終着駅はウクライナ東部の要衝ハリコフ、アゾフ海に注ぐドン川の河口部に位置するロストフだった。

 

 しかし、作戦発動前に既にドイツ軍の手に落ちているか手が届く場所まで進軍しているので、冬季反攻を受けても大丈夫なように縦深と戦線整理が主な目的で、ウクライナでの攻勢継続も侵攻と言うよりは防衛の為のものであった。

 

 そして戦線整理の最大の目的となるのは、クリミア半島とその先にあるセバストポリ要塞の攻略にあった。

 

 なお、ハリコフを落として完全な兵站拠点化を行えば、翌年春のモスクワ攻略が非常にスムーズに行えるようになるし、ロストフはヒトラーが目指すバクー油田占領の策源地となる場所だった。

 


 11月6日にモスクワ周辺の気温が急激に低下し、13日にはマイナス20度を記録した。

 不凍液すら凍る冬将軍が到来したのだ。

 

 だが、これにより泥の地面は凍り付き、ドイツ軍の補給は息を吹き返して部隊の移動も可能となった。

 その反面極寒が兵士たちと彼らが操る兵器を襲ったが、身動きできないよりはるかにましだった。

 また、南部以外で攻勢を取らなかった事に残念がる将兵が多かったが、ロシアの冬のあまりの寒さを前に安堵した将兵も多かったのも事実だ。

 実際、多くの将兵が凍傷から救われたと言われている。

 

 ドイツ軍の1941年最後の攻勢は11月17日に開始され、年内に予定通り黒海に面するセバストポリ要塞が陥落した。

 攻略には、常識を疑うような巨大列車砲が動員されるなどの見所もあったが、基本的には孤立した海軍要塞でしかないので、死守を命じられたソ連軍将兵の血みどろの戦いは殆ど無益なものだった。

 

 なおこの戦線には、後にインド戦線で勇名を馳せるロンメル将軍(当時少将)が参加したが、彼にとっては非常に不本意な戦場だったと述懐している。

 

 そして他の方面ではドイツ軍の戦線整理が行われ、枢軸側のドイツ軍以外の同盟国軍は、なるべく戦力密度を上げて反攻を受けても突破されないように再配置が進められた。

 ここで初めて、枢軸側がロシアに大軍を投じた事が活きていた。

 


 12月初旬、全ての前線でソ連軍(+満州軍)の冬季反攻が開始されるが、ソ連の反撃は最初からドイツ軍が構築した重厚な防衛網にはまってしまう。

 ドイツ軍もどこから反撃してくるかは予測が付けやすかったので、重点的に防衛体制を固めていたからだ。

 ソ連軍の側も、ドイツがモスクワを諦めたことを安堵するよりも、反攻に備えられた事への焦りが強かった。

 

 それでも、反攻のため十分な戦力を整えていたソ連軍の反撃は非常に激しく、もしドイツ軍が限界まで攻撃を続け、尚かつモスクワを陥落させていなかったらどうなっていたかを知るには十分な攻防戦となった。

 また仮にモスクワを陥落させたとしても、その後の反撃で撃退され、より多くの損害を受けた可能性の方が高いと結論する研究の方が多数に上っている。

 

 なお、ロシア戦線の戦列に参加した満州国軍は、日本軍、アメリカ軍が多数の観戦武官を派遣した影響もあってか、それほど過酷な戦場は割り当てられなかった。

 これはソ連指導部の政治的判断の結果でもあった。

 援軍として駆けつけた満州国の大軍は、基本的には補助的な場所にしか投じられなかったが、これはソ連が政治を優先したからで、同盟国との関係を重視しなければならないほど追いつめられていた証拠だった。

 

 それでも80万の大軍の威力は無視できず、主に南部での反撃作戦では枢軸軍をかなり圧迫した。

 そして主な交戦相手はイタリア軍などドイツ軍以外の部隊なので、ドイツ軍とソ連軍ほど血みどろの戦いにもならなかった。

 


 ロシア戦線の戦いは1942年3月までに概ね沈静化するが、かなりの冬営(防戦)準備を整えていたドイツ軍の有利に展開する場面が多く、ソ連軍は強引な攻勢によってかなりの損害を受けることとなった。

 しかもソ連軍は重要拠点、要衝の奪回はほとんど叶わず、成果はモスクワに迫っていたドイツ軍をかなり押し返した事ぐらいだった。

 戦いの結果、ドイツ軍はモスクワ正面からは100キロ以上後退し、とりあえずモスクワの危機は回避される事となる。

 ヨシフ・スターリンも、モスクワから離れることは無かった。

 

 しかし、モスクワ正面からの後退のかなりがドイツ軍の側が戦線整理のために行った部分が多く、ソ連にとっての厳しい状況に大きな変化は無かった。

 

 ソ連は冬季反攻の成功と勝利を宣伝したが、世界の多くはドイツ軍の冬営と反攻阻止の成功の方を信じたし、それは多くの面で真実だった。


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[気になる点] 『攻勢開始二週間で、実質的にモスクワ前面のソ連軍部隊の多くを包囲殲滅した』 とあるのに 『モスクワ前面には当初400万の大軍が展開しており、攻勢発起点のスモレンスクからの距離は、ま…
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