フェイズ94「日本の戦中と戦後の変化」-1
日本帝国は、第二次世界大戦と戦後改革で大きく変化した。
一般的には、新興国から先進国へ、地域大国から世界大国へと大きく発展したと言われる。
しかも変化は、社会面、政治面などほとんどの面に及んでいた。
第二次世界大戦が、それほどの変化を日本に促した。
第二次世界大戦までの日本は、列強の末席を占めてはいたが、先進国ではなく新興国だった。
近代工業の発展で急速に変化しており、1930年代にはヨーロッパ列強に並ぶか一部越えるほどの重工業力を実現したが、先端産業を中心に欠けるところも少なくなかった。
また、新興国であるだけに、社会的な富みの蓄積という点で特にヨーロッパ諸国に大きく劣っていた。
街並みを見れば、それは一目瞭然だった。
出来たばかりの巨大な工業コンビナートのすぐ近くには、江戸時代の民家がまだ軒を連ねていたりしたのだ。
それでも1920年代、30年代に大きく塗り替えられつつあったのだが、第二次世界大戦で急停止もしくは急転換を強いられる。
全ての国力を戦争に費やさなくてはならなくなったからだ。
各種産業のうち、戦争に必要な鉄鋼、機械、造船、石油化学など重工業に重点が置かれ、軽工業の食糧、衣料(繊維)は特に民需用が最低限へとしぼられた。
化学産業ですら、人工肥料よりも火薬の製造のため生産が激減した。
それでも日本は、ヨーロッパ諸国ほど国力を戦争には傾けず、最低でも10%を国内経済の維持、発展に使うことができた。
これはアメリカが国力の4分の1を国内経済に傾けられた事と比べられるが、主要参戦国でアメリカ以外に国内経済に配慮できただけ、日本は幸運であり経済力もあったと言える。
終戦時の国家の消耗も最低限だった。
それでも日本は、国家の総力を傾ける戦争のため、国内に対して戦時統制を実施せざるを得なかった。
有名なのは1940年9月公布の「国家総動員法」だ。
とにかくこの法令によって、日本は全ての国力を戦争に投じる体制を作った。
だが反対に、長い総力戦を戦い抜くためには国民の生活を守らなくてもならなかった。
(※フェイズ51「WW2(45)」参照。)
一方では、国民の健康衛生に関しても劇的な変化があり、既に内務省から独立していた厚生省によって、兵士ばかりか国民全般の健康衛生は制度面、実施面の双方において劇的な近代化と進歩を遂げている。
この結果、日本人の平均寿命が、戦争中ですら大きく伸びたほどだ。
また国内での戦費調達のため、国民に対して精力的に貯蓄が奨励され、銀行などに貯まった膨大な資金で国債を購入し、さらには国民に消費させない事でインフレを抑制するという政策も推進された。
「欲しがりません勝つまでは」は、1940年秋に登場した言葉だ。
連動する形で、多くの娯楽、贅沢が「戦地の兵隊さんの苦労を思え」という押しつけで抑制され、第三次産業は大きな停滞にも見舞われている。
「非国民」も、第二次世界大戦中に広く流布した言葉だ。
そうした政府による強引なインフレ抑止政策は成功を収め、開戦時1ドル=3.3円程度のドルとの為替レートは、終戦時でも3.6円と1割程度しか上昇していない。
アメリカ・ドルとのインフレ差が10%程度で済んでいる事自体が、日本の戦争経済運営の成功を雄弁に物語っている。
一方で戦争で必要な物資確保のため、国民に対しては様々な物資が配給制となった。
ガソリンが一番有名で、衣料品など生活必需品の一部も対象となった。
衣服では「国民服」が奨励されたりもしたほどだ。
衣服の再利用も非常に流行った。
しかし、日本政府が一番恐れていた食糧配給に関しては、一部もしくは一時期を除いて配給制を導入しなくて済んだ。
国内では、農業従事者の多くが兵士や工場勤務となったため、依然として労働集約率が高かった農業生産力が大幅に低下したが、食糧に関しては一時を除いて国外から大量に入ってきたからだ。
日本の食糧供給拠点である満州からも、特に途切れることなく食糧は輸入され続けた。
戦略資源の一つとされた砂糖ですら、配給は一時的に止まったが値段もほとんど高騰していない。
それまで欧州向けだった紅茶やコーヒーなどの嗜好品は、むしろ戦中になだれ込んできて大きく広まっている。
アメリカのレンドリースの一部も、戦地ばかりか日本国内に入ってきた。
日本は枢軸の侵略は受けなかったが、外食の侵略を受けたと言われるほどだ。
お米(ジャポニカ米)が食べられなくなった事を嘆く国民も当初は少なくなかったが、大量の小麦と各種高カロリー食品の濁流といえる流れがそれを解消させ、日本人の食生活そのものを大きく変化させてしまう。
戦地に赴いた兵士が持ち帰った世界中の食べ物と体験が、戦後の日本人の食生活を変化させたと言われることも多いが、国内での変化も大きな要素だった。
だが、国内にほぼ存在しなかった支那風料理、インドのカレー、中東のケバブ、地中海沿岸料理は、海外へ従軍した兵士達が現地で味とレシピを覚えて持ち帰ってきたものだ。
中には羊料理など当時の日本人の口にはあまり合わないものもあったが、日本人の食の国際化(グローバル化)は第二次世界大戦抜きには語れない。
アメリカ料理(主にファストフードの原型)も、主にアジアに派兵されたアメリカ兵を通じて流れてきたものだ。
また、海外に従軍していた兵士達は、食べ物、酒類以外の海外文化も多く持ち帰ってきていた。
洋服など服飾のバリエーションが著しく増えたのは、間違いなく兵士達が持ち帰ってきたものが影響していた。
音楽、娯楽なども同様で、戦後に広まったものも多い。
アメリカ製のタバコが爆発的に普及したのも、アメリカのレンドリース品の影響だ。
また、欧米文化の影響で忘れていけないのが、いわゆる「西洋賭博」だ。
トランプを使ったものからルーレット、スロットマシンに至るまで、兵士達は多くの遊技賭博に触れる機会があった。
特にトランプは前線でも気軽に遊べるため、日本の花札を押しのけるほど流行ったと言われる(※逆にアメリカでは、花札が一時的に広まる切っ掛けになった。)。
また、主にアメリカに一時期滞在した兵士達が、西洋賭博に触れる機会が多かった。
そうした経緯から、戦後日本国内では俄に西洋賭博場が「遊技」「娯楽」として、タバコやお菓子などの景品交換の形で爆発的に普及。
暴力団と結びつく事で、一気に社会問題化する。
このため、早くも1948年には公営を含めた賭博に関する法律が大幅に改訂され、西洋賭博は厳正な審査を経た業者が限られた区域でしか営業できない、半公営賭博に指定された。
この影響で、昭和初期の頃から一部にあった「パチンコ」も同種の賭博の対象とされ、西洋賭博と競合する形で行き場を無くして実質的に消滅してる。
こうした変化が見られたように、第二次世界大戦は多くの日本人が海外に出ていったという点で歴史的に大きな意味があり、同時に大きな変化をもたらす切っ掛けとなった。
だが、海外に赴いた人々はあくまで従軍で、戦後の改革を行う前にしなければならない事があった。
つまり軍の動員解除だ。
第二次世界大戦において、日本軍は日本史上で最大規模の軍隊を作り上げた。
最大で約400万人が動員され、さらに軍属として100万人以上が従事している。
約7年間もの戦争だったため、兵士となった若者の数は総数700万人を越える(※戦争中も、数字の上では毎年50万人以上の若者が徴兵可能となり、戦争中でも年齢により除隊する兵士は多数いた。)。
総人口比率で言えば約9%で、この比率は主要参戦国の中では満州帝国に次いで低い。
戦場が常に遠隔地だったため、日本の財政と生産力で「遠征軍」を支えられるのがこの程度までだったからだ。
このうちヨーロッパまで派兵された陸軍関係が、最大で約200万人。
ヨーロッパは約2年間戦場となったので、交代を含めると延べ300万人が派兵された事になる。
さらに同時期、つまり戦争末期にアジア各地に進駐軍、占領軍や、中継地の維持のために派兵されていたのが約80万人。
そして海軍関係者は約60万人が海外に展開していたので、終戦時に軍に所属していた兵士、軍属の80%以上が海外に派兵されていた事になる。
この上、海外の後方拠点の維持、兵士の慰撫のため、約50万人の民間人が様々な仕事に従事している。
中には軍隊につきものの「性」を扱う職業の人々もいて、そうした者を国家としては強引に否定していたアメリカ、ソ連から苦言を言われることも多かった(※その割に、もぐりで利用する者は後を絶たず、意外な外貨収入になっていた。)。
また、満州帝国軍としてロシアで戦った日本人も、総数で10万人に達している(※純粋な移民除く)。
他には、荷役など重労働のために、保護国の朝鮮人を50万人以上動員していた。
同様の仕事のために、中華民国占領地からインド、さらにはエジプトに至るまで、多くの人々が荷役などに動員されている。
さらに国内では、「学徒動員(大学生の徴兵)」が1941年から早くも実施され、短期間に肥大化した軍隊での将校の供給源となった。
後の首相中曽根康弘もその中の一人だ。
(※後に総理となる中曽根康弘は、主計将校としてシンガポールから欧州まで赴き、英語が話せたこともあり米英将校との関係を深める事で通常よりもかなり早く昇進し、最後の「万歳昇進」を含めると大佐まで昇進している。)
また、勤労奉仕という形で、中等学校以上の生徒は何らかの生産活動かその補助に動員されている。
流石に熟練工の兵士としての動員にまで話しは至らなかったが、人口学的にきれいな三角形を描いていた当時の日本では、戦争を遂行するための大人が足りなくなっていたのだ。
一方では女性も数多くが各所に動員され、医療、事務などの軍属としてのみだったが後方で軍務の一部を担った。
戦争末期には、アメリカに倣って飛行機の輸送(操縦)にまで従事する者まで現れたりもした。
軍以外でも、男性がいなくなった職場を支える重要な労働力となり、女性の地位向上の大きな契機ともなった。
そしてそれだけ動員されていた軍隊だが、戦争が終わった以上、占領地に駐留する兵士以外は、平時に戻すべきだった。
兵士はただ兵士であるだけで生産活動に寄与せず、戦争が終わればただの無駄飯ぐらいだった。
しかし全く無くすわけにも行かなかった。
国防は国家の基本だし、ソ連及び共産主義陣営が再び最有力の仮想敵に舞い戻りつつあったからだ。
だが膨大な戦費を費やした日本に、大軍を維持する金は無かった。
戦勝で浮かれる軍人達が何を言おうが、功労者をパージしてでも大規模な軍縮は断行しなければならなかった。
山梨勝之進が総理大臣を務める内閣は、戦後の政治改革の道筋を付けることと軍の動員解除を最後の任務に位置づけていた。
1940年半ばから首相を務めているので、既に連続6年を越える日本憲政史上屈指の長期政権で、しかも最も厳しい戦争を戦い抜いたせいか山梨の頭髪はすっかり白さが増えていたが、いまだ精力的活動を続けていた。
そして戦争を勝利に導いた山梨の言葉に、首を横に振れる軍人は少なくとも表向きはいなかった。
国民も依然として圧倒的に支持していた。
そして首相、大蔵省、軍需省が中心となった軍の解体と兵士の復員は、軍の70%、兵士の80%縮小を一つの目安としていた。
財政上は兵士の90%ぐらい縮小したいところだったが、国際情勢から難しいと判断されていた。
兵士80%の動員解除が目安だが、予定では約70万人にまで縮小される。
これに対して軍自体が70%の解体なのは、平時の兵士数を少なくして軍が運営されるためだ。
そして有事に足りない分は、すぐにも予備役を召集して埋め合わされるので、大幅な解体と平行して大規模な予備役軍人制度も再構築される事になる。
そして今までと違って、軍制が大規模な常備軍を抱える状態へと移行している事が既に分かりつつあったため、戦時の30%の軍隊を残すことになったのだ。
軍の縮小と再編成は、元軍需省など文官を除くと約70万人に再編成される予定になっていた。
この数字も、戦前の規模からだと二倍半も大規模化しているが、今までのように日本とその周辺だけを守る軍隊ではなくなり、しかも時代が大規模な常備軍を備える時代へと移行しつつあるため、必要最小限と考えられていた。
軍縮派は、最低でもこの半分まで削減するべきで、酷いものは「平和な時代」がきたので戦前以下の水準にまで縮小しなければならないとシュプレヒコールすらあげた。
だが、こうした過剰な縮小論を唱える者の多くは、共産主義の息のかかった者、共産主義シンパ、共産主義の思想的傾倒者などが非常に多く、実質的にソ連及び共産主義者の手先としての行動だった。
こうした所にも、早くも次なる時代の影が忍び寄っていた。
当然ながら治安維持法の適用対象とされ、警察組織が動く事態となった。
日本陸軍は、段階的な動員解除計画を自ら立てていた。
彼らとしては、戦時動員された民間出身の短現士官、下士官を「追い出して」、自分たちの聖域を取り戻そうとしたのだ。
段階的なのは、アジア各地、ヨーロッパに一時的であれ治安維持の占領軍を置かねばならず、さらにヨーロッパの一部には今後の世界情勢安定化のためかなりの規模の駐留軍が必要と判断されたためだ。
一方では、戦前に置かれていた満州帝国の駐留軍は、関東州の形だけの駐留部隊以外は全廃が決められた。
陸軍としては、その余剰戦力をヨーロッパに置こうという考えだった。
完全な動員解除は1949年を予定しており、戦争終了から半年で早くも全体の3分1の動員解除と復員が開始される。
これが「100万人復員」と呼ばれる事業で、軍属の動員解除、民間協力者の大量帰国、さらには海軍の動員解除と合わせて、200万人以上が故郷へと帰っていった。
欧州で解体された部隊の装備のかなりがレンドリース品だったので、一旦アメリカに返還するとそのままイギリス軍、フランス軍にアメリカの手で渡された。
日本製の装備も、重戦車など多くが英仏軍に供与された。
このため帰国する日本兵達は、行李や鞄に欧州などで手に入れた土産を詰め込んで、銃も持たずに帰国していった。
小銃すら持たないのは、戦争中に小銃に菊の御紋が入れられなくなっていたからだ。
このため彼らが家路についたとき、家族などから道楽旅行にでも行っていたのかと言われた者が数多くいたという。
帰りの船は、どれも個人及び国家の「おみやげ」が満載されており、さながら文化輸入船の様相を呈していた。
戦後日本で西欧ブームが最も大きな勢力だったのも、多くの日本兵達が最後に赴いた場所が西ヨーロッパ、地中海地域だったためだ。
そうした兵士の一部は、欧州で宝物とされる希少かつ高価な文物を戦利品として持ち帰ったため、その後フランス、イタリアなどと返還交渉や訴訟に発展した場合もあった。
その後も動員解除は順調に進められ、計画通り1949年春には予定していた規模に再編成が完了する。
再編成後の日本陸軍は、本土駐留師団が一般師団(全て機械化師団)10個、機甲師団3個、空挺師団1個になる。
別枠で欧州駐留軍団が編成され、一般師団2個、機甲師団1個を中核とした戦力が常時駐留する。
つまり17個師団が師団定数となり、これに重砲兵旅団、独立戦車旅団、工兵旅団、教導団など支援部隊を加え、総数38万人にまで圧縮されることになる。
しかし準戦時動員の予備役召集ですぐに12万人が増員されるため、部隊数が多めに編成されていた。
また戦前と違って、全てが高度に機械化、重武装化されているため、戦闘力は格段に向上していた。
その象徴が戦車部隊で、全軍で26個連隊残される戦車隊は、全て「三式改重戦車」か「六式重戦車」で占められていた。
さらに各師団の機甲捜索連隊に属する戦車も、「四式中戦車」もしくは戦争には実質的に間に合わなかった「四式改中戦車」とされた。
戦前から見れば、想像を絶する重武装化だった。
そしてこの戦後の縮軍によって、日本陸軍の重戦車路線は完全に固定化される事となった。
航空隊は「空軍」設立により多くが移籍となったが、観測機、直協機(軽地上襲撃機)については当初は陸軍所属のままとされたが、規模自体は激減した。
また高射砲部隊のうち、各師団に属したり機動性の高い部隊を除く固定配置の部隊も「空軍」移籍となっていた。