フェイズ91「戦争の総決算」-2
続いて戦後について順に見ていくが、終戦時点から波乱の予兆が色濃く見えていた。
というのも、ソ連とそれ以外の連合国の対立が早くも始まっていたからだ。
ソ連はドイツのほぼ全土と、東ヨーロッパの半分以上を占領下に置いていた。
そしてドイツ以外では、戦争中から自分たちに忠実な共産党政権もしくは社会党政権による新政府を作ろうと画策する。
ソ連の動きは、自由選挙による民主化を求めるアメリカ、日本などの反発を招き、互いに占領した場所にお互いを入れない状態となっていた。
だが、ドイツとオーストリアについてはそうもいかず、ドイツの首都ベルリンと商都フランクフルトは、ソ連、アメリカ、日本、イギリスの4カ国占領とされ、オーストリア全土もソ連、アメリカ、日本、満州による分割占領下に置かれた。
そしてドイツ全土の占領だが、連合国はライン川西岸地区、いわゆるラインラントしか占領することができず(※他はキール運河以北の小さな地域)、ドイツ全土はソ連軍が軍政下に置いた。
このため連合国は、ソ連に対してドイツ全土の分割占領を何度も強く申し入れた。
しかし、進撃競争という実質的な勝負の決着は付いていたし、現状では戦中に約束したベルリン共同占領もソ連の人質に取られた状態だった。
そして連合国としては、何としても自国軍によるベルリン占領だけは行わなくては自国民に対して言い訳が立たないため、ソ連によるドイツ占領を受け入れざるを得なかった。
だが逆に、進軍した軍隊による占領という建前に従い、ドイツ全土の占領を求めたソ連に対して自らの小さな占領地を明け渡すことも無かった。
そして終戦直後より若干緊張した空気の中、アメリカ軍、イギリス軍、日本軍から選ばれた部隊がライン川を越えて進んでベルリンへと入った。
ほぼ同時に、国際軍事裁判が開催される予定のフランクフルトにも、アメリカ軍、イギリス軍、日本軍の部隊が入り、それぞれ四カ国による共同占領が開始される。
ドイツ、オーストリア以外だと、西ヨーロッパ、北ヨーロッパはほぼ全てが連合国の占領下もしくは解放下に置かれた。
だが、東ヨーロッパは、特に南部が入り乱れていた。
連合国側はギリシア、ブルガリア、アルバニア、ボスニア、クロアチア、スロベニア、マケドニアを占領した。
またチェコスロバキアのチェコ地域は、満州帝国が占領した。
そして旧ロシア帝国地域、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、セルビアがソ連の占領下となる。
しかし満州帝国は、主に占領維持費を理由に占領統治をする予定はほとんどなく、チェコ地域をソ連軍に引き継ぐと「土産物」を抱えて早々に帰国し、若干の部隊がオーストリア占領に従事するに止まっている。
これは満州帝国軍の兵員及び人種構成も関わっているため、他国も非難したり強く言うことは無かった。
だが、チェコにある工場をラインごと持ち帰るなど、かなりの掠奪を実施しての帰国だった。
しかし完全に軍事占領されるのはドイツ、オーストリア地域だけで、他の国々は連合軍総司令部を置いた上での間接統治もしくは完全な独立復帰とされていた。
だが、1940年夏の欧州枢軸結成で、ヨーロッパのほとんどの国が連合国と敵対した事になるため、仮令交戦記録が無くても連合軍の進駐は一度は行われている。
扱いが微妙だったのは、自由政府を立ててそれなりの自由軍を連合軍として戦場に送り込んだ国々だった。
だが、イタリア王国はともかくフランス共和国も連合国(国際連合)への参加は認められたが、参戦国ではあっても戦勝国に含まれることは無かった。
この事は、救国フランス政府・軍を率いたド・ゴール将軍を酷く憤慨させた。
だが、フランス本国が枢軸として果たした役割と連合軍に与えた損害を考えると、致し方のない事だった。
このためド・ゴール将軍の怒りは、枢軸軍として奮闘したフランス軍に向けられたとも言われている。
そしてそうした欧州、特にドイツの戦後処理を決めるため、1946年10月に再び連合国首脳が集まった。
集まった場所は、ドイツの首都ベルリン郊外のポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿。
郊外にあるため破壊を免れ、さらにはソ連が会議を見越して保護した事もあり瀟洒な宮殿を用いての会談となった。
集まったのは、アメリカ、ソ連、日本、イギリスの首脳と外相、駐米、駐ソ大使そしてアメリカは多くの軍人も連れていた。
日本も軍人を連れて行くか国内で協議されたが、陸海軍の大臣だけがアドバイザーを兼ねてポツダム入りしている。
首脳の顔ぶれはヤルタ会談と同じで、アメリカ合衆国のコーデル・ハル大統領、ソビエト連邦ロシアのヨシフ・スターリン書記長、日本の山梨勝之進総理、イギリスのウィンストン・チャーチル首相が並んで座った写真が今に残されている。
それ以外では、文官としてアメリカのバーンズ外相、ソ連のモロトフ外相、日本の幣原外相、イギリスのイーデン外相がいて、さらにアメリカ駐ソ大使のハリマン、ソ連駐米大使のグロムイコ、駐米全権大使吉田茂がいた。
武官は日米だけだが、アメリカ陸軍長官のマーシャル元帥、海軍長官のキング元帥、日本陸軍大臣の永田元帥、海軍大臣の堀元帥が会議に出席していた。
既に米ソの対立が見えている中での会談で、議題は沢山あったが成果は少なかった。
「外相理事会」、「ドイツ占領統治問題」、「ポーランド問題」、「賠償問題」、「ドイツ以外の旧枢軸国政府問題」、「中華問題」が主なところとなる。
特に問題なく決まったのは、事前に根回しが済んでいた外相理事会の開催に関してだけだった。
ドイツ占領統治問題では、ベルリンの共同占領、ドイツの完全な非軍事化と非ナチス化については完全な合意が得られたが、民主化については実質的な占領国のソ連は今は軍事占領を進める段階で、その段階ではないと強く否定的だった。
また、改めて各国均等のドイツ占領統治については、ソ連側が強く否定した。
ただしソ連が求めた東プロイセン東部などの実質的なポーランドへの併合については各国も了承している。
だがそのポーランド問題となると、主にソ連とイギリスの意見が真っ向から対立した。
しかし、アメリカに亡命していた自由ポーランド政府が、国民を人質に取られた事もありソ連寄りの姿勢を見せたこともあって、ポーランド共産化の未来はほぼ確定した。
賠償問題については、ヤルタ会談でも一応の数字は決められたが、ソ連がドイツのほぼ全土を占領したことで、ほとんど有名無実化していた。
ソ連は占領当初からドイツから根こそぎ持ち出せるものを持ち出し、さらには強制労働に駆り出すための「人狩り」まで行っていた。
これを各国はやり過ぎだと非難したが、ドイツはソ連にこれ以上の被害を与えたとして抗議に応じなかった。
ドイツ以外の旧枢軸国政府問題については、ソ連が東欧各国で共産主義政権建設を進めていることを非難したが、ソ連はイタリア、フランスを既に連合国として認めていることを改めて非難して矛先をかわし、結局問題が先送りされ両者の対立構造を強める結果しか残さなかった。
そして新たな陣営の線引き問題として、中華問題が再び取り上げられた。
ソ連が、東トルキスタンだけでなく、内蒙古東部でも勝手に共産主義政権設立を進め、さらに近在の青海地域の共産化も進めている事が問題視された。
加えて、それらの地域で旧中華共産党の再編成が進められている疑惑も、日本の山梨から提示された。
他にも、ソ連軍占領地からは、次々に住民が消えており、ソ連軍がシベリアや中央アジアでの強制労働に従事させていることが、満州帝国からの報告を受けた日本、アメリカが指摘している。
これらに関してスターリンは、労働力としての徴用は戦勝国としての正統な権利でしかないと、問題にすらしなかった。
政治的な動きについては、全て現地住民の求めに従っているにすぎず、逆に日米が進める内蒙古東部、雲南、広西での漢族の「強制移住」と強引な境界線(国境線)の設定を非難した。
こちらも議論に出口はなく、お互いに自らの新たな陣営固めと境界線の強化を進める事となる。
そして数千年の歴史を誇る中華地域は、大国間のゲーム盤の一つでしかなかった。
結局、会談自体は失敗と考えられる向きが強く、戦後のいわゆる「冷戦」の始まりだとする意見も多い。
会談自体は終始和やかな雰囲気に包まれていたが、それだけ成果に乏しく以後開催するに値しない首脳会談だったと言えるだろう。
このため「ポツダム会談こそが冷戦の始まり」と歴史的に言われる事も多い。
だが、戦争の後始末はまだ道半ばだった。
連合国が勝者としてナチスを裁かねば、戦争は終わったことにはならないからだ。
このため、「フランクフルト国際軍事裁判」が開催される。
「フランクフルト国際軍事裁判」は、1947年2月20日からその後約1年かけて行われた。
開催場所はその名の通りフランクフルト。
同市はドイツ西部の重要都市で、ナチス・ドイツ滅亡以後は過去で語らねばならないが、ドイツ経済ばかりか西ヨーロッパ経済における金融業の中心地だった。
終戦時に戦災は少なく、歴史的価値のあるものを含めた建造物はほとんど残っていた。
そして戦争末期にドイツ政府の一部が疎開したように、政府機能を移転できるほどの建造物や設備、施設が準備できるだけの都市でもあった。
また連合国にとっては、ベルリン以外で唯一四カ国共同の占領地であり、自分たちの占領地から近いというのも大きな魅力だった。
軍事裁判が、ソ連軍の監視下で行われる可能性が低いからだ。
しかし同裁判は、多くがいわゆる「事後法」で裁いており、後世から批判を受けることもある。
だが特に当時は、ナチス・ドイツの残虐行為に対する非難は強く、裁判を行う事は戦争目的の一つとして認識されていた。
裁判は主要参戦国の、アメリカ、ソ連、日本、英(自由英)の4カ国によって行われ、オブザーバーや証人以外で他の国の参加はできなかった。
判事についても、これら4カ国から選ばれている。
準主要参戦国といえる満州帝国は、人材の不足を理由にオブザーバーに止まっていた。
そして満州が辞退している事もあり、救国フランスなどが参加することもできなかった。
裁判の被告には24名が選ばれたが、すでに総統アドルフ・ヒトラー、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーは死亡し、ナチス官房長マルティン・ボルマン、SS副長官ラインハルト・ハイドリヒは行方不明のため、最も重要な被告人を欠く状態だった。
そして被告は、用意された被告席の数から最初から24名と決まっていたため、ボルマン、ハイドリヒが欠席裁判の形で起訴されたため、2名が起訴を免れていた事が後年判明していた。
また、戦争中盤以後の作戦部長だったフリードリヒ・パウルスの起訴は、二つの理由で波紋を投げかけた。
初期の作戦部長アルフレート・ヨードルが起訴されなかった事と、軍人として命令に服しただけの人物を犯罪者として起訴した事についてだ。
裁判自体がドイツを「悪」とするための「儀式」や「政治ショー」でしかないことが、これらの事からも十分に分かる。
だが、戦争中に中華民国に対する戦争軍事裁判が既に開催され、これが国際的にも承認されていたため、今更裁判自体の「法的根拠」について強く追求する声は起きなかった。
中華民国に対する1944年4月に行われた「上海国際軍事裁判」では、既に「戦争を起こした罪」が適用され、蒋介石など政府要人の死刑が実施されているからだ。
なお、フランクフルト裁判が復讐でしかないことは、裁判中のソ連の起訴者へ死刑を求める声の強さからも簡単に分かる。
しかもソ連は、ドイツのほぼ全土を占領したのをよい事に、ドイツ中で「戦争犯罪者」狩りに狂奔し、多数の無実の人々までも死刑をはじめとした刑罰に処したり、ソ連領内での長期間の強制労働の従事や服役させている。
かと思えば、有罪で然るべき人物が逮捕すらされない例も見られており、これらの人々は何かしらの裏取引で莫大な賄賂、重要な情報をソ連を中心に連合国側に渡したと考えられている。
裁判自体は、「共謀謀議への参加」、「平和に対する罪」、「人道に反する罪」、そして「通例の戦争犯罪」に従ってそれぞれ起訴され、裁判が行われた。
だが、裁判の中立性には著しく欠けていたことは疑いようがない。
また、戦勝国が行った「通例の戦争犯罪」ですら免責されており、この点でも公平性に欠けるのは明らかだった。
加えて、後に明らかになったが、冤罪であった事件、事例がいくつも見られた。
これもソ連がポーランド、ドイツのほぼ全土を占領したことが強く影響していた。
ポーランド将校を大量虐殺した「カティンの森事件」はソ連が行った事だったし、ソ連が告発した絶滅収容所のいくつかは存在すらしていなかった。
また絶滅政策でのねつ造も酷く、存在しないガス室ばかりでなく、有名なアウシュビッツ収容所の犠牲者数の誇張や、人間石けんの捏造などがある。
様々な問題もあったが、フランクフルトでの裁判は1年近くかけて行われ、その後に起訴された人々のかなりが、死刑となるか指定された刑期に服した。
そして世界的には、「平和に対する罪」、「人道に反する罪」がその後の戦争に対しても適用される事例が作られたばかりでなく、国連において明文化された点が非常に重要だろう。
しかし裁判一つで、戦後を総決算する事は出来なかった。
第二次世界大戦は、第一次世界大戦よりも多くの変化を世界に強要していたからだ。