フェイズ12「WW2(6)バルバロッサ作戦」
1941年5月22日、ドイツ軍をほぼ全てとする枢軸軍がソ連に対して宣戦布告し、即座にソ連領に対して全面的な侵攻を開始した。
作戦名「バルバロッサ」の開始である。
同作戦にはドイツ軍が138個師団、ルーマニア軍が10個師団が参加していた。
総数で300万人もの大軍だ。
このうち北方軍集団には28個、中央と南方にそれぞれ54個師団、東部作戦軍(OKH)直属12個師団が属していた。
さらにドイツ国内では、1個軍集団規模の部隊(2個軍相当)が交代と増援用として出撃準備が進められていた。
そして空は、第二、第三、第四の航空艦隊が支援したが、ドイツ本土防空が任務の第一航空艦隊はこの時ほとんど形だけになっていたので、ドイツ空軍のほぼ全力がロシアの空を舞った。
ドイツ軍の乾坤一擲の大勝負だった。
ドイツが突如ソ連に攻め込んだ事になるが、アドルフ・ヒトラーにとっては既定路線以外の何物でもなかった。
彼もしくはナチスにとって、共産党によるソ連ヴォルシェビキ体制を倒すことこそが本来の目的であり、準備が整うまでむしろよく我慢したとすら言える。
ヒトラーは、イギリス、フランスへの勝利のすぐ後、最短の場合9月の対ソ連戦開始を目論んでいたほどだった。
イギリスがアメリカと派手な、それでいて出口の見えない戦争を起こしたことが戦略的に後背の潜在敵となるソ連に対する開戦理由だと言われるが、そのような事はせいぜいが後付の理由に過ぎない。
異なるイデオロギー同士、激突する事が目的ですらあったのだ。
この点では、ドイツ軍が攻め込んできてもドイツとの不可侵を盲信していたヨシフ・スターリン書記長の方が、考えが甘いと言えるだろう。
しかしドイツによるソ連への突然の開戦は、他の枢軸国に対してほとんど極秘で行われた。
巨大な陸軍を有するソ連に対する奇襲攻撃が、是非とも必要だと考えられたからだ。
だからこそ、ほぼドイツ軍による攻撃となったのだ。
しかもドイツ軍内部でも作戦準備の遅れが見られた為、当初の予定よりも一週間遅れての作戦発動となった。
本来ならこのような事は、同盟関係を結んでいても、戦時であっても、外交上の大きな問題を起こす。
だが、意外にヨーロッパ各国からの賛同は大きかった。
昨年の戦争で領土を多く奪われたフィンランドは、ほとんど即座にドイツと同盟を結んでソ連に対して戦端を開いた。
既にドイツに取り込まれていた全ての東欧各国も、歴史的なロシアへの恐怖心から積極的な戦争への参加を表明していった。
そしてかなり意外と考えられたのが、フランスの対ソ連戦争への賛同と、早期の大軍派兵だった。
フランスは、伝統的にロシア外交を重視していた。
だからこそ、ソ連ではなくロシアがどう動くのかについての深い見識を持っていた。
その中で、いつかドイツとロシアが戦うと考えていた。
そして戦端を開いてしまった以上、そして自分たちがドイツの側に属してる以上、ドイツの側に立って積極的に動かなければならないと考えたのだ。
フランスは、すぐにもロシア戦線へ200万の派兵の用意があると宣言し、ヒトラー総統を喜ばせた。
しかもフランスの行動に引きずられる形で、ほぼ全てのヨーロッパ諸国が派兵や協力を自ら表明した。
ドイツとしては、大国以外は強引に従わせるつもりでいたが、その必要すらないほどだった。
非難に近い言葉と態度を取ったのは、ブリテン島の住人達だった。
イギリス本国政府は、これからアメリカ、日本の戦いが本格化し、アジア、何よりインドを守るための準備を進めつつあった。
ドイツもイギリスの要請を受ける形で、イタリアに頭を下げるようにインドに海軍を根こそぎ派兵させた。
イギリス本国としては、ドイツに裏切られたようなものだった。
このためイギリス本国は、ヒトラー総統が遠慮がちに求めたロシア人との戦いへの参加に、極めて消極的な姿勢を示した。
若干の求めに応じたのは、空軍(長距離空襲可能な部隊)の一部派遣を除けば、ロシア人との戦いが始まって大いに不足し始めた自動車、トラックの供与だけだった。
もっとも、当時のイギリスは1940年の戦いで陸軍が一度壊滅しており、その後再開した戦争では海軍と空軍に力を入れていたので、ロシアの大地に派兵できるだけの陸軍は持ち合わせていなかった。
しかしイギリス本国と本国に属した植民地や連邦から送り届けられる各種資源は、ドイツさらには欧州全土の戦争経済に最も貢献していた。
いっぽう、突然の奇襲攻撃を受けたソビエト連邦ロシアは、どうだったのだろうか。
無様に奇襲攻撃を受けたソ連だが、一番の原因は独裁者ヨシフ・スターリンの思いこみが原因していた。
ドイツとは不可侵条約を結んでいる上に、アメリカとの戦争を始めたドイツが戦争をしかけてくる筈がない、という考えが主な根拠だった。
確かに理には適っているが、そもそもナチス・ドイツとソビエト連邦ロシアはイデオロギー面で決して相容れない相手で、しかもドイツとロシアは歴史上対立する国家同士でもあるのだから、どちらかが戦争を仕掛けるのは時間の問題でしかなかった、というのが各専門家の共通見解だった。
また、「素人集団」でしかないナチスという集団の行動パターンを、スターリンが読み切れていなかったとも言えるだろう。
また、当時は不可侵条約を結んでいたドイツよりも、ドイツや中華民国と戦争をしていた日本との関係が悪く、1個軍集団もの大軍が東シベリア方面に配備されていた。
ソ連の思惑としては、日本が中華民国との戦争で疲弊したところを、中華民国に味方するという形で裏口から参戦して、最低でも極東共和国を「奪い返し」、あわよくば満州を奪ってしまおうと画策していた。
これは計画として文書化され、後年の情報開示の時に明らかとなっている。
しかも1941年の秋頃に日本との戦争を開始しようと、密かに準備まで進めていた。
日本軍でも、国境近辺のソ連軍の動き、シベリア鉄道の運行状況から状況を断片的につかんでいた。
これに対してヨーロッパ方面だが、全く何も防衛措置を取らなかったわけではない。
ロシアは基本的に防御思想が強く、他国から攻められることを恐れていた。
そしてドイツが英仏との戦争に勝利した事で、ドイツに対しての恐れが増幅した。
ドイツがアメリカとの戦争を始めたことで恐怖は若干緩和されたが、ドイツが欧州を実質的に征服したという点が、ロシア人にとっては大きな脅威に映っていた。
このため、ドイツに対する念のための防衛体制は構築されていた。
だがスターリン書記長の命令で、ドイツを挑発するような規模の軍隊の配置は許されず、国境から少し奥まった地域に主力部隊が配置された。
それでもソ連の東欧方面には、約450万もの兵力が配置されていた。
兵器の量も1930年代前半に始められた第二次五カ年計画から大量生産されていたため、戦車や重砲、航空機といった兵器の数は、全ヨーロッパを足したよりも多いぐらいだった。
しかし兵器の進歩が非常に早い当時なので、ちょうどソ連軍は新兵器への更新を始めたばかりで、一世代前の兵器が大半を占めていた。
また当時のソ連軍は、数年前に凄惨を極めて軍部の大粛正によって、将校の多くが粛正の対象となり、軍の組織の維持すら難しいと言われるほど組織が弱体化した。
この事は1939年11月からのフィンランドとの戦争で露呈し、慌てて「まだ生きている」「信頼できる」将校達をシベリアの奥地から大量に呼び戻した。
だが、他にも問題があった。
陸軍部隊の組織を、非常に小型化していたのだ。
1930年代の師団単位の部隊規模は、当時の世界標準から見ると戦闘単位まるまる一つ分小さくされた。
つまり師団で旅団規模しかなく、軍団と名がついていても師団程度の規模しか無かった事になる。
この点もフィンランドとの戦争で致命的欠陥が露呈した為、慌てて陸軍の再編成を進めた。
そして再編成されても、ソ連赤軍の1個師団の規模は世界標準から見るとまだ小規模だった。
もっとも、対ソ連戦開戦当時のドイツ陸軍も、規模を3分の2程度に縮小することで師団数の大幅な増加を行っているため、経緯は違うが師団規模については、あまり大きな違いは無かった。
ドイツ軍の突然の奇襲攻撃の前に、ソ連軍は当初善戦した。
ドイツの勝利以後の警戒態勢の上昇と、ソ連赤軍の前線指揮官の危機感の高さが、開戦当初の前線を保持させた。
加えて、基本的にソ連軍の方が数が多いという点、基本的に防戦だという点もソ連軍の優位に働いた。
ドイツ軍で圧倒的戦果を挙げたのは空軍で、開戦初日だけで2000機もの撃破が報告され、流石のゲーリング元帥も疑ったほどだった。
だが後の調査から、それ以上の戦果が挙がっていた事が判明している。
その後もドイツ空軍は、順調に航空撃滅戦を展開し、圧倒的な制空権の獲得に成功する。
だが地上ではほとんど進めない状態が続き、ヒトラーを苛立たせた。
そこにフランスが大挙派兵を打診したため、ヒトラーはこれを快諾して受け入れた。
そして政治的に対抗心を燃やしたイタリアも大軍派兵を決定し、続々とヨーロッパ各国がロシア戦線へと兵力を送り込んでいく事になる。
これに悲鳴を上げたのが、ドイツ参謀本部だった。
ドイツ軍は、「バルバロッサ作戦」に際しての兵站計画の立案を立てたが、実状はギリギリだった。
対ソ連戦に際して、ドイツ陸軍はヨーロッパ中から自動車、トラックを集めて、戦車師団、自動車化師団、各師団、そして自動車輸送連隊へ車両を充当した。
そして鉄道から前線へと各種補給物資を運ぶ役割は自動車輸送連隊が担ったが、1日当たりの輸送力は合計1万トンで、この数字は約150個師団が1日に必要とする補給物資の最低限の数字だった。
ドイツ軍になお予備部隊があったのは、各国の目を欺瞞したり、準備中の師団があったのも事実だが、補給が出来ないから前線に出せないというのが物理的な理由だったのだ。
この点をヒトラーに直訴したドイツ参謀本部の兵站将校達だったが、ほとんど受け入れられ無かった。
それでも全く聞かなかった訳ではなく、フランスやイタリアに対して、自国になお保有する自動車両を根こそぎロシア戦線に持ち込むように伝えている。
さらに鉄道には自信のあるフランスは、自国の車両をロシアに大量に持ち込むことを決めた。
さらにフランスは、歴史的にロシアとの鉄道への投資や開発で関わっていたので、ドイツよりもロシアの鉄道についての知識や経験があると豪語し、専門家集団を多数派遣する事になる。
だが、鉄道に関しては、この場合それほど重要では無かった。
鉄道集積駅から、前線の部隊にいかに効率的に補給を行うかが、戦いの帰趨を決するからだ。
そして地上では、大きな輸送力を持つ鉄道で物資を運ぶことは比較的容易いが、そこから車で運ぶとなると非常に困難が伴った。
当時の鉄道1列車分でトラック1600台と算定されるので、トラック1台につき2人必要としても、列車なら数名で済むところが3000名以上が必要となる。
そして当時のトラックは、今日ほど速くもないし大きくもない。
耐久性も低かった。
しかもロシアの大地は、未舗装の悪路が多い上に、雨にやられると驚くほどぬかるんでしまう。
トラックでの1日の移動力は100マイル(約160キロメートル)程度なので、鉄道の集積駅から離れてしまうと輸送力は激減した。
だがドイツ戦の開戦当初は、前線が動かなかったので作戦立案した人々以外、殆ど誰も補給に危惧しなかった。
しかも、当初の戦闘が国境線から動かなかったため、尚更楽観論が広まっていた。
ソ連軍の前線が最初に突破されたのは、開戦からちょうど2週間後の6月5日だった。
突破したのは北部と中央で、ドイツ軍の先鋒を担う機甲軍団は直ちに大規模な包囲行動を開始する。
そして初戦の善戦から部隊のかなりを国境線に集めていたソ連赤軍は、前線が突破されると各所で何もできないまま包囲されていった。
ソ連の総司令部、つまりスターリン書記長が、何があっても守れという事実上の死守命令を出していたからだ。
またソ連赤軍自体が、組織的に縦の命令系統を重視して横の連携が出来ていない事も、この後幾度も発生する悲劇を大いに助長していた。
話しが少し逸れたが、ドイツ軍は前線を突破すると遮二無二突進し、わずか4週間足らずで前進開始点から約700キロメートルも離れた、スモレンスクまで達した。
北部でもレニングラード前面まで迫った。
ソ連赤軍の部隊配備数の多かった南部の突破はさらに2週間が必要だったが、こちらも一度突破されるとソ連軍は脆かった。
というより、ドイツ軍の動きにまるで対処出来なかった。
だが夏になると、ドイツ軍の前進はパタリと止んでしまう。
この状態を、ソ連軍に観戦武官として派遣された日本軍将校が「ドイツ軍は尺取り虫だ」と言ったが、かなり的を得た感想だった。
快調に進撃したドイツ軍だったが、開戦から三ヶ月経たないと、スモレンスクまで鉄道補給路を延ばせなかった。
これはロシア帝国時代からのロシアの防衛戦略の勝利でもあった。
ロシアは、鉄道レールの幅を「広軌」というカテゴリーの独自の幅を採用しているため、鉄道がロシア国境を越えるには車輪の幅を換えるか、鉄道の線路の幅そのものを換えるしか無かった。
中には油圧で幅を変更できる車両もあったが、そんなのはごく僅かしか無かった。
つまりドイツ軍は、補給の要となる鉄道集積地を前進させる事が簡単にはできず、自動車輸送連隊の負担は前進すればするほど酷くなり、車両補給の限界点に達すると自然停止してしまうのだ。
加えて戦車などの車両のほとんどが、機械的な問題から最大で6週間ほどで稼働率が大きく低下してしまうためだ。
ここでようやく鉄道の重要性も認識された。
しかも開戦から一ヶ月もすると、フランス軍、イタリア軍の先遣部隊がソ連国境あたりに進軍してくるようになる。
このため鉄道路線を延ばすのが急務なのに、何も出来ないジレンマに陥った。
この状態をヒトラーは激怒したが、正しい説明を受けると、鉄道補給路の整備を強く命令した。
総統が問題をようやく理解しても、物理的な問題は全く解決しなかった。
どうしても時間や労力がかかる事だからだ。
このためフランスが胸を張った鉄道に関連する部隊や軍属が、思わぬ活躍をする場面も見られた。
だがそれでも、フランス軍が解決したのは一部鉄道だけで、鉄道から先の道路に関してはドイツよりも状態は悪かった。
ドイツに車両のかなりを供出した後だったし、フランスの自動車生産力では十分な対応が出来なかった。
そしてフランス以上に工業化、産業化が遅れているイタリアは、自動車輸送の多くをドイツに全てを頼らざるを得なかった。
他の中小諸国の軍隊については、全てをドイツに頼るしか無かった。
このため兵站関係のドイツ軍将校は、ソ連国境に溢れるようになった同盟国の軍隊を「無駄飯ぐらい」と嫌った。
しかもヒトラーは、300キロ先に迫ったモスクワではなく進撃が遅れているウクライナの資源地帯、農村地帯への進撃を優先した。
そしてウクライナ西部での大包囲作戦は大成功し、ソ連軍70万以上を包囲降伏させた。
包囲戦ではフランス軍、イタリア軍もそれなりに活躍したが、これはドイツ軍だけでは包囲網が薄すぎた影響が強かった。
だが、ここで一ヶ月以上の時間を浪費してしまう。
その上、この頃にはフランス軍、イタリア軍なども前線に姿を見せるようになっていたので、兵站にかかる苦労が根本的な問題の面で悪化していた。
前線部隊が増えたので包囲したソ連軍を逃さずに済んだ面はあるが、喜べる状態ではなかった。
なおフランス軍、イタリア軍にはドイツ軍と比べて一長一短あった。
短所は機械化部隊の不足で、長所は皮肉な事に大食らいの機械化部隊が少ない事だった。
この頃のドイツ軍の場合、機械化師団(戦車師団)は1日300トンの物資が必要なのに対して、通常の歩兵師団は200トン程度で済んだ。
しかも可能な限り現地での自活、現地調達が目指されたので、燃料を多く消費する機械化師団の補給に対する負担は非常に重かった。
そして機械化部隊は、湯水のようにガソリンを使った。
そうして8月末日にウクライナでの戦いが終わると、またもドイツ軍(欧州枢軸軍)は進撃を停止してしまう。
欧州枢軸軍の総数は8月の時点で400万人を越えて、10月までには500万人に達する予定だったが、前線での兵站が完全に破綻していた。
主にフランス軍関係の兵站部隊も非常に増えたのだが、とにかく鉄道駅から前線を結ぶ自動車、トラックの不足が大きな問題となっていた。
馬車の代替輸送も行われたが、馬は昔から大量の飼い葉と水を消費する上に、トラックに比べて輸送力が非常に低かった。
その上寒さに弱いことは、ナポレオンの遠征でも立証済みだった。
それでも欧州枢軸軍は進むしかなかった。
進んで最低でもモスクワを陥落させない限り、ロシアとの戦いでの戦略的意味がないからだ。
このためドイツの陸軍総司令部(9月に国防軍総司令部から変更)は、9月12日発動のモスクワ攻略作戦を決定する。
作戦名は「タイフーン」。
中央軍集団に機動戦力を集中して、ソ連の首都モスクワを陥落させるのが戦略目標だった。
作戦期間は最大で6週間。
ロシアの大地に最初の雪が降り、地面が一面泥の海になるまでに作戦を終了させて冬営するためだ。
でなければ、泥の海の中で数百万の大軍は身動きできなくなり、冬将軍の到来を虚しく待たなければならないからだ。
そして冬を待つ気のないドイツ軍は、既にポーランドに準備が始められていた冬季装備の輸送を脇に置いて、当座の戦闘に必要な物資の輸送を優先させた。
冬季装備は、モスクワを陥落させてから送ればよいと考えられたのだ。
今までの勝利から、それだけの自信があったが故の行動とも言えるだろう。
だが戦争には相手がいるし、欧州枢軸を典型例として一国同士が戦う時代では無かった。
ナチス・ドイツの侵略に対して、ソ連赤軍は防戦すらままならない状態だった。
9月までに約200万人もの将兵を、何らかの状態(戦死、戦傷、そして捕虜)で失っていた。
だがソ連は大きな人口を抱える大国なので、兵士のなり手はいくらでもいた。
少なくともこの時期はそう考えられていた。
しかし重工業国として未熟な面が多いので、武器、弾薬をはじめとした各種製品の製造が問題だった。
だが、ドイツには既に多数の敵がいた。
言うまでもないが、アジアで唯一の列強にのし上がった日本帝国と、世界一の経済力と工業生産力を持つアメリカ合衆国だった。
1941年5月22日当時、日本とソ連はほとんど敵対状態だったが、一瞬にして戦略的状況が変化した。
文字通り「敵の敵は味方」となったからだ。
しかし、同盟関係や戦争協力が簡単に進んだわけではない。
互いに仮想敵国であり、深く対立していたのだから当たり前の話しだった。
しかもドイツの侵攻当初はソ連軍は善戦していたため、ソ連の側から日本へ譲歩する姿勢が小さかった。
それでも、ドイツが攻め込んだ当日にそれぞれの国の大使館にそれぞれの国の代表が赴いて戦争協力を打診した。
だがソ連側は権高で、中立か不可侵条約を結び、さらに日本に一方的に援助しろと迫った。
日本側は、これで中華民国との戦いと東南アジアへの進軍が出来るので、不可侵条約程度があれば十分と考えた。
敵の敵とはいえ、日本にとってのロシア人、そしてソ連は最も警戒すべき国だからだ。
それでも両者の協議が実施され、双方ともにザバイカル=満州里方面の軍の相互引き揚げに関する臨時協定が5月中に結ばれる。
アメリカのソ連に対する態度も、あまり好意的とは言えなかった。
当初は欲しいものが有れば売ると言う程度で、既に日本や自由イギリスを対象としていた貸与は、話し合いすら始められ無かった。
状況が激変するのは、ソ連軍がいっせいに崩れ始めた6月に入ってからで、ソ連政府は悲鳴のように日本、そしてアメリカの支援を求めた。
それでもソ連は、自国に都合の良いことばかり並べるため、最初はまともな話し合いにならなかった。
この状況を最初に動かしたのは、日本の山梨首相だった。
山梨首相は、まずアメリカとの間に協議を持ち、アメリカの了解を得た上でソ連との関係を軍事同盟以外の面で進めた。
まず行われていたのは、軍事同盟締結のための下準備だった。
今までの国際問題を棚上げした状態では進む話しも進まないので、特に問題のある日本とソ連の調整が行われたのだ。
ここで日本の大きな得点は、軍事同盟を結ぶのならソ連が行っている外交を修正するべきという点だった。
そして日本が言っているのは、ソ連が行っていた中華民国への支援の全面停止だった。
これが実施され、日本が東南アジアを征してしまえば、中華民国が勝手に白旗を振ってくる可能性が高まるので、日本としてはまず打っておきたい手だった。
満州のハルピンで、満州国のホストという形で日本の幣原外相とソ連のモロトフ外相との間に緊急会談が持たれたが、他国の事などどうでも良い状態に追い込まれつつあったソ連は、幣原が驚いたほど何の躊躇もなく中華民国を切り捨てた。
流石に中華民国への宣戦布告はしなかったが、これで日本との関係改善は大きく進む事になる。
そして日本側も、資源とのバーター取引という約束で、ソ連への物資供与を始める。
物資供与には、満州国、極東共和国も参加する事になり、ソ連に二つの国の存在をより深く認めさせる一手とされた。
会談がハルピンとなりホストが満州国とされたのも、日本(+アメリカ)の外交的勝利だった。
この交渉の結果、早くも7月半ばには最初の支援物資を乗せた列車が大連を発した。
そして以後、西に向かう列車は武器弾薬を中心とした加工品、東から来る列車には天然資源が満載されるようになる。
そしてこの列車運行で存在感を示したのが、満州経済の要となっていた東鉄こと「東亜細亜鉄道株式会社」だった。
この頃の同社は、すでに北東アジア一帯に広がる国際鉄道となっており、鉄道以外にも海運、航空などあらゆる運輸業に手を広げていた。
そればかりか満州国の各種産業にも手を広げており、巨大な財閥系多国籍企業となっていた。
もはや半民半官の会社とは言えない独自の資本を持つが、日本とアメリカの利益を代弁する国策企業だった。
この日本とアメリカ合作の資本主義の権化のような会社は、本来なら共産主義を掲げるソビエト連邦からは蛇蝎のように嫌われる筈だった。
しかしこの戦争では、全てを見なかったことにして救世主のように扱われた。
シベリア鉄道の運行にまで携わり、非常に効率的な運用を実施してみせた。
シベリア鉄道の保守、管理、補修の多くも担い、西シベリアの中心地ノボシビルスクまで実質的に乗り入れた。
しかし物資の流れが巨大化するには、最低でも10月を待たなければならなかった。
アメリカの貸与対象国としてソ連が支援を受けるのが1941年の10月だったからだ。
だが10月は、大きな転機の到来した月でもあった。





