フェイズ93「戦争による変化(2)」-1
欧州に続いて、アラブ世界と中東情勢、さらには極東アジア世界まで見ていきたい。
中東は、第二次世界大戦前から問題が多数横たわっていた。
そしてそれは、第二次世界大戦でより悪化していた。
最も問題視されたのは、ユダヤ人問題だった。
近代のユダヤ人問題は、第一次世界大戦のイギリスの俗に言う「二枚舌外交」でのユダヤ人国家建設問題に始まる。
そして第二次世界大戦で、ナチスドイツがパレスチナ地域をユダヤ人の強制追放、強制収容地域にしたことで極度に悪化した。
しかもナチスのユダヤ追放政策を裏から支援したのは、後にモサドで知られるユダヤ人の秘密(情報)組織であり、問題をさらに悪化させる要因となっていた。
ナチス時代、まずナチスドイツはパレスチナ地域の多くから原住者を追放もしくは虐殺して土地を確保。
そこに「不要なユダヤ人」を放り棄てた。
しかもナチス的嫌味で、聖地エルサレムに近い地域に多くの収容施設が作られた。
その後ドイツ軍を蹴散らして進軍してきた連合軍は、まずは見つけたユダヤ人収容所の救援を行い、追放された原住者については、ほとんど気付かなかったこともあってかなりの期間放置していた。
しかも同地域には、1920年代からユダヤ人が増え始めていた。
その人々は一部がパレスチナの収容所に入れられるも、一旦は再び各地に離散した。
そして連合軍の進撃と共に多くが戻ってきていた。
さらに戦争半ばぐらいから、ソ連からナチスドイツによるロシア系ユダヤ人の流れができていた。
ユダヤ人のネットワークで、情報がソ連のユダヤ人に流れていたからだ。
こうして1946年末の時点で、約130万のユダヤ人が同地域にいた。
この時点での原住者だったアラブ系住民の数は、ナチスドイツ(とフランス)による追放、虐殺もあって100万人を切っており、ユダヤ人の方が多数派となっていた。
しかも多くの地域で、強制的な棲み分けも行われていた。
当初連合軍は、追放そして強制収容されていたユダヤ人については、戦後ドイツやポーランドなど元々住んでいた地域に戻そうと考えていたが、それもソ連との対立によってほとんど実現しなかった。
逆にヨーロッパからは、パレスチナ地域にいる家族を捜してやってきたユダヤ人が激増した。
しかもパレスチナ地域の方が、戦災で荒廃したヨーロッパ各地よりも連合軍の支援体制が整っていたため増える一方となった。
1948年には、戦争中の二倍以上に当たる240万人を越えるユダヤ人がパレスチナには溢れ、早くも開拓や自分たちの都市の建設を行っていた。
これを占領するアメリカ、日本は、アメリカは本国の一部支援者の声に従って支援に当たり、日本は人道的見地から半ば惰性で支援を続けざるを得なかった。
そして問題は1947年に国連に丸投げされ、日本軍、アメリカ軍のほとんどが問題を嫌って撤退し、国連軍として残った少数の兵士は人道支援目的の「国連軍」だけとなった。
その後ユダヤ問題は中東問題の核となるが、まずは戦争直後のその他の地域について続けたい。
アラブ地域には、第二次世界大戦前から幾つかの独立国と英仏の植民地(保護領)があった。
そして英仏の間の利害調整によって直線で引かれた境界で分けられており、現地の実状は無視されていた。
二つの大戦の間にイラクが独立していたが、イギリスの半植民地のような状態でしかなかった。
例外はエジプト、イラン、サウジアラビアだが、どの国もイギリスの影響下だった。
そして、とにかくオスマン朝トルコ時代、もしくはそれ以前から燻っている、もしくは放置状態の問題がそこら中にあった。
殆どが、イギリスとフランスが種を蒔いた問題だった。
ユダヤ問題以外で連合軍の占領統治時に一番の問題と見られたのは、所謂「クルド人問題」だった。
トルコ、イラン、イラク、シリアにまたがる地域に独自の民族が事実上分裂した状態なのだから、問題化するのは当たり前だった。
そして敵だった英仏が勝手に線引きした事なので、アメリカ、日本は直接的な問題解決のために線の引き直しを画策する。
だが、トルコの国境変更が難しいため当初から中途半端になり、結局イラン、イラク、シリア地域だけにでも作ろうとしたクルド人国家の建設は結局先送りされた。
それぞれの国に、自治地域を作るもしくは作ることを目指すと約束させるのが精一杯だった。
しかも約束もほとんどが口約束で、履行は一部でしか行われなかった。
イラク地域でイギリスの植民地だったクウェートは、アメリカの信任統治領という形に書き換えられた。
地下に眠る莫大な石油利権のためだったが、同地域の石油利権の一部は日本の石油企業も大きな利権を取得していたし、途中から自由英に属してる事になったアングロ・ペルシャ石油も、イランからの合流組と共に一部権利を保持し続けた。
同地域の併合または復帰を望んだイラクの声は、まったく無視された。
ペルシャ湾岸の英保護領も、主にアメリカ領(=委任統治領)に上書きされた。
中東地域で名目上独立していたイラク、サウジアラビアは、欧州枢軸列強の意志(もしくは事実上の命令)により連合軍に宣戦布告していたため、敗戦国の烙印を押されていたからだ。
例え土壇場で寝返っても、その烙印が完全に消されることは無かった。
その事は、インド戦線で連合軍の支援に当たっていたイランの王政が、連合軍によって倒されたことでも象徴されていた。
そしてイラク以西の近東、中東地域は、基本的に英仏からアメリカの勢力圏に上書きされ、連合国側の英仏自由政府もこれを受け入れていた。
同地域で、もう一国敗戦国とされた国の一つがイランだった。
イラン(イラン帝国)には1921年成立のパフレヴィー朝があり、1940年7月以後は自らの意志で枢軸陣営に属していた。
第二次世界大戦中は、インド戦線の後方支援を行うばかりか、イギリス本国軍と共にソ連国境への攻撃も行っている。
インドでの戦いのおりも、若干数の兵力が枢軸側として作戦行動していた。
若干だが、連合軍との交戦もあった。
だが、1944年に連合軍が進撃してくると呆気なく降伏。
連合軍占領後に連合軍への寝返りを申し出た皇帝レザー・ハーンは、連合軍の手によって退位されてイラン全土が連合軍占領地となった。
しかも国民のかなりが、皇帝退位を支持した。
占領担当は連合国内での勢力分割から日本とされ、日本軍主導のGHQ(連合軍総司令部)が首都テヘランに置かれた。
この占領で日本は、一応はアメリカ代表や自由英のアドバイザーと調整しつつ、かつてのイラン立憲革命の再現を目指した民主共和制国家もしくは立憲民主国家への再生を模索する。
王朝存続も一応は考えられたが、支持が低い事もあって結局は王政の廃止が決まった。
そして日本は現地の人々の声を聞いた上で、イラン国内のイスラム教穏健派、改革派との協力関係を強くして、民主共和制国家もしくは立憲民主国家のどちらとも違う、立憲国家像を描くようになる。
政教分離を強引に進めるのは無理だと判断したためだ。
と言っても、政治的には宗教はあくまで名目上の権威面、人々の精神面に止め、基本的には従来のものを利用した上での近代化を、可能な限り現地の民意に沿った形での民主化を目指そうとした。
これにアメリカは、主に近代政治における政教分離の理念から難癖を付けたが、日本はあまり気にせずに戦後自分たちの面倒が一番減る方法を模索し続ける。
このイランでの革命とすら言える日本主導の改革では、日本人達はかつての自分たちの革命と改革を「参考資料」としてイラン人達に渡して、その上で「無理に政治の欧米化や民主化をする必要は皆無。
日本化も同様。
発展の為の近代化と割り切って、自分たちに都合の良い面だけ取り入れるか、自分たち風に改めた上で取り入れれば良い」と真剣にアドバイスした。
アメリカならば、自分たちの民主主義、自由主義を文化ごとそのまま「押しつけた」可能性が高かったが、日本としては民主主義も自由主義も資本主義も、全て国外から取り入れた上で自分たち風に改めたものだから、誰かにそれを教えそして取り入れさせるのならば、それぞれの国情に合わせて変更するのが当たり前だという感覚しかなかった。
このため戦争中の1945年に仮成立したイラン政府(後の「イラン国」)は、宗教的側面を色濃く残した民主主義国家としての建設が進む事となる。
最大の特徴は、首相は民主選挙で選ばれた議員の中から内閣総理大臣が選ばれるが、国家元首に当たる役職には宗教者(=最高指導者)が就いて国家の権威を成す事になる点だった。
これは主にアメリカから非難されるが、日本としては自分たちの制度と大差ないとしか考えず、大きく問題視する事は無かった。
アメリカに対しても、ねばり強く説得を行った。
また日本自身も、イランの現状から考えると宗教色が強すぎると考えたので、軍と官僚の近代的教育制度を熱心に指導して作らせ、その上で軍を首相のコントロール下に置くように制度化していた。
こうして「イラン立憲法国」とも呼ばれる国が、戦争中から作られていく事になる。
その隣のインドだが、インドは日本軍が中心となって占領もしくは解放が進められ、インド自体の「権利」は自由英からアメリカへのレンドリースの「代金」として渡され、さらに日本とアメリカの間で支那(中華)利権との交換で日本のもの(経済的勢力圏)となった。
とはいえ、日本はインドをイギリスのように抱え込む積もりは一切無かった。
抱えきれないことは分かり切っていたので、経済的影響圏もしくは市場にできればそれで十分だった。
このためインドの連合軍総司令部は、当初から自由インド政府の補佐に徹し、インド独立に向けた動きを強く推進した。
インド独立の問題は、大きく二つ。
一つはモザイク状態の宗教問題。
もう一つはイギリス人の余計な差し出口。
イギリス人の差し出口については、イギリス人がインド独立に際して地域ごとに単位系を変えることを言い出した時点で日本側が珍しく激怒し、イギリス人のインド内からの「追放」を進めることで最悪の事態は回避された。
イギリス人たちは、自分たちの今までの感覚のままヒンズー教徒とイスラム教徒を決定的に対立させて「自分たちへの憎しみ」を回避し、自らの負担を最低限としようとしか考えていなかった。
なお、単位系というのはメートルやグラムなど計量の単位の事で、これ一つで国家、勢力圏、影響圏が分かれるほど重要だった。
統治や支配の基本ですらあった。
それをイギリスは、イスラム教徒のパキスタン地域と他のヒンズー教徒のインド地域でポンド・ヤード法とグラム・メートル法に分けるように日本に強く働きかけたのだ。
それだけで日本が被る全ての問題が回避できると、自信満々で持ちかけたと言われている。
これに対して日本は、インド地域の市場化は考えていたが、属国化やましてや植民地化は考えていなかった。
面倒が大きすぎるし、インドを抱えられるほどの金も人も無かったからだ。
もっとも「綺麗な」側面から見た場合、日本が欲しいのは次の時代を共に歩む友好国だった。
故に日本は、安定したインド統一国家の建設に力を注いだ。
そして一番の問題は、雑多な民族や言語ではなくやはり宗教だった。
GHQとして日本が参加した国民会議、自由インド政府会議では、いつも問題が紛糾した。
宗教観の薄い日本人にとって、今までそれなりにやってきたのに、なぜそれほど対立するのか理解ができず、日本人達は呆れてしまったほどだ。
だが、日本の代表の一人が「イギリスに出来た事が、あなた方にはできないのか」と暴言を放った事で、情勢が一変したと言われる。
インドからイギリス人を追い出し、アジア近代化の先達として認識されていた上での日本人からの言葉は、インドの人々の自尊心をいたく刺激した。
もちろんこの話は俗説に過ぎず、長い議論の中で国家建設の流れが変わったのは1945年春頃で、それ以後インドは統一国家建設で一応の団結を見るようになる。
だが、それでも完全な団結とはいかなかった。
インドの統一国家路線を決定づけたのは、1945年8月18日に「指導者」と誰からも非常に慕われていた「印度三傑」の一人チャンドラ・ボーズの暗殺だった。
ボーズ暗殺により連合国、わけても日本はインド分裂を危惧したが、流れは逆に統一インドへと強く流れていった。
ボーズは急進的人物で急進派の中心人物だったが、彼がいなくなったことで急進派がかなり大人しくなった。
強引な統一インドの道筋も弱まり、穏やかな形での統一インドへの向けた軟着陸が可能になったのだ。
その後ボーズは建国の英雄として人々から称えられたが、彼の死こそが統一インドを産んだと考えると歴史の皮肉と言えなくもないだろう。
そして次の段階として、どのような国家を目指すかの議論が重ねられたが、最低でも地域性を強めた連邦制という点は全ての勢力の合意を見ていた。
いまだ多数が残っていたラージャ(藩王)すら、権力を維持できる可能性があったからだ。
そして国家形態の議論を半ば傍観者として見ていた日本人の一人が、同席していたアメリカ人との雑談で「いっそ、そちらのお国と同じ合衆国でいいんじゃないかな」と言ったことが議会参列者にも聞こえ、それで「新たなインド像」が決まっていったと言われている。
もちろんこれも俗話に過ぎず、十分な議論と根回しの末に、地域性を強く認める国家形態としての「合衆国」が大勢を占めたに過ぎない。
そして「インド連邦共和国」は、終戦の頃には現実味を帯びるようになり、1947年に正式に「インド連邦共和国(F.R.I)」が成立する。
国家の中に国家を内包するような地域独自性が強い連邦国家なのはアメリカとほぼ同じだが、国家元首はアメリカ大統領ほど権限は強くなかった。
最高権力者が、明確に大統領と首相に分けられている点がアメリカとの大きな違いだった。
当然ながら、初代大統領にはマハトマ・ガンジーが、首相にはジャワハルラール・ネルー(ネール)が就任した。
新生インドの問題は、旧イギリスのインド帝国の領域そのままを新国家としたため、ビルマ(ミャンマー)や独自性の強いヒマラヤ山麓の藩王領、インド洋の島嶼部などを含んでいた事で、長らく宗教と民族の問題を引きずり続けることとなる。
国名も、「インド」ではなく「南アジア」とより抽象的であるべきだったという議論についても今日も続いている。
インドと違い、分立が進んだのが、当時はまだ「極東」と呼ばれていた東アジア地域だった。
第二次世界大戦前、東アジアには日本帝国、中華民国、タイ王国、満州帝国、モンゴル人民共和国、極東共和国しかなかった。
他は欧米諸国の植民地か中華民国の領土だった。
しかし第二次世界大戦の進展に伴い枢軸陣営が駆逐され、中華民国が実質的に滅びた事で多くの可能性が出現する。
チャイナ地域の分立の機会は、実に数百年ぶりのことだった。
それでも連合国陣営に参加した国や地域の影響で、インドシナ半島とインドネシア地域(スンダ地域)は植民地のままだった。
だが連合国に属した自由英は、マレーを自ら英本国側と位置づけて、「敵の領土」と連合国も認定した。
このため、自由英ではなく連合国による占領統治が行われる。
そしてここでの占領担当も近隣の日本が行った。
マレー、インドネシアは、当時世界でこの地域でしかほとんど栽培していない生ゴム、キニーネ(マラリアの薬の原料)の生産地で、さらに鉱産資源の錫も世界の殆どを産出していた。
日本にとっては石油も非常に重要だった。
このため日本および連合国としては、円滑にこれら資源が入手できれば、あとは半ばどうでもよかった。
むしろ、反植民地運動や独立運動で生産や流通が混乱することを嫌った。
また一方では、大戦初期は枢軸陣営に属していたので、人工ゴム、キニーネの代わりとなる薬の開発に力が入れられたほどだった。
だからこそ連合国は、インドネシアには事実上手を付けず、支援を与えた上で全てを寝返った現地オランダ総督府に任せた。
だが、マレー半島のイギリスは、枢軸陣営として徹底抗戦した。
そして連合軍は、インド洋に向かうためにはマレーを占領し、南シナ海を安定させなければならなかった。
このためマレーに侵攻し、連合国によって統治した。
しかし日本もしくは連合国がマレーで欲しいのは、マラッカ海峡と中継点としての立地を除けば資源だけだった。
また日本は、ブルネイ島の石油も欲しかった。
そして少なくとも戦争中は、シンガポールの港湾施設が必要だった。
そこで連合国は、マレー半島、シンガポール島、ブルネイ北部を分割統治する。
連合国にとって都合が良いことに、シンガポール島の住人は華僑が過半を占めており、彼らを中華民国と同列の罪に問わないことを条件に従わせた。
また、シンガポール島は日本の軍政統治が強められ、特に軍港地帯はほとんど租借の形で半ば日本領扱いとされた。
これは日本のアジア防衛戦略の為で、長らく変更されることが無かった。
一方ブルネイ北西地域には、サラワク王国という植民地内の国内国家のような自治政府があった。
日本はこれを利用することとして、サラワク王国の主権を認めるばかりか、ボルネオ北部の全ての内政統治権を認め、自分たちはその上から間接統治を実施する。
これで元から安定していた現地は非常に安定し、これに気をよくした日本はサラワク王国の完全な自主独立と連合国(国連)への加盟まで認めてしまう。
しかもサラワクは、連合国に加わったことで、形だけだがドイツに宣戦布告すらしている。
こうして、イスラム教を信奉するアジア系の民を統治する白人王族による国家という、世界的に見ても珍しい国家の存続と正式独立が定められる運びとなった。
なお、ブルック王家の始祖はイギリスの探検家だったが、戦中、戦後は欧米さらには日本の上流階層との交流も活発に展開するようになり、現代では東アジア唯一の白人王家として有名になっている。
ただし、その中にあると言える同じイスラム系のブルネイ藩国は、狭い地域に有望な石油資源があるため、近代的統治能力が整うまでと言う但し書きながら、イギリスの手を放れて日本の信託委任統治領となった。
そして主要参戦国である日本に文句を言える国や地域は周辺にはないのだが、英領全体での独立を目指していたマレー半島は、半島以外が切り離されたことに強い反発を示した。
だが、これがかえって連合国の心証を悪くして、逆に20年も日本の委任統治下に置かれてしまう結果になる。
また一部華僑が中華民国側の立場をとって、場合によってはゲリラ活動すら行ったため、尚更連合国の心証が悪くなっていた。
マレー以外の東南アジアでは、1944年にフィリピンがアメリカから完全独立したが、しばらくはそれ以上独立国が増えることは無かった。
だが、植民地が残った事は、今後も東南アジアでの火種が残るという結果でもあった。