フェイズ80「WW2(74)ドーバー海峡砲撃戦」-1
1946年初夏に連合軍がドーバー海峡を押し渡ってくる。
この事は、敵味方共に決定事項に近かった。
他の作戦はあり得ず、せいぜい「いつどこに上陸するのか」が賭の対象になったり、話題に上る程度だった。
1946年4月に連合軍の空母部隊が動いたときは、ドイツ側に少し緊張が走ったが、初夏、5月初旬から6月初旬のどこかだという見方が変わることも無かった。
上陸地点については、最もドーバー海峡の幅が狭いカレー方面と考えられていた。
パリに比較的近いノルマンディー半島の付け根当たりを予測した者もあったが、それでは上陸に成功してもソ連軍とのドイツ侵攻競争に勝てない可能性を高めるだけだった。
加えて、南部から押し上げている連合軍との進撃路など様々な要素からも否定された。
別の意見としては、ドイツ本土にさらに近いベルギーのフランドル方面への上陸は、パ・ド・カレー上陸と大差ないのでカレー上陸と同じと見られていた。
さらに東のオランダ上陸に関しては、ライン川河口部の上陸作戦はドイツ本土に近い分だけ危険が大きいし、上陸に成功してもライン川の中州地帯と縦横に走る運河が邪魔をするので、迅速な進撃に適さないと見られて否定的だった。
少なくとも最初の上陸地点としてはあり得ないというのが総評だった。
さらに冒険的意見としては、ユトランド半島の付け根辺りへの上陸だが、ドイツ側も万が一の事態を警戒して砲台などで防備を固めていたし、上陸自体は成功しても半島の付け根、キール運河辺りで強固な防衛線が引かれたらその後の進撃が難しいので、この意見も否定的見解が多かった。
結局のところ、パ・ド・カレーからダンケルク周辺への上陸以外あり得ないという結論だった。
そしてその予測を肯定するように、同方面とその後方地域への連合軍の事前攻撃が激しさを増していった。
そうした中で連合軍の懸念として浮上してきたのが、ドイツ軍が急速に建設しつつある沿岸部の陣地群だった。
戦争が一旦は1940年夏にドイツの勝利となり、その後長らくヨーロッパは戦火が遠かったため、ヨーロッパの防備はほとんど1940年夏の段階で止まっていた。
それまではドイツ北部沿岸に限られ、実際強力な砲台があったのは軍港のヴィルヘルムス・ハーフェンぐらいだった。
そして1940年4月から6月にかけての大勝利の直後に、イギリスから欧州大陸を守るための計画が大まかではあるが研究された。
しかし1940年7月に戦争は終わり、その後も継続した第二次世界大戦の戦場はヨーロッパ以外だった。
連合軍の欧州沿岸に対する実質的な軍事活動も、偵察のため欧州圏内に侵入してくる潜水艦対策を行ったぐらいだった。
しかし1944年半ば以後に入ると、戦局は欧州枢軸にとって急速に悪化。
北アフリカ、アイスランドと相次いで失い、少し早く地中海にも連合軍が溢れた。
このため、まずは英本土と地中海沿岸の防備が急がれたが、それでも英本土に守られた形の欧州大陸北岸の防備はおざなりのままだった。
ノルウェーが例外的に沿岸防備の工事が始められたが、ノルウェーへの本格的侵攻はないと考えられたこともあり、沿岸砲台などの建設はゆるやかなものだった。
ノルウェーの方は、そのツケを1946年4月に支払わされた格好だったが、仮に全力で陣地を構築していたとしても、制空権のない地域に4000機もの艦載機が押しよせては、何をしても無駄だったかもしれない。
だが、ヨーロッパ大陸北西岸は違っていた。
制空権は完全には失われていないし、陸路で物資、兵器、兵員、労働者を運び込めるので陣地の構築は容易だった。
しかも連合軍は1945年秋頃まで空襲は本格化させなかったので、ドイツは辛うじて防備工事の為の準備期間を与えられた形だった。
とはいえ、既にドイツ自身、欧州枢軸自体の物資不足、窮乏が進んでいるので、計画したほどの資材、特に鋼鉄は割り当てることが不可能だった。
労働者についても不足しており、早々と方針が変更された。
最初は北西部沿岸全てに強固な沿岸陣地を長々と構築する予定だったが、重要性の低い場所はほぼ切り捨てて防御の重点を特にカレー正面に絞った。
次点としてはノルマンディー半島の付け根辺りも対象とされたが、後者はあくまで保険でしかなく実際の工事は10%も行われなかった。
ノルマンディー方面の工事もフランスが行った。
そして夏までに防衛陣地の建設計画が決まり、まずは制空権を維持するための高射砲陣地が大量に建設されていった。
このため連合軍は危険を冒してまで沿岸部を空襲しなくなる。
無理をすれば攻撃は可能だったが、他の任務が忙しかったし、現時点での中途半端な攻撃は犠牲が大きすぎると考えられたからだ。
ドイツ軍もそれを期待しての防空体制の強化だったが、これはドイツ軍の思惑が嵌った形となった。
1944年初夏以後にドイツ軍が建設し始めた沿岸陣地は、主にノルウェーだった。
また、念のためバルト海の玄関口とも言えるスカゲラック海峡封鎖のための長距離砲の砲台建設が、ノルウェー南端部とデンマーク北端部で始まった。
しかしどれもゆっくりしたものだった。
工事が急がれたのは、フランス北西部のブレスト軍港などだが、工事はフランス自身が主導した。
このブレストの沿岸砲台建設では、戦艦から空母への改装が行われて完成するも余剰となった4連装38センチ砲や、15.2cm3連装砲塔なども使われた。
巨大な4連装砲塔は、今でも北大西洋を静かに睨み続けており、戦争の史跡として見学する事ができる。
ちなみにこの巨大砲台は、大きさでギネス記録に記されている。
(※主砲口径では日本の対馬海峡を睨む41cm連装砲塔が最大。)
ドイツ軍の沿岸陣地構築は、先述したように英本土が陥落するまでは低調だった。
しかし1945年6月に政治的、軍事的には一瞬でイギリスが寝返ると、状況は大きく変化する。
加えてドイツ総司令部の戦争方針によって、欧州北西部沿岸は強固に守らねばならない場所となった。
地中海側はともかく、北西部に上陸されたらフランスばかりかドイツ中枢部が危機に瀕して、戦争継続どころではなくなってしまう恐れが高かったからだ。
さらに、連合軍を出来る限りドイツに踏み込ませずに戦争終結に持っていこうというヒトラー総統らの希望的な思惑によって、「最大限の努力」が行われることになる。
そして無数の沿岸砲台建設が俄に始まり、そして急速に進められたのだが、そうした中で注目されたのが海軍が用いていた巨砲だった。
まず注目されたのが、近代改装で降ろされた《シャルンホルスト級》戦艦の54.5口径28.3cm3連装砲塔だった。
同砲塔は6基が近代改装の際に降ろされ、しばらくは海軍工廠の空き地に再利用可能な形で置かれていた。
当時は沿岸砲台という考えはあまり無かったが、何かに使えるかも知れないと考えたからだ。
そしてもともと載せていた艦が撃沈された後、俄に脚光を浴びることとなった。
強固な装甲で覆われた完成された砲塔をそのまま沿岸砲台として用いれば、非常に効果的だと考えられたのだ。
しかし砲塔そのままを設置する陣地を構築するとなるとかなりの手間であり、また長砲身の28.3cm砲は1門ずつでも十分に強力なので、半数は1門ずつにバラバラにしてオランダやドーバーの各所に設置された。
そして砲塔のままの3基は、カレー方面の要所に他の大型砲と共に効果的な配置で設置されることとなる。
砲塔型だと360度に対して砲撃が可能なので、この点が戦術上の有利とも考えられた。
砲塔は1基で一つの要塞陣地で、砲塔、弾薬庫はもちろん、自家発電装置から居住区など、多くの施設が地下陣地として建設された。
さらに周囲には、空襲を警戒する防空陣地も構えられており、鉄壁の要塞の様相を呈していた。
そしてこれ以外にも、カレー正面には沢山の巨砲が設置された。
代表的なのが「ジークフリート砲」だ。
伝説の勇者の名が与えられた砲は、《ビスマルク級》戦艦、近代改装後の《シャルンホルスト級》戦艦に搭載された、47口径38cm砲の陸軍用の事だった。
もともとは、計画中止(正確には計画変更)となって余剰した《ビスマルク級》戦艦の砲8門と予備の2門が陸軍に供与され、さらに「Z計画」の再興された方で計画された巡洋戦艦3隻用の砲18門のうち転用で《シャルンホルスト級》戦艦に予備の砲として搭載されなかった6門が追加供与されたものだった。
合計16門のうち、4門は実際に列車砲に改装されて、実戦でも使われた。
だが大きすぎる砲なので、予算や人員の面から簡単には列車砲にして配備するわけにもいかず、多くの砲が沿岸砲台用として備蓄された。
それが1945年初夏に注目され、急ぎドーバー海峡各所に設置されることになった。
それぞれ1門ごとの強固な砲台を作り、そこに1門ずつ設置された。
砲台は固定型で旋回はせず、150度程度の角度に対して射撃可能とされていた。
艦載砲との違いはそれだけでなく、砲弾と射程距離にもあった。
艦載砲だと射程距離は36キロメートル程度。
これに対して砲台設置型では、通常の800kg弾で42キロメートル。
陸軍が特注した重量495kgの軽量砲弾を用いれば、最大55.7キロメートルもの射程距離が得られた。
そしてこの軽量砲弾の事をジークフリート砲弾と呼んでいた。
しかも砲自体は地上設置なので、艦載砲よりも命中精度は高かった。
これは古くから変わらない事だった。
あえて欠点を挙げるなら、射程距離が長くても水平線の向こう側を正確に狙う方法が既に少ないと言うことだった。
光学装置、レーダーでは水平線の先になり、着弾観測を行う飛行機を飛ばすことは1945年の後半では自殺行為でしかなかった。
砲弾の弾道を途中までレーダー観測するのが比較的確実な方法で、各砲座には少し離れた場所に光学照準装置と共に射撃レーダーも設置された。
これ以上の火砲としては、「H級戦艦」こと《フリードリッヒ・デア・グロッセ級》戦艦に搭載されていた47口径40.6cm砲がある。
同砲は1945年6月に《フリードリッヒ・デア・グロッセ級》戦艦2隻が共に沈んだことで、損傷時の修理用に予備として置かれていた4門が、目的が無くなったため陸軍に砲塔関連の予備部品と共に供与された。
そして38cm砲と同様に固定砲台として砲として完成させた後に台座に据えられた。
最大射程距離は38cm砲とほぼ同じだが通常弾1030kg、軽量弾610kgと少し大きく重くなっている。
そして各巨砲は3〜4門を一組として近くに設置された。
一般的な配置だと250メートル間隔で設置されているので、砲撃する時には戦艦と少し似たイメージになる。
また、近距離からの軽快な艦艇による砲撃を防ぐため、近くには必ず中型か小型の砲座が多数設置されていた。
さらに空襲を防ぐため、多数の高射砲、高射機関砲が考え抜かれた配置で設置されていた。
それ以外の大型砲台も、旧式の30.5cm砲、旧式戦艦の28cm砲塔、未完成に終わった重巡洋艦の20cm砲塔をはじめ、15cm砲クラスの野戦重砲などが無数に、強固な陣地として建設された。
無敵の巨砲としてカレー方面に集中的に、そして相互支援できるように比較的近くに設置された38cm砲、40.6cm砲だが、弱点が無いわけではなかった。
問題は重コンクリートで覆えない砲塔型と、旋回できるよう設置された砲台だ。
旋回型の砲自体は、戦艦搭載時のように分厚い装甲で鎧ってしまうと重くなりすぎるため、また戦艦と同じ砲塔型だと砲下部のシステムが大きくなりすぎるため、建設期間短縮を図る為もあり分厚い装甲は施されていなかった。
ならば周囲全てを天井を含めて分厚い重鉄筋コンクリートで覆ってしまえば良く、かなりが射撃範囲を限定する形でコンクリートに覆われた形状で設置された。
だが、一部の砲座は360度方向に射撃できるように据えられていた為、攻撃に対して比較的脆かった。
とはいえ、簡単に攻撃できないものであり、カレー方面に殺到するであろう連合軍を寄せ付けないと期待された。
また砲台の主力は、前面だけに砲撃できる砲台で、周囲を分厚い鉄筋コンクリートで覆っていた。
そして連合軍も、俄に数を増やした砲台を脅威に感じる。
連合軍は、様々な制約と条件によりカレー方面からの上陸を、かなり前から正式決定していた。
故に障害物は、何としても乗り越えなければならなかった。
そうした中で、一つの作戦が浮上する。
カレー砲台群破壊作戦だ。
だが、何をもって破壊するか決まるまで一悶着あった。
空軍(航空隊)を用いるのが常道だが、空軍にはやるべき仕事が沢山あった。
また、既に一部沿岸陣地を小規模に攻撃した結果、高射砲の反撃で大きな損害を受けたため、より強い消極姿勢を取っていた。
ならば海軍艦艇を用いるのかという話しになったが、古来より洋上を走る軍艦が沿岸砲台に勝ったという事例が少なかった。
圧倒的差があったり、遠距離から一方的に攻撃する場合は例外だが、互角であるなら軍艦の方が不利だった。
揺れる洋上と微動だにしない地上という条件の差から、命中率が格段に違うのが一般的だからだ。
しかも沿岸砲は、目標が砲撃予定地点に入ってきてから一斉に火蓋を切るが、既にその場所の測定が終わっているため、最初から命中修正をする必要が無かった。
また時間をかけて建設された砲台自体は、強固な防備が施されているのが一般的で、余程幸運もしくは不運の一撃でも受けない限り、簡単に破壊することは難しかった。
しかも今回の場合、沿岸砲台の方が射程距離で勝っていた。
《大和型》戦艦の45口径46cm砲で、射程距離は42キロメートル。
アメリカ海軍が多数保有する16インチ45口径砲Mk.6で33キロメートル弱。
16インチ50口径砲Mk.7だと39キロメートル弱。
そして1946年春に就役した、《モンタナ級》戦艦の改良発展型といえる《ルイジアナ級》戦艦に搭載された18インチ47口径砲Mk.Aで40キロメートル弱。
どれも敵戦艦の装甲を貫くため重い砲弾を用いているため、射程距離に若干の制限がかかっている。
仮に軽量砲弾を用いれば、射程距離自体はドイツ軍の沿岸砲台のように伸びるが、命中精度が格段に落ちるため対艦砲撃戦には向いていない。
地上目標なので榴弾による射撃が有効と言われることもあるが、相手となるドイツ軍の沿岸砲台は天井部分で2メートル、3メートルもある強固な構造の重鉄筋コンクリート製なので、1発、2発の命中ではラッキーヒットでないとほとんど意味がない。
破壊するには適切な方向からの大型戦艦の徹甲弾か、空爆による大型徹甲爆弾のどちらかしかなかった。
しかも複数命中させなければ撃破が難しいと判定されていた。
しかし上陸作戦の前に、可能な限り破壊しておかなければならなかった。
そして上陸作戦の失敗に比べれば、多少の艦艇や航空機の損失は許容できると判断が下される。
そして連合軍が選択した作戦は、もはや定番とすらなっている過剰攻撃、飽和攻撃だった。