フェイズ79「WW2(73)欧州本土空襲」-2
1945年秋頃から始まった連合軍による、イギリス本土南東部からの欧州北西部地域への空襲は次第に規模を拡大しつつ、さらには遠隔地、ドイツの深部へと伸びていった。
当初ドイツ本土を空襲していたのは、アメリカ本土から一気に進出したアメリカ第3航空軍だけだったが、すぐにも地中海方面に展開していた部隊の多くが移動してきた。
どれも歴戦の部隊であり、夏の連合軍空母機動部隊による北海乱入以後戦況は悪化の一途を辿り、冬になる頃には戦況はドイツ空軍にとって絶望一歩手前といえる状況になっていた。
そして晩秋の頃から、アメリカ第8航空軍を中心とした重爆撃機部隊による工業生産地帯を目標とした俗に言う「戦略爆撃」が開始される。
それまでの連合軍の空襲は、基本的には「戦術爆撃」だった。
中華民国の重慶、四川方面への爆撃が若干の例外だが、それ以外は中型機、小型機を用いた戦場やその少し後方での空襲を重視していた。
戦略的な攻撃と言えば潜水艦や通商破壊艦艇を用いた航路(船舶)への攻撃で、航空機の役割は戦場やその近辺、敵のやや後方での制空権を得るためと考えられていた。
アメリカ陸軍航空隊を率いたアーノルド元帥らは「戦略爆撃」を強く推していたが、それは費用対効果としてではなく、戦後に独立空軍を作るための政治的行動と見られる事が多かった。
一般的に敵の奥深くの生産拠点を爆撃することは、敵の抵抗が激しいため犠牲が大きく、費用対効果の低い戦闘行為だと考えられていた。
戦略的に圧倒的優位に立てば状況は変化するが、ドイツ軍は強敵であり敵本土上空で優位に立てるようになるには時間がかかった。
しかし1945年初夏にイギリス本土が奪回されると、状況は大きく変化する。
それでも連合軍が従来通りの戦術爆撃で十分と考えており、展開される戦況はそれを肯定していた。
それでもアーノルド元帥らは、第8航空軍の重爆撃機部隊を用いた戦略爆撃を1945年晩秋の頃から本格化させる。
主に用いられた機体は、1943年末期に量産配備が開始された「ボーイング B-29 スーパーフライングフォートレス」。
従来の「B-17」は既に旧式化が目立ち、「B-24」もドイツ空軍機相手に防御面などで難点があると見られていた。
もっとも「B-29」の難点も解消されたわけでは無かった。
確かに、最初期の稼働率20%という悪夢は、何とか50%以上に改善していた。
だが、高性能の代償としてエンジンに無理をさせる機体であることに変わりなく、交換用のエンジンを大量に用意したり、熟練した整備兵を揃えることで稼働率を向上させたというのが実際だった。
また、成層圏に駆け上がって爆撃が出来るが、「B-29」といえども駆け上がるまでが大変だった。
英本土の中部から北部の基地に進出して敵地(ドイツ本土)は近くなったが、近くなりすぎたというのが実際で、英本土の上で成層圏まで駆け上がらなければならなかった。
一度成層圏に達すれば、迎撃できるドイツ軍機は限られているし、高射砲も大型砲以外は脅威でなくなるし、随伴には多数の戦闘機を伴うので撃墜される心配は比較的少なかった。
だが、だからといって簡単にドイツ本土を爆撃できるわけではなかった。
また成層圏に駆け上がるためには多くの燃料が必要だし、時間も相応にかかった。
燃料を積む分だけ爆弾搭載量も減った。
中高度を進むのとどちらが効果的なのかは微妙なところと言われる。
結局のところ「B-29」を使った爆撃は、在来の機体を使うよりもマシという程度だった。
日本海軍の大型陸上攻撃機「連山」の方が、雷撃でもするように極低高度を高速で飛び回ってドイツ軍に迎撃の時間を与えないので、戦術的に有効と言われることも多いほどだ。
それでも戦略爆撃マフィアと言われる人々は、ようやく訪れた機会を無駄にはせず、精力的に活動した。
彼らの主な目標は、ルール工業地帯。
英本土から比較的近く、途中にアルプス山脈のような地形障害もなく(※アルプスのせいで3000メートル程度の低高度進撃ができない。)、ドイツ軍に迎撃の時間をあまり与えずにすむ場所だった。
加えてルールは、ドイツの心臓部とも言われる重工業地帯であり、大損害を与えることが出来れば戦略的な効果も大きかった。
首都ベルリンを目標としなかったのは、ベルリンは政治的効果は高いが工業施設などがそれほどないので、危険度と合わせて考えると効果が低いと判定されたからだった。
逆にハンブルグなど北海沿岸部の都市を標的としなかったのは、既に沿岸部の都市は頻繁に爆撃を行っていたため、効果が低い上に政治的インパクトにも欠けると判断されたからだった。
その点ルール工業地帯は、今までは嫌がらせ目的の夜間の散発的な爆撃程度しか行われてきておらず、大規模な爆撃を成功させた場合の効果は非常に大きいと考えられた。
1945年11月6日、最初の大規模なルール爆撃が開始された。
参加するのは「B-29」324機、「P-51」96機だった。
時間は昼間。
堂々とした大編隊を組んでの進撃だった。
また平行して、オランダ沿岸部からハンブルグにかけて、中型機と日本海軍の重攻撃機部隊による大規模な空襲も実施された。
連合軍全体としては、1500機を投入する沿岸部への反復爆撃こそが本命で、ルール攻撃の方はドイツ空軍をおびき寄せるための囮としての感覚が強かった。
爆撃効果自体も、工業施設の破壊は期待しておらず、操業の邪魔をする程度にしか考えていなかった。
だが連合軍も作戦に手抜きをする気はなく、爆撃は一度だけではなく2週間の間に出撃できる限り出撃して、連続した打撃によってドイツ軍を疲弊させようと画策していた。
連合軍の大規模な空襲に対して、ドイツ側は油断していた。
と言うよりも、やや不意を突かれた形となった。
沿岸部の爆撃に対しては、夏頃から激しい空襲を受け続けていたのですぐに対応したのだが、レーダーに捉えた時点で高度9500メートルを超えていた未曾有の大編隊(※大型機ばかりが密集しているので、実数はこの時点では不明。)に対しては、すぐに対応できる戦力が皆無ではないにしても少なかった。
オランダ方面は第二航空艦隊、ドイツ沿岸部は第一航空艦隊が担当で、ルール工業地帯の防衛も第一航空艦隊の担当となるが、内陸部の防衛は南部のアルプス方面と首都ベルリン近辺に戦力を集中しており、ルールなどドイツ北西内陸部の防衛は、今までの戦況から夜間戦闘機部隊と若干の戦闘機隊が配備されているだけだった。
「Me262」の戦闘機型で編成された飛行大隊がいるのが救いだが、迎撃に当たれるのは夜間戦闘機を含め全てを合わせても200機に届いていなかった。
しかも奇襲的に成層圏から飛来してくるため、既に迎撃が間に合わない機体が半数近くを占めていた。
「Ta-152」戦闘機はこうした迎撃に向いているのだが、数がなければ効果は薄かった。
ルールの守りは「Me262」に委ねられたと言っても過言ではないが、それでもジェット機は期待を委ねるに十分な性能を有していた。
だが連合軍も、ドイツ空軍が成層圏での迎撃にジェット戦闘機を飛ばしてくるのは折り込み済みだった。
航続距離の関係で自分たちのジェット戦闘機(P-80)は出せないが、護衛の「P-51」部隊は新型を配備した上に、熟練パイロットも多く配属されていた。
中には既にジェット機と対戦した者もおり、対策も十分に立てていた。
護衛を担当した「P-51」部隊は、自由に戦闘する制空部隊と、何があっても爆撃機を守る護衛部隊に半数ずつで分かれていた。
また中高度では、爆撃機の迎撃に向かうドイツ軍機をインターセプトする部隊が支援に当たり、敵の邀撃機の数を着実に減らしていった。
特にドイツ側のレシプロ機部隊はほとんど阻止されてしまい、無理矢理出撃した夜間戦闘機大隊は昼間の戦闘に未熟なパイロットが多かったこともあって大損害を受けた。
故障などで一割ほど脱落機を出していた「B-29」に対して、成層圏へと一気に駆け上がった「Me262」が迎撃しようとしたが、その横合いから見透かしたように「P-51」が襲いかかった。
「P-51」部隊は、相手が高速発揮中のジェット機なので正面から迎撃はせず、とにかく相手の邪魔をする戦闘を心がけた。
相手が自分たちに向かって格闘戦を挑んでくれば儲けものという程度であり、基本的には敵ジェット機の飛行進路を妨害して攻撃を逸らせばよかった。
相手がジェット機なので、初手を外させてもさらに攻撃をしてくるが、とにかく邪魔に徹した。
そして未熟なドイツ軍パイロットは、邪魔をされると爆撃機の攻撃どころではなく、頭に血が上って「P-51」を目標とする者も少なくなかった。
そして「P-51」を相手にすれば「P-51」に乗せられて格闘戦を挑み、そして旋回などで速度を失って、脱落もしくは撃墜されていく機体が相次いだ。
一方で「B-29」の攻撃に成功しても、撃墜や撃破は容易ではなかった。
異常なほど高速なだけでなく、在来機以上に丈夫で防御火力を有するからだ。
それが空中で緊密な陣形を組んでいるので、「Me262」と言えども少数での攻撃成功は難しかった。
それでも高速を活かした攻撃なので、返り討ちに合うという事は少なく、また熟練パイロットが操っていれば、今までのレシプロ戦闘機よりも高い確率で撃破が可能だった。
だが攻撃成功例は迎撃機数に対して少なく、けっきょく迎撃された「B-29」は全体の7%程度。
撃墜となると4%を切っていた。
この時の空襲では、最終的に5機が撃墜され、3機が帰投途中で墜落。
さらに故障で4機墜落しているので、12機が失われた事になる。
そして帰投中の墜落機の搭乗員多くが救出されており、搭乗員損耗率2%は十分に許容範囲の損害だった。
出撃は翌日、さらに3日後、7日後、11日後、14日後の合計6回実施された。
延べ約2000機の「B-29」が出撃した計算になり、80%以上の目標地域(※地点ではない)での投弾を実施した。
投弾量も1万トンに達した。
また、連合軍が本命とした連動した沿岸部などへの攻撃は、爆撃機の延べ出撃機数が2万機(回)を突破していた。
これだけで爆弾投下量は6万トンにも達する。
ドイツ軍による戦略爆撃に対する迎撃は、初日と二回目以後は改善が見られたが、初手で大きく出遅れた上に戦力のかなりも失ったため、連合軍が予測した以下の損害だった。
当然、連合軍の戦果は挙がり、今まで大規模爆撃を受けてこず、また防空対策も十分ではなかったドイツの心臓部と言える工業地帯に無視できない損害を与えた。
特にクリティカルヒットがあった事もあり戦車の生産に深刻な損害を与えており、一時的にドイツの戦車生産力を20%近くも低下させていた。
(※その後数ヶ月で半分以上が回復されている。)
なお、連合軍が敵地での爆撃の成果を正確に知ることは難しいが、偵察写真や無線情報、統計数字の推計などによって状況をある程度つかんでいた。
そしてそれなりの成果があると分かった為、その後も体制を整えつつ主にライン川下流地域に対する戦略爆撃は戦術爆撃と平行して継続されることになる。
そしてイギリス本土に連合軍空軍が数を増すに連れて、西ヨーロッパ北西部に対する空襲は激しさを増していった。
また46年2月前半の爆撃では、石油精製所を集中的に狙って爆撃が実施されたが、ドイツ側の迎撃能力が既に大きく低下していた事もあって非常に成功して、ドイツの人造石油生産能力は一時10%を切るほど壊滅状態にまで一気に下落したほどだった。
すぐに設備の復旧と爆撃された場所からの疎開などである程度回復するが、その後人造石油の生産量が以前の数字に戻ることも無かった。
このため飛行機、車両双方のガソリン供給が一気に逼迫するようになり、それを数字上や戦場で確認した連合軍も、積極的に製油施設を爆撃するようになっている。
アメリカ空軍(陸軍航空隊)としては、ようやく面目を施したと言えたのかもしれない。
1946年2月頃には、本節の最初で取り上げた稼働機1万1000機に到達し、5つ以上の航空軍が2つ未満、実質1個程度、単純な数の差で8〜10倍もある戦力となって襲いかかるようになっていった。
戦略爆撃の規模は、アーノルド将軍が望んだ規模には到達しなかったが、2月14日に行われた爆撃では、アメリカ第8航空軍だけでなく、日本海軍航空隊第十一航空艦隊、イギリス空軍第一航空軍の大型機が総力を挙げて爆撃する大規模な作戦が実施された。
11月同様に、同時並行で大規模な戦術爆撃も実施され、4発重爆撃機1000機、作戦参加機5000機という未曾有の規模の爆撃が実施される。
大規模な戦略爆撃が連合軍内で肯定されるようになったのは、制空権がほとんどの戦場で圧倒的と言えるレベルに達しつつあった事、空の戦場そのものがドイツ本土に十分達していた事、そして地上目標として一般的にドイツ外縁部や西欧各地が該当するようになっていたからだ。
つまりは、戦術爆撃の延長に近かった。
この頃になるとドイツ軍も、連合軍の重爆撃機に対して十分な迎撃体制を整えるようになっていたが、それは地上配備の高射砲などだけで、迎撃用戦闘機に関しては十分では無くなっていた。
既に生産力が限界を超えていた上に、少なくなった機体以上にパイロットの枯渇が進んでいたからだ。
さらに急速な燃料の枯渇、訓練できる安全な空域の減少が、パイロットの質を劇的といえるほどに低下させていた。
(※ドイツの航空機生産数自体は、1944年春ぐらいから以後2年近く月産3000機以上をキープしている。)
ドイツ空軍と言えば、常識外れの戦果を誇るスーパー・エースが綺羅星のごとく戦史の一角を埋めているが、そうしたパイロットはごくごく限られた人だけだった。
もちろん普通のエースも数多くいたが、戦争後半に入ると殆どのパイロットが未熟なまま出撃を余儀なくされ、最初の出撃で命を落としていった。
全体の90%は落とされるために出撃しているような有様で、連合軍のごく普通のパイロットに戦果を稼がせているような状況に陥っていた。
そして1946年の春も近づく頃になると、連合軍の仕掛けてくる飽和的な航空撃滅戦に対して、ドイツ空軍はとにかく損害を少しでも減らすという消極的な戦いを強いられていた。
この戦闘では、「Ta183」を装備した飛行大隊(の一部)がデビューを果たし大戦果を記録したのだが、もはや大海の一滴でしかなかった。
デビュー以来、万難を排して数を増やした「Ta183」部隊は、その後も奮闘を重ねて数々の伝説的な戦果を挙げたが、連合軍も初夏の頃には自らの高性能ジェット戦闘機を前線に投入するようになっており、ドイツ人達が見えたと錯覚した希望の光を閉ざしてしまっている。
話しが少し逸れたが、1月の爆撃ではルール工業地帯ではなくハンブルグ、ブレーメン、キールなどといったドイツ北西部の港湾都市に集中攻撃が行われた。
迎撃までの時間が短く、戦略爆撃と戦術爆撃の双方が波状的に行えるため、決定的な戦果を挙げることが出来ると考えられたからだ。
戦略爆撃と戦術爆撃の併用にはアメリカ軍のアーノルド元帥やスパーツ将軍らが反対したが、特に日本海軍が首を縦に振らなかった。
またアメリカ軍の現場指揮官の一人で、その辣腕と剛腕から主導的地位にあったカーチス・ルメイ将軍は、アーノルド元帥とは違って大きな戦果が期待できる連携作戦に肯定的態度を取っていた。
イギリスでは、元本国軍のハリス将軍などが戦略爆撃論者だったが、元本国軍の軍人に強い発言権はなく、連合軍の総意として複合的で大規模な爆撃作戦が実施されることになる。
そして「ゴモラ作戦」と名付けられて行われた大規模な都市爆撃は、大都市ハンブルグの事実上の壊滅という戦果と歴史的悪名を残して大成功をおさめた。
それまで港湾部、造船地帯以外は比較的軽微な損害で済んでいたハンブルグなどのドイツ北西部の各港湾都市は、全市街が大規模な爆撃の洗礼を受けて、多くが壊滅的打撃を受けた。
一般市民の死者の数もそれまでとは比較にならないぐらい多く出てしまい、ドイツ首脳部に大きな衝撃を与えた。
また、1945年夏以後低下を続けていたドイツの造船能力に破滅的といえるほどの打撃を与え、特に潜水艦の大量生産に関しては完全に不可能なまでの打撃を与えることに成功した。
そして十分な戦果を得たと考えた連合軍総司令部は、戦術爆撃に関しては次の大作戦の準備に当たる爆撃を重視するよう命令を変更した。
日本海軍はしばらくノルウェー作戦の準備にかかりきりとなり、イギリス空軍に継続的な戦略爆撃を行う力は無く、アメリカ第8航空軍だけが戦略爆撃を継続する事になる。
また、十分な戦果と結果が得られる事が分かった戦略爆撃だったが、連合軍全体としては「今更」という思いが強かった。
成功した事についても、連合軍が戦争全般を優位に運んだ結果の一つにすぎないと言うのが総評だった。
そして戦術爆撃で十分に押していけるのだから、今更経費がかかり危険の伴う戦略爆撃の規模を拡大する気はなかった。
それでも戦略爆撃という今までほとんど見られない攻撃を、欧米の人々に目に見える形で示した影響は大きく、アメリカ軍内での空軍独立にさらなる一歩を記させたのは間違いないだろう。