フェイズ80「WW2(74)ドーバー海峡砲撃戦」-2
攻撃が決定したのが1946年の2月頃、攻撃自体はドイツ軍が上陸作戦までに再建する可能性を潰すため、1〜2ヶ月程度前を定められた。
そして1946年3月末頃から、ドーバー海峡のパ・ド・カレー近辺に対する激しい攻撃が開始される。
爆撃は事前の対空陣地の制圧と、その後の飽和爆撃。
艦砲射撃は、出来る限り多数の戦艦を動員した集中射撃。
どちらも端っこから順番に、しかも連携して破壊することとされた。
カレー正面の約200キロメートルの海岸線には、合わせて以下の大型艦載砲が設置されていた。
・54.5口径28.3cm3連装砲塔 2基3門(1基はロッテルダム方面)
・54.5口径28.3cm 単装砲 6基6門(3門はロッテルダム方面)
・47口径38cm砲 単装砲 12基12門
・47口径40.6cm砲 単装砲 4基4門
・旧式28.3cm連装砲塔 2基4門(4門はロッテルダム方面)
( )内は、港湾防衛と念のための沿岸防備のため、同時並行でオランダ方面に設置された数で、双方を合わせた数が1945年夏以後に慌ただしく建設された艦載砲転用の大型砲だった。
これ以外にも多数の砲台、砲座があり、その全てが連合軍の破壊対象だった。
攻撃に対して空軍の爆撃部隊は、主に日本海軍航空隊が急降下爆撃隊を多く手配していた。
連合軍で、本格的で強力な急降下爆撃隊を持つのは、各国空母艦載機を例外とすると、同じ海軍所属の日本海軍航空隊しか無かった。
アメリカ陸軍航空隊(空軍)は、基本的に水平爆撃しか行わなかった。
完全に連合軍となったイギリス空軍も似たようなものだった。
低空からのロケット弾掃射が例外だが、強固な砲台相手に向ける攻撃では無かった。
しかしこの時期は、日本海軍航空隊の3分の1程度しかドーバー方面には向けられていなかった。
残りは空母部隊と共にノルウェー作戦にかかりきりで、先に決まったのがノルウェー作戦の為転用することも難しかった。
しかし連合軍は、高度3000メートル程度からの大型爆弾の集中的な水平爆撃で十分な効果が望めると考えていた。
2メートル、3メートルある強固な重コンクリートでも、同じ場所に何発も2000ポンド爆弾が命中すれば、耐えられる筈がないからだ。
しかもこの作戦の為に、2000機もの攻撃機が用意され。
昼夜を問わず、敵に休む暇も追加の砲台を建造させるゆとりも与えず攻撃する予定だった。
一方の海軍の方は、この時期暇を持てあましていた戦艦を根こそぎ集めていた。
古来より船と砲台の戦いでは船が敗北すると相場が決まっており、近い例では第一次世界大戦のガリポリで、連合軍は手痛い敗北を喫していた。
故にドイツ軍が強固な砲台の建設を開始するまで、連合軍は上陸作戦の事前攻撃と上陸作戦に際しては、基本的に旧式戦艦しか投入しない予定を立てていた。
もう出番がないからといって、就役から数年の新鋭戦艦を危険な艦砲射撃に用いるのは、流石に費用対効果が合わないと考えたからだ。
だが、上陸作戦を何があっても成功させなければならないという連合軍の決意と、空軍と海軍の対抗意識から全ての戦艦を任務に投入することになる。
同じ海軍同士の日本海軍内でも、航空派と艦隊派の対抗意識から、ほぼ同じ心理状態だった。
かくして、沿岸砲台を破壊するためだけに、大艦隊が用意される運びとなった。
この時期、戦艦による任務部隊は旧式戦艦以外一旦解体して、高速発揮のできる戦艦は空母機動部隊に編入していたのだが、2月末にそれを変更して、再び戦艦を中心とした艦隊が多数編成された。
1946年3月時点での戦艦部隊は、以下のように戦艦を分けて運用していた。
アメリカ海軍第24任務部隊(指揮官:リー中将)
BB 《ルイジアナ》 BB 《メイン》 BB 《ニューハンプシャー》
BB 《インディアナ》 BB 《サウスダコタ》
BB 《アラバマ》 BB 《マサチューセッツ》
BB 《ワシントン》
アメリカ海軍第44任務部隊(指揮官:オルデンドルフ中将)
BB 《モンタナ》 BB 《オハイオ》
BB 《アイオワ》 BB 《ニュージャージ》
BB 《ミズーリ》 BB 《ウィスコンシン》
アメリカ海軍第61-1任務部隊(デイヨー少将)
BB 《コロラド》 BB 《メリーランド》
BB 《テネシー》 BB 《カリフォルニア》
BB 《ニューメキシコ》 BB 《アイダホ》
BB 《ネヴァダ》 BB 《アーカンソー》
・日本海軍 第二艦隊(宇垣中将)
BB 《大和》 BB 《武蔵》
BC 《高雄》 BC 《愛宕》 BC 《鳥海》 BC 《摩耶》
日本海軍・第七艦隊(司令官:阿部中将)
BB 《長門》 BB 《陸奥》
BB 《伊勢》 BB 《日向》
・イギリス海軍 A部隊(フレーザー大将)
BB 《ライオン》 BB 《サンダラー》
BB 《キング・ジョージ5世》 BB 《ハウ》
・イギリス海軍 D部隊(リーチ小将)
BB 《ロドネー》 BC 《フッド》
BB 《ウォースパイト》 BB 《クィーン・エリザベス》
・イタリア艦隊(連合軍側)
BB 《イタリア》 BB 《コンテ・デュ・カブール》
・救国フランス海軍
BB 《リシュリュー》
上記以外には、日本とイギリスが空母部隊に戦艦、巡洋戦艦を合わせて6隻随伴させている。
全てを合わせると、アメリカ海軍22隻、日本海軍14隻、イギリス海軍10隻、その他3隻の合計49隻になる。
このうちイタリア、フランスは除外し、旧式戦艦の全てと日米の最強の戦艦を有する部隊が参加する事になった。
参加戦艦数は30隻なる。
もっとも、真っ正面から砲撃戦を挑むというような勇ましい作戦では無かった。
流石に無為に戦艦を失いかねないような作戦は立てられず、最初は夜間砲撃戦を仕掛けることになる。
相手が目視できない状況で、場所の分かっている固定目標に対するレーダー射撃を行うというのが作戦の骨子だ。
何しろ相手は動かない砲台なので、20ノット以上で動く敵艦よりも狙い打つことは比較的容易かった。
それに夜間艦砲射撃は、既にカリブ海で何度も経験済みだった。
また、ドイツ軍がレーダー射撃する事を阻止するための各種電波妨害を実施し、さらに夜間爆撃も平行して実施されることになっていた。
逆にドイツ軍が電波妨害を仕掛けてきても、夜間用の着弾観測機を飛ばす事も行われるし、通常通り照明弾も使う予定だった。
なお、作戦参加する戦艦に新鋭艦も加わっていた。
《モンタナ級》戦艦の発展型、新型の18インチ砲を搭載した《ルイジアナ》、《メイン》、《ニューハンプシャー》の3隻だ。
ドイツ海軍の新鋭戦艦に対抗するため、実際は日本海軍の《大和型》戦艦への対抗心から計画途中で変更して16インチ50口径砲Mk.7の3連装砲塔から、18インチ47口径砲Mk.Aの連装砲塔に変更したものだ。
それ以外にも砲塔の各部装甲が増厚されるなど、細かい違いもある。
だが完成を急いだので、多くの部分は《モンタナ級》と同じだった。
このため《モンタナ級》に含める場合もあるが、通常は《ルイジアナ級》戦艦と呼ばれる。
搭載している18インチ砲は、口径では3mm小さいが口径の長い砲身のため初速は高く、また超重量弾を用いているため砲弾重量も46cm砲より300kgほど重い。
威力の点でも史上最強である事は間違いない。
しかし1番艦の完成は1945年のクリスマス。
春までに3隻全てが戦列に参加できたが、如何せん完成が遅かった。
倒すべき敵は1945年6月にまとめていなくなり、戦争自体も終盤にさしかかっていた。
故にアメリカ海軍は、このカレー砲撃にかなりの力を入れていた。
主力の一翼を占める日本海軍はというと、沿岸砲台相手の艦砲射撃にはやや消極的だった。
上陸作戦時の艦砲射撃は、第二次世界大戦における運用から最早日本海軍の十八番、お家芸とすら言われたほどだった。
だが、日露戦争の栄光と苦戦を語り伝えている日本海軍内では、要塞の砲台相手の砲撃戦は半ばタブーに近かった。
同時期に進行しているノルウェー作戦においても、空爆によって強固な筈の砲台を破壊することに非常に積極的で、旧式軽巡洋艦を湾内奥地に送り込むことにすら反対気味だったほどだ。
だがカレー砲撃は、連合国主要海軍国の面子がかかった作戦の様相を見せつつあったため、嫌々ながらも力を入れざるを得なかった。
軍隊とは面子も非常に大切だからだ。
砲撃自体は、他からの支援が少なく陣容の薄い西の端から順番に行われることとなる。
しかも15cm砲以下の砲弾が届かない場所に戦艦部隊を配置することとして、戦艦部隊の前面には水雷戦隊を配備し、場所によってはレジスタンスや潜入工作員などの地上からの誘導に従い作戦を実施していくことになる。
もちろんだが、展開海域の掃海、対潜警戒は最高度の厳重さとされた。
カレー方面の一番西に設置されていた砲台は、射程距離の問題から旧式戦艦から外した28cm連装砲塔だった。
その20キロほど東には最初の38cm砲群4門が睨みを効かせていたが、これも作戦初日の目標の一つだった。
旧式戦艦の砲塔は、上面装甲を増厚するなどの措置は施されていた。
また、別の場所に設置された比較的新しい測距儀と射撃用レーダーによって砲撃を行うように近代化されていた。
攻撃は高射砲陣地など周辺部への空爆で開始される。
定石の攻撃に対してドイツ軍も果敢に応戦したが、連合軍は通常の3倍から5倍と言われる規模で、一時的な制圧を目的とした照明弾を投下しての夜間低高度からのロケット弾攻撃と小型爆弾による絨毯爆撃を行った。
しかも長時間に何度も行うのではなく、短時間の間に集中的な攻撃が二度行われた。
そしてピンポイントではなく「面」制圧で過剰なまでに行われた攻撃で、普通なら対空弾幕と陣地などでしのげるはずが、多く陣地が破壊されたり兵員の大幅な損害で一時的な沈黙を余儀なくされた。
そして次に、中高度からの大型爆弾による水平爆撃が実施される。
2000ポンド爆弾は、地表で爆発すれば20メートルの巨大なクレーターを作り、爆風で周辺50メートル以内の人を殺傷できるとされている。
通常は強固な目標の破壊に用いられるが、通常は貫通能力はない。
対艦用の特殊爆弾のみが徹甲爆弾として装甲など強固な対象への貫通力を有している。
日本海軍が41cm砲弾を改造した800kg徹甲爆弾を運用しているのが極端な事例となる。
この時主に用いられたのは空軍(米陸軍航空隊)が用いる通常の2000ポンド爆弾だが、1機のB-24が一度に4発程度投下していく。
一度に投下すると、機体が一気に軽くなって少し浮き上がるほどの重さだった。
これが16機で一度に行われるので、投下された地点は通常は何も残さないほど破壊されてしまう。
この空爆だけで、1門の38cm砲が大規模な修理を必要とする重大な損害を受けた。
そうして爆撃のタイミングに合わせて、艦砲射撃が開始される。
最初に火蓋を切ったのは、距離2万メートルに接近した旧式戦艦部隊を中核とするイギリス海軍D部隊。
砲撃目標はすでに事前測定を終えていたので、猛烈な電波妨害を浴びせつつ目標とした2基で構成された28cm連装砲塔に集中射撃を実施する。
4隻で1隻の旧式弩級戦艦を砲撃するのと似ているが、相手は砲塔以外は強固な鉄筋コンクリートと地下陣地なので、簡単に破壊することはできない。
そして猛烈な射撃を浴びつつも、ドイツ軍の砲台も果敢に反撃の砲火を測定を終えている概略地点に浴びせた。
だがドイツ側は、電波妨害以前に見た目にも分かりやすいレーダー観測所が空爆で破壊されていた。
サーチライトの照射は自殺行為だった。
敵砲火を目印に事前測定の情報に従って砲撃するが、最初から不利な戦いを強いられた。
最初に砲塔上部に命中した砲弾は増強された分厚い装甲で弾き返したが、過剰な攻撃に対抗するには限界があった。
無数に降り注ぐ徹甲弾の前に周囲の強固な鉄筋コンクリートは徐々に削られていき、場所によっては自重で内部に崩壊する場所も出てきた。
別の一弾は砲身をへし折り、砲撃自体も徐々に衰えて、砲撃戦開始10分を待たずして2基の砲塔型砲台は見た目は比較的健在だが沈黙を余儀なくされた。
特に砲塔内の兵士は、人の限界を超えた衝撃で、死傷はしなくても昏倒が続出し砲撃どころでは無くなっていた。
28cm連装砲塔の危機を受けて、近在の4基の38cm単装砲も、すぐさま敵の砲撃方向に向けた援護射撃を20秒間隔という速さで開始した。
だがこれは、連合軍の罠の一つだった。
発砲炎で正確な場所を最終測定した別の戦艦部隊が、ドイツ側の砲撃開始から1分ほど経過した段階で砲撃を開始したのだ。
しかも4門に対して2つの戦艦部隊が集中砲撃を実施する。
砲撃を実施したのは日米の最強艦を有する部隊だった。
合計12隻の新鋭戦艦群による15秒に1回の交互射撃は熾烈を極めた。
砲撃開始から20分が経過した頃には、強固な重鉄筋コンクリートの構造物全体が、崩壊した古代遺跡のような有様となっていた。
1発2発ならともかく、10発20発と重さ1トン以上の大きな運動エネルギーを持つ大型砲弾が立て続けに命中しては、どれほど強固な防御を施しても意味が無かった。
中には砲身がちぎれ飛んで高々と舞い上がり、300メートル以上離れた場所まで吹き飛ばされたものもあった。
同じ場所を何度も、複数の砲、複数の戦艦が砲撃するという戦闘は、通常の艦砲射撃ではあり得ない破壊力を発揮したのだ。
またほぼ同時に、友軍の危機を見たドイツ軍の各砲台も一斉に敵を探し、そして砲撃を実施した。
だが、最低でも20キロメートルも離れていては、射程距離外という場合がほとんどだった。
周辺にある砲だと15cm長距離重砲による軽量弾が辛うじて届く程度だが、こちらも発砲で位置を暴露すると、護衛する駆逐艦と大型砲を片付けた戦艦群による集中射撃を浴びて、1門また1門と瓦礫の山になるまで破壊されていった。
砲台の優位を、圧倒的物量しかも短時間での戦力の集中投入で覆してしまった戦闘が、この時行われた戦いだった。
それ以後の戦いも、概ね似たような状況で連合軍が強引に破壊作戦を進めていった。
7群の戦艦部隊は、2〜4部隊が出動してその都度砲撃を行い、ドイツ軍の沿岸砲台を順番に粉砕していった。
端から順番に破壊されては相互支援も虚しく、今更移動することもできないので、その場で半ば無意味な徹底抗戦するより他無かった。
それでも一部ではさらなる防備強化の工事を行おうとしたり、高射砲部隊の増強を実施した。
だが、追加工事は激しい空襲で物資移動の段階で多くが阻止され、損害ばかりが増えた。
局所的な場所への高射砲部隊の集中は、ただでさえ戦力が不足する中で他の地域への負担と損害を増やすことになった。
また、夜中に近づいてくる連合軍戦艦部隊に対して、魚雷艇や小型潜水艇、潜水艦による迎撃も積極的に行われた。
だが、連合軍艦隊は基本的に海峡の英本土側で行動する上に、そもそもドイツ軍に制空権がないので、闇夜の海上での行動も危険すぎた。
しかもドイツ側は連合軍の戦力密度に対して少なすぎ、十分な時間も作戦も無かった。
また自らも反撃を受ける場所に出撃するため、ドイツ側が連合軍に誘われて英本土沿岸まで近づきすぎて、逆に沿岸から砲撃を受けるような事も起きた。
探知能力に劣る小型の潜水艇は、艦隊に随伴する駆逐艦や護衛艦、夜間でも平然と飛び回る対潜哨戒機に追い散らされるか、敵の存在を知る前に葬られる事が多発した。
そしてそうした攻撃で、本来なら連合軍の侵攻時に使う予定の上陸阻止部隊のかなりを消耗してしまっていた。
だが、ドイツ軍がただ一方的にやられっぱなしだったわけではない。
連合軍の艦艇も無傷とはいかず、被弾と損害は相次いでいた。
しかし、多くの場合は巨大化した戦艦の防御力の方が勝っていた。
《モンタナ級》戦艦が、15インチ砲弾を弾くような場面も見られた。
そしてカレー正面は特に強固に防備されており、1000機単位の空襲でも簡単には破壊もしくは一時的無力化には限界があった。
砲撃戦でも、敵が必ず上陸してくる場所なので特に強力な砲が多数配備されていた。
ドイツ軍の切り札である40.6cm砲4門もここに配備されており、直接支援できる砲としても十字砲火を組める形で38cm単装砲3門、54.5口径28.3cm単装砲3門などが配備されていた。
加えてドイツ軍の方も、敵の攻撃に対してある程度対策を立てていた。
監視を強化するだけで敵の砲撃前に照明弾を打ち上げる事もできるし、潮流を調べて敵が取る可能性の高い進路を予測することもできた。
浮遊機雷を砲撃予測地域に散布したりもした。
かつてのガリポリの戦いでも、機雷が多くの戦艦を撃沈している。
さらに昔の旅順要塞の戦いでも、戦艦を沈めたのは機雷だった。
そして4月6日にカレー正面での砲撃戦が行われるが、連合軍もかなりの苦戦を強いられた。
この砲撃に連合軍は4個戦艦群、うち2つは最強の戦艦部隊を送り込んだ。
機雷に関しては予測済みなので、十分な対策を立てた上でほぼ完璧に阻止できたが、砲撃戦自体が非常に激しく行われた。
連合軍側も、旧式戦艦群を中心にしてかなりの被弾を受けてしまう。
沿岸砲台と船の対決の典型例のような場面もあり、被弾して戦線を離脱する戦艦が相次いだ。
掃海などから漏れた機雷を触雷して、大損害を受けた艦も出た。
しかしドイツ側に幸運の一弾が生まれることはなく、分厚い装甲で覆われた戦艦を沈めるには至らなかった。
機雷に対しても、触雷前提で隔壁を閉じるなど対策を立ててきているため、3万トン以上の戦艦が沈むことも無かった。
逆に、どの砲台も過剰な空爆と艦砲射撃の集中攻撃を順番に受け、次々に沈黙を余儀なくされた。
特に《シャルンホルスト》から移設した3連装砲塔には、アメリカの18インチ砲弾が天蓋に命中し、砲塔の奥で炸裂した砲弾によって砲塔が天高く吹き飛ばされるほどの大爆発となった。
戦艦なら轟沈しているような命中弾であり、他の砲塔型砲台同様に装甲を増していたのだが、想定以上の打撃の前に敢えなく屈したものだった。
とはいえ連合軍も無傷とはいかず、駆逐艦5隻が沈没、戦艦3隻が判定中破に損傷。
航空機も50機以上が撃墜破されていた。
しかしこの損害は、連合軍が投入した戦力の10%にも満たないものでしかなかった。
このカレー正面での戦闘をピークとして、その後も連合軍の過剰と言える沿岸砲台破壊作戦は続いた。
大型砲を破壊し尽くすと戦艦部隊のほとんどは引き揚げたが、それは砲弾の打ちすぎで砲身内筒が摩耗したため交換が必要となっていたからだった。
そしてこの交換も、イギリスに全ての機材と交換部品を持ち込んで各所で行われた。
中には造船所、整備ドックなどが足りないため、日米の工作艦が岸壁に横付けして工廠施設の代役を務めることもあった。
戦艦がいなくなっても、艦砲射撃自体は重巡洋艦などが行い、日を増すごとに脅威が低下していったので、昼間にも空襲と平行して艦砲射撃が実施されるようになっていく。
そして沿岸砲台以外に対する攻撃が日増しに激しくなり、連合軍の「D-day」が刻一刻と近づいていることをドイツ人に直に教えた。