フェイズ09「WW2(3)支那戦線1」-2
日本海軍の航空撃滅戦及び対地攻撃は熾烈で、最初の一斉攻撃が終わると、空母機動部隊は艦隊を二分して、ローテーションを組んで補給しながら継続的な爆撃を実施した。
全て合わせて600機の航空集団とはいえ、相手が多すぎたからだ。
しかし短期間での連続出撃では疲労は避けられず、一度だけ中華民国空軍の反撃を許すことになる。
襲来したのはドイツ製の「Ju87」の初期型で、ヨーロッパでは「スツーカ」として既に有名な急降下爆撃だった。
わずか6機が襲来しただけだったが、雲を利用して接近した事と、日本側が相手の空襲はほぼないと考えて、上空哨戒に3機しか戦闘機を配置していなかったのが攻撃された主な原因だった。
レーダーを装備していればという論もあるが、この当時レーダーを搭載した艦艇はイギリス本国に若干数あるだけで、日本海軍では地上配置の初期型の開発・実験段階に過ぎず、現実的な意見とはいえないだろう。
この空襲では、空母《加賀》と《蒼龍》が3機ずつの逆さ落としを受けることになる。
そして共に500kg爆弾が1発命中したのだが、好対照の結果となった。
不意打ちのため対空射撃はほとんど出来ず、投弾後待避する敵機を艦隊丸ごとの防空射撃で半数打ち落としたのみだった。
《加賀》のど真ん中に命中した爆弾は飛行甲板上で炸裂したが、《加賀》の飛行甲板中央部は75mmと20mmの装甲版を張った上に木甲板を施した構造を持っていた。
このため木が剥がれて装甲化された飛行甲板が若干波打った状態になっただけで、大きな損害は受けなかった。
そればかりか、その後も特に問題なく航空機の発着が行えた。
(ただし、帰投後に被弾した装甲の張り直しを行っている。)
対して《蒼龍》は艦後部に大穴が穿たれ、炸裂した格納庫の中から激しい黒煙を吹き上げた。
たった1発の被弾で戦闘不能に追いやられ、そればかりか一時は危険な状態となって放棄、沈没すら考えられた程だった。
幸いにして炸裂した格納庫がほぼ空だった事、《蒼龍》乗組員の献身的努力、さらに寄り添った護衛艦艇の消火活動により事なきを得たが、日本海軍は空母の脆弱さを思い知る事になる。
また、対空戦闘に対する様々な面での不備や未熟さも痛感させられ、今後も予想される状況だったことも手伝って、大いに研究、改善される端緒となった。
なお、日本艦隊を空襲した機体のパイロットは、日本では長らく教官として派遣されたドイツ軍パイロットと思われていたが、実際はドイツ人教官から厳しい訓練を受けた中華民国のパイロットだった。
空母《蒼龍》の被弾と後退はあったが、その後も日本海軍による激しい空襲は継続され、満州主要部に向けて突進する予定だった中華民国軍は大混乱に陥った。
戦車や自動車は的でしかなく、対空装備を持たない地上部隊は逃げまどう以外なかった。
しかも彼らが進んでいたのは、たいして遮蔽物のない満州西部の平原地帯で、進むにしろ逃げるにしろ日本軍の空襲の餌食となるより他無かった。
このため彼らは、その場で塹壕を掘り始め、穴籠もりしてしまう。
しかも空襲が本格化すると、それまで遅滞防御戦に徹していた日本軍、満州軍が態勢を立て直して、重砲による継続的な阻止砲撃の密度を上げた。
その状態で膠着状態に陥ったのだが、後方にも大軍の進撃を予定していた中華民国軍は、空襲と前線の停止により、兵力と物資の移動に大きな混乱を引き起こしてしまう。
そしてそこに日本海軍が出現する。
1940年10月1日に日本艦隊が出現したのは二カ所で、沿岸部の都市の秦皇島には戦艦《扶桑》《山城》を中核とする艦隊が出現して、激しい艦砲射撃で物資集積所、鉄道網や道路を破壊した。
もう一カ所には戦艦《長門》《陸奥》《伊勢》《日向》などより多くの大艦隊が出現し、さらに多数の輸送船舶を伴っていた。
輸送船団の中には3個師団が乗船し、彼らはほとんどの抵抗のない海岸に続々と強襲上陸を実施した。
近くの都市の名をとって錦州上陸作戦とも言われた作戦は、この戦争が始まって以来最大級の上陸作戦であり、多くの教訓を日本軍にもたらした。
敵がまったく警戒せずほぼ無血上陸だったのに、上陸作戦は不慣れと不手際から齟齬と遅延ばかりだった。
特に、重装備の機械化部隊の上陸には苦労が伴われ、人によっては連れてくるんじゃなかったと言ったほどで、このため、急ぎ揚陸専門艦艇が研究、建造される事になる。
それでも上陸作戦は大成功をおさめ、満州に侵攻していた中華民国軍主力の後方を一気に遮断してしまう。
そして時を同じくして、内陸部に移動していた満州西部に展開していた日本陸軍の機械化部隊が、戦車、装甲車を先頭に立てて急速な進撃を開始した。
どちらの戦場でも日本軍機が乱舞しており、中華民国などとは格の違う本格的な電撃戦を実施した。
この戦場では、旧式の「八九式戦車」はほとんど使われずに、機動力のある「九五式軽戦車」と当時は新鋭戦車と言える「九七式中戦車」が活躍した。
歩兵支援の速度の遅い戦車では、広い地域を戦場とする電撃戦に不向きな事が、訓練などからある程度理解されていたためだ。
そして九七式戦車は、機動性という面で日本陸軍の期待に十分応える事となった。
ただし、ソ連軍が供与した戦車と戦闘になった場合、予測した以上に苦戦を強いられた。
「BT-7」に対しては火力の大きな不足が見られるばかりか、機動性の面でも劣勢だった。
幸い中華民国軍が未熟な兵士ばかりなので事なきを得たが、思わぬ損害を受けた。
なお戦車戦では、侵攻した中華民国軍が装備した奇妙な戦車がいくつも捕獲された。
ほとんどは、動くことが出来なくなって放棄されたものだった。
全長が異常に長く砲塔が背負い式に二つ搭載された車両、砲塔を二つ縦に重ねた車両、砲塔に同じ主砲が二つ横並びで搭載された車両など、非常に変化に富んでいた。
中には、多数の砲塔と銃塔を備えた陸上戦艦とも言われた多砲塔戦車もあった。
しかし火砲、エンジン、装甲など個々の技術はともかく、戦車として評価すべき点はなく、5年ほど前に日本軍も重戦車として試作して「役立たず」の烙印を押したのと同種の車両だった。
だが技術的に見るべき点はあり、その後の日本陸軍の戦車開発に大いに活用されている。
だが中華民国軍は、戦車を有効活用する事に非常に乏しかった。
そして1週間を待たずして満州に侵攻した50万の中華民国軍は、日本軍によって分断包囲され、中華民国本土から完全に孤立してしまう。
前は復讐に燃える満州国軍、西と後方は日本軍の機械化部隊、東は上陸した日本軍の一部と大艦隊、そして空には日本軍機が舞っていた。
完全に戦意が萎えた中華民国軍は、包囲されてから僅か3日で白旗を掲げ、呆気なく降伏してしまう。
陸上戦力で劣勢な側が華麗な包囲殲滅戦を実施したことに、日本国民ばかりかアメリカも熱狂した。
厳しい状況ばかり伝えられる戦況の中で、この勝利が唯一の光だったからだ。
なおこの時の包囲殲滅戦と強襲上陸作戦は、数年前アメリカ軍と日本軍の合同軍事演習の時に、アメリカ軍を率いたダグラス・マッカーサー将軍がとった作戦を雛形としていると言われる。
満州での戦いを短期間のうちに勝利した日本軍だが、そのまま中華民国領内に向けての逆襲とはならなかった。
そればかりか、満州国領内からも完全に駆逐出来なかった。
大軍を包囲殲滅したとはいえ、さらに百万人以上もの大軍が前面に展開していた。
日本軍の方も、航空隊が短期間で疲弊した上に当座の弾薬のかなりを消費していた。
それ以前の問題として、百万の大軍に対して攻め込むだけの戦力が不足していた。
さらに、日本軍と中華民国軍の睨み合いは上海租界でも行われており、こちらの状況も改善する必要があった。
このため上陸支援した艦隊だけでなく、第一航空艦隊も上海方面に移動したので、満州方面の戦力はさらに低下した。
幸い陸軍航空隊主力が入れ替わりに活動を活発化させたが、それでも戦力は低下していた。
加えて中華民国軍以外にも、北ではソ連軍が虎視眈々と狙っており、兵力を動かせないばかりかさらなる増援すら必要だった。
そして何より、日本軍が中華民国に力を入れている間に、イギリス本国から大艦隊と各地への増援兵力を乗せた大船団が東南アジアに駒を進めつつあった。
イギリスの先遣部隊は、日本軍が満州に係り切りなのを突いて香港にまで艦艇と兵力を進めており、香港と広東方面からは中華民国への大量の支援物資も届けていた。
日本にとっては、一難去ってまた一難という状態だった。
1940年10月までに英本国が船団で広東と香港に届けた物資は、すぐにも現地の中華民国軍に受け渡され、地上装備の過半は上海近辺の中華民国軍が装備したが、航空機はほぼ別だった。
航空機については、英本土から一緒にパイロットと整備兵も伴われていた。
他、弾薬、整備用品など、継続的に戦闘できるだけの物資も付随していた。
その事を日本軍が知るには、もう少し時間が必要だった。
その前に、日本軍は上海で窮地にさらされる事になる。
中華民国は、満州での主力部隊が壊滅的打撃を受けたので焦りを強め、失点を取り返すべくすぐにも上海で行動を開始する。
上海は既に日本人が多く滞在する租界を包囲した状態だったが、首都南京の近辺に留め置かれていた国民党の最後の直属部隊に、届いたばかりのイギリス軍装備を与えて約300キロしか離れていない上海に向かわせた。
当時上海は、中華民国を除いて考えても、敵味方同士が呉越同舟の状態だった。
このため共同租界、フランス租界は各国の海兵隊や陸戦隊が駐留しても、基本的に中立地帯という協定が暫定的に結ばれていた。
地の利は日本にあったが、日本も中立国の領事館などが犇めく上海での戦闘や混乱は避けたかった。
日本軍が行動を起こすとするなら、圧倒的戦力を揃えた状態での無血占領ぐらいだった。
だが、全てを横紙破りするように、中華民国が動いた。
この時上海には、日本軍は海軍の陸戦隊が駐留している艦船からの臨時を含めても総数5000名程度しかなかった。
中華民国との戦争状態で艦艇が何隻か派遣されたが、空襲を警戒して有力な艦艇は旧式の軽巡洋艦と完全に時代遅れな装甲巡洋艦ぐらいだった。
9月5日に中華民国との間に戦争が始まると、日本は租界からの疎開という洒落にならない疎開を開始していた。
だが、同盟国のアメリカ人の租界も主に日本が行っていたため遅れていた。
疎開用の船舶はアメリカもフィリピンなどから派遣していたが、統制すべき司令部が立てられていなかったからだ。
その後疎開船団司令部が作られたが、その頃には優秀な装備を持った中華民国の精鋭部隊が上海に到達しつつあった。
なおこの時日本陸軍の主力は満州方面に集中しており、当時の日本陸軍の半数以上が投入されていた。
日本本土ですぐに動けるのは近衛と戦車を除いて2個師団あったが、満州での上陸作戦を行った後で、それらを転用するにしても物資の積み込みから始めなければいけないので、まだ時間が必要だった。
だが、10月半ばに散発的に始まった中華民国軍の攻撃は、基本的に現地の日本軍を挑発して誘い出す戦闘に終始した。
租界で市街戦を行えば、日本以外に自らの同盟国となったイギリス、フランス、イタリア、さらにまだ敵ではないアメリカへも被害を与えることになるからだ。
だが日本軍は、安易な挑発には乗らなかった。
このため中華民国軍は、主力が満州で壊滅して激減した空軍を使い、日本租界を中心に爆撃を行う。
しかし精鋭パイロットを失った中華民国空軍の爆撃は稚拙で、味方となったフランスの租界を誤爆するなど、小規模ながら無差別爆撃の様相となった。
一説には、川にいる日本軍艦艇を狙ったとされるが誤爆は続いた。
10月末までに、上海方面の中華民国軍は20万人に達した。
以前から購入していたドイツ軍装備と、供与されたばかりのイギリス軍の装備などにより装備も比較的優良だった。
対する日本軍は、海軍陸戦隊を中心に逐次上海租界方面に増援を送ったが、その数は全て合わせても6000名程度だった。
装備も重火器はほとんどなく、市街での持久戦を前提としていた。
ただし、海軍陸戦隊用の装甲車を多数送り込んだので、これは現地の中華民国軍を躊躇させるには十分だった。
また航空機も、数は少ないが投入され始めた。
当時主力は満州方面にいたのだが、本土待機の小数の部隊が台湾に進出して渡洋爆撃を実施した。
爆撃は市街は避けて、郊外の中華民国の陣地を狙った。
だがその間、日本軍の後方は大忙しだった。
満州での上陸作戦から戻ってきた船団や艦隊は、佐世保や呉などに戻るが早いか、燃料弾薬、そして待ちかまえていた陸軍部隊と彼らが使う物資が搭載されていった。
連続した作戦による疲弊には一時的に目をつぶったもので、政治的に短期間で中華民国の動きを抑えることを目的とした行動だった。
ただし、香港方面で活動を活発化させているイギリス本国の東洋艦隊に備えねばならず、移動に一定に時間が必要な基地航空隊主力の投入は不可能だった。
しかし濃密な航空支援は欠かせないため、満州での作戦を切り上げた形の第一航空艦隊が当座の補給を受けただけで投入されることになった。
また上海での反撃では、フィリピンのアメリカ軍も戦列に参加可能で、英自由政府も形だけの兵力を北米から送り込む事が決まった。
11月13日、揚子江河口部に船団を引き連れた日本艦隊が到着した。
これに対して中華民国は、イギリスに対して日本艦隊の撃破、それが無理なら妨害を要請した。
しかし台湾の高雄とフィリピンのマニラに日米の艦隊が展開しているため、上海方面に進みたければ戦闘を覚悟しなければならなかった。
だがイギリス本国としても、同盟国となった中華民国の要請を無視する事は、特に中華民国が参戦したばかりのこの時期には避けるべきだった。
またイギリス自身が中華中部沿岸で作戦行動中のため、何もしないわけにもいかなかった。
このため、香港の艦隊が形だけ出撃して日米の動きを牽制した。
とはいえ、香港のイギリス艦隊は巡洋艦中心の小規模な艦隊で、東洋艦隊主力は到着したばかりと言うこともあってシンガポールで待機していた。
対して台湾の日本艦隊は、《金剛型》戦艦4隻を中心にした大艦隊で、マニラのアメリカ・アジア艦隊は小規模だが日本海軍の重巡洋艦を中心とした艦隊が合流していた。
結局イギリス艦隊は、日米海軍の牽制に成功するが、上海方面の戦況には何ら影響しなかった。
そればかりか、日米の目を中華南部と東南アジアに向けさせる事になってしまう。
上陸に際して日本の大船団は、最終段階で二手に分かれた。
1個師団を乗せた船団が上海の南方の揚子江河口部から上陸し、主力の3個師団が上海の北東部の杭州湾に上陸した。
1個師団の方は敵を足止めする役割で、主力3個師団は敵を背後から包囲殲滅するのが目的だった。
これに対して現地中華民国軍は、上海南部の上陸は確定と考えてそれなりの準備を進めていたが、杭州湾への大軍の強襲上陸は完全に奇襲となった。
このため杭州湾上陸は、日本軍が艦砲射撃支援に戦艦複数を派遣したのに、完全といえるほどの無血上陸となった。
対して上海方面では、艦砲射撃支援は《足柄》などの重巡洋艦までだったが、第一航空艦隊による激しい空襲が実施された。
また中華民国軍に対して広く浅く空襲が実施され、特に移動を妨げるための阻止攻撃が重視された。
さらに現地中華民国軍は、日本軍の艦艇と空軍(陸海軍航空隊)が満州に集中していると考えていたため、空襲に対しても激しい混乱が見られた。
日本軍は、上陸初日に先遣の機械化捜索大隊が包囲のための進撃を開始したが、ほんとど抵抗らしい抵抗は無かった。
上海南部に重厚に作られた陣地群での抵抗は激しかったが、この段階での日本軍の目的が上海の危機を救うことにあるため、塹壕陣地群に誘い込むという中華民国軍の戦術は空回りしていた。
そして中華民国軍は、その場その場で散発的な戦闘に終始するだけで、日本軍が急速に包囲網を狭めつつあるという噂(事実だった)が広まると浮き足立ち、激しい弾幕、空襲、艦砲射撃がさらに士気を砕いた。
あとは満州の状態と大きな違いは無かった。
しかも日本軍包囲下では、国民党の督戦隊(旅団規模)と逃げ出した部隊が同士討ちを始め、現地中華民国軍の混乱は拡大する一方だった。
しかも薄いとはいえ既に包囲下なので、背を見せて逃げる事が難しく、その場で降伏するか軍服を脱ぎ捨てて周辺の農村に隠れる、という行動が目立った。
せっかく供与されたイギリスからの兵器は、ほとんど何の役にも立たなかった。
上海での戦闘は11月中に決着し、中華民国軍は上海に派遣した20万の兵力が、半数に満たない日本軍に包囲殲滅されてしまう事になる。
そして本来なら日本軍の追撃戦となるのだが、ここでも兵力の不足、進撃のための物資不足のため、追撃は物理的に不可能だった。
また、追撃すると言うことは首都南京を攻略するのと同義のため、追撃は限定的で南京への進撃は決して行わない事が政府及び陸軍の双方で決められていた。
現地部隊もこの点は良く守り、軍事的にはやや中途半端な戦闘となった。
上海での戦闘の結果、中華民国軍は総崩れ一歩手前に追い込まれてしまう。
そして中華民国政府は、危険を感じて首都を南京から重慶に移転。
要するに逃げ出した。
だが、彼らが稼ぎ出した形の時間を、中華地域に進出してきた枢軸軍は無駄にしなかった。





