フェイズ93「戦争による変化(2)」-2
対照的に、植民地が一掃されたのが北東アジア地域だった。
北東アジアには、枢軸側として中華民国があった。
同国は、かつての清王朝の領域(最大領域)を自らの正統な領土の回復を旗印に戦争に荷担したため、満州帝国全土、日本領の台湾ばかりか、朝鮮保護国、モンゴル人民共和国、極東共和国も自らの権利だと主張していた。
さらに戦争中は、日本の沖縄、南樺太すら領有権を主張していた。
そしてこれら全てを統治する「大中華帝国」の建設をうたっていたのだ。
だが、中華民国は連合軍の手によって滅亡し、戦争中の1944年に開催された「上海国際軍事裁判」で裁かれ、蒋介石ら国家指導者は戦争犯罪者として厳しい処罰を受けた。
中華民国は正式に滅亡し、全土が連合軍の軍政下に置かれた。
戦争半ばだった事もあって手間を惜しんだため急がれ、正式な国家復興プログラムすら無かったほどだ。
占領統治には、日本、アメリカ、満州、ソ連、自由英が参加して、それぞれの担当地域を軍事占領した。
当初のGHQ総司令官は日本軍の今村均大将で、地理的にも近いことから数の上でも日本軍が過半数を占めていた(※次点は満州軍)。
だが日本には、広大な支那を占領統治するだけの財力に乏しく、兵力も他に転用するか本国での生産に従事させなければならなかった。
そこで全ての面で余裕のあるアメリカに順次主導権が引き継がれ、日本軍は顧問や連絡武官を残して戦争中にいなくなってしまう。
「情」によって東アジア的統治を心がけた今村大将は、現地の人々からも「今大人」(※現地では「今 村均」と勘違いされる事が多かった。)と呼ばれ広く慕われたが、終戦すぐの1947年にはヨーロッパから舞い戻ったマッカーサー元帥に支那GHQ総司令官の職を引き継いで支那の大地を去っている。
マッカーサー元帥の抜擢は、彼が長らくフィリピンにいて東アジア情勢に詳しいと考えられたからだ。
しかし一説には、彼がアメリカ政府、軍の多くの者から嫌われていたのが一番の理由と言われる。
また、日本ではなくアメリカが総司令官でないと、占領軍として参加している満州帝国軍を抑えきれなかった為で、マッカーサー将軍以外に人材が居なかったためとも言われる。
そして連合軍の統治を受けたもと中華民国だが、占領統治と調査の中で、旧清朝は旧時代型の植民地帝国であり、それを引き継ぐ中華民国も同列と厳しく断罪された。
また調査の中で、漢族による同化政策や少数民族弾圧も暴露されていった。
一時はナチス・ドイツ同様の「ホロコースト」すら言われたが、それが無くても漢族の意図的な流民、そして移民による同化政策は厳しく断罪された。
そして状況を踏まえた上で、北東アジア地域民族の自主独立を進めるという理念のもと、旧中華民国の解体と再編成が連合国各国の手によって精力的に進められる。
しかも連合国は、中華世界が二度と侵略的行動を取らないように、国民の精神面でも徹底的に「指導」する積もりだった。
その後、中華民国は最低でも3年の占領期間を経た後に、「チャイナ(支那)」として再独立に向けた連合軍による軍政が続けられるが、同時に周辺民族地域は既成事実を作る上でも独立が急がれた。
これにはソ連が共産化を進めた東トルキスタンも含まれるが、何より枢軸陣営を断罪することを政治上の上位に置いた連合国各国は、自分たちの担当地域の国々の独立とバーターで受け入れた。
そして分離独立と平行して、分離独立する地域からの漢族系もしくは連合国がそう判断した人々の半ば強制的な移住も進められた。
さらには、分離する地域が支那ではないという点を民意でも強めるため、支援を行って精力的な教育と宣伝が実施される事となった。
特に20世紀後半の中華世界と中華文明、漢族が不当に低く評価される向きも、この時に作られたものだ。
この影響は世界中にも及び、アメリカのチャイニーズ排斥法(1882年成立)は、実に1993年まで廃止される事は無かった。
さらに自由主義陣営各国でも、実質的なチャイニーズの移民禁止が実施されてもいる。
中には、既に移民していた者が強制帰国させた国もある。
住み難いため、自主的にアメリカから離れる者も非常に多かった。
(※アメリカでの日本人排斥法は1942年に完全廃止されている。)
中華中央の情勢を、複雑な心境で見ていたのは満州帝国だった。
民族自決と中華解体は国家としては喜ばしい事なのだが、皇帝溥儀(康徳帝)や旧清朝の重臣、貴族達にとって中華帝国の再興という夢の点で受け入れがたかったためだ。
何しろ彼らは、先の国家だった清朝の後継者「後清」を自認しており、いつの日か中華世界の再統一を望んでいたからだ。
旧清朝領域ということで、隣国の極東共和国との間にも問題を起こしていたほどだ。
しかし、それが叶わぬ夢なのも理性として理解していた。
そして満州帝国も連合国の足並みを揃えることと国家的利益を優先し、中華民国の解体を積極的に行った。
しかも中華帝国の事を知り抜いているため、アメリカが望んだ以上に徹底的に行う決意を固めていた。
足腰立てないようにしておかなければ、いずれ自分たちが復讐される事が分かっていたからだ。
そして彼らが行った事の一つとして、いまだ北京の紫禁城に保管されていた財宝を始めとした文物のほとんどを、「先祖の物」として持ち去ったりしている。
持ち運べるなら、建物すら解体して持ち去った。
そのための特別工兵隊すら編成したほどだ。
そしてこれらの一部は、満州帝国の「新都」建設に活用すらされている。
また、北京とその周辺に居たかつての臣下(の生き残り)の一部も、溥儀の強い願いもあって一緒に連れ帰ったりもしていた。
そして中華民国という国家を貶める宣伝を、旧中華民国各地で宣伝部隊を用いて幅広く実施した。
さらに満州帝国は、ほとんど国家事業として近隣の内蒙古王国の整備と居住民族の移住、漢族の追放を東欧のソ連真っ青の勢いで実施した。
加えて、自分たちの皇族がラマ教の守護者でもあるため、ラマ教を信奉する地域でもラマ教徒を守るという建前で、漢族の実質的な強制移住など強引な事を積極的に行っている。
事実上の「民族浄化」が実施された地域も、アメリカの目の届かないウンナンなど奥地を中心にかなりの場所や地域に及んだと考えられている。
あまりにやり過ぎだったため、「チャイナ解体」を戦勝のスローガンとしていたアメリカが慌てて止めたほどだった。
強引な中華民国解体の結果、戦争中の準備期間をはさんで、1947年から48年にかけて多くの国が新たに誕生していった。
東トルキスタン人民共和国、チベット法国、内蒙古王国、ウンナン共和国、コワンシー共和国が、当初正式に認められた国々になる。
また満州地域、台湾島は改めて放棄が確認され、海南島の期限を設けない国連委任統治領化も決められた。
そして解体の中で連合国を困らせたのが、残された中華地域内での地域ごとの対立だった。
長江流域を中心とする中部沿岸地域、長江奥地の四川地域、広東を中心とする南部、山東半島を中心とする地域など、多くの地域が北京(華北沿岸地域)を中心として再編成される予定の新たなチャイナに不満を唱え、中には占領が長期化してもいいので自主独立すら求める地域すらあった。
特に北部、中部、南部での言葉の違いの平準化については、それぞれの地域が反発しあった。
(※連合国は、歴史的に自分たちに馴染み深い「上海語」を最も重視していた。)
このため国連軍によるチャイナ中枢部の各種調査が実施され、アメリカの市場化という目的もあるため「連邦国家」化が既定路線として進められる事になっていく。
だが、国家解体当初から様々な問題があり、さらに米ソによる東西対立の芽も見られた。
内蒙古の東部地域でも、ソ連主導で解体と独立さらには民族の強制移住が進められた。
当面はソ連占領地のままだったが、気が付くと東内蒙古共産党委員会が作られていた。
いずれ独立するかモンゴルに併合の形で合併するかはこの時点では決められていなかったが、少なくとも内蒙古王国と一つになる可能性は極めて低かった。
また、隣接する青海や外チベットと言われる中華奥地の地域もソ連による占領が続いていたが、ここもソ連の手による独立の動きが続いていた。
そしてさらに青海を橋頭堡として、隣接する甘粛地域、四川地域など中華内陸部を中心とした共産主義浸透が行われていた。
この共産主義浸透では、1930年代半ばに滅びた中華共産党の残党が再編成されており、しぶとく生き延びていた林彪を中心として活動を活発化させつつあった。
そして中華中央部だが、上海の連合軍総司令部に陣取ったマッカーサー元帥は、精力的な中華統治を実施した。
彼は赴任時の空港に降り立ったとき「我々は、この地に民主主義を建設するために来た」と言った。
当人は、大戦最後に戦った地であるフランスもしくは西ヨーロッパの占領軍総司令官になるつもりだったと言われるが、元帥とはいえ一介の軍人に過ぎない彼に選択権は無かった。
しかもアジアの第一人者と持ち上げられ、日本の政治家たちからも頼られては、断ることも難しかった。
そしてマッカーサー元帥は、軍政家としても非常に優れた人物だった。
だが、広大で人口が非常に多い中華中央部の統治には、物理的に大きな努力が必要で、アメリカは西ヨーロッパと中華の事で身動きが取り辛くなり、それ以外の地域の事で日本に多くを負担させる向きを強める結果となった。
一方で、連合軍統治下で新たな中華国家の建設に向けた動きも、精力的に行われた。
だが戦前南京、そして戦中重慶にあった中華民国政府が、政治家、軍人だけでなく官僚団の面でもほぼ崩壊していた。
それ以前の問題として、人口規模を考えたら中華民国の政府は小さすぎた。
独裁的でなければ運営できないと再認識されたほだった。
そうした中で注目されたのが、北平と改名されていたかつての王朝の首都北京だった。
北京は都としての長い歴史があったが、満州が独立すると首都を置くには危険と判断され、首都の座から滑り落ちていた。
だが同地域には、長い歴史が育てた官僚とその末裔が住んでおり、一部は中華民国政府に従って南京などに移住したが、それでも多くの者が官僚としての職を失った後も北京やその周辺に住んでいた。
多くは時と共にそのまま没していったが、まだ全滅した訳ではなかったし、子孫達も知識や技術をかなり保持していた。
連合軍はこれらの「再利用」を考え、また新たな中華国家の首都として中華民国の首都だった南京ではなく北京こそが新しい首都に相応しいと考えた。
しかも今まで仮想敵だった満州帝国は手を携えていく同盟国、友好国であり、北京はなんら危険な都市では無くなった。
また、中華民国が南京を棄て、連合軍が重慶を破壊したため、どちらにせよ首都の新設もしくは再建が必要だった。
その点でも、首都機能を残したままの北京は首都に相応しかった。
問題は新政府中央の人材だった。
中華民国は、中央政府が独裁的な上に国家規模に対して小規模だった。
しかも戦争で多くが死亡し、さらに戦争犯罪者として処罰されていた。
新たな政府の首相として期待された汪精衛は、古傷がもとで戦争中に死去していた。
そうした中で、比較的政治的傷が少なく、民心を集めやすい人物として、かつて建国の父と言われた孫文の息子 孫 科 を連合国は見いだした。
父親のような優れた政治的指導者では無かったが、政治家としては及第点と判断され、また御しやすいと考えられた上での選択でもあった。
そして各地の軍閥も中華民国の敗戦後は比較的大人しくなり、住民の多くは基本的に安定した統治を行う強い権威、権力に対してそれなりに従順なので、占領統治自体は比較的安定して行われた。
なおこの戦争以後、万里の長城以北は「中華」には含まれないことが国際的に確認されている。
これは満州帝国が求めた事で、他の地域の国々も特に異を唱えなかった。
これらの地域は、特に満州以東は「極東」もしくはシベリアと合わせて「北アジア」と欧米世界から見られ、冷戦時代は極東地域と言われ続けることとなる。
そしてその「極東」でも各地の自立が進んだ。
日本の事は次節に譲るので、他の国や地域を見ていきたい。
最大の国家は満州帝国だ。
1928年に、清朝最後の皇帝溥儀を国家元首、首相を張作霖として建国された。
その後は、康徳帝として即位した愛新覚羅溥儀を権威君主としつつも、実質的には日本、アメリカの衛星国、経済植民地として過ごす。
1905年から大規模にアメリカ資本が入ったこともあって、その後大きく発展するが衛星国、経済植民地から脱却することは出来なかった。
だが、第二次世界大戦で大きな転機を迎える。
日本もしくはアメリカの代わりとなって、苦戦の続くソ連へ大軍を送り込み、戦場で大きな活躍を示したからだ。
満州帝国軍が活躍できたのは、何と言っても連合軍の無尽蔵なレンドリースのお陰だった。
だが、日本中央から実質的にパージされた日本人将校団、移民から数十年を経て根付いていた日米移民とその子孫の存在、多数の旧中華民国系兵士、鬼才と言われた石原完爾将軍、破天荒なドゥーリットル将軍の采配など、様々な要素が揃ってこその活躍だったと言われる。
事実そうだった。
そして何より、「満州帝国軍」が連合軍として活躍したことが、戦後世界では非常に重要だった。
何しろ延べ200万人もの派兵数は、日本の欧州派兵数に匹敵するほどだった。
しかも満州帝国軍の活躍がなければ、ロシア戦線は大きくそして連合軍にとって悪い方に違っていた可能性が極めて高かった。
これほど戦争に貢献した国を、少なくとも表向き衛星国、経済植民地にしておくことはもう出来なかった。
国家規模で見ても、国土面積は日本本土の約3倍、当時の総人口は流民を含めて約4000万。
鉄鉱石、石炭、石油が比較的豊富で、約40年間の開発で広大な農地が広がり、さらに重工業を中心とした多くの産業が発展していた。
中流階級が勃興し、モータリゼーションすら起きていた。
粗鋼及び鉄鋼生産力は、1941年の時点で枢軸陣営の主要参戦国のイタリアを凌駕している。
しかも世界大戦中に、国内総生産、工業生産力が2倍以上に拡大していた。
戦争中盤以後は、日本、アメリカの企業進出と支援を全面的に受けながらではあるが、航空機や戦車を大量生産していたほどだった。
経済的には、東鉄や満業など一部の巨大財閥の影響力が非常に強かったが、少なくとも大戦中は極めて有効に機能していた。
国家資本主義と言う言葉は、大戦中の満州から生まれたと言われているほどだ。
そして戦争が終わると、主要参戦国としてだけではなく新たな大国として急速に地位が向上した。
大戦半ばから首相となった満州族出身の張景恵も、強かにそして出過ぎない程度に満州帝国の国際地位向上に力を尽くした。
皇帝溥儀(康徳帝)も、戦中から陣中視察や各国訪問で満州という国家の国際認知度向上に大きく貢献し、「ラストエンペラー」にして「ファーストエンペラー」として国際的にも認知されるようになっていた。
当時の王族としては世界的にも珍しく、外遊にも積極的に赴いた。
旅行好きで知られた日本の昭和天皇が羨んだという逸話があるほどだ。
そして戦後の満州帝国は、ソ連に対する極東の防波堤もしくは重石としての役割が大いに期待されていた。
日本帝国、満州帝国以外の極東の国家としては、あとは極東共和国と韓王国がある。
極東共和国は、ロシア革命とシベリア出兵の副産物として誕生し、その後は満州のアメリカ資本の強い影響を受け、ソ連共産主義陣営から離脱していった経緯を持つ。
第二次世界大戦まではソ連の脅威に怯えていたが、ドイツのソ連侵攻で一時的に脅威は消え、戦争中は連合軍の中でのソ連支援の中継点として存在感を示した。
戦争中に国内産業はさらに発展し、戦争特需にも沸き返った。
満州帝国軍籍で、かなりの数の義勇兵も参加している。
もっとも、ソ連との微妙な関係が有るため、決して表立っての行動はさせてもらえなかった。
建国当初100万人満たなかった人口も、建国以後のロシア系亡命者の移民などで増えて、アメリカ資本の注入に伴う開発でさらに人口が増加。
そして大戦中盤までは、ソ連崩壊を警戒したロシア人の事実上の移民が主に水面下で多くやってきた。
中には共産党スパイも多く混ざっていたが、スパイ対策は戦前から非常に充実していたため、特に問題となる事もなかった。
人知れず検挙され、多くが送り返されている事実が、戦後半世紀ほど経過してから公開されている。
そして戦争終盤以後ソ連に戻った戦中移民も多いが、共産主義体制から逃れるため帰らなかった者も一定数いた。
そうして戦争が終わった頃には、総人口は300万人を越えて、国内産業、国防力もソ連に簡単には侮られないほどにまで成長していた。
ソ連との国力差は相変わらず比較にもならないのだが、国境線は冬が非常に厳しく険しく山岳地帯で、交通はシベリア鉄道一本だけという地の利もあって心配も少なかった。
なにより後背には日本そしてアメリカが控えているので、国家としての安定度はヨーロッパ諸国より高いと戦後言われるようになったほどだ。
そしてロシアの共産主義から排除された宗教、文化、産業の保存場所として機能したことが、ソ連ではなくロシアとして非常に貴重な為、ソ連も極東共和国が政治的にうるさく言わない限り敢えて触れないようになっていく事になる。
もう一つの国韓王国は、1910年に日本の保護国となり、1925年に国家としての一部の権利を日本から返還を受けていた。
そして第二次世界大戦において、日本および連合国への戦争協力、資源と労働力の供出という面での協力と引き替えに、戦後3年以内の独立を約束された。
そして1949年に改めて韓王国として独立し、国際連合にも正式加盟を果たす。
ただし、問題が無かったわけではない。
まずは国号と国家元首。
韓王国は「大韓帝国」「皇帝」に定めて、国際的にも「エンパイアー」「エンペラー」を認めさせようとした。
しかし宗主国の日本から否定され、アメリカからはどの国、団体も認めないと宣告される。
その後もごねにごねたが、独立返還の延期、支援の大幅減少などを日米満から勧告されると、渋々認めて「キングダム」「キング」のままとされた。
韓王国の全ての公式文書の漢字表記でも「韓王国」「国王」と念を押して記された。
相手が日本人なので、欧米人に対するように誤魔化すことも出来なかった。
しかし国内的には「大韓国」「大韓帝国」と呼称するのが、マスコミを中心とした慣例で定着することとなる。
「国王」についても、「皇帝」と呼ぶことが多かった。
次に借金。
朝鮮王国の時代から、日本、アメリカに莫大な借金があり、保護国時代も借金を増やし続けた。
その反面、援助を受けて尚も国内発展はおざなりで、飾り立てるのは王宮をはじめとした特権階級に関連する文物に限れていた。
特権階級の横領で消えた援助も非常に多かった。
この辺りまでは、世界中の途上国でもよく見られることだった。
だが、独立復帰の際に借金を全額免除するように、日米など世界中に迫った。
さらに日米に対しては、韓国内にある海外資産の無償返還(譲渡)までも迫った。
あまりの厚顔さと国際常識の欠如にアメリカは呆れかえったが、当初日本はある程度受け入れる積もりだった。
これ以上、余計な負債を抱え続けたくはなかったからだ。
しかしアメリカの政府と財界から強く反対され、またアドバイザーとした旧清朝関係者から朝鮮民族への対応のレクチャーを受けて、中途半端な対応や恩情は示さない事が決められる。
そして独立返還の際には、債務の返還に関しての国際条約も交わされ、鉄道、電信など社会資本関連の海外資産に関する国家による購入の契約も交わされた。
当然莫大な額に上り、遅れた農業国のままだった韓国に支払い能力はほとんど無かったが、ほとんどの者は気にしなかった。
戦前同様に、朝鮮半島は赤化しないか共産主義陣営に走らなければ問題はないからだ。
そして韓国を支配する人々にとってはどちらも悪夢でしかなく、彼らにとっての不本意な条件を受け入れるしか無かった。
それでも日本は、近隣諸国が遅れた農業国のままでは、革命の危険が高く経済的にも都合が悪いと考え、自分たちの労力と高額なお金がかからないレベルでの支援を行ったが、多くは戦前同様に韓国内の事情によって失敗した。
近代化の基本は国民全般への公教育の普及で、近代化以前の問題として農業振興と人口拡大のため治水治山事業を行うべきで、そこからようやく政治、経済の近代化が実質的に行えるのだが、それが韓国内では出来なかった。
試験によって特権を得る制度が維持されている間は、特に身分の低い国民(※多数の実質的な奴隷階級も含む)の無学化政策は支配のために必須だった。
一応の中流階層でも、高等教育など以ての外だった。
韓王国としては、治水治山にはある程度興味を持っていて実行されもしたが、教育の不足のため技術者が不足していた。
また、治山には植林、営林が付いて回るが、森林、山林は建材から燃料資源まで幅広く使われており、これを改めるための産業が興せない以上、木を植えるだけ無駄だった。
せっかく植えた苗木ですら、民衆に燃料にされてしまうからだ。
石炭の普及で解決を図ろうとして一部では成功したが、石炭を購入できない者が多いためあまり成功しなかった。
そして何より、地道に近代化を自力でしようという意志に、特に韓国の特権階級が欠けているため、多くの近代化は牛歩の歩みのまま推移した。