表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
131/140

フェイズ90「WW2(84)ナチスドイツ滅亡」-1

 1946年7月25日、帝都ベルリンがソ連赤軍に包囲されたその日、ドイツ本土を巡る戦いはさらに混沌としてくる。

 

 ナチスとアドルフ・ヒトラーが作り上げた、ドイツ第三帝国もしくはナチス・ドイツ最後の瞬間の到来だった。

 


 混沌とした理由の一つは、この段階で連合軍がユトランド(ユラン)半島に上陸したからだった。

 

 ユトランド半島への上陸作戦は、通常なら行うような軍事作戦ではない。

 北海に面する半島の西側は、まともに人が住める場所まで沿岸から進んでいくまでが大変だった。

 東側は東側で地形が複雑だった。

 古来からも、当地に住んでいるバイキング以外、海からやって来ようと言う物好きはいなかった。

 ユトランド半島を侵略するなら、1940年春のドイツ軍のように、半島の付け根から陸路で進軍するしかない。

 どうしても半島に上陸したいのならば、半島付け根のドイツ領に上陸するべきだったが、付け根辺りも状況にあまり変化はない。

 そもそも北海沿岸全般にわたって、フィヨルドでない限り大きな港湾は作れず、上陸作戦に適した浜辺がない。

 しかも砂地の遠浅が多かった。

 

 そこに連合軍は、圧倒的物量と文明の利器の力によって強引に上陸作戦を決行した。

 


 わざわざ連合軍が上陸作戦の難しい場所に上陸したのは、彼らに与えられた時間が無かったからだ。

 1945年冬頃、ソ連軍は東からドイツ全土を狙っているのに対して、フランスに上陸した前後の連合軍は、前線での燃料不足などで進撃競争に遅れる可能性が高いと考えられていた。

 特にドイツ軍の「東方の守り作戦」が成功するまでは、ベネルクス地域ばかりかパリすら解放できるか危ういと考えられていた。

 そして連合軍としては、ソ連の進撃に物理的な政治的な楔を打ち込む必要性を強く感じていた。

 

 この懸念は、ドイツ軍の「東方の守り作戦」の成功によって少し遠のいた。

 この事もあって、不要とも言われたノルウェー作戦が決った。

 そして作戦準備が進められていたユトランド作戦は、予備作戦に指定されて事実上一時凍結される。

 

 だが、大成功に終わったと宣伝されたカレー上陸作戦では無傷の港湾確保に失敗し、内陸への進撃時の補給問題が再び強く懸念された。

 そして5月半ば、ユトランド作戦の決行が緊急で決められる。

 作戦決行までわずか2ヶ月。

 その短い期間で準備を行うのは、物量を誇る連合軍と言えども至難の業だった。

 加えて作戦に参加できる地上部隊の手配、揚陸作戦艦艇の準備など様々な事を極めて短期間で準備しなければならない。

 このため、ノルウェー作戦などしなければよかったと非難も出たりした。

 

 上陸作戦に際して何よりも足りないのは、上陸する陸軍部隊だった。

 何しろ、素早く上陸して最低でもユトランド半島の付け根まで、短期間で進撃しなくてはならない。

 上陸作戦自体は、既に仕事が無くなっていたノルウェーとカレー近辺の海兵隊を動員すれば事足りるが、迅速な進軍に必要な上陸作戦に慣れた熟練部隊となると、連合軍広しといえど限られていた。

 しかも、出来れば軍団規模のまとまった戦力が望まれたため、尚更選択肢は限られていた。

 近在にいる上陸作戦に慣れた部隊のほとんどがフランス領内で作戦行動中で、とてもではないが軍団規模では引き抜けなかった。

 

 そこで白羽の矢が立ったのが、地中海方面の部隊だった。

 同方面では、進むべき進撃路をアルプス山脈に阻まれて、しかも戦線を形成できる場所も極めて限られていたため、長らく部隊の多くが半ば待機状態に留め置かれていた。

 そして5月14日の時点で、アイゼンハワー元帥指揮下の地中海戦域軍所属で、山下大将麾下の日本南欧方面軍(第8方面軍)に属する日本第7軍(軍団)に白羽の矢が立ち、その日のうちにヴェネツィアなど近在の港への移動が開始される。

 決定があと1日遅ければ、スロベニアが連合軍に寝返って同部隊も進撃を開始していた筈なので、ギリギリのタイミングでの決定だった。

 そして日本第7軍(軍団)は、友軍が勇躍してスロベニアになだれ込むのを横目で見つつ、命令に従って港へと向かった。

 


 日本第7軍(軍団)は、支那戦線初期の上陸作戦以後数多の上陸作戦を経験してきた。

 支那北部からイタリアまでのアジア戦線、地中海戦線全ての作戦に参加してきた、連合軍で最も戦闘経験の多い軍団だった。

 麾下には第2機甲師団、第5師団、第18師団などを有する重装備の機械化軍団だが、特に第5師団は渡洋作戦用の専門機材を持ち「陸軍海兵隊アーミー・マリーン」と言われるほど上陸作戦に熟練した部隊だった。

 

 この時の指揮官は根元博将軍(当時中将)。

 支那通だった事もあり戦争序盤は中華戦線で戦い、中華民国降伏後もしばらくは今村将軍のもとで中華占領軍総司令部に副参謀長として勤務していた。

 だが、戦場が欧州になると前線での優秀な高級将校不足もあって再び前線勤務に転じ、シチリア島上陸の頃から支那戦線でも属していた同軍(軍団)を指揮していた。

 

 日本第7軍(軍団)の戦域をまたぐ移動は、まさに連合軍的だった。

 移動当初こそヴェネツィアで数日間待ちぼうけとなったが、その間将兵は連合軍共通規約に従い与えられた休暇を満喫。

 そして休暇中に大型の装備運搬船が欧州中から続々と到着し、先に輸送専門の兵士達によって装備の運搬が実施される。

 兵士達は後から到着した客船型もしくは貨客船型の兵員輸送船に乗って、8万を越える全軍の将兵が殆ど一度にゆうゆうとイギリス本土入り。

 そこで新装備の受け取りと慣熟訓練を行う。

 上陸作戦のリハーサルは、ユトランド半島と似た地形のブリテン島の北海側の海岸で実施された。

 そして先に装備が載せられた指定先の揚陸作戦艦艇に分乗し、第二次世界大戦最後の強襲上陸作戦へと赴くこととなった。

 

 またこの上陸作戦は、将兵の間でも戦争最後の大規模強襲上陸作戦と見られており、さらにはドイツ本土深くに直接乗り込む作戦と思われていた。

 しかも、日を追うごとにフランス本土の部隊が燃料不足で進めなくなっているため、過剰な期待が高まっていた。

 この期待は、マーケット・ガーデン作戦後の連合軍各部隊の停滞も重なって、まるで全連合軍の期待を一身に背負うような有様だったとも言われる。

 しかも上陸支援には、当時ブリテン島や北海に溢れかえっていた連合軍海軍のうち余剰艦艇の過半が当たるため、その噂がさらに将兵の期待を高まらせていた。

 噂の中には、強引にバルト海に進軍してベルリンに乗り込むというものまであった。

 

 とはいえ、ユトランド半島への上陸直後に大規模な進軍が出来る可能性は非常に低いものだし、港湾拠点を素早く無傷で押さえない限り、上陸してから長距離進軍できないのはこの上陸作戦でも変わりなかった。

 それでも他の戦域での停滞が伝わっていたため、過度の期待へとつながっている。

 

 なお上陸作戦には 日本第7軍(軍団)以外にはノルウェー作戦を早々に終わらせたアメリカ海兵隊第2遠征軍が参加している。

 

 段列は以下のようになる。

 


 ・「ヴァイキング作戦」:総指揮官ヴァンデクリフト大将

本部直轄:日本海軍第一空挺団、他

・日本第7軍(軍団)(根元博中将)

 第2機甲師団、第5師団、第18師団、他

・アメリカ海兵隊第2遠征軍(軍団)(ホランド・スミス中将)

 第2海兵師団、第4海兵師団

・日本海軍陸戦隊第一軍(太田実中将)

 第1特別陸戦旅団、第4特別陸戦旅団


 半島西岸中部には海兵隊と第5師団が上陸作戦を仕掛け、その後第七軍(軍団)は揃った部隊から随時南下を実施し、地上での機動力に劣る海兵隊は半島全域の制圧行う。

 日本海軍陸戦隊は別働隊となり、東側のスカゲラック海峡、カテガット海峡を抜けて、デンマークの首都コペンハーゲンなどのあるシェラン島など東部の島々へ直接上陸する。

 一部には、砲台の破壊や橋の確保のため、英本土から飛び立つ空挺部隊も降下予定だった。

 

 一方、現地ドイツ軍は少数の砲台以外ほとんど無く、戦争中盤までは独立国と言うことで国防はデンマーク政府に任されていた。

 それでも戦場がヨーロッパになるとドイツ軍部隊が沿岸防備に付くようになったが、砲台以外は形だけの沿岸警備部隊ぐらいだった。

 しかも1946年初夏になると、ごく僅かな沿岸警備部隊以外は姿を消してしまう。

 その警備部隊も、戦力価値の低い国民擲弾兵ばかりで有力な兵力はほぼ皆無だった。

 もはやドイツに、デンマークに兵力を置いておく余裕が皆無となっていた為だ。

 

 デンマークは、1940年4月の時はほとんど抵抗することなくドイツに降伏し、侵攻したドイツ軍もたいした戦力では攻めなかった。

 その後デンマークは、表面上は親ドイツ派の国として大戦を過ごした。

 しかし兵力はほとんど出さないし、ナチスのホロコーストにも協力しないなどの独自性を見せている。

 国外への派兵も、僅かな数のデンマーク系義勇武装SS部隊(=後の「ノルトランド」の一部)とデンマーク自由師団など、人口規模以上に小規模でしかなかった。

 だが戦場がヨーロッパになるとドイツの支配が強まり、その反発などからドイツによる軍の解散などが行われ、軍事的な面はドイツに牛耳られるようになる。

 

 とはいえ、連合軍にとってデンマークでの脅威は、スカゲラック海峡のユトランド半島側に設置された長距離砲ぐらいだった。

 しかしこの砲台は強力で、海峡封鎖を目的に遠距離射撃ができる海軍砲転用の38.1cm砲が4門も設置されていた。

 目的は敵の上陸阻止ではなく、海峡を封鎖して敵をバルト海に入れないためだが、脅威であることに違いはなかった。

 

 このため上陸作戦に先立った、これら砲台が空母機動部隊1個群を動員して徹底的に破壊された。

 それ以外にも、事前偵察で判明した軍事目標も空爆し、「地均し」の方は呆気なく終了している。

 もはや同地域でのドイツ空軍の活動がほぼ皆無の為、まるで演習のようだったと言われた。

 連合軍が警戒した、沿岸部での小型潜水艇や魚雷艇の阻止攻撃もほとんど見られなかった。

 上陸を阻止する障害物や機雷も全く無かった。

 

 この「最後の上陸作戦」の一番の問題点は、ロシア人がユトランド半島にやってくるまでにどこまで進撃できるかにあった。

 もしそれ以上有利な状態であるなら、キール運河の占領、ハンブルグ、キール、リューベックの占領も目指されていた。

 さらにその時点でドイツ側の抵抗が微弱もしくは抵抗がない場合は、進める限り進むことが定められていた。

 ベルリンを目指せと言う言葉すらあったほどだ。

 


 7月25日、連合軍最後の上陸作戦が開始される。

 

 この作戦では当日以前の事前爆撃も艦砲射撃もなく、当日黎明にいきなり沖合に展開する強大な空母機動部隊と、英本土に展開する遠距離攻撃可能な空軍部隊による空襲によって開始される。

 空襲は念のためドイツ北西部全域に対しても行われ、約2000機の艦載機を含めて5000機以上が作戦に動員された。

 

 そして上陸部隊が沖合で手際よく上陸準備を進める少し後ろからは、過剰なほどの戦艦を中核とする艦砲射撃部隊が陣取り、観測機や偵察機からの情報を受けて艦砲射撃を実施した。

 とはいえ、戦艦多数による艦砲射撃の必要性はほとんど無かった。

 上陸に不適な場所でもあるため、ドイツ軍も上陸してくるとは考えられていなかった。

 敵陣地や抵抗拠点などないに等しく、上陸部隊の一番の障害は上陸が非常に難しい地形そのものだった。

 このため、参加部隊の多くが作戦参加の勲章を得るために押し掛けたとすら言われたほどだ。

 

 上陸自体も、工作員などによる事前工作によって、地元デンマークの実質的なレジスタンス組織による手引きまでが行われた。

 僅かな数のドイツ軍部隊の士気も非常に低く、上陸作戦は演習よりもスムーズに行われたと言われた。

 ドイツ人にとっては、既にベルリンが包囲されるなどロシア人の蹂躙を前に、もはやデンマークどころではなかったからだ。

 僅かな抵抗は、ヘンシェルの空対艦ミサイルを応用して開発された地上発射型の地対艦ミサイルが、移動式でもあったため上陸地点の後方から一斉に発射され、揚陸船団の一角に一時的な混乱を発生させただけだった。

 

 この時のドイツ軍の攻撃では、約30発の移動型地対艦ミサイルが沖合の船団に撃ち込まれた(※「Hs 293」空対艦ミサイルの応用型。

 発射時に上空に打ち上げるブースター付で、誘導は基本無線誘導だがレーダー逆探知装置を利用した型もあり。)。

 そして海兵隊1個大隊を載せた大型輸送船を沈めるなど、大小10隻近い艦船を撃沈破している。

 この攻撃は連合軍に小さくない衝撃を与え、戦後になって各国が同種の兵器開発を進める大きな切っ掛けとなってもいる。

 

 とはいえ現地ドイツ軍の意味のある反撃はそれだけで、連合軍にとっても真の敵はドイツ軍ではなく時間そのものだった。

 

 早くも上陸作戦初日の遅くには、突進部隊の主力となる第二機甲師団の揚陸が開始されている。

 さらには、最初に上陸した第五師団の機甲捜索連隊によって、威力偵察と言う名の実質的な進軍も開始されている。

 時間を惜しんで、上陸に際しての上陸機材の使い捨ても惜しみなく行われた。

 とにかく早く少しでも多くの物資を揚陸させる事が目指された。

 しかし半島北部の港湾都市は北東部のオーフスぐらいしかなく、多数動員された戦車揚陸艦、中型揚陸艇など車両を載せたまま海岸に乗り上げられる艦艇が総動員されていた。

 搭載トラックには、ガソリンなど当座の進撃に必要な物資が予め満載されており、それ以外の船の隙間にもドラム缶が山積みという危険な状態だった。

 この措置は、とにかく上陸した部隊に当座の燃料と物資を持たせる為だった。

 このため、この上陸作戦では定数をはるかに上回る数の補給車両が臨時に作戦参加していた。

 

 半ば強引に日本海軍の空挺旅団が投入されたのも、進撃路を確保するためだった。

 そして空挺に対してだけでなく、進撃する地上部隊全てに対しての空中補給も、可能な限り大規模に実施される予定だった。

 ある意味第七軍(軍団)は、全連合軍の支援のもとで進撃するような状態だった。

 

 そして何を差し置いても、進撃を優先すべき事態が迫っていた。

 


 連合軍がユトランド半島に上陸した翌日、ソ連軍の先鋒部隊で早くもドイツ中部を流れるエルベ川に到達した部隊が現れた。

 さらにその二日後には、ハンブルグ東部郊外に姿を見せた。

 エルベ川の渡河には早くても2日かかっていたが、先を急ぐソ連軍はドイツ軍の微弱な抵抗を排除し、東プロイセンで見せた暴力的な軍以外への蹂躙もせずに突進を重ねた。

 その様は、1940年6月半ば頃にフランス戦線のドイツ軍によく似ていた。

 

 ドイツ軍の防衛体制は、すでに東部戦線では崩壊状態に近く、前線を支えるよりも国民の西への脱出のために戦ったり、とにかくソ連兵から国民を守る戦いに移行しつつあった。

 東部戦線に配備されていた部隊も、半数はどこかで包囲されるか孤立しており、残る半数のうちのさらに半数は撃破されたか、撃破されつつあった。

 そして残る4分の1が、西へ逃げるドイツ市民を守っていた。

 

 もはや戦争とは言えない状態だが、完全に包囲されたベルリンからはアドルフ・ヒトラー総統の名で徹底抗戦が強く命令され続けていた。

 肉声のラジオ放送が、この時期でも行われていたという情報もあるほどだ。

 

 だが、既にベルリンからまともな命令系統を維持することは不可能で、7月25日以後の戦いはフランクフルトから命令が出されることが多くなった。

 しかしベルリンが陥落していないし、国家元首のヒトラー総統が健在で徹底抗戦を命じている以上、ドイツ軍は戦い続けなくてはならなかった。

 国家、民族がどのような事態に陥ろうとも、命令に従うのが軍隊だからだ。

 

 そしてこの事態に困っていたのが、欧州西部に陣取る連合軍だった。

 

 進撃を急ぎたい連合軍の前には、戦力が大きく低下したとは言えドイツ軍が立ちはだかっていた。

 そしてこの段階で、ドイツ軍内で最も大きく組織だった戦力を有していたのが、西部戦線のドイツ軍部隊だった。

 合わせて40万以上の有力な兵力を抱え、特に連合軍のアルンヘム占領で河川防御が機能しなくなったオランダ国境には、周辺で最も有力なドイツ軍部隊がドイツ本土、ルール工業地帯に連合軍を進ませまいと陣取っていた。

 それ以外の地域では、連合軍はついにドイツ国境を越えてライン川西岸のラインラントに進みつつあった。

 

 だが、この年の初夏頃からライン川各地にかかるあらゆる橋の爆破準備がドイツ人的几帳面さで進められており、連合軍の姿が見えると次々に機械的に破壊されていった。

 このため連合軍は、せっかくライン川に到達しても、少し後方から追いかけている大規模な渡河機材を持った工兵部隊が到着し、そして架橋を行うまで川面を眺めているしかなかった。

 

 大規模空挺作戦で一気にライン川を越えたオランダ東部でも、運河、河川にかかるあらゆる橋がドイツ軍の撤退時に爆破され、しかも爆破はアルンヘム陥落の頃から行われていた。

 このため、補給状況を多少は改善した連合軍ではあったが、こちらも一つ一つ架橋しなければ東に進むことは出来なかった。

 幅数メートルの運河ですら、1秒が惜しいこの時は重大な地形障害だった。

 

 連合軍としては、もはや打つ手無しだった。

 

 もちろん多少の時間があれば架橋して進軍できるが、もはやその「多少の時間」がなかった。

 しかもドイツ政府、軍が降伏しない限り、目の前のドイツ軍も撃破しなければならないが、撃破する時間もなかった。

 そして戦後のことを考えると、ソ連に多くを渡すことは出来る限り避けたかった。

 だがこれは表向きの理由で、真の理由は戦争の最大の貢献国がアメリカではなくソ連になることを危惧したと言われる。

 

 そしてここで、連合軍総司令部ではなくアメリカ合衆国政府は、一つの重大な決断に至る。

 だれが勝利に貢献したかを世界中に見せるため、開発されたばかりの新世代の兵器、原子爆弾の実戦使用へのゴーサインだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろうSNSシェアツール
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ