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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ83「WW2(77)カレー上陸作戦3」-2

 敵師団とブーローニュ守備隊を相手にする英第50師団と英第79機甲師団は、大量の機械化部隊を投じるも、ドイツ軍も激しく抵抗したため水際でかなりを損害を受けてしまう。

 特に港湾部の破壊を禁じられていたブーローニュからの攻撃には手を焼いた。

 しかし両師団は街を挟んで上陸後も強引な進撃を続け、その日のうちにブーローニュを包囲するまでの進軍に成功する。

 しかしブーローニュを包囲した事と、大きく前進したことが重なって、内陸にいたドイツ軍部隊を引き寄せることにもなってしまった。

 だがドイツ軍がここに反撃するのは折り込み済みで、だからこそ上陸地点のほぼ真ん中とされていた。

 そしてイギリス軍の各師団は、反撃を見越して重武装が施されており、既に大きな成果を挙げている特殊車両を多数保有する第79機甲師団の活躍が期待されていた。

 同師団は、主力の戦車連隊も新型の「センチュリオン」重巡航戦車を装備し、さらには防戦に向いたドイツ軍の言う所の突撃砲も対戦車部隊が有していた。

 「センチュリオン」巡航戦車の装備は、第50師団も同様だった。

 突撃砲ばかりか、本来は本土防衛用の17ポンド砲搭載の「アーチャー」など軽量自走砲も対戦車部隊に装備されていたが、これは軽いため上陸し易すかったためだ。

 

 なお、「センチュリオン」重巡航戦車は、主力戦車の第一世代に当たるとされる優秀な性能と発展余裕を与えられた優秀な戦車だった。

 戦争中の教訓を数多く取り入れて開発された、イギリス陸軍の歩兵戦車と巡航戦車の長所を併せ持つ、高いレベルで装甲、火力、そして機動力を備えた次世代の戦車だった。

 しかし開発に手間取り、量産が開始されたのは1945年の春。

 本来なら英本土に上陸してきた連合軍と戦うための「本土決戦戦車」だったのだが、戦う前に英本国が実質的に寝返り連合軍と戦う機会を逸してしまう。

 ノースアイルランドでの戦闘例があるという説もあったが、記録には残されていない。

 そしてその後は、イギリス軍全体が再編成に入ったため、新型戦車がどこかに派遣されると言うこともなく、また量産も混乱の中で遅れたため他国に供与もできず、このカレー上陸作戦がデビュー戦だった。

 しかし量産開始から約1年が経過していたため、初期の20mm砲装備の廃止など幾つかの改良型も産み出されている。

 


 カリブ海での戦闘から上陸作戦ばかりしてきていたアメリカ陸軍第1師団は、戦争終盤では専門の上陸作戦装備を多数与えられた専門師団のようになっていた。

 その上、アメリカ陸軍を代表する師団なので装備全体が機械化歩兵師団編成であり、非常に重装備の部隊となっていた。

 師団兵員数も総員4万名を越えており、ドイツ軍なら小さな軍団ほどの規模に膨れあがっていた。

 そして同師団は、「M26-LV」を装備した唯一の師団でもあった。

 主力戦車もノーマルの「M26 パーシング」中戦車で統一されており、師団直轄の重戦車中隊も日本製の「Type-3R G-KA」だった。

 

 上陸正面はそれほど大きな脅威はなく、その事は連合軍もある程度掴んでいた。

 この配置は、前進速度の遅い海兵隊に側面を固めさせて、いち早く内陸へと進軍してドイツ軍機甲部隊の反撃に備えるためだった。

 

 そして一番西側に上陸した海兵隊だが、彼らの前には1個師団が展開しており苦戦が予測されていた。

 にもかかわらず、一番東側はソンム川の東岸になり、内陸に降下した空挺部隊との合流のため強引な進撃が予定されていた。

 このため隣の第1師団に内陸への進撃が任されていたとも言える。

 

 しかし上陸は非常な成功を収めた。

 犠牲も少なく、流石海兵隊と言われた。

 もっとも実態は、事前の艦砲射撃と爆撃が非常にうまくいっていた為、沿岸砲台や強固な陣地のほとんどが破壊されていたからだった。

 また上陸に選んだポイントが、ドイツ軍の予測と外れていたため抵抗がさらに微弱だった。

 さらに言えば、ドイツ軍の予測とは少し違う場所、上陸に不的確とされていた地形を敢えて選び、そして練度の高さを活かして難なく上陸を成功させた事自体が、上陸作戦時の海兵隊の優秀さを示しているとも言えるだろう。

 

 また、海兵隊が他の米英陸軍よりもうまく戦えた理由の一つとして、陸軍や海軍のように海兵隊が独立した軍隊であり、揚陸艦船から航空隊に至るまで全て自前で賄える事が理由に挙げられる。

 特に海兵隊同士なので密接に協力し、さらに上陸支援に特化した航空隊の存在は大きく、カリブ海での戦いからずっと海兵隊の活躍を支え続けていた。

 

 これに対して米英の陸軍は、空軍との協力関係が今ひとつだった。

 アメリカ陸軍なら陸軍の航空隊があるという意見もあるが、第二次世界大戦でのアメリカ陸軍航空隊は、アーノルド元帥に代表されるようにほとんど独立軍種で、しかも完全自立を目指してスタンドプレーに走りやすかった。

 アメリカ海兵隊と同じ事は日本陸海軍にも言える場合が多く、日本軍がアメリカ軍より活躍を示す場合は航空戦力との密接な協力が関わっている場合が多かった。

 

 話が少し逸れたが、海兵隊の上陸後は敵の抵抗も少なく、しかも2個師団が密接に連携して進軍することで戦力面で前面のドイツ軍を圧倒。

 その後も順調な上陸と橋頭堡の拡大を続けた海兵隊は、予定を早める形でソンム川での河川防衛体制を構築するべく内陸部への前進を継続。

 上陸初日で約15キロの内陸部にまで前進した。

 このため上陸初日で、内陸に降下した空挺部隊の一部と合流に成功している。

 この前進は、先に内陸に進む予定の隣の第1師団よりも先を行っていたため、その後の功名争いを誘発することにもなった。

 


 以上のように、上陸初日は連合軍にとって順調と言えた。

 夜中までに15万人以上が上陸に成功し、既に橋頭堡の縦深をある程度確保した場所では、戦車揚陸艦が直接浜辺にランディングを仕掛けて、多くの兵器、物資、兵士を揚陸するまでになっていた。

 

 もちろん上陸作戦による犠牲は皆無ではなく、全てを合わせると5000名以上の戦死者が出ていた。

 これは、1万人以上、最大で3万人の戦死者を予測していた連合軍にとって十分許容範囲の損害ではあったが、圧倒的という以上の物量差と現地ドイツ軍の水際での消極姿勢を考えると、激しい戦いだったと言えるだろう。

 しかし結果論的だが、ドイツ軍にとっては連合軍の戦力と事前攻撃が過剰過ぎて、連合軍にとっては少し拍子抜けするほどだったと言われることが多い。

 


 ドイツ軍の予定では、敵が上陸してから1日目の昼間以後、さらには各地から装甲部隊が集結する2日目以後が、反撃を本格化する筈だった。

 ルントシュテット元帥は、報告されてくる戦況を司令部でほぼ正確に把握し、内陸部に展開する部隊に対して連合軍が過度に進撃してこなければ増援を待つように伝えた。

 水際の部隊に対しても、可能ならば遅滞防御しつつの後退を命じていた。

 後退許可に関してはヒトラー総統の命令に反するが、ルントシュテット元帥と西方総軍司令部は、敵を内陸に引き込んでから機動戦で撃滅することを考えていた為だった。

 現実問題としても、水際に装甲部隊など有力部隊を配置していても、塹壕に籠もっていない限り砲爆撃で吹き飛ばされるのは確実だった。

 

 しかし、その後の戦況を知る後世の研究者などは、追い落とすのは戦力差から不可能なので、次善の策として可能な限り水際で戦うべきだったという論を展開することが多い。

 現地司令部の機動戦を展開する前提としての制空権と移動手段が、連合軍によって完璧といえるほど崩されていたからだ。

 さらに、ひとたび待機している内陸の潜伏場所から移動すれば、それが夜間の無灯火行動でない限り徹底した空爆を受けて壊滅させられてしまった。

 ならば海岸線の陣地に籠もって徹底抗戦する方が、はるかに有効だったと言うのだ。

 

 だが、ヒトラー総統などドイツ中枢が求めるのは、連合軍を海岸線に一歩も踏み入れさせない事、ドーバー海峡に追い落とす事だった。

 上陸作戦を完全に失敗させなければ、ドイツが勝つ、もしくは生き残る可能性が限りなく小さくなると考えられていたからだ。

 故に後世の意見は、二つの意味で当時の人々の考えから離れていると言わざるを得ない。

 

 そして後世の人間にそう考えさせるほど、カレー上陸作戦時の連合軍の戦力は巨大だった。

 特に1万8000機も用意された航空機による制空権は、どのような抵抗も無意味としていた。

 実際、ドイツ空軍はカレーでの戦いで、当時出せる限りの500機以上の航空機を動員して出撃させている。

 しかし上陸作戦が展開されている空域には全く近寄れず、それどころか機体の半数近くは連合軍の初動の艦載機部隊の空襲によって壊滅させられていた。

 期待の新型ジェット機も、飛行場や滑走路に使える道路がことごとく破壊されたため、ほとんど飛び立つことが出来なかった。

 

 また、連合軍の作戦発動時にヒトラー総統が睡眠薬で眠っていたため、比較的近くにいた武装親衛隊の装甲師団の移動が出来ず、結果として反撃が大きく遅れたと言う意見もある。

 しかし、作戦発動前から西方総軍とルントシュテット元帥は厳重な警戒態勢を敷いて対応に当たっており、最初から武装親衛隊を海岸まで突撃させる意志も無かったので的はずれの意見と言える。

 

 何にせよ、連合軍はカレー上陸に万全を期して当たり、ドイツ軍は連合軍の動きに翻弄されたばかりでなく、総司令部と現地司令部の意図がバラバラだった事が、カレー上陸作戦が大成功に終わった一因と言えるだろう。

 

 しかし、連合軍の作戦が完璧だったわけではない。

 

 特に上陸後の兵站に関して、齟齬が付きまとった。

 


 連合軍も上陸後の補給については、アメリカ東海岸で研究している頃から研究が重ねられていた。

 また数々の大規模上陸作戦を行いながら、その教訓を反映させていた。

 

 そしてドーバーを押し渡る上での最大の問題が、上陸を成功させることではなく、上陸後の補給にあるという結論に至っていた。

 橋頭堡を維持することは、何がどうなろうと問題はないと考えられていた。

 問題視されていたのは、その後の進撃の為の補給をどうするか、だった。

 

 その回答の一つが、上陸2日目に連合軍の橋頭堡に姿を見せる。

 

 人工港「マルベリー」だ。

 カレー、ブーローニュ、そしてダンケルクなどの港を占領して使用できるようになるまでは、今までのように海岸へ直接揚陸艇や戦車揚陸艦で物資を揚陸するだけでは足りないため用意されたものだった。

 

 そして連合軍は、湯水のように兵器、補給物資を各所の海岸に送り込んだのだが、初日以後のドイツ軍の抵抗が予測以上に激しいため橋頭堡の拡大が遅れ、さらに5月11日には予定通り4個師団、10万の第二波が橋頭堡に到着。

 その後も続々と増援部隊が送り込まれ、海岸は溢れかえる兵士と物資で大混乱に陥った。

 しかも上陸3日目に陥落させ、1週間以内に使用可能とする予定だったブーローニュの港は、守備していたドイツ軍が頑健に抵抗した上に、最後に主に親衛隊兵が徹底的に港湾部を破壊した為、数ヶ月は使用できなくなった。

 事前に爆薬を仕掛けて爆破準備も終えていたため、どれほど占領してもほとんど無意味だった。

 ドイツ軍は最初から港を破壊する気でいたのだ。

 

 そしてブーローニュで起きた事は他の港でも同様と考えられ、海軍コマンド、レンジャー部隊など精鋭でカレーの港を占領しようとしたが、やはり失敗した。

 しかも短期間で陥落させられなかった上に多くの損害を出し、カレーの港も盛大に破壊された。

 これはダンケルクも同様で、フランス北西部からベルギーにかけての港湾という港湾は、市街を都市要塞化して立てこもって徹底抗戦した上で、ドイツ軍の手によってその都度ドイツ人的几帳面さで破壊されていった。

 この港湾破壊は、ドイツとフランス間で完全破壊はしないという約束に反していたため、両国の溝を大きくするほどだった。

 

 現地ドイツ軍、特に親衛隊はヒトラー総統の命令を守ったわけだが、連合軍としては戦後の事を考えないここまでの徹底抗戦は予測しておらず、目算は皮算用と終わった。

 そしてこうなってしまうと、短期間で200万の大軍を展開し、そして前進させることは不可能だった。

 前提条件がほとんど無意味になり、根本的な計画の立て直しを図らねばならなかった。

 連合軍の侵攻計画は、最低でも2ヶ月は遅延したと考えられた。

 


 しかし、上陸した連合軍の将兵達が補給不足に陥ることは無かった。

 ドイツ軍の反撃も許さなかった。

 

 人工港マルベリーは、橋頭堡にひしめく100万程度の当座の兵站を維持するには十分な能力を持っていた。

 その為に用意されたものだからだ。

 また、広がった橋頭堡の一角には、予定通りブリテン島から海底パイプラインが伸ばされ、海岸に危険なガソリン(ドラム缶)を積み上げることもなく、ガソリンの供給も円滑化されていた。

 そして海岸まで行けば、とにかく何でも溢れるほどあった。

 これは、心配性すぎる連合軍の兵站参謀達が、過剰な見積もりを出した為だった。

 心配性の兵站参謀達は、海に沈められるとか、ドイツ軍に海岸で破壊されるとか、物資を揚陸しても前線に届く物資は限られていると考えて、異常なほど過剰な見積もりをしていたのだ。

 おかげで橋頭堡がそれなりに広がり始めると、少なくとも前線での混乱は沈静化していった。

 とはいえ、連合軍全体のその後の作戦計画の目処が立たない事に変わりは無かった。

 橋頭堡の維持は問題ないほどの兵站は構築されたが、遠距離に進撃するだけの兵站は本格的な港が再稼働しなければ不可能だからだ。

 

 このためカレー上陸作戦は、「戦術的大成功、戦略的大失敗」と評される事がある。

 


 だがそこに、連合軍にとっての朗報、欧州枢軸軍にとっての凶報が全通信帯を駆けめぐった。

 

 「我、日本陸軍遣欧総軍。現在、ボルドーワインを持って北進中」。

 

 南仏戦線崩壊の知らせだった。

 


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