フェイズ90「WW2(84)ナチスドイツ滅亡」-2
最初の原子爆弾は、1946年8月6日にドイツ中部の都市ニュルンベルクに投下された。
使われたのはウラニウム型と言われるタイプで、一定量の不安定なウラニウム(ウラン235)を合わせることで臨界量に持ち込み爆発させる。
そして「最初の」と書いたとおり、8月9日には2発目が今度はドイツ西部の都市ケルンに投下された。
こちらに投下されたのはプルトニウム型と言われるタイプで、一定量のプルトニウムを爆縮という形で臨界点に達しさせて爆発させる。
異なるタイプが使われたのは、理由の一つは実戦結果を得るためだった。
投下した都市は比較用に違う地形が良かったが、ドイツには異なった地形でなおかつ投下して意味のある場所が少ないため特に拘られなかった。
ただし落とした場所(都市)には意味があった。
ニュルンベルクはナチスの宣伝都市であり、ある意味ナチスを象徴する都市だったからだ。
またソ連軍が目前に迫っていた事から、ソ連に対する強い政治的メッセージを含んだものだったと言われることが多い。
実際、遠くからだが原子爆弾のキノコ雲を見たソ連兵が多数いた。
しかしこれは、すぐにニュルンベルク進軍を果たしたソ連軍により原爆の被害が世界中に暴露された事で、アメリカに対する世界の風当たりを強くするなどマイナス面の方が多かったと言われることが多い。
また、ヒトラーがニュルンベルクに居るという情報をアメリカが得た為だと言われる説もあるが、いまだ詳細は明らかになっていない。
ケルンに落とされたのは、そこがドイツを代表する都市の一つ、古くはローマ帝国の時代にまで遡るという表向きの理由ではなく、確実に連合軍わけてもアメリカ軍が占領できるからだった。
未知の兵器のため、爆発させた結果がどうなるかの情報を得るのが目的だったのだ。
爆発威力はケルンに投下された方が若干大きかったが、どちらも市街中心部は全滅した。
爆心地(爆発地点)から半径2キロの範囲は完全に壊滅し、3キロ辺りまで酷い被害が出た。
どちらも10万人以上の一般市民が死亡し、さらにその後は放射線に関連する後遺症によって多くの人の命を奪うことになる。
爆発の結果二つの都市は一瞬で壊滅し、そのどちらもが街の再建を諦めて別の場所に再建しようと考えられた。
事実ニュルンベルクでは、市民が未知の病気(放射線関連の病気)を恐れた事と、ソ連が爆発結果を研究するため、市街を少しずれた場所に再建している。
一方のケルンは、投下時の目標としたケルンの大聖堂が、恐らくは原爆が直上で炸裂したため奇跡的に原型をとどめる形で残存し、それが市民を勇気づけて旧来のままの場所での街の再建へとつながっている。
大聖堂も、一部を戦災の記念として残すも、完全に再建された。
なお、アメリカでの原子爆弾開発は、1943年11月に「マンハッタン計画」として発足。
20億ドルもの予算と、連合軍各国の頭脳を結集して開発が行われた。
当時、世界で最初の原子爆弾は、ドイツが開発するだろうと言われていた。
日本もドイツより早いぐらいに原子炉の開発を始めていたが、爆弾としての開発は戦争が開始されて一定期間過ぎてからだった。
そしてアメリカでは、開発を始めるまで小規模な研究に留め置かれていた。
ドイツの危険性を指摘する科学者の言葉にも、ほとんど耳を貸さなかったと言われている。
ホワイトハウスを始めとしたアメリカ政府および軍のほとんどは、様々な理由から不要と判断していたのだ。
開発しない理由は、通常兵器でも勝てるという予測が出ていた事と、開発にかかる予算を他に振り向けたかったからだ。
さらには、「無駄遣い」と映ったためとも言われる。
だが1943年8月のアンカレジ会談で、日本から極めて強く開発を求められた事を切っ掛けとして、すぐにも開発が開始されている。
しかしこの説には異説があり、アメリカが日本での開発に焦った為だとも言われている。
つまりは、戦争中よりも戦後を見据えての開発と言えるだろう。
しかし僅か2年半で実証実験を成功させるには、アメリカだけの力では無理だった。
確かにアメリカでは、日本が製造に2万年かかると考えたウラニウム型原子爆弾を、実質1年で製造してしまう。
アメリカはウラニウム濃縮に必要な遠心分離器を、1基ではなく2万基用意して不可能を可能にしてしまったのだ。
この話を聞いた日本人達は、アメリカという国家の凄まじさを改めて実感したと言う。
だがプルトニウム型となると、日本に一日の長があった。
原子炉を稼働させることでプルトニウムが精製できるからだ。
アメリカが原子爆弾開発を本格化するまでに、日本では廣島の呉、日本海軍の本拠地にほど近い瀬戸内海の「とある島」に秘密裏に実験施設を建設し、そこで小型の原子炉が建造されていた。
ここには日本海軍の技術者だけでなく、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎など日本の物理学、数学の最高峰の頭脳が集められた。
中には日本人以外もいた。
省庁も海軍だけでなく、陸軍、軍需省、商工省など関連しそうな全てが関わっていた。
開発自体も、途中からは日本海軍よりは理化学研究所が中心となっていた。
ただし学閥的には、従来の東大中心ではなく京大中心となったのは、開発場所が西日本地域だったからだった。
これが日本での原子炉開発計画である「ゲ号計画」だった。
周辺の住民達は、近寄ることすら禁じられた場所での大規模な実験に対して、国が何かの秘密兵器を作っているのは気付いていたが、それが何なのかは全く知らなかった。
このため様々な憶測が飛び交い、巨大ロボットなどSF的な新兵器が開発されているという噂も飛び交っていた。
余談になるが、漫画「鉄人28号」の名も、この研究場所の「29号実験施設」という秘匿名称に由来している。
少し話しが逸れたが、一日でも早くドイツよりも早く原子爆弾を実用化するため、研究資料、図面など一切合切がアメリカに極秘に有償供与され、さらには日米共同で原子爆弾の開発を行うことになる。
このため戦争後半は、日本本土での原子爆弾開発は非常に停滞している(※原子炉開発、原子力潜水艦開発はそのまま進んでいる)。
仁科や湯川らもアメリカへと飛び、ロスアラモスなどで原子爆弾開発に従事する事となる。
またアメリカより早く完成した原子炉で精製されたプルトニウムも、一部がアメリカへと移送されている。
こうした経緯があるため、「ヒロシマからロスアラモスへ」という言葉も生まれた。
だが本当は、「ロスアラモスからニュルンベルクへ」とするべきだろう。
そうして7月16日にトリニティ実験が実施され、人類史に「原子爆弾」が登場する。
ドイツに対する原子爆弾(原爆)の使用は、政治的に大きな影響を及ぼした。
都市が一瞬で壊滅した情報は、寸断されてもなお維持されていたドイツの情報網を駆けめぐる。
そしてまだ蹂躙されていないドイツ人達に、ロシア人以外の連合軍もドイツに対して容赦ない事を実感させた。
特にケルンへの投下は、すぐにも周辺のドイツ軍に情報が拡散して、停戦や連合軍への投降どころか抗戦継続に繋がっていた。
だが、西に逃げても同じだと分かると、逃げるのを止めてしまう人々が大勢出た。
そして無抵抗と分かると、ソ連軍も掠奪(と強姦)は相応に行うが無意味な殺戮は自然と控えるようになった。
この事は時間と共に広がり、結果として生き残ったドイツ人は逃げ続けた者よりもずっと多かったと言われることが多い。
そして西部戦線、ライン川東岸に配備されていたドイツ軍部隊は、東からソ連軍が突進してきた時点で東西から挟み撃ちとなり、降伏を選ばざるを得なかった。
しかもソ連軍はライン川が近づいてくると、同方面のドイツ軍に対して殲滅ではなく通常の戦争ルールに則った降伏を促し、ドイツ軍の徹底抗戦を回避して占領地を稼いでいた。
そしてソ連軍は順次ライン川に到達していくのだが、連合軍との感動の握手とはいかなかった。
別に敵対したのではなく、橋が全て落とされていたため架橋できるまで握手したくてもできなかったからだ。
このため最初の両軍の最初の交歓は、手旗信号や発煙弾、またはマイクとスピーカーを用いるという、少し締まらない終わり方となってしまっている。
(※一部では交歓の為に船舶が用いられた。)
一方で握手が交わされたのが、ドイツ南部のバイエルン地域においてだった。
ベルリンが包囲された時点で、イタリアのアルプス山脈に逼塞していたイタリア・サロ政権は事実上霧散した。
しかも名目上は代表(※国際法上で元首とは表現されない)のムッソリーニは、連合軍の先鋒として進んできたイタリア王国軍に捕らえられ、その後厳しい軍事裁判に晒される事となる。
この時点で、イタリアでの戦いは完全に終わった。
しかし連合軍にとっては、降伏した日時が問題だった。
ムッソリーニの逮捕は、ヒトラーの死亡が発表された翌日の8月7日。
降伏調印、武装解除などで1日取られ、連合軍のアルプス越えは9日から開始される。
イタリアのアルプス山麓には、アイゼンハワー元帥麾下、ホッジス将軍指揮下のアメリカ第1軍が長らく展開していた。
そして彼らは戦争の最終段階を予期して、一気にアルプス山脈を越える準備を長い時間かけて行っていた。
山脈に籠もった敵の撃破も行われたが、相手が山に籠もっているので戦いの終わりが見えないが故の次善の策だった。
そしてイタリアの降伏、ドイツの瓦解の始まりを号砲として一気に動き始める。
軽装備の快速部隊、訓練された歩兵部隊が捕虜を取るのもそこそこに、まずはオーストリア西部のチロル地方に侵攻。
同地域はオーストリアの中でも独自性、地域性が強いのだが、オーストリアとしてドイツに併合されて以後はドイツに対する相応の義理を感じていた。
また当時の彼らはオーストリアが併合されていたのでドイツ軍になるため、命令がない限り戦い続ける義務があった。
このためドイツが降伏するまで連合軍に対して抵抗に出た。
そしてアルプスの深い山間の谷間の道を閉ざされてしまうと、連合軍に打つ手は無かった。
時間をかければ進撃もできるが、もう時間切れだった。
それでもようやくオーストリアを越えてドイツ国境に至ると、そこには既にソ連兵がいた。
ソ連兵達は笑顔で握手を求めてきたが、それは勝者の余裕でしかなかった。
アメリカ軍は引きつり笑いをして握手するしかなく、アメリカ軍はソ連とのドイツ進撃競争に負けた事を痛感させられた。
状態はオーストリアの東部を強引に進んだパットン将軍の部隊も同様で、彼の配下もドイツ国境でソ連兵と握手して戦争を終わっている。
結局、アメリカ軍内部でのドイツ進撃競争は、勝者のないまま終わりを告げた。
ニミッツ元帥、マッカーサー元帥、アイゼンハワー元帥の誰もがドイツ領内にまともに進軍できず、ドイツ西端のラインラント地方のみを占領するだけで戦争を終えなければならなかった。
しかしかつての欧州の都とも言えるウィーンを占領した事で、アイゼンハワー元帥が勝者と見る向きもある。
実際問題、戦後の占領統治ではアイゼンハワー元帥がヨーロッパ方面の総司令官になっている。
一方ユトランド半島の付け根では、日本軍とソ連軍の握手が行われた。
7月25日にユトランド半島中部に上陸した連合軍のうち、南下してドイツ本土を目指したのは日本陸軍第七軍(軍団)だった。
同軍団は歴戦の機械化部隊で、特に第二機甲師団は日本陸軍最精鋭を謳われていた。
同戦車部隊には数々のタンクエースが所属しており、戦争後半以後だが自らの著書で日本製の重戦車を絶賛した福田定一も所属していた。
しかし機甲部隊は進撃速度は速いのだが、上陸してから進撃するまではどうしても時間が必要だった。
にも関わらず、彼らは最低でも150キロ前進しなければならなかった。
でなければロシア人が東からやって来て、強引に握手を求めるからだ。
幸いと言うべきか、ドイツ北部を進撃するソ連赤軍に対して、ドイツ軍の抵抗はかなり激しかった。
何しろソ連赤軍の目標は、ドイツ随一の港湾都市ハンブルグがあったからだ。
このため25日にベルリンを包囲するも、そこから10日経ってもハンブルグの完全占領に至っていなかった。
それまでに半島付けの東側にあるリューベクは陥落していたが、さらにその先のキールにまでは至っていなかった。
ただしソ連軍は大都市を迂回して進撃していたので、ヒトラー総統死亡が発表されるまでに、さらに西のブレーメンすら越えていた。
これらの戦況のため、連合軍としてはドイツ北部港湾都市の占領は諦めなくてはならなかったが、最低でもユトランド半島の単独占領が目指された。
そして上陸当初はほぼ無抵抗だったが、連合軍上陸の情報がドイツ軍に伝わると、ドイツ軍としてもドイツ領内に入られる事は阻止しなければならず、シュレースヴィヒ地方の国境の町フレンスブルク北方で「まともな戦闘」となってしまう。
この時日本軍の先頭を進んでいたのは、第二機甲師団の特別編成の機甲旅団(※島田大佐を臨時指揮官とした島田挺身団)だった。
日本陸軍でも機甲戦に長けた重見師団長(当時中将)は、ドイツ軍の抵抗があったとしても小規模だと看破し、少数精鋭での突進を行った。
そうすることで前線での物資不足を可能な限り回避し、さらには連合軍によるドイツ本土占領を少しでも「既成事実」として達成しようとした。
そうして起きた戦いは、第二次世界大戦最後の機甲戦とも言われることになる。
他の戦線でも激しい戦いは行われたが、圧倒的という以上の物量の連合軍またはソ連軍に対して、既にドイツ軍の多くが陣地固守や遅滞防御以外でまともな戦闘ができないためだ。
だが、互いの戦力が少ないフレンスブルク前面では、僅か数日ではあるが互いの戦力が比較的拮抗したため、大戦最後の「まともな機甲戦」が成立したのだ。
この時ドイツ軍には、1個中隊の「V号戦車H型 パンターII」と「IV号突撃砲ラング」、「III号突撃砲(後期型)」の混成中隊がおり、歩兵などその他戦力を合わせて、辛うじて旅団程度の戦力を維持していた。
「VII号重戦車 ティーゲルII」が数両いたという説もあるが、砲塔形状が似ている「パンターII」の見間違いというのが現在での定説だ。
しかし1両だけ「V号重戦車 ティーゲルI」がいたのは確からしい。
ドイツ軍の各戦車部隊は、定数の半数程度しか無かった。
これらの戦力は、大戦終末期にあっても比較的戦力のあったオランダ国境方面から急ぎ回されたもので、本来はソ連軍に立ち向かうため東に移動中だった戦力の一部が、連合軍上陸の報を聞いて急ぎ北方に回されたものだった。
ドイツ軍が俄作りの対戦車陣地で待ちかまえているのに対して、島田大佐率いる日本軍機甲部隊は時間もないことから正面突破を図った。
まずは空母機動部隊から呼び寄せた戦爆連合による短時間の激しい空襲を行い、さらには上空には追加の艦載機を滞空させ、後方からも追随してきていた機甲砲兵大隊の155mm自走榴弾砲部隊とロケット弾部隊による重砲弾幕も交えていたので、まずは連合軍としての定石通りの攻撃だった。
そして砲爆撃の前進に合わせて、戦車と装甲車による機甲突破挺団が突進していった。
この時ドイツ軍は、日本軍が爆炎の中から現れた瞬間を狙って、先鋒の装甲車両に対して集中射撃を実施する。
戦争全期間中連合軍を苦しめた88mm砲は(ほぼ)持たない部隊だったが、距離1000メートルまで引きつけての砲撃なので、連合軍の中戦車(M4または日本の中戦車)相手なら十分撃破できた。
だが日本軍部隊は、止まることなく前進を継続。
その姿を最後のドイツ軍機甲部隊の前に晒す。
日本軍の先陣を任されていたのは「六式重戦車 ジレ(G-Re)」。
「三式重戦車改」のさらなる発展型で、幾つかの試作型を経て多くの面で改良、変更されているため新たな名称が贈られていた。
最大の特徴は、各国の重戦車のように完全鋳造砲塔を持つ事だった。
強固な鋳造砲塔の生産は、他国に比べて冶金技術に劣る日本産業のネックの一つだったが、大戦中の大量生産の中で急速に技術を蓄積して「六式重戦車」に間に合わせたのだ。
その他の改良点は、足回りのさらなる強化、エンジンの換装、各部装甲厚の見直しなどになる。
重量は「三式改」よりほんの少し軽くなって約53トン。
エンジンと足回りの強化・変更もあって、機動性が向上していた。
このためイギリス本国の「センチュリオン」と共に、主力戦車(MBT)第一世代の車両として位置づけられている。
ただし「センチュリオン」のような発展余裕がないため、「センチュリオン」ほど兵器としての息は長くなかった。
それでも最終的には105mm砲を搭載するなど、かなりの改良は施されて1960年頃まで日本陸軍でも現役を務めている。
登場当時の火力は「三式改」と同様の90mm砲(強装薬型のT8砲)だが、相手が「ティーゲルII」などの化け物でないかぎり十分以上の火力だった。
装薬を増やした支那産のタングステンを豊富に用いた徹甲弾は、距離1000メートルで十分以上の破壊力を有していた。
しかし、この時前線に届けられていたのは、増加試作の一部から急ぎ送り込まれた24両だけ。
それを一部を予備車両として、1個中隊に第二師団所属の重戦車中隊に配備され、この時の戦闘となった。
しかもこの時の戦闘では交代で強引な突破戦をしていたため、5両1個小隊が戦闘に当たっただけだった。
日本軍の他の戦車は「四式中戦車」などで、戦力的に十分とは言えなかった。
最初の激突では、「六式重戦車」を侮って機動防御戦をしかけた「パンターII」中隊が半数近く撃破されるも、防御陣地の優位を活かしたドイツ軍の守り勝ちに終わり、日本軍は一旦後退して後続部隊を待たねばならなかった。
日本陸軍自慢の新鋭戦車は、撃破されることもなく十分な活躍を示したが、流石に数で劣っての突破戦は難しかった。
そして翌日、「六式重戦車」を含めて初日の二倍以上の戦力で正面から総攻撃した日本軍に対して、当初ドイツ軍はよく防戦した。
だが日本軍は、強引な正面突破戦でドイツ軍の気を引いている間に、別働隊による迂回突破を図って戦線突破に成功している。
別働隊の突破正面には戦力貧弱な国民擲弾兵しかおらず、日本軍は正面のドイツ軍の数が少ないと見抜いての作戦だった。
だがこの戦闘で、日本軍は隊列の建て直しなどで3日を浪費してしまい、最終的にはキール運河で進軍してきたソ連軍と握手する事になる。
そして日本軍と戦っていたドイツ軍も、多くが日本軍に投降して自らの戦争を終えていた。
根元将軍とジェーコブ元帥が握手する写真も、戦争の最後の瞬間の一コマとして後世に伝えられている。
連合軍とソ連軍が各地で握手したり対面している頃、ドイツ第三帝国も終焉の時を迎えていた。
ソ連軍による破壊するための戦闘により廃墟となったベルリンの陥落は、包囲されてから約2週間にもわたる戦闘を経た8月9日だった。
そして、大方の予想を裏切り遂にベルリンを脱出しなかったアドルフ・ヒトラーの死亡は、その3日前の6日。
そして6日にヒトラー死亡がベルリンから発表された時点で、事前の取り決め通りにフランクフルトではドイツ降伏の工作が開始される。
その3日後にベルリン防衛を任されていたヴァイトリンク将軍の降伏で終わったが、ベルリン陥落は一つの通過点に過ぎなかった。
僅かな間のドイツ大統領には、ヒトラー総統から強い信任と個人的信頼を寄せられていた軍需省のアルベルト・シュペーアが指名されていた。
この指名は、フランクフルトへの政府疎開がなければ実現しなかったとも言われており、シュペーア自身は「ベルリンを離れる時点でヒトラーとは実質的に決別しており、ヒトラーの側にいたら固辞していた。
引き受けたのは、公人としての義務を果たすためだ」と証言している。
ちなみに、シュペーアが「二代目総統」と間違えられる事も多いが、これは事実に反している。
ナチスでの総統はアドルフ・ヒトラーただ一人しかいない。
また、内務大臣に指名されていた親衛隊のラインハルト・ハイドリヒは、8月5日からニュルンベルクに出張しており、そのまま原爆投下にあったと考えられこの時点で連絡も取れなくなっていたため、「最後の内閣」で内務大臣は空席のままとなった。
またハイドリヒの移動を、アメリカ軍がヒトラーの移動と判断して、ニュルンベルクに原爆を投下したという説もある。
8月12日には、フランクフルトの臨時政府は降伏交渉を開始し、進軍してきたソ連軍に対して15日に降伏文書に調印。
同日遅くに、船でライン川を越えてきた連合軍に対しても降伏文書に調印。
しかしソ連軍、アメリカ軍共に調印そっちのけで、町中を探し回る。
ベルリンからの放送はブラフで、ヒトラーがどこかに潜伏していると考えたからだ。
またソ連は、ドイツ全土の占領を行いつつ、同様にヒトラーの行方を血眼になって探した。
ベルリンでも、廃墟の中をソ連軍兵士がヒトラーの姿を追い求めた。
廃墟となったニュルンベルクも逃亡先の一つと考えられたリンツも、別荘のイーグルネストも、アルプスの麓の地下工場や巨大防空壕も全て探した。
しかしヒトラーの姿はどこにもなく、結局ベルリンの総統地下壕付近の砲弾跡に不完全に焼却された状態で発見された。
この遺体は医学的にヒトラーだと判断されたが、ベルリン陥落前後の混乱から影武者説も多かった。
このため戦後、ヒトラー生存説が半ばオカルトとして流布することにもなった。
だがアドルフ・ヒトラーがその後姿を現すことはなく、フランクフルトでのドイツ降伏調印を以て戦争状態は終了する。
1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦は、ドイツの滅亡という形で約7年も続いてようやく幕を閉じたのだ。