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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
139/140

フェイズ94「日本の戦中と戦後の変化」-2

 日本海軍は、兵士(水兵)を減らす事はともかく、どの艦艇を残すかで頭を悩ませた。

 

 北海で連合国海軍各国と合同の史上空前の「戦勝大観艦式」を、その翌年5月に日本単体での「天覧戦勝特別大観艦式」を浦賀沖で盛大に執り行う事で、戦前の国防を支えてきた艦艇たちへの最後の花道を用意して手向けとできた。

 その様は多くの記録としても残され、当時の「空前絶後」ぶりを後世にも伝えている。

 

 そして最後の花道を飾った1930年代までに建造した艦艇、近代改装をしなければ現役維持が難しい艦艇については、ほとんど退役もしくは予備役が決定された。

 

 だが、それだけしても、1930年代後半から戦争中にかけて実施された軍備拡張は規模が大きすぎた。

 戦争中に新たな主力艦となった大型装甲空母だけで12隻も就役していた。

 

 戦艦は6隻が新たに戦列参加しているが、本来なら老朽化に伴う退役と交代を行う予定だったので、むしろ建造途中で放置されてる2隻の《大和型》戦艦の建造再開をしなければならないほどだった。

 何しろ、厳しい予算枠を前に、《長門》《陸奥》ですら予備役の予定だったからだ。

 だが、航空母艦こそが新たな時代の主力艦艇であり、戦争前までに就役した大型、中型空母は4隻に過ぎなかったから、その分も戦艦にしわ寄せがいった。

 

 戦前は、戦艦、空母(中型以上)合わせて14隻が、終戦時には新たに就役したものだけで18隻も増えていた。

 加えて、それぞれ2隻以上が建造中だった。

 

 それでも軍の規模自体が大きくなったので、事が戦艦と空母だけなら何とか海軍が求める数の維持も可能と考えられた。

 それに同じ空母でも、小型の護衛空母は全てアメリカに返還するか、国産のものは実験艦枠以外は退役予定だった。

 戦争中に予想以上に奮闘した高速軽空母についても、多くが予備役予定で一部は別用途で活用したり、補給艦などへの再度の改装が決まっていた。

 

 問題は巡洋艦以下の補助艦艇だった。

 

 特に駆逐艦が建造され過ぎていた。

 


《月型》直衛艦:12隻

《綾瀬型》軽巡洋艦:4隻 《吉野型》軽巡洋艦:8隻


《朝潮型》駆逐艦:12隻 《陽炎型》駆逐艦:24隻

《夕雲型》駆逐艦:114隻(一部未就役)

《神風型》駆逐艦:22隻(さらに14隻が建造または計画中)

※護衛駆逐艦はアメリカからのレンドリースなので返還予定。

 


 1937年度計画以後の艦艇は、これだけ建造されていた。

 

 このため大戦を戦い抜いた重巡洋艦7隻のうち旧式の3隻は退役、《妙高型》4隻も予備役編入が決まった。

 《妙高型》も1949年で艦齢20年なので、やむを得ないと判断された。

 だがその後《妙高型》4隻は、満州帝国、インド、イラン、タイへとそれぞれ1隻ずつ予備部品と整備保障を付けた上で払い下げられ、見た目の勇ましさと武勲もあって、それぞれの国の象徴的旗艦として第二の人生を送ることとなった。

 中には、日本で大規模な近代改装した例もあった。

 

 軽巡洋艦は、1920年代建造のものは旧式化が著しいため、実験艦などを除く全艦が一斉退役。

 1930年代半ばに建造された《最上型》《利根型》《大淀型》《阿賀野型》は、近代改装予定とした上で一応残される事となった。

 練習巡洋艦の《香取型》4隻についても、装備を一部近代化した上で、練習艦に戻す予定が立てられた。

 

 駆逐艦については、《朝潮型》以前は全て退役。

 《朝潮型》も予備役が予定された。

 それ以後建造の駆逐艦についても、乗組員の手当がつかないため、全体の4分の1は半ば予備役状態に置かねばならないほどだった。

 建造中の《神風型》も、6隻が建造キャンセルされた。

 

 一番ましだったのは、戦争中盤以後の活躍が限られ建造数もしぼられた潜水艦だった。

 だが、もともと日本海軍の潜水艦は水上速力重視で、潜水艦の特徴といえる隠密性、静粛性能に問題があったため、大戦後半以後に就役した新世代型のみ残して残りは退役させざるを得なかった。

 


 そして一通り艦艇の整理を準備していた海軍だったが、政府、大蔵省からはさらなる縮小を強く勧告されてしまう。

 しかもここで、大蔵省が職員出向で縮小に直接口出しすると脅してきたため、海軍としては断腸の思いでさらなる縮小を決定する。

 

 海軍の縮小幅が一見大きいのは、艦艇の大型化に伴う1隻当たりの運用経費と乗組員の増加が主な理由とされた。

 しかし実際は、新たな敵となったソ連に当面は有力な海軍力が無く、しかも日本近海ではとりわけ希薄だった事が主な理由だった。

 

 この結果、就役から10年も経っていない1937年度計画艦までも、一部予備役対象とせざるを得なくなった。

 

 1950年の時点で現役を許された艦艇の大枠は、戦艦4隻、空母12隻、巡洋艦32隻、駆逐艦112隻、潜水艦40隻に過ぎなかった。

 1隻1隻の規模が大きくなったが、数自体は戦争中の大拡張前に近かった。

 戦艦が4隻なのも、あまりにも建造年が若すぎたのが主な理由に過ぎなかった(※その後、ソ連の海軍拡張で一部見直しされている。)。

 また、補給艦、工作艦などの補助艦艇の多くも、役目を終えたとして多くが民間に払い下げられるか解体された。

 しかし有事に必要と言うことで保管艦、保管船指定を受けた艦船も一部に見られた。

 

 そして1950年の時点でも、艦齢10年以下の若い艦艇が実質的に泊地の片隅で予備役艦として係留されるだけになるという、戦前では考えられない異常事態となった。

 

 これが日本海軍関係者が水面下で言うところの「旧海軍全滅」だった。

 実際、戦前及び戦争初期に建造した武勲輝く艦艇のほぼ全てが、二度と現役復帰することはなく、残された艦ですらそのまま余生を送らざるを得なかった。

 退役後に標的艦になれば運がいいと言われたほどだった。

 そして、帝国海軍に最も打撃を与えたのは、ドイツ軍や欧州枢軸陣営ではなく大蔵省だと、長らく海軍は大蔵省を深く静かに恨む事になる。

 

 そうした中で、実験艦、試験艦として何隻かの旧式艦艇がその後かなりの期間活動している。

 戦争中に新装備実験艦となった軽巡洋艦《夕張》、戦艦《扶桑》が最たる例で、大型の《扶桑》は戦艦としての主砲こそ全て降ろしたが、広いプラットホームを利用して、新型の6インチ両用砲を搭載したり、1950年代には誘導ミサイルの装備一式を搭載したりしている。

 アンテナや新型レーダーもさらに幾つも搭載したため、特徴だった上部構造物がさらに複雑化した。

 また、1940年就役のタンカー改造の特設空母《大鷹》は、ヘリ搭載母艦の試験艦となった。

 

 軽空母のうち《祥鳳》《瑞鳳》《瑞穂》は空母機動部隊随伴型の高速補給艦へと改装され、《千歳》《千代田》は一時期予備艦になるも新世代の潜水艦母艦へと装いを一新した。

 

 大型空母では《翔鶴》が練習空母とされ、《瑞鶴》は次世代装備の実験艦指定を受けて、ゆっくりとしたペースながら大規模な近代改装工事に入った。

 《瑞鶴》は次世代型の試験艦として徹底した近代改装が実施されたため、その後長らく活躍する事もできた。

 それ以前の空母は、《赤城》が予備艦指定の後に署名運動のおかげもあって記念艦保存された他は、全て若干の予備役期間を挟んで解体された。

 

 旧式戦艦は、見た目の勇壮さから退役決定後も地方自治体からの引く手数多だった。

 《長門》が予備艦指定の後に海軍の記念艦として呉で保存された他にも、《伊勢》が伊勢湾、《金剛》が大阪湾、《榛名》が東京湾に残されている。

 ついに予備役のまま退役した《高雄》《愛宕》も、1970年代に舞鶴、大阪湾で記念艦として保存されている。

 


 そして海軍の中で揉めに揉めたのが、「空軍」移籍に関する航空隊の配分だった。

 何しろ小型機のパイロットは陸海双方の配置につくのが一般的だったし、大型機でも対潜哨戒機は海軍に残すのが必須と考えられていた。

 

 だが、海軍将校の基地航空隊派とでも言うべき急進派は、艦艇搭載機以外は全て「空軍」に移管するべきだと論陣を張った。

 しかも、航空隊の基地の多くも空軍に移管するべきだとした。

 これで海軍内の対立が激化し、政府、軍需省が仲介するまで揉め続けた。

 結局、空母艦載機、艦艇搭載機、対潜哨戒機部隊、水上機、飛行艇部隊が海軍に残され、その他のほとんどは「空軍」に移管された。

 基地については、半分以上が海軍に残ることとなった。

 


 そして「空軍」設立を含めた軍の大改革が、軍の再編成の中で政府主導で断行された。

 

 軍の再編成時期に行われたのは、陸海軍の航空戦力が第二次世界大戦中に肥大化と言うレベルで拡大し、膨大な予算を消費するようになっていたからだ。

 

 しかし「空軍」設立に対して、陸海軍双方が反発した。

 もう一つ省庁が増えて、予算の奪い合いが激化すると考えたからだ。

 士官学校なり兵学校を新たに作るなど、新たな組織作りのために莫大な予算も取られると考えた。

 何より、陸海軍それぞれに特化した航空戦力を奪われることに難色を示した。

 

 だが政府は、「無駄」をする気は一切なかった。

 それどころか、軍全体のさらなる効率化と政府統制の強化を画策した。

 この明治建軍以来の大改革は、軍以外の政府関係者ばかりか陸海軍の当時のトップを筆頭として多くの「心ある人々」が関わっていた。

 

 と言うのも、大日本帝国憲法では軍権(統帥権)は、名目上ではあるが天皇が持っていた。

 1930年代後半の軍の混乱期には、これを利用しようとした軍人、政治家も現れた。

 そうした事が二度と起きないように、戦争が連合軍優勢となった1943年頃から、真剣に軍の大改革が軍の肥大化と半ば平行する形で本格化する。

 

 そして最大の「一撃」として、大日本帝国憲法の大改革が実施された。

 

 「内閣は天皇を補弼する」の一文により、軍の統帥権は正式に天皇から離れ、政治家の手に委ねられたのだ。

 そしてこれにより「国体」という日本でしか通用しない政治体質も根拠を失って霧散させられ、内閣、議会の権限が制限される事も正式に無くなった。

 その他詳細については後に述べるとして、軍に関わることを続けよう。

 

 軍の大幅な改革に騒いだのは、ごく一部の政治好きの軍人だけだった(※以前の「政治将校」の主力は、満州軍に移籍していた)。

 同時に行われた憲法大改定で、主権者が天皇から国民へと移行され、それを巡る議論で国中が大騒動になっていたからだ。

 

 国の在り方すら変える「天皇主権」から「在民主権」への移行は、国民への報償の大黒柱であり今後の日本の在り方を世界に示すため行われたので、混乱はあっても誰も否定することが出来なかった。

 それでも武力テロにすら訴えようとした者も出たが、警察組織によって徹底的に取り締まられた。

 軍内部でも、永田陸軍大臣の懐刀の東条大将が、憲兵を用いて軍内部を完全に押さえ付けた。

 海軍内からの反発は弱かったが、これは海軍内部での「空軍」を巡る対立の為だった。

 


 そして軍人達以外があまり気にしなかったので、軍の大改革は国会で次々に断行されていき、ついには省庁の統廃合にまで発展する。

 

 明治以来、日本は陸軍省、海軍省が並立していた。

 これを一つにまとめる考えは、第一次世界大戦の頃からあったが、軍人達の反発でうまくはいかなかった。

 しかし第二次世界大戦での軍の肥大化は、軍人達ですら自分たちで組織が制御できないレベルに到達しつつあることを実感させた。

 軍需省という総力戦を行うための行政組織を作っていなければ、混乱の中でのたうち回り続けた事は疑いなかった。

 しかし反面、軍人達は半ば以上に文官組織である軍需省を、戦争が進むと共に警戒するようになる。

 組織が巨大化し、権限も拡大する一方だったからだ。

 

 だが、軍需省の拡大こそが、政府の思惑だった。

 というのも、軍需省を中心として戦後の軍の行政組織の再編成を目指していたからだ。

 そして前線での戦いにかまけていた軍人達が気付いた頃には、もはや政府の動きを止めるには盛大な軍事クーデターでも起こすしか手だてが無くなっていた。

 

 それまで曖昧だった文官、武官を行政組織と実戦部隊で分割するが、どちらに属するかは当の軍人達に決めさせた。

 推薦や引き抜きもあったが、建軍当初から軍政向きの軍人は非常に多かったので、残された個人の記録などからは「ホッとした」などと言った言葉を数多く見ることができる。

 

 新たな組織名は「兵部省」。

 他国で一般的な「国防省」にしなかったのは、主に軍人達の心理に訴えるためだった。

 「兵部省」という組織名は、明治建軍の頃の一時期にも存在しており、古いものを踏襲することで心理的問題を少しでも回避しようという目論見があった。

 事実、「兵部省」という名は非常に好評だった。

 

 もっとも対外的には「国防省デパートメント・オブ・ディフェンス」と翻訳されていた。

 

 そして「兵部省」のもとで各実戦部隊が統合運用されることになるが、天皇の統帥権も憲法上消えたことをうけて「大本営」も正式廃止が決定。

 「軍令参謀本部」が新たに設立された。

 

 なぜ名称が「軍令参謀本部」なのか。

 理由は非常に単純で、海軍の司令部組織である「軍令部」、陸軍の司令部組織である「参謀本部」を合わせた名称にすぎないからだ。

 このため「統合参謀本部」などの名称が採用される事はなかった。

 実に日本の官僚組織的と言えるだろう。

 


 そしてようやく「空軍」の話になるが、空軍に属する予定の軍人達の政治力学を考えると、ほぼ自動的に海軍航空隊が中核になりそうだった。

 というのも陸軍航空隊は戦前は規模が小さく、属する高級軍人も少なかった。

 しかも航空隊を後押しする陸軍の高級軍人も非常に少なかった。

 戦争終盤でも陸軍航空隊を率いているのは、最高位で中将に過ぎなかった。

 部隊規模を考えれば大将が複数いなければおかしいのだが、それが陸軍航空隊の現実だった。

 一方海軍は、空母という兵器があった事もあって早くから航空隊への理解も深く、戦前から部隊規模の拡大にも余念がなかった。

 戦争中も、前線ですら大将が部隊を指揮している。

 そして「空軍」設立をすることが決まると、何人もの専門知識豊富な海軍所属の大将、中将たちが空軍への移籍を望んだ。

 

 その現役トップが、嘱望された軍需省(兵部省)に行かなかった井上成美大将で、最初の空軍長官もしくは総司令官は彼に決まったも同然だった。

 (※彼の空軍移籍は、源田実(当時少将)を押さえ付けるためと言われている。)

 だが、「空軍」が海軍軍人主導になることは、陸軍軍人としては抵抗感が強かった。

 また陸軍に残る軍人達が、今更のように強く反発した。

 そしてこのままでは第一次世界大戦が終わった頃のように、空軍設立の話は流れてしまいかねなかった。

 

 しかし今回は新たな「省」を作る必要がない事が、「空軍」設立を後押しした。

 だが、それでも陸海軍の溝が埋まることはなく、妥協案として日本軍としての「空軍」は新たに二つ設立される事が決まる。

 

 もと海軍航空隊を母体とした「戦略空軍」。

 もと陸軍航空隊を母体とした「防空空軍」だ。

 

 「戦略空軍」が遠隔地への進出など攻撃的任務を担当し、「防空空軍」が近距離戦術任務と防空全般を担当する。

 これにより大型爆撃機は「戦略空軍」だけが保有する事になり、自前の基地、施設以外の高射砲、高射陣地は「防空空軍」の管轄になる。

 また対外的に「防空空軍」は、一般的な「空軍」と「防空軍(高射砲軍)」の二つを合わせた組織と説明された。

 一方で「戦略空軍」の方は、名称を聞いたアメリカの同業者が先を越されたと勘違いしたりもした。

 

 また一方で、海軍内では海軍陸戦隊の分離独立問題があったが、これ以上軍を分けることに海軍全体が強い警戒感を示し、また陸海軍の政治交渉の結果として、海軍陸戦隊自体を大幅に縮小することで対応された。

 この結果、海軍陸戦隊は、以前からの海軍施設の警備部隊と戦闘的ながらも小規模な陸戦部隊に再編成され、今まで任務に含まれていた日本の海外利権の警備からは外される事となった。

 また、大規模強襲上陸の任務も陸軍に一任される事となり、陸戦隊は精鋭化が進められた。

 

 そうして旧海軍陸戦隊第一空挺団を中核として誕生した「海軍陸戦隊・長距離偵察隊」(海軍陸偵または海長偵。

海外からはネイビー・コマンドなどと呼ばれた。)は、陸軍の機動連隊(機連)と並ぶ歩兵部隊の精鋭(=特殊部隊)としてその名を世界に知られるようになっていく。

 

 そして軍を分けた時点で問題視されたのが、「戦略空軍」と「防空空軍」の士官養成施設と、陸海軍がそれまで持っていた文官官僚用の経理学校の統廃合問題だ。

 陸軍は一足早く「陸軍航空隊学校」を作っていたので「防空空軍」の学校はそのまま改変が予定されたが、海軍の方は今まで同じ学校だったため、全てを一から整備せざるを得なくなった。

 

 また兵部省の文官官僚については、基本的には一般大学から試験を経て任官するのは他の省庁と同じとされたため、軍人達からは基本的に切り離され、シビリアン・コントロールをより強化させる事となった。

 軍の士官学校での教育でも、文官養成のカリキュラムは原則的に廃止された。

 


 また、軍とは直接関係ないが、欧米諸国と比べて複雑化していた学校制度は、海外留学をし易くするためと何より軍人、官僚の養成を目的として平行して改革が実施された。

 そして軍においては、特進を除く18才からの士官養成学校への入校が定められた。

 (※幼年学校は既に廃止されている。)

 一般教育では、国民への報償も兼ねて男女同権を進める事にもなり、「教育基本法」「学校教育法」を整備して一気に学校制度がスリム化された。

 いわゆる「小中高大」の制度が作られたわけだが、この時点での完全な改革を一気に行うことは難しく、10年以上の歳月をかけて順次移行していく事になる。

 

 この中で最後まで議論されたのが、特進制度だった。

 教育者、知識人の中には、「教育の平等化」を掲げる共産主義的な考えの者が少なくなく、また産業界が求めるのも農業または工場労働に向いた平準化された国民だったため、一時は廃止の方向で話が進んだ。

 

 だが、冷戦構造下での学術面、技術面での国際競争力の強化が国家規模で優先されることになり、欧米自由主義諸国に準じる特進制度は維持されている。

 特に「理系」と呼ばれる数学、理科が関わる分野では、幼い頃からの英才教育が奨励された。

 成績優秀者に対する無償奨学金制度も、むしろ戦前より大幅に強化、拡大された。

 

 ただし軍の将校になるには、学業以外の体力や胆力も求められるため、18才以上の入学しか認められなかった。

 しかしこのため、一度大学まで卒業してから将校を目指すという超成績優秀者も若干数だが現れる事にもなる。

 

 また「教育の民主化」の動きに関しては、戦後すぐは改革に向けた動きも強かったが、冷戦構造の成立に伴って中断されている。

 


 話が少し逸れたが、陸軍38万、海軍16万、防空空軍9万、戦略空軍7万が各軍の構成要員となるが、それは1950年春に達成の予定だった。

 そして戦争中に動員以外でも正規の将校、下士官を増やし過ぎたため、1946年から1950年度の各学校の募集人員は大幅な減少を余儀なくされ、この人数差のギャップ解消には、動員解除や早期除隊を行ってもなお長い時間を要する事になった。

 

 それでも軍全体は、数年がかりではあるが落ち着きを取り戻し、「冷戦」という新たな時代に対応していく事になる。

 

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