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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ09「WW2(3)支那戦線1」-1

 1940年7月、日本帝国はイギリスに梯子を外された状態だった。

 

 イギリスのほとんど相談も無かった早期単独講和の政治的衝撃は非常に大きく、日本の参戦時に「大演説」を行った政権首班の近衛文麿は、その舌の根も乾かないうちに「信じられない」、「想定外」と公式会見場で話してしまい、世間から隠れるように政権を投げ出してしまう。


 この時期の日本の政治的行動が鈍かったのも、主に突然の内閣総辞職とそれに伴う混乱のためだった。


 急ぎ決められた新たな内閣総理大臣には、海軍の政治畑出身の軍政家で人格者としても知られた山梨勝之進が選ばれた。

 

 1877年生まれで、軍令部総長を務めるなど軍政面で大いに活躍した。

 既に海軍は退役していたが、退役後も非常に優れた能力と見識と、誰も非難しないほどだと言われた人望を買われて各所で活躍していた。

 また、退役後に学習院大学の学長を務めたこともあるため、昭和天皇の信頼が非常に厚かった。

 晩年の昭和天皇の言葉では、最も信頼する軍人として躊躇無く山梨の名を挙げたほどだった。

 現役退役を問わず海軍軍人、海軍関係者も、彼の首相就任を損得勘定抜きに後押ししたし、陸軍にすら賛成者が多かったと言われたほどだった。

 

 ただし彼も万能ではなく、海軍将校としては不味い事に操艦はすこぶる下手だったという記録が多く見られる。

 実際、艦艇乗り組みは最低限しかしていない。

 


 なお、山梨のもとで成立した新たな内閣は、戦時の挙国一致内閣として編成された。

 日本の軍事力の総司令部となる「大本営」も常設とされた。

 このため軍人の入閣も特例ながら行われることになり、陸軍大臣には英才を謳われる永田鉄山、海軍大臣に山梨を継ぐ者と言われた堀悌吉、外務大臣に外相経験が豊富で元首相でもある幣原喜重郎が請われる形で選ばれた。

 元首相が外相に就くという点に、新政府の外交重視の姿勢を見ることができる。

 さらに軍需大臣という、戦時生産を総合的に行う大臣が設置され、満州経営で辣腕を振るった岸伸介が選ばれた。

 

 また諸外国との交渉、特にアメリカとの折衝が増える事を鑑みて、政府特使も兼ねたアメリカ及び連合軍全権大使に吉田茂が抜擢され、吉田はアメリカにほぼ常駐する事になる。

 


 新内閣発足前後、日本はかなり悲壮な決意を固めていた。

 ドイツの権高で無礼な態度に屈することを国家として強く拒んだのはよいが、ヨーロッパ世界を全て敵に回したと考えられたからだ。

 この事は山梨首相のラジオ放送によって日本国民全てにも伝えられ、「明治維新、日露戦争に匹敵する国難」だと国民の多くも意識を持つようになる。

 

 幸い日本の孤立は2ヶ月ほどで済んだが、日本にとっての当面の環境は楽観できる状態ではなかった。

 

 1940年7月時点での日本の交戦国は、ドイツとイタリアだけだった。

 だが8月になると、状況がいっそう悪化する。

 

 西欧での勝利が見えた頃からドイツが中華民国に急接近し、それに蒋介石が飛びつくように応えたからだ。

 外交的には親日、親米と見られていた中華民国だが、力関係から従っているに過ぎないと言うのが中華民国側の本音だった。

 

 中華民国の動きは、日和見と変節だと言ってしまえばそれまでだが、中華民国を率いる蒋介石にとっては満州奪回の千載一遇の機会と考えるのも無理はないだろう。

 しかも蒋介石は強かで計画性も見せており、既にソビエト連邦ロシアと通じて、多くの武器弾薬をモンゴルルートから入手して共産党討伐の名目で奥地に進んでいた軍隊を訓練し、日米に対して密かに軍備を増強していた。

 ソ連にとって共産党を叩きつぶした中華民国本来は敵なのだが、ソ連にとっての脅威であり領土を奪った相手が日本でありアメリカである以上、まずは日本を叩くため中華民国を利用するのはパワーポリティクス上で当然の事だった。

 

 だが8月の時点では、中華民国は動かなかった。

 アメリカの動きを気にしたからだ。

 

 しかし中華民国がドイツと結んで、武器援助の約束を取り付けた事が判明し、ソ連のシベリア鉄道経由で援助や支援が俄に開始されたことは、満州の東鉄調査部を通じて判明した。

 

 重大な情報を得た事で日本も安易に動くことができず、また発足したばかりの山梨政権は、国内での体制作りと諸外国との調整に力を入れざるを得なかった。

 

 そして9月2日の日米同盟締結と同月15日の英自由政府成立によって、外交が大きく動く。

 

 さらに日本の外交活動もあって、アメリカなどに亡命したフランス救国政府との間に協定を結び、インドシナ地域での警察活動(軍の運用)を政治的に行えるようになる。

 また英連邦自由政府との間でも、英植民地の進駐許可が出された。

 アメリカも同様だったが、当面アジアでは日本が中心となる為、この決定は重要だった。

 

 しかも、伝統的に反英、反独が強い欧州から遠いフランスの各植民地は、日本軍歓迎を自ら表明していた。

 

 しかし、アジアのイギリスの植民地のほぼ全ては、英本国政府に忠誠を誓っていた。

 オーストラリア、ニュージーランドは中立だが、戦争展開によってはどう動くか分からなかった。

 アメリカが参戦したが、誰もがアメリカの初戦の無様な敗北に失望していたので特にそう考えられた。

 この当時はアメリカの国力や生産力が殆ど知られていなかったので、アメリカという国は開拓国家で成金の軟弱者と見られる向きが強かった。

 

 実際、イギリス内での引き込み工作は、英本国政府が有利に運んでいた。

 マレー連邦やインドなどの各総督府は、「敵」が来れば侵略者として断固攻撃すると表明していた。

 

 また、オランダ政府は全て枢軸側に組みしているため、東南アジアでも事は単純では無かった。

 

 だが、当時の東アジアにヨーロッパの軍事力はほとんどないので、ヨーロッパから増援するまでの時間稼ぎが必要だった。

 そしてその時間を稼ぐ役割を担うことになったのが、ドイツが急接近した中華民国だった。

 中華民国としても、ヨーロッパとの海路を維持することは重要だし、恨み昔年の日本、アメリカに対して遂に反撃できることを強く期待していた。

 

 そしてヨーロッパ、特にイギリス本国の当面の戦争方針は、アメリカが戦争準備を整える前に、日本を出来るだけ叩くことだった。

 与しやすい敵を相手にするのは当然で、しかもイギリスなどにとって植民地を守る行動にもなるため、合理的な選択だった。

 


 イギリス本国は、シンガポールに東アジア防衛のための大艦隊を派遣すること決定し、「日本の脅威を受ける」中華民国への無制限の支援を行う準備があることも合わせて発表した。

 支援物資を満載した船も、すぐにも英本国を出発した。

 

 これに対して日本は、台湾の防備を固めると共に、先遣艦隊をフィリピンのマニラに入れてアメリカとの共闘態勢を強化した。

 既にアメリカがイギリス本国にも宣戦布告した後だった為、アジアでの戦機も熟しつつあると世界に印象づけた。

 

 ただし日本の戦争準備は、どちらかと言えば中途半端だった。

 

 戦争準備自体はアメリカよりもかなり進んでいたが、これは早期のヨーロッパ派兵を目的として全て海軍優先で進めていたからだ。

 陸軍の本格的な戦時動員はまだ準備段階で、兵器の増産も海軍を最優先にしていた。

 航空戦力についても、航続距離は進出の問題で海軍の方が優れているため海軍航空隊が優先されていた。

 しかも海軍では、新型戦闘機(零戦)の量産が開始されたばかりだったので、製造元の三菱だけでなく中島飛行機にも増産が命令され、夏が終わる頃から続々と新型機がロールアウトしつつある所だった。

 

 そして日本の不備な点を、6月時点では予想だにしなかった場所から突かれることになる。

 


 1940年9月5日、中華民国は宣戦布告もせずに突如満州国境を突破した。

 突破した先鋒部隊は、ソ連からの供与や支援で送られた武器で武装した機械化部隊だった。

 機械化部隊は「BT-7」など主にBT系の戦車とソ連製の装甲車、自動車、トラックを多数装備しており、火砲などの装備も日本軍より優良なほどだった。

 また歩兵部隊の多くは、今まで通りドイツ軍装備で固めた精鋭部隊が主力で、徒歩がほとんどながら機械化部隊の後を追った。

 その後も続々と後続部隊や補給部隊が続き、総数は第一波で50万人を越えた。

 その後ろにも、大軍が集結して侵攻準備を進めていた。

 航空機も、主にソ連の援助で日本軍が予測していた以上に飛んで、現地日本空軍戦力は苦戦を強いられた。

 

 また別方面では、上海租界の一部が包囲された。

 包囲を受けたのは、共同租界と呼ばれる主に日本とアメリカが使用している地域だった。

 上海以外でも、天津、重慶の日本、アメリカの租界が包囲されたり攻撃を受けた。

 

 日本、アメリカから見れば、中華民国の突然の裏切りだった。

 

 ただし中華民国は、満州は自国領の反乱勢力でしかないと改めて表明し、宣戦布告は行わなかった。

 


 これに対して満州や中華各地の日本軍だが、まったく劣勢だった。

 

 当時の日本陸軍は、自動車化された師団が15個に加えて、重編成師団の近衛師団、戦車第一師団、第一挺身団という名の空挺旅団を中心に編成されていた。

 全ての師団が戦車連隊を持ち、重砲も新型に更新しつつある、今までより格段に強化された部隊編成を取りつつあった。

 他の列強に対して遅れがちの自動車化も、師団の半数近くが行われていた。

 

 また各師団の後備旅団を中核として、最初の戦時師団の編成の半ばにあった。

 現役師団の全ては準戦時状態での動員を完了しており、平時20万人だった陸軍は最初の徴兵と志願兵を受け入れて60万人にまで拡大していた。

 兵器や弾薬の増産も、海軍に大きく遅れるもそれなりに進んでいた。

 

 そして現役師団のうち、通常編成の15個師団のうち6個師団が満州に配備されていたが、うち5個師団は満州里、ハイラル方面でソ連軍に睨みを効かせていた。

 国内に残る9個師団のうち3個師団は、即時移動が可能な準備を完了して、本来なら今頃はヨーロッパに向かっている筈だった。

 また別の3個師団は、ソ連の状況次第ですぐにも満州に送る準備が整えられていた。

 

 中華民国方面にいたのは、急ぎ移動した装備改変を受けたばかりの日本陸軍第八師団と若干の支援部隊だけだった。

 同方面の主力は、張作霖軍閥のなれの果てとも言える満州国軍だった。

 

 この頃の満州国軍は、主に日本の指導と日米の支援により、一定程度の規模と練度の陸軍を有するようになっていた。

 当時の師団数は12個で、うち6個が中華民国方面にあり、2個師団が満州鉄道主線あたりで待機していた。

 残りは日本軍と共にソ連軍と睨み合っていた。

 また各所に重武装の国境警備隊を配備しており、総数は5万人ほどで多くが中華民国国境に配置されていた。

 

 合計すると15万ほどの部隊が中華民国と向き合っていたが、侵攻を受けるまではほとんど国境警備隊だけだった。

 師団や軍団級の部隊が配備されたのも、中華民国の動きが急におかしくなった為だった。

 

 だが、必要十分と考えられた兵力は、まったく不足していた。

 

 航空偵察などで敵戦力が判明するが早いか、国境を守る部隊には遅滞防御戦闘が厳命された。

 陣地を固守していたら、「人の海」に飲み込まれて孤立してしまうからだ。

 


 中華民国軍の初期目標は、日本軍が防衛体制を固める前に満鉄主要部を一部でも占領してしまうことだった。

 これで満州を中央で分断できるので、その後の戦争展開が容易くなるからだ。

 

 そして作戦をより確実とするためにソ連に働きかけ、満州に攻め込まないまでも満州国境、極東共和国国境への圧力を増やしてもらった。

 このためそれぞれの地域の日本軍などは動けなくなり、それどころか増援すら必要となった。

 

 中華民国軍の進撃は、初期の段階は順調に推移した。

 しかし進撃時の補給能力に大きく劣るため、機械化部隊は一週間もせずに動きを鈍らせてしまう。

 燃料だけでなく、整備能力も低かったからだ。

 それでも歩いて進めばよく、日本軍、満州軍のねばり強い遅滞防御戦闘を押しのけつつ着実に進撃した。

 この結果、侵攻開始二週間で、最も進んだ部隊は満州鉄道主線まであと50キロメートルの所まで進撃する。

 だが、敵地での遠距離進撃能力のない中華民国軍は、その時点で前線部隊が深刻な補給不足に陥り、前進速度は非常に遅くなった。

 だが日本軍、満州軍の約三倍の数の戦力であり、日本軍、満州軍はもう引き下がれる場所がなくなりつつあった。

 満州鉄道の側なので補給だけは潤沢になったが、喜べることでも無かった。

 

 予期せぬ窮地を前に、日本軍はまずは侵攻している中華民国軍を止めるための戦闘に努力を傾けた。

 主な手段は、既に進出準備を進めていた航空隊による大規模な阻止攻撃だった。

 

 この侵攻に際して、中華民国は戦闘機200機、爆撃機など100機を用意し、そのほとんど全てを満州国境の戦場に投入した。

 おかげで侵攻開始から一週間ほどは、自軍頭上の制空権を維持することが出来た。

 機械化部隊と共に、ドイツがすでに実施した電撃戦をデッドコピーながら再現した形だった。

 

 これに対して満州の日本の航空戦力は、ソ連国境を除くと200機程度だった。

 このうち約半数が戦闘開始から一週間で失われ、他からの増援は逐次投入にならざるを得なかった。

 だが海軍航空隊は無傷で、しかも欧州進出に備えて空母艦載機共々、陸軍より多い数が稼働状態にあった。

 全てを合わせると第一線機だけで600機以上。

 この当時の東アジアでは最強の航空戦闘集団だった。

 そして窮地に立たされた日本軍は、これを躊躇無く全力で投入する決意をする。

 幸いヨーロッパでの戦いを想定していた為、出撃準備は緊急であってもすぐにできる戦力が多く、問題は基地航空隊の展開程度で、集結と展開に一ヶ月も必要としなかった。

 

 まずは満州内陸部、朝鮮半島などへの移動を行い、その間稼働状態にある全ての空母は佐世保に集められ、緊急出撃の準備を行った。

 この時臨時に「第一航空艦隊」が編成され、当時日本海軍で稼働状態にあった全ての航空母艦を中心とした、空母を主力とした革新的な艦隊が編成される。

 

 この当時の日本海軍は、大型装甲空母となった《赤城》《加賀》の近代改装工事が完了して既に実働状態で、新鋭中型空母の《蒼龍》《飛龍》も配備されていた。

 他、軽空母が4隻あり、軽空母のうち3隻(《鳳翔》《龍驤》《瑞鳳》)もこの時艦隊に合流しているので、空母の数は大小7隻、艦載機総数は300機を越えていた。

 これを大型軽巡洋艦《利根》《筑摩》と他艦に先立って防空巡洋艦に改装されていた《五十鈴》、対空、対潜能力に優れた駆逐艦各種合計が12隻が護衛した。

 

 非常に実験的要素の強い艦隊で、武部鷹雄提督(当時中将)が指揮していた。

 彼は日本海軍の航空戦の泰斗で、先の大戦ではヨーロッパの空でも戦った経験を持っていた。

 さらに配下には、二航空戦隊司令の山口多聞提督(当時少将)など航空機に明るい人材も多くいた。

 

 陸上に展開する基地航空隊も第一連合航空隊にまとめられ、こちらも航空機の経験豊富な塚原二四三提督(当時中将)が指揮した。

 基地部隊は、臨時編成を含めて戦闘機、攻撃機を各100機前後有する2個航空戦隊が集結し、偵察機、輸送機などを含めると、こちらも稼働機数は300機に達した。

 

 日本海軍がこのとき集めた航空戦力は、当時の日本海軍の全力であり、日本軍全体の60%にも達する戦力だった。

 

 そしてその巨大な航空戦闘集団が、中途半端に近代化されただけの「人の海」に空から襲いかかった。

 


 9月27日に開始された日本海軍の大規模空襲は、戦闘開始から3日で中華民国空軍に「殲滅」と言えるほどの大打撃を与え、完全な制空権を獲得する。

 

 中華民国空軍の主力機は、ソ連製の「I-15」、「I-16」で若干数だけドイツ製の「Bf-109」のC型またはD型があっただけだった。

 爆撃機は、ごく僅かにドイツ製の機体(主に「ユンカースJu86」)があったが、ほぼ全てがソ連製の「SB-2」だった。

 機体のほぼ全てが旧式機だったが、相手の戦力が少なかったので開戦初期は活躍できたといえる。

 

 対して日本の海軍航空隊は、当時の主力は単翼だが風防のない「九六式戦闘機」で、陸軍も既に旧式化しつつあった「九七式戦闘機」だった。

 どちらも「I-16」より運動性が高い以外で優位な点はなく、当時としては格闘戦能力以外では辛うじて及第点の機体だった。

 しかし対ドイツ戦を強く意識していた海軍は、急いで多数の新型機を配備しつつあった。

 それが「ゼロ・ファイター」と敵味方から言われた「零式艦上戦闘機」だった。

 

 機体設計から発動機に至るまで三菱製で、それまでの日本軍の戦闘機用としては少し大きな金星発動機を搭載し、カタパルト発艦にも耐えられる丈夫な機体と、大きく翼を折り畳む構造を持つ艦載機として開発された。

 それまでの日本海軍からみれば、「とんでもない重戦闘機」だった。

 火力も従来からは大幅に強化され初期型は武式の12.7mm4門、7.7mm2門で、増加燃料を積まない場合は投下装置を付ければ250kg爆弾も搭載可能だった。

 最高速度は560km/hで当時の空冷式エンジンの機体としては速い方で、エンジンの換装でさらに強化する計画も既に進んでいた。

 機銃についても20mm砲2門の重火力型が既に存在した。

 

 しかもこの時期になると、数年前と違ってオクタン価99又は100の高純度ガソリンを航空燃料として一般的に使うようになっていたので、速度などの性能は当初予定よりも5%程度向上していた。

 燃料の多くはアメリカから輸入されたものだが、日本でも生産量は急速に拡大されていたので、十分に使用できるようになっていた。

 

 問題はこの時の機体数だが、空母機動部隊、基地航空隊共に50機程度が配備されて十分な戦力だった。

 爆撃機や攻撃機はまだ対ヨーロッパ戦に向けた機体は揃っていなかったが、中華民国軍が相手なら十分以上に強力だった。


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