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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ89「WW2(83)ヤルタ会談」-1

 1946年6月4日〜11日、戦後を見据えた首脳会談が開催される。

 戦後の最初の枠組みを決めた「ヤルタ会談」の開催だ。

 

 連合国首脳による会談は、第二次世界大戦中何度か行われてきた。

 しかしアメリカ、日本そして自由英首脳による会談の回数が多かった。

 1941年8月ハワイのホノルルで行われた「太平洋会談」以外にも、サンフランシスコで1942年に日米自由英首脳が集まって、戦争方針を話し合っている。

 また全体が集まる会議の前にも、日米首脳だけ、米英首脳だけが会う場合もある。

 日本の山梨首相が、苦境が続く時期のソ連を訪問した事もあった。

 

 そしてこれまでに日米ソ自由英の首脳が全て集まった唯一の会談が、1943年8月開催の「アンカレッジ会談」だった。

 その後は、戦局全般が連合軍に有利になった為、首脳レベルでの戦略会議は特に必要とされなかった。

 だが、戦後を目前にして、まさにその戦後を話し合うための首脳会談の必要性がでてきた。

 そうした中で行われたのが「ヤルタ会談」だった。

 

 しかし会談の開催時期については一悶着合った。

 開催場所は43年がアメリカだったので、ソ連領内のどこかと言うことになった。

 日本開催という案も出たが、主にソ連が難色を示したため実現しなかった。

 だが、日本の面子を立てるという事で、近い時期に外相会談が開催されることになり、これは45年11月に廣島会談という形で開催されて、近在の厳島神社での外相達の記念撮影が後世にも残されている。

 

 会談開催の時期については、1945年12月から1946年のできるだけ早い時期というのが1945年夏の時点で決められた。

 だが最初の予定は、ドイツ軍のポーランド方面での反撃で日程調整の最中に流れてしまった。

 そしてソ連としては、雪辱を注ぐまで会議をすることが政治的に出来ず、攻勢予定を考慮して4月後半を指定。

 だが今度は、連合軍が5月初旬にカレー上陸作戦があるため、最低でも5月中旬以後を求める。

 しかし遅すぎるとドイツが降伏もしくは全土占領となり、戦争自体が終わって問題が少しややこしくなる可能性もあった。

 

 また同年4月からは、戦後の国際的枠組みの一つである「国際連合(U.N.)の設立のための会議がアメリカ西海岸のサンフランシスコで開催されており、各国外相などが詰めかけて連日会議をしており、この重要会議を外しての開催が望ましかった。

 

 結局、5月のカレー上陸作戦成功を受けて、6月4日の開催と決まった。

 


 「ヤルタ会談」の6月開催を前に、最も精力的に動いていたのは日本の山梨勝之進首相だった。

 

 戦後の枠組みを決める会議と言っても、基本的にはヨーロッパ情勢を中心とした会議なのが分かっていたので、日本の重要性が低かった。

 それより日本としては、今まで解放もしくは占領してきた地域の戦後の事の方が気がかりだった。

 そこで日本としては、独立予定を含めたアジア諸国を一同に集めた国際会議の開催を別に計画する。

 

 仮称「東亜会議」と呼ばれ外交通の重光葵を担当として進めるも、自由英など連合軍側のヨーロッパ諸国から「待った」の声があがる。

 会議はアメリカのハル大統領も賛成し、最低でも外相、できれば自らのオブザーバー参加を打診していたので、日本としては安心して会議の開催を進めていた。

 ハルとしては、国連の準備の一つという気持ちもあったからだ。

 

 だが、会議参加予定の国や地域のほとんどは、イギリス、フランス、オランダの植民地か衛星国、影響国だった。

 もちろん日本も、戦争中に連合軍が戦後も植民地として認めた地域の代表を呼ぶ気は無かった。

 集まるのは、主要参戦国の満州帝国をパートナーとして、主に旧イギリス領のマレー、インド、あとはフィリピン、タイと中東諸国がほとんどだった。

 インドシナ、インドネシアは最初から除外していた。

 それでも植民地帝国主義の否定だと印象づけるとして、欧州(の各自由政府)から反対の声が強くあがった。

 

 結局、各国、地域への個別訪問とされ、3月に2週間近くかけて山梨首相、重光代表がアジア各地を歴訪することになる。

 そして山梨首相は、5月末にイランなど中東を歴訪した後で黒海沿岸のヤルタへと足を運んだ。

 このため他国からは、「アジアの総意」を持って会談に臨んでくると見られていた。

 


 「ヤルタ会談」には、アメリカ合衆国のコーデル・ハル大統領、ソビエト連邦ロシアのヨシフ・スターリン書記長、日本の山梨勝之進総理、イギリスのウィンストン・チャーチル首相が参加した。

 チャーチル首相は主要国という枠組みでは参加を危ぶまれたともいう説もあるが、欧州情勢を決めるのに当事者なしでは話しにならないので、この説は陰謀論の一つと言える。

 一方で救国フランス、満州帝国など準主要参戦国は参加する事は出来なかった。

 この事が、より一層戦後の強国による戦後秩序の構築にあると考えられた。

 しかし各国が求めたのは、その戦後秩序の前提となる戦争の終わり方にあった。

 

 会談の主な議題は、まずはドイツ本土への進撃と占領についてだった。

 この件に関してすぐに合意を見たのは、戦争終了後の首都ベルリンの4国共同での占領統治だけだった。

 進撃に関しては、ハル大統領はエルベ川を互いの進撃境界にするべきだと提案したが、スターリン書記長は現状にそぐわないと言って、ドイツ全土のソ連による進撃と戦争直後の一時的な占領を主張した。

 そこに、ソ連だけがドイツから大きな損害を受けたわけではないので国民が認めないと、チャーチル首相と山梨総理がスターリン書記長に食い下がる。

 だが進撃状況から考えれば、ソ連がドイツ全土を占領する可能性が一番高かったため、他3国の意見は空回り気味だった。

 結局、進撃した国による占領を第一とするという東ヨーロッパで一部用いられた方針が、そのままドイツを含めた残る枢軸国占領にも適用する方針とされた。

 このため、ソ連と連合軍各国のドイツ進撃競争を激しくする大きな一因となった。

 

 また、占領した国による占領統治という方向性は、現在進行形で進んでいるバルカン半島地域の占領と戦後の独立にもいっそう強い深く影響を及ぼした。

 ただしこの会議時点で現在進行形で侵攻が目前に迫っていたオーストリアについては、ソ連、アメリカ、日本、満州4カ国の共同占領が決められた。

 


 次に議案とされたのは、ポーランドをはじめとした東ヨーロッパ各国の独立復帰と占領に関してだった。

 特にドイツと一時的にソ連に占領されたポーランドが、チャーチル首相主導で問題として議案にされた。

 そしてポーランド問題では完全に3対1となったため、会談の上でスターリン書記長は3国の主張を認め戦後に総選挙をして政府を決めることになった。

 しかし良く知られているように、ソ連は約束を全く守らず民主主義者を弾圧して共産主義政権を作り、冷戦対立の切っ掛けの一つとなっていく。

 

 4カ国が一応納得したのはユーゴスラビア地域で、セルビアはソ連指導、他の地域は日本、アメリカ指導という形で落ち着いた。

 誰もが、この地域特有の複雑な民族問題を可能な限り触れたくなかったからだった。

 

 そして中華地域の分割と独立についても、改めて議題とされた。

 と言うのも、ソ連占領地の東トルキスタン、プリ・モンゴル東部では民主選挙の動きが潰され、独自の共産主義政権の建設が急速に進んでいたからだ。

 さらに、青海地方の低地地域でも、ソ連の支配が強まっていた。

 この件に関してスターリン書記長は、逆に他の地域で共産主義勢力への弾圧が行われていることを非難し、選挙に向けて努力を惜しまないと言う事で問題が有耶無耶とされた。

 正直なところ、現時点では日本以外は中華情勢よりもヨーロッパの最終的決着の方に3人の関心が高かった証拠だった。

 そしてアジア問題について、山梨首相は特に議題を提示しなかったと言われている。

 もっとも、日米の間では中華利権はアメリカが戦後手にする事になっていたので、この時点でアメリカの動きが低調なのは、アメリカとソ連との何らかの裏取引があったのではないかと陰謀論で語られる事も多い。

 

 だが、会談自体が「四大国による利害調整の場」と言われるように、各国首脳が何も言わなかったとは考えられていない。

 アジアの問題に関しては、他の小さな議題、問題と共に話されたと考えられている。

 それでも各国が日本に対して強く出ることもなく、山梨首相のアジア歴訪の狙いも、アジア問題で何も言わせない事そのものにあったと見られている。

 また、アジア世界を代表して反共産主義姿勢を示したことで、一応の成果が得られたとも見られている。

 アメリカが中華問題で強く言っていないのは、日米の間での事前の話し合いがあったからだと見るべきだろう。

 

 そして最後に、ドイツが完全に打倒されてから、出来るだけ早い時期に再び集まることを約束して会談は終了した。

 


 なお、この会議で主導権を握ったのは、国力と軍事力、そしてイデオロギー面からアメリカのハル大統領とソ連のスターリン書記長だった。

 だが個人的に信頼されたのは、今回も日本の山梨総理だった。

 山梨総理はスターリン書記長、チャーチル首相とは旧知で、再会を祝して親交を暖めた。

 チャーチル首相とは何度も会っていて真の戦友という感覚も強く、スターリン書記長は山梨総理を最も信頼できた国外の政治家の筆頭にあげていたほどだった。

 そして新参となるハル大統領は孤立しがちだったのだが、山梨総理がよくサポートしてもり立てたと言われている。

 

 また、戦後最も有名な写真の一つとなった4人が並んで座っている写真では、見た目左からチャーチル、ハル、スターリン、山梨と一見山梨総理が少し孤立しているように見えるが、その時撮られた写真の多くでは、スターリンと山梨がにこやかに談笑している。

 日本への帰路も、予定を変更してソ連上空をソ連空軍の案内付きで帰ってもいる。

 このため日本がソ連寄りなのではという説まであったが、山梨総理は個人の関係と国家の関係について混同することはなかった。

 しかし山梨としては、戦後起きるソ連とアメリカの対立を、少しでも緩和できればと言う想いからの行動だったと言われる。

 

 そして会議の最中にパリとウィーンが解放され、連合国各国はドイツ打倒へと最後の努力を傾けていく。

 

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