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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
127/140

フェイズ88「WW2(82)マーケット・ガーデン作戦」-1

 1946年6月9日パリ解放。

 同14日ウィーン陥落。

 

 ヨーロッパ世界を象徴する歴史ある二つの大都市が、続けて連合軍によって「解放」された。

 戦争が誰の目にも終幕に向かっている事を実感させる出来事だった。

 そしてその少し前、ドイツ中枢では一つの激しい議論がなされた。

 


 決めるべきは「首都の疎開」。

 ナチスドイツ帝国を1秒でも長く存続させるため、帝都ベルリンよりも少しでも安全な場所に総統と政府は疎開するべきだという議論だ。

 

 疎開派は、戦場がドイツ本土に迫ったことで、ドイツ自体を人質に取ることでソ連以外の国との何らかの妥協が得られる可能性が高まったと考えていた。

 しかしヒトラー総統は、疎開はともかく自らがベルリンを離れることに強く否定的だった。

 

 最初に疎開が真剣に議論されたのは、1946年4月にソ連軍がオーデル川に迫ったときだった。

 ベルリンのわずか75キロ東にソ連軍が溢れては、最早ベルリンを守るのは難しいがドイツの西部、南部はまだ大丈夫なので、ドイツの主要地域が健在なうちに疎開して、講和を目指した徹底抗戦の体制を整えるべきだと論陣が張られた。

 そしてこの段階で、政府組織、行政組織の疎開準備が決定し、準備のみだが進められることとなる。

 

 次の機会は、連合軍のカレー上陸が阻止できなくなり、南仏戦線が事実上突破された5月中旬頃だった。

 早晩フランスは降伏して、連合軍がドイツ国境に殺到するので、ヒトラー総統らが構想していた連合軍との停戦プランが完全に瓦解したからだ。

 この時疎開派は、ドイツ本国と国民を犠牲にしてでもドイツ政府が生き残り続ければ、いずれ連合軍とソ連軍はドイツを巡って争い、そこに生き残りの機会が出来ると考えた。

 

 そしてこの時ヒトラー総統は、政府組織の疎開を正式に決定する。

 疎開するのは行政を行う官僚団と民政系の大臣達、一部の将軍らで、自らはベルリンを離れる事はないと頑なだった。

 そして危険分散の為という理由で、ゲーリング国家元帥、グデーリアン元帥、パウルス上級大将、シュペーア軍需相、ハイドリヒSS元帥など政府中枢の約半数がベルリンを後にして、ドイツ経済の中心地であるフランクフルトへと移る事となった。

 ただしグデーリアン元帥は、少し前にヒトラー総統と「最後の衝突」を行って事実上全ての職務から退いている。

 またヒトラー総統は、シュペーア軍需相との間に二人きりで最後の時間を持った。

 このためシュペーアが次の総統だと周りは見るようになった。

 

 なおフランクフルトが選ばれたのは、疎開するにしても行政処理を行える建造物と官僚、軍人などの住居があるのが、ドイツ中探してもフランクフルトしかないからだ。

 それでもヒトラー総統やゲッベルス宣伝相、ヒムラーSS長官などは疎開先にニュルンベルクを推したが、同地は政治都市ではあっても行政を行える都市ではないので、シュペーアらに反対されていた。

 

 そしてこれで、ナチスドイツ、ドイツ政府の約半分がベルリンを離れることになる。

 

 この事はドイツ国内でもほとんど秘密にされていたが、どうしても行わなくてはならない連絡などを解読した連合軍も、5月末頃にはドイツの中枢が一部疎開した事を知る。

 連合軍にとっての問題は、ヒトラーがどこにいるかが分からなくなった事だった。

 連合軍としては独裁者アドルフ・ヒトラーさえ抹殺するか逮捕できれば、ナチスドイツは瓦解すると考えていた。

 この点だけは、ドイツ国内で暗殺未遂事件を起こした人々と意見が一部一致している。

 それほど気にしていなかったのはソ連のスターリン書記長だけと言われる事があり、彼としてはドイツ全土を蹂躙すれば問題の多くは解決すると考えていた。

 スターリンは、ヒトラーがベルリンから逃げたことに心理的満足を得た上に、逃げた先まで追いかけるという戦争を続ける大義名分を得たと考えていた。

 だからソ連全軍に進撃速度の向上を求めたのみだった。

 連合軍としても、ドイツ全土を占領すれば問題は自然に解決するとは考えていたが、そこまで戦争を続けなくてはならないことに若干の忌避感情があり、また戦争がさらに長期化することでの経費、ドイツを蹂躙した後の戦災復興などの経費も大いに気になるところだった。

 

 そしてここで連合軍にとっての戦争は、ナチス・ドイツの完全打倒に変更はないが、目的としてベルリン攻略が二次的なものに変更された。

 政府が一部であれ疎開した以上、ナチスの中心であり国家元首であるアドルフ・ヒトラーは、最も安全な場所にいると常識的に考えたからだ。

 

 そしてそうした考えのもと、戦争の再構築を進めた。

 


 1946年の5月半ば以後、連合軍の関心は自分たちがどこまで攻め込めるかにあった。

 そしてその事が戦後の世界政治にも大きな影響を与えると確信していたため、無理をしてでもより大きな成果を求めた。

 

 ソ連と言うよりスターリンの第一の目的は、ドイツ全土を占領してしまうこと。

 さらにデンマーク、オランダの占領も、1946年5月頃に明確に命令を下している。

 デンマークを占領することでバルト海から北海に抜けるルートを確保し、オランダを占領することでライン川の単独利用を可能とする。

 この二つにより、中部ヨーロッパを完全に制御下に置くと同時に、西ヨーロッパに対して非常に大きなプレッシャーをかけることができる。

 そして戦争半ばで地中海に出ることを諦めなくてはならなかったので、なおさら北海進出に強い意欲を燃やしていた。

 

 連合軍というよりアメリカの目的は、1歩でも東に進むこと。

 最低でもライン川西岸、可能ならばドイツ西部もしくは南部への侵攻を目指していた。

 だが、諜報活動などによりソ連の目的を知った事もあり、デンマークに関しては予防的な作戦が急ぎ準備される事になっていた。

 

 そうした中、ドーバー海峡を押し渡った連合軍は、6月18日にベルギーの主要港の一つアントワープに到達する。

 ほぼ同時期、地中海から押し上がってきたマッカーサー元帥の部隊が、アルザス・ロレーヌ地方まで進んだ。

 そしてそこで、全ての連合軍は足止めを余儀なくされる。

 

 前線での燃料不足のためだ。

 

 総数10万両以上と言われる車両が使う燃料が特に前線で枯渇してしまい、酷い場合はその日の戦闘にすら事欠く状態に陥って、進撃するどころかその場のドイツ軍とまともに戦うことすら難しくなってしまう。

 

 おかげで後退するドイツ軍の追撃が中途半端に終わるばかりか、ドイツ軍に各所で防衛体制を整える時間を与えてしまい、戦線は一気に膠着状態に陥った。

 反撃を受けて敗退した部隊も、一つや二つでは無かった。

 

 このため補給線を整えるまで大軍による進撃は不可能で、補給線を万全に整えるには3ヶ月、最低でも2ヶ月は必要だった。

 ドイツ軍の抵抗が殆ど無いとしても、軍隊が進むための物資を備蓄するだけで1ヶ月は必要だった。

 南部は少しましだが、南部は平原を進むわけではないので、進撃速度自体を早くするのが難しかった。

 迅速な進撃は、北部平原地帯をどれだけ早く進めるかにかかっていた。

 

 だがこの時期の連合軍に、2ヶ月、3ヶ月の時間を待つことは許されなかった。

 そんなに待っていたら、動き出す前に対岸にロシア人達がやって来ると考えられていたからだ。

 

 そこで、動員可能な戦力とその戦力で可能な作戦が急ぎ立案される。

 

 それが「オペレーション・マーケット・ガーデン」だった。

 


 「オペレーション・マーケット・ガーデン」の準備は、早くは1945年秋の時点で構想されていた。

 

 当初の計画では、46年春から初夏にドーバー海峡を押し渡り、2週間で周辺地域を制圧。

 さらに1週間でパリを解放。

 一ヶ月以内にベルギーまで進んでいる予定だった。

 そして間髪入れずオランダへと電撃的に進んで、5ヶ月以内に最低でもドイツ中央部を流れるエルベ川西岸に至る予定だった。

 

 だが、予想以上のドイツ軍の激しい抵抗と、なりふり構わない港湾破壊によって、予定は大きく遅れていた。

 しかも、やっと到着したアントワープ以外のベルギー西部各地の港は、ことごとく破壊されていた。

 中には逃げ遅れたドイツ軍が籠もった末、自爆じみた港湾破壊を行った場所もあった。

 幸いアントワープは、連合軍の進撃がドイツ軍の予測を遙かに越えて迅速だった為、ドイツ軍がほぼ唯一破壊しそこねた港湾となった。

 

 だがアントワープは、海に面せず河川を少し遡ったところにあり、北海に抜ける河口部は機雷で幾重にも封鎖され、対岸や河口部の多くがドイツ軍の占領下のため港湾として使えなかった。

 作戦の主な目的は、オランダに一気に攻め込んでオランダの港湾を利用することにあるのだが、既に有している場所の活用を図る事の方が今回は重視された。

 

 オランダの港湾を占領して体制を整える時間が惜しまれたし、運良く無傷もしくは利用可能な状態で利用できる可能性も低かったからだ。

 連合軍は、早期に兵站を整えて、ロシア人に先んじてドイツ本土に進まなければならなかった


 なお、この時期ライン川西部の両軍は、ドイツ軍が西方軍集団改め、ルントシュテット元帥のA軍軍集団、モーデル元帥のB軍軍集団に分かれていた。

 A軍軍集団が北部、B軍軍集団が南部の防衛担当だ。

 これに対して連合軍は、フランスの南北から進撃した部隊が合流し、一つの戦線を形成するようになっていた。

 

 北から順番に大きく以下のように並んでいた。

 


 ・第21軍集団(モントゴメリー大将):英2個軍、米1個軍

 ・第12軍集団(クラーク大将)   :米2個軍、英1個軍

 ・第8軍集団(岡村大将)      :日2個軍

 ・第51軍集団(クリューガー大将) :米2個軍、仏1個軍


 各軍は10個師団程度有しており、師団数は総数で110個師団に達していた。

 前衛戦力だけで250万、後方を含めると400万にもなり、これだけでドイツを打倒できる戦力だった。

 

 しかしこの時の連合軍には、前線の100個師団を動かす燃料が届いていなかった。

 積極的に動かせるのは、せいぜい10個師団。

 燃料を食う機甲師団だと、半分も動かせたらいいほうだった。

 追撃がベルギーやアルザスで止まったのも、前線での燃料不足が原因だった。

 そして前線に最低限の燃料が届く頃にはドイツ軍が守りを固めてしまい、安易に進めなくなってしまう。

 

 そうした中で、燃料問題とは例外の部隊があった。

 それこそが空挺師団だ。

 

 空挺師団は、降下して短期間の任務をこなして他の部隊にそこを任せると、たいていは拠点としている後方の飛行場かその周辺の駐屯地に後退して次の任務に備える。

 一度作戦を行えばグライダーなど消耗する兵器も多いし、危険な任務がほぼ全てのため兵員の消耗が激しいことも多く、補給と再編成のためにも後方に下がらねばならなかった。

 ドイツ軍のように一般の歩兵部隊のように使うのは、致し方ない面があるにしても邪道でしかない。

 

 そして連合軍には空挺部隊が沢山あり、その殆どが当面の作戦を終えてイギリス南東部の基地に集まっていた。

 また連合軍は、ノースアイルランド作戦が具体化した頃から、最低でも3回の大規模空挺作戦を計画しており、そのために必要な輸送機と特に消耗品のグライダーの生産計画を立てて実行していた。

 そして英本土南東部の飛行場の外れには、次の作戦のためのグライダーも十分に備蓄されていた。

 (※ブリテン本島とドーバーでの大規模空挺作戦を最低予定していた。)

 以下が1946年6月頃の連合軍の空挺部隊になる。

 


 ・英本土待機

・米第82空挺師団 ・米第101空挺師団 ・米第11空挺師団、

・日陸軍第1空挺団(旅団) ・日海軍第1空挺団(旅団)

・英第1空挺旅団

・救国フランス第1空挺旅団

・自由ポーランド空挺旅団

・自由オランダ空挺団(大隊規模)

・自由ポーランド空挺旅団


 ・任務中

・日陸軍第2空挺団(旅団)(イタリア北部駐留)

・イタリア第1空挺団(大隊規模)(イタリア北部駐留)


 見て分かるとおり、方面軍を問わず殆どの空挺部隊が英本土に集められていた。

 

 そして英本土南東部に集められていた空挺部隊は、アメリカ軍のマシュー・リッジウェイ将軍(当時中将)のもとで、連合軍第1空挺軍団を再編成していた。

 空挺兵総数5万という空前の規模の大空挺部隊であり、何より連合軍的なのは最大で3万名以上の空挺兵を一度に降下させるだけの航空機とグライダーが存在する事だった。

 

 この頃連合軍の空挺作戦用の輸送機の数は、英本土に約2500機が集中されていた。

 主力はC-47 (ダグラス DC-3)輸送機で、約1万2000機が生産され各地の戦場で大活躍していた。

 同輸送機は、6000ポンド(2.7トン)の貨物か乗員を除く28名の武装した兵士を運ぶことができた。

 日本もライセンス生産を行い、アメリカとは別に2000機近く量産している。

 他にもC-46などの輸送機があるが、人員輸送や貨物輸送のため空挺用には2500機の準備が限界だった。

 しかし空挺作戦用には各種グライダーがあり、今までも多用されてきた。

 主力はカナダで集中的に生産されたハミルカーで、積載量は7トンもあった。

 大型機で曳航するためそれほど長距離の移動は出来ないが、ヨーロッパならどこにでも行くことが出来た。

 これ以外だと日本軍の四式特型輸送機があり、23トンという破格の積載量を誇っていた。

 グライダーの総生産数はハミルカーが約500機、四式特型輸送機は本家ドイツを上回る200機が生産されている。

 他にも各種200機程度が生産されている。

 そしてグライダーは使い捨てが多いが、それでも再利用もされている場合も多いため、この時の作戦でも総数500機以上が準備されていた。

 他にも旧式の重爆撃機を改造した輸送機もかなりの数あり、総数3000機程度の機体を一度の空挺作戦に使用できた。

 この数字は、一度に1万トン以上を空輸できる量になる。

 

 これらで兵員5万名と多くの装備を運ぶが、激しい抵抗が予測されたため可能な限り重装備が運ばれる予定だった。

 このため空挺部隊の約半数程度が後日の降下に回され、装備の降下の方が重視された。

 今まで何度も大規模空挺作戦行われた経験から、兵士を増やすよりも重装備を増やす方が、作戦成功率が上がる上に人的損害が低くなることが分かっていたからだ。

 

 事実上の空挺戦車としては、「M-18 ヘルキャット」 駆逐戦車と「M-24 チャーフィー」軽戦車が有名だが、四式特型輸送機の数が限られているため、この作戦でも「M-22 ローカスト」空挺戦車が実戦投入されている。

 「M-22」は重量7トン程度の軽戦車で南仏上陸作戦から戦線に投入されているが、四式特型輸送機で20トン級の有力車両が送り込めるようになったため初陣から日陰者だった。

 空挺部隊でも偵察車両として使われ、これを運ぶぐらいなら他の有力な物資や兵器を運ぶ方が効率が優れていると考えられていた。

 それでもこの作戦では火力と装甲を可能な限り与えなければならないと考えられたため、そしてこの次の大規模空挺作戦はもうないだろうという予測もあったため、あるだけの車両を乗せられるだけハミルカー・グライダーに載せる事となった。

 

 「M-22」を載せたハミルカーは34機。

 加えて四式特型輸送機も40機近く(38機)投入され、さらに輸送機型の四式特型輸送機も20機準備され、92両もの装甲車両が空挺作戦に投入されることとなる。

 しかも「M-18」の一部は、増加試作された90mm砲搭載の改良型のため、待ち伏せ戦法なら相手が「パンサー(パンター)」でもある程度戦えるようになっていた。

 

 戦車以外にも、迫撃砲や多数の簡易ロケットランチャーなど可能な限り重装備が運ばれることになっており、並の歩兵部隊程度には十分対抗できる火力を与えられていた。

 しかし空挺部隊が戦力を維持できるのは通常3〜4日程度なので、降下後の空中補給も重視されていた。

 このため相手が歩兵師団なら最大で1週間は自力で抗戦可能と判定されていた。

 


 そしてこの巨大な空挺部隊で、ベルギーからオランダ西部のライン川河口部の小さな河川や河川を結ぶ運河にかかる橋を一気に占領し、そして前線から機甲部隊を強引に前進させて占領地として完全に確保するのが戦術的な目標となる。

 

 攻勢発起点は、ベルギー南西部のネールベルト。

 最終作戦目標は、オランダ南部のアルンヘム。

 アルンヘムまで占領して橋を全て確保できれば、その先に大きな地形障害はなかった。

 あとは補給さえ整えてしまえば、ドイツ北西部に簡単に攻め込むことができた。

 

 そして作戦には、4個師団規模の空挺軍団と、地上を突進するイギリス第2軍所属の機甲軍団が参加する。

 

 機甲軍団は第30軍団で、カレーには上陸第1陣として上陸した旧イギリス本土軍系の部隊だった。

 歴戦の英第50師団と「ホバート将軍の愉快な仲間達」こと英第79機甲師団を基幹として、さらに1個歩兵師団(自動車化師団)と機甲旅団を加えて編成されていた。

 カレー橋頭堡の戦いでも奮闘した部隊で、西側に上陸してそのまま進軍したため、この時もベルギー方面では最も前進している地域の戦区を担当していた。

 同部隊は、以前にも書いたとおり特殊な装甲車両を多数保有するので渡河作戦も得意だった。

 小さな河川や運河ならば、チャレンジャー歩兵戦車を改造した自走架橋を使い、短時間で渡ることもできた。

 臨時編入された第7機甲旅団は、「センチュリオン重巡航戦車」装備の近衛戦車連隊を基幹としており、非常に強力な陣容を持っていた。

 2つの歩兵師団も先鋒を任されるだけあってほぼ機械化師団編成で、自前の戦車部隊や自走砲部隊も持っていた。

 戦車は最低でも17ポンド砲装備の「チーフテン」(クロムウェルの改造型)で、第50師団は77mm砲装備の新型の「コメート巡航戦車」を装備していた。

 

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