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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ


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15/140

フェイズ11「WW2(5)ビスマルク追撃戦」-1

 1941年に入ったばかりの頃、欧州枢軸各国は海軍の大増強を決めていた。

 

 盟主のドイツは、1940年秋にZ計画を一部再開して、大型戦艦2隻、巡洋戦艦3隻、空母2隻の建造を再開を決定して、中止されていた建造が再開された。

 イタリアは各国からの資源供与、輸入を受けて、自らの艦艇整備を加速させた。

 フランスも、枢軸に正式に加わるようになった10月から新規艦艇の建造を再開し、近代化改装の促進を決め、そして自由フランスにまだ属していないフランス植民地各地の艦艇の説得を行った。

 

 海軍拡張計画の規模が最も巨大だったのはイギリス本国だった。

 イギリス本国は、自由イギリス連邦の殲滅と英連邦、植民地全ての奪回、そしてアメリカ打倒を旗印として、今までに倍する規模の艦艇整備計画を始動させる。

 

 1937年、38年の計画だと合わせて戦艦5隻、装甲空母6隻を中心とする計画だったが、1940年秋に策定された計画では、さらに大型の戦艦4隻、大型空母4隻の建造を中心とした、外洋での艦隊戦を目的とした強力な艦隊整備が行われることになる。

 既に建造が進んでいる艦艇の建造速度も促進される事になった。

 さらに1年ほど後の事だが、艦載機の開発がそれまでの空軍優位の形が多少改められ、かなりの努力が傾けられることになった。

 

 イギリス全体の戦争リソースも、本来ならドイツとの戦いで空軍にかなりが充当されただろうが、主な敵がアメリカ、日本となったので、海軍に多くの予算が傾注される事となる。

 この結果イギリス本国では、航空機関連企業の株が暴落し、造船各社の株が急上昇した。

 イギリス本土の造船は、第一次世界大戦頃のような有様へと急展開した。

 

 また欧州全体で、商船の規格化と大量建造に向けた動きが加速される事になる。

 理由は言うまでもないが、欧州だけで全ての物資、資源を賄うことが出来ないからだ。

 

 そして経済の動きが活発だったように、この時期のヨーロッパはまだ総力戦のための戦時経済に移行しているとは言い難かった。

 兵士の動員もまだ総動員とは言えず、ナチス・ドイツの急速な膨張と「欧州帝国」の突然の出現に危機感を持った他の列強の方が、戦争準備ではリードしているぐらいだった。

 


 そうした中で総力戦体制が最も遅れた列強だったイタリアが、ついに1941年2月に日本に対して宣戦布告した。

 ただし主に欧州外交、対ドイツ外交を重視した結果であり、資源の安価輸入や技術供与とバーターでもあった。

 

 欧州の他の国々がイタリアに求めたのは、地中海で遊んでいる状態のイタリア海軍を全力でアジアに派遣するというものだった。

 もちろん派兵のための各種燃料弾薬の供与も行われる事が決まり、イギリスは全ての拠点の使用も許した。

 加えて、主にイギリスがイタリアへの資源供与を優先する約束を行った。

 

 そして宣戦布告のその日、イタリア東洋艦隊がインド南端のセイロン島・ツリンコマリーに出現する。

 戦艦6隻、重巡洋艦4隻を中心とする堂々とした大艦隊で、イタリア海軍の総出撃とすら言える艦隊だった。

 しかも戦艦のうち2隻は最新鋭の《リットリオ》《ヴィットリオ・ヴェネト》で、他の旧式戦艦も徹底した近代化改装で有力な戦力だと考えられていた。

 何よりイタリア海軍全体が高速で重武装なため、高速大型艦艇が不足するイギリス東洋艦隊から非常に歓迎される事となった。

 

 そしてイタリア海軍のアジア派兵によって、アジアでの海洋戦力のバランスは一気に欧州枢軸優位に傾くこととなる。

 少なくとも戦艦戦力は、12対10と欧州枢軸が優位となった。

 このためイタリア東洋艦隊がシンガポールに進めば、日本は東南アジアに進めなくなると考えられた。

 

 またこのイタリア東洋艦隊は、イタリア史上初めてのアジア遠征であり、イタリア国内でも非常に注目された。

 ムッソリーニも、各国に恩を売りつつ国内向けにも派手な演説と宣伝を行ったほどだった。

 

 そしてイタリアが海軍の総力をインド洋に派遣したように、この時期の欧州各国は海での活動に精力的だった。

 


 大西洋では、イギリス、ドイツ、そしてフランス海軍による、アメリカを標的とした海上交通の遮断が最初のピークを迎えていた。

 

 ブリテン島からアフリカ西岸各地に至るまで欧州各国の艦艇が常時入り、洋上には潜水艦以外にも多数の水上艦艇が出没して、アメリカ海軍を翻弄していた。

 大戦初期に戦力外と考えられるようになった仮装巡洋艦までが、商船狩りをしていたほどだった。

 

 この時期大西洋では、自由イギリス連邦海軍はまだ組織の再編と本格的な戦争準備の段階だった。

 日本の「遣米艦隊」は、軽空母と水雷戦隊を持つだけの潜水艦キラーなので、後方で地道だが重要な対潜水艦戦に従事していた。

 遣米艦隊は、アメリカの市民からも自国海軍以上に信頼されていた。

 

 欧州各国の水上艦に対峙するのは、ほぼ総力を大西洋に移動したアメリカ海軍が矢面に立っていた。

 だが日本も主に政治面で黙って見ているわけにも行かず、アメリカの高速艦艇不足を考慮して、有力な巡洋艦(重巡洋艦《那智》《足柄》)を追加でカリブ方面に派遣して、多分に象徴的だがアメリカ海軍を側面援護した。

 大型高速艦の少ないアメリカは《金剛型》戦艦の派遣を望んだが、劣勢に立たされつつある日本側としては重巡洋艦2隻の派遣でもギリギリの決断だった。

 

 なお、欧州枢軸陣営が水上艦の運用を重視した理由だが、アメリカが開戦初期の混乱から徐々に立ち直りを見せるようになっていたからだった。

 一方的だった潜水艦によるアメリカ近海での海上交通破壊も、41年に入ると徐々にアメリカ軍から受ける損害が増えるようになった。

 潜水艦と戦うための武器を揃え、対潜水艦戦術を使いこなし始めたからだ。

 特にアメリカの沿岸での活動は、春には潜水艦でも厳しくなった。

 

 そこで欧州各国は、アメリカ海軍の艦艇構成に目を向ける。

 

 アメリカ軍の戦艦は重装甲、重武装だが、全て低速戦艦だった。

 新鋭戦艦の就役もまだ先だった。

 これに対して欧州各国海軍には、高速大型艦艇が多数あった。

 

 イギリス本国海軍が手元に保持した大型艦は巡洋戦艦 《フッド》《レナウン》があり、最新鋭戦艦の《キング・ジョージ五世》が1940年末に就役し、戦艦 《ロドネー》以外は全て高速艦だった。

 ドイツは巡洋戦艦 《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》、装甲艦 《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》に加えて、欧州最強と宣伝された戦艦 《ビスマルク》が新たに戦列に加わった。

 フランスは最新鋭の戦艦 《リシュリュー》は結局新大陸へ逃亡したが、戦艦 《ダンケルク》と《ストラスブール》があった。

 欧州枢軸全てを合わせると、20隻以上となる重巡洋艦もある。

 

 対するアメリカ海軍は重巡洋艦が12隻、大型軽巡洋艦が15隻あるが、全てを海上護衛戦に投じるわけにもいかなかった。

 このためアメリカ海軍では、大型艦艇対策として空母を1隻ずつ小規模な艦隊を組んで間接的な護衛任務に付けたりしたが、空母の数も十分ではなかった。

 しかも空母 《サラトガ》は、開戦すぐに雷撃を受けて長期ドック入りしており、まだ空母 《ホーネット》は就役していないので、空母数は根こそぎ集めても4隻だけだった。

 日本が自らの事情を無視して重巡洋艦を派遣したのも、アメリカの窮状を見てという側面も強かったのだ。

 2隻派遣された軽空母も、非常に重宝されていた。

 


 欧州連合海軍は、1941年1月〜5月にかけて、ほぼ毎月戦艦を含む任務部隊が主に北大西洋西部を荒らし回った。

 1月はイギリス、2月はフランス、3月はドイツ、4月はイギリス、5月はフランスとドイツが任務部隊を出した。

 欧州各国の艦隊は、アメリカ軍の大型機による哨戒を避けつつ航路を行く船を探し求めるか、また潜水艦の狩り場に誘い込んだ。

 一部は南大西洋にも出没して、アメリカ国籍、日本国籍の船を追い回した。

 

 日米そして何とか一部を実働状態に持ち込んだ英自由政府も、手をこまねいているわけではなかったが、最初は翻弄された。

 特に最初の二ヶ月は、北米大陸の近くにまで欧州が大型水上艦を持ち込むとは考えなかったので、戦略的にも奇襲攻撃を受けたようなものだった。

 

 アメリカが受けた損害も大きく、潜水艦と合わせて毎月50万トン以上の商船を失うようになった。

 

 主に狙われたのは他の地域とアメリカを結ぶ航路で、1941年に入るとアメリカ軍の哨戒機の活動圏外を出ると被害が増した。

 しかもイギリスなどは、自国領のジャマイカ島などに有力な航空隊を置くなどして、カリブ海での制海権を奪う動きを見せた。

 しかも欧州枢軸海軍は、依然としてカリブ海に艦隊も入れており、パナマ運河から北米東岸を目指す船団を襲撃した。

 潜水艦はメキシコ湾にも出没した。

 

 これに対抗して、アメリカも自国領内のキューバ、プエルトリコに飛行隊や守備隊、さらには小規模な艦隊も駐留させるようになるが、ある程度の体制を整えるまでにかなり手間取り、1941年春頃のカリブ海は両軍が入り乱れた状態だった。

 しかしカリブ海は、アメリカにとって「庭」であり本土から2000キロしか離れていないのに対して、ヨーロッパからは非常に遠い場所だった。

 このため欧州枢軸側も、いずれカリブ海に入ることが難しくなる事は十分理解していた。

 そしてその最後のチャンスと考えた時期が、1941年の5月だった。

 


 1941年5月13日、南米の仏領ギアナを経由してカリブ海へと入った戦列艦 《ダンケルク》《ストラスブール》、重巡洋艦 《コルベール》《フォッシュ》《デュプレ》による強力な通商破壊艦隊は、自ら搭載する偵察機によって目標とした船団を捕捉する。

 (※重巡洋艦は全て《シュフラン級》。ただしネームシップの《シュフラン》は自由フランスに所属して亡命。)

 船団は、当時編成が始まったばかりの護送船団コンボイ方式を取っており、日本の「遣米艦隊」が護衛任務に就いていた。

 この頃はまだ日米混合などの多国籍艦隊を組むまでに至っていなかった。

 一番近いアメリカ艦隊は、キューバのグァンタナモにいたが、英本国領のままで駐留軍もいるジャマイカと目と鼻の先のため、動くに動けなかった。

 

 同船団は、輸送船を大小12隻を第五水雷戦隊の約半数に当たる軽巡洋艦《酒匂》と駆逐艦6隻が直接護衛していた。

 また、枢軸海軍がカリブ海に入っているという情報が得られていたため、重巡洋艦《那智》《足柄》、駆逐艦4隻の艦隊と、軽空母《瑞鳳》、駆逐艦4隻の艦隊が少し離れた場所で間接的な護衛任務に就いていた。

 当時の「遣米艦隊」としては、アメリカ東部沿岸で整備、休養中の第三水雷戦隊を除いた総力を挙げた戦力であり、護送船団方式の護衛作戦に力を入れていたことを見ることができる。

 

 なお当時の日本海軍は、軽巡洋艦1隻に4隻編成の駆逐隊4つを合わせて一つの水雷戦隊を編成し、1941年春の時点で連合艦隊所属が6個戦隊あった。

 これとは別に、海上護衛艦隊所属で旧式駆逐艦、海防艦などによる護衛戦隊が予備や編成中を含めて10個戦隊あった。

 

 このうち2個水雷戦隊が当時の「遣米艦隊」の実質的な主力で、アメリカ海軍の充実に伴い主にカリブ海で活動していた。

 


 フランス艦隊から出撃した偵察機は、発見報告の後に通信を絶った。

 日本の艦載機に撃墜されたためだが、すでに距離を詰めれば砲雷撃戦を挑めるところまで近づいていたので、フランス艦隊は躊躇せずに戦闘速度で突撃を開始した。

 

 これに対して日本艦隊は、船団を守るため相手の行動を邪魔する作戦を徹底する。

 このため軽空母《瑞鳳》からは、本来は潜水艦を沈める攻撃機になけなしの対艦攻撃兵装を施して出撃させ、重巡艦隊が船団との間に入った。

 

 「第一次カリブ海海戦」の最初の一撃は、軽空母を持つ日本艦隊だった。

 軽空母《瑞鳳》はなけなしの対艦用爆弾を艦載機に搭載して(航空魚雷は搭載されていなかった)、最初の6機から始まって出せるだけの攻撃機、爆撃機を五月雨式に出撃させた。

 この時、あまりにも対艦装備が少なかった為、その後の補給では若干数の航空魚雷や大型の徹甲爆弾の補給が要請された。

 

 同時に重巡洋艦《那智》《足柄》と駆逐艦4隻の艦隊が、護衛船団から敵を引き離す進路に徐々に変えつつ、敵に向かって巧妙な突撃を開始する。

 

 今まで一方的な商船攻撃しかしたことがなかったフランス艦隊は、積極的に反撃されることを想定していなかったため、突撃したにも関わらず初動が遅れた。

 

 それでも突撃してくる日本艦隊に対して同航戦を挑むべく単縦陣を組んで、《ダンケルク》と《ストラスブール》は彼女たちしか搭載しない4連装砲塔2基8門の52口径33cm砲を用いて、距離2万5000メートルで砲撃を開始する。

 多少の混乱はあったが、初の敵大型艦との戦闘にフランス艦隊の士気も上がった。

 

 しかし日本艦隊がこまめに進路を変えつつ進むため、照準がまともにできないので砲弾はまるで命中しなかった。

 しかも砲撃開始から10分ほど経過すると、砲撃開始当初すでに姿が見えていた日本軍機が空襲を開始する。

 

 この頃のフランス海軍の艦艇は、世界に先駆けて装備した13cm両用砲、9cm高角砲を主な対空砲として、ホチキス社の37mm機銃、13.2mm機銃という防空範囲を分けた対空機銃も装備していた。

 装備数も当時としては多いぐらいで、防空能力は当時の日本海軍より高いぐらいだった。

 しかし、対空射撃訓練が不足していたし、日本軍機を侮っていたし、何よりまず日本軍機を知らなかった。

 しかも単縦陣形のため、連携した防空戦闘は望むべくもなかった。

 

 日本側は、すでに砲撃を開始している戦艦2隻に攻撃を集中したが、後方を進む重巡洋艦は多少高角砲の射撃を行うだけで、戦闘を半ば傍観した状態となった。

 

 そして砲撃戦のため真っ直ぐ進むだけの艦は、非常に狙いが付けやすかった。

 潜水艦への攻撃訓練ばかりしていた日本軍機だったが、海中へ逃れる潜水艦への急襲は得意だったので、潜水艦よりはるかに大きな戦艦は、対空砲火さえ考えなければ当てやすかった。

 


 日本軍機による空襲は、五月雨式ながら命中弾、至近弾が相次いだ。

 しかし、主な装備が60kgから250kgの爆弾だったので、大きさに比べて重防御だった《ダンケルク級》のバイタルパートを貫くには至らなかった。

 それでも五月雨式に襲来する日本軍機は、後続する重巡洋艦に対してはかなりの有効な打撃を与えている。

 さらに機銃掃射などで、日本艦隊への攻撃の妨害も行っていた。

 そこに日本軍の《那智》《足柄》が、距離2万メートルという重巡洋艦にとって大遠距離射撃を開始して、フランス艦隊に混乱が広がった。

 さらに日本軍全てが猛烈な勢いで接近しつつあり、空と海どちらの戦闘を重視するかでフランス艦隊の混乱はさらに広がる。

 海と空の双方からの同時攻撃は、当時の艦艇全てにとって想定外の事態だった。

 

 だがそれも、重巡 《コルベール》が船体中央に直撃を受けてボイラーの多く(数は諸説有り)が破壊され速力が落ちると、空襲を重視して各個に回避行動を取ることとなる。

 その頃には、上空を乱舞する日本軍機の数は20機近くになっていた。

 そして日本軍機は、投弾が終わっても上空に止まり、機銃でフランス艦隊を妨害する機会を伺っていた。

 中には欺瞞で襲撃動作を行う機体もあった。

 

 しかも日本の重巡洋艦は観測機を出して射撃しており、射撃はフランス艦隊よりも正確になった。

 そして1弾が《コルベール》のタービンを打ち抜き、《コルベール》の急激な速度低下でフランス艦隊が戦列を乱してしまう。

 

 そこを突かれて、日本軍急降下爆撃機の爆弾が、相次いで《ストラスブール》と《フォッシュ》に命中。

 《デュプレ》以外が何らかの大きな損害を受けたフランス艦隊は、ついに後退を決意する。

 もちろん護送船団には近寄ることすらできず、散発的な空襲を受けつつの惨めな敗走となった。

 しかも速力が半減した《コルベール》は、援護を受けながら脱出を図るも逃げ切れず、急接近した《那智》《足柄》からの本格的な砲撃を受けて損害が広がる。

 さらに日本軍水雷戦隊に追いつかれ、近距離から雷撃を受けて駆逐艦数隻に損害を与えるも敢えなく大破して戦闘力を喪失。

 その後、日本艦隊に降伏するが、そのまま曳航されて、フランス救国政府の艦艇として復活するという珍しい運命を辿ることとなる。

 

 なお、南シナ海海戦と違い、戦力で勝る艦隊が積極的に攻めたにも関わらず敗北、後退した事は、水上戦闘と空襲の双方に対処する事の難しさを見せる戦いとなった。

 また水上戦闘での制空権の大切さを伝える典型的といえる戦闘だったが、その教訓を双方共に十分に実感するには至らなかった。

 この戦闘は、小型艦でも相手より数が多ければ優勢な敵を撃退できる一例だと考えられた。

 そして、フランス海軍の士気と練度が低いという評価を心理面で印象づける事となった。

 (実際はそのような事はなかった。)


 カリブ海で失敗した欧州連合だったが、大型艦による水上戦はまだ諦めていなかった。

 むしろ拡大させた。

 

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