フェイズ79「WW2(73)欧州本土空襲」-1
1946年春から初夏にかけては、北大西洋方面の連合軍にとって総反攻の季節だった。
4月のノルウェー奪回作戦は、その嚆矢だった。
もちろんそれだけでなく、来るべき大反攻を前に幾つもの事前作戦が行われた。
最も大規模だった事前作戦は、イギリス本土南部に展開した連合軍空軍による、3月頃から本格的になったフランス北東部からドイツ南西部を目標とした大規模で継続的な空襲だった。
爆撃の主な目的は、上陸地域の制空権を完全に奪うことと、ドイツ軍の地上での移動手段を奪うことだった。
移動手段を奪うと言っても、鉄道やトラックを空襲で破壊する事ではない。
もちろん路上を移動する目標があれば、それがロバの引く小さな荷馬車でも躊躇無く破壊されたが、主な目的はトラックが通る道そのものを一時的に使えなくする事だった。
しかも道だけでなく、鉄道、西欧北部一帯に張り巡らされた運河網のほぼ全てが攻撃対象となった。
運河は特に近世以後に発達したもので、産業革命が始まるまでは現代で言えば大型トラックが往来する幹線道路のような重要な役割を果たしていた。
例外は、破壊すると復旧に長期間かかる大規模な鉄橋と運河の門扉、鉄道の操車場などで、破壊しない理由はその後の自分たちの進撃の為だった。
また、ドーバー海峡近辺の港湾もほぼ全て爆撃対象外とされたが、これも上陸作戦後の補給を考えての事だった。
空襲に動員された機体数は、輸送機を除いた約1万1000機。
当時、フランス南部で4000機、イタリア、バルカン方面で3000機が活動中だったので、約60%が集結していたことになる。
これに加えて、連合軍の稼働機は東部戦線の総数1万2000機のソ連空軍と1000機以上の満州空軍が加わる。
これを東部以外の航空軍(艦隊)で示すと、以下のようになる。
英本土方面(稼働機:約1万1000機 ※輸送機除く)
米・第3航空軍
米・第6航空軍
米・第8航空軍(戦略空軍)
米・第15航空軍
日・海軍第十一航空艦隊
英・第1航空軍(自由英系)
英・第11航空軍(旧本国系)
南仏方面(稼働機:約4000機)
米・第20航空軍
日・陸軍第五航空軍
仏・第1航空軍団
東地中海方面(稼働機:約3000機)
米・第5航空軍
日・陸軍第三航空軍
上記のうち、アメリカ軍は部隊編成が他国より大きくなっており(第8航空軍は例外)1個航空軍で2000機以上の稼働機を有している場合もあった。
またイギリス空軍の第11航空軍は、まだ部隊編成(=再編成)が完了しているとは言えず、作戦にはあまり参加していなかった。
また日本の第十一航空艦隊は、3月、4月は主力部隊がノルウェー作戦にかかりきりだったため、3分の1程度しか大陸には部隊を向けていなかった。
初夏の頃にはこの二つも大陸を指向できるようになるので、作戦機はさらに1000機以上増える予定だった。
しかも場合によっては、海軍の空母艦載機4000機以上も各戦線に動員可能だった。
何しろ空母は移動する基地そのものであり、沿岸から攻撃可能な場所ならどこにでも移動、出現が可能だった。
もっとも空母艦載機の方は、春にノルウェー作戦にかり出されたので、状況は日本海軍航空隊と似通っていた。
だが、英本土に陣取る1万1000機は十分以上に強力だった。
このうち約1200機が、贅沢な4発重爆撃機を装備したいわゆる「戦略空軍」だったが、米800機(ほとんどが第8航空軍所属)、日300機、英100機に分かれており、日本(海軍)が戦略爆撃に消極的で、しかも主力がノルウェー作戦に投入されていたため、海岸から遠い場所の遠距離攻撃、つまり戦略爆撃はほとんどアメリカ陸軍航空隊(空軍)の担当だった。
しかし100機を継続的に出撃させるには、稼働率などの問題から150%の機数が必要だった。
このため多数の予備機が用意できない場合の実戦力は500機程度で、恒常的に爆撃に出撃できる機数となると、日々の機械的消耗と損害を考えれば300機程度の編成の編隊による戦略爆撃しか行えなかった。
そしてこれを補完する他の連合軍は、日本海軍は大型機の戦術爆撃を好んでおり、しかも成果を挙げているため戦略爆撃に向けさせることは出来なかった。
英本土奪回後の英空軍は戦略爆撃に積極的となっていたが、機材は貸与するにしても人材が不足していたので、小規模な爆撃が精一杯だった。
このためアメリカ陸軍航空隊を率いるアーノルド元帥の目標にはほど遠く、目標もドイツ沿岸部の都市か最大でもルール工業地帯の一部に限られていた。
そして戦略爆撃機とその護衛機を除く9500機の航空機は、沿岸部とその後背地帯の戦術爆撃を徹底して行い、同時にドイツ軍機を見れば手当たり次第に落としていった。
対する欧州枢軸は、フランス空軍はほぼ全力が南フランス戦線にかり出されており、しかも南仏で1対5以上の戦力差という北西部のドイツ空軍より多少ましなだけの連合軍を相手に、日々戦力をすり減らしていた。
このため、ロシア戦線から移動してきたドイツ第二航空艦隊が主な相手だった。
ハンブルグなどドイツ沿岸部はドイツ第一航空艦隊の担当になるが、第一航空艦隊は都市部の防空が主な任務として編成され装備も防空戦に特化していたため、戦術空軍としては第二航空艦隊が相手をすることになる。
しかも第一航空艦隊は、実質的にドイツ全土の防空を担当していたので、北西方向に戦力を向けられない状態だった。
また、ドイツの第三航空艦隊はアルプスからバルカン方面、第四航空艦隊はポーランド正面の防空を担当していたので、動かす事は不可能だった。
ノルウェーの第五航空艦隊は、もともと数が少ないので航空軍団程度の戦力しかないのだが、4月の連合軍の攻勢で消滅といえるほどの打撃を受けて壊滅している。
両軍が前線に投入する航空機材だが、ジェット機が姿を見せるようになったとは言え、レシプロ戦闘機が数の上での主力だった。
そして連合軍では、各機体の最終発展型といえる高性能レシプロ機が急速に数を増していた。
アメリカだと、陸軍航空隊軍の「P-51H ムスタング」、「P-47N サンダーボルト」、海軍の「F8F ベアキャット」がそれに当たる。
どれもレシプロ戦闘機最強と呼んでよい高性能機で、それぞれ優れた特性を備えていた。
しかも「P-51D」、「P-47G」、「F4U コルセア」、「F6F ヘルキャット」、「F4F ワイルドキャット」など在来機も数を減らしつつも十分に活躍していた。
日本は半年から一年前と大きな変化はなく、「三菱 三式艦上戦闘機 烈風改」、「中島 三式戦闘機 疾風改」、「川崎 一式重戦闘機 飛燕III型」が主力を固めていた。
アメリカ同様護衛空母に旧式の「零戦」が運用されていたりする場合もあったが、ほとんどが三種類で占められていた。
しかし「隼III型」(※現地改造型と推定されている)が飛んでいる記録写真もあり、前線ではもう少し多い種類の機体が飛んでいたと見られている。
ただし日本の場合は、国力の限界から新型機の導入が下火になっているという側面もあった。
また、各メーカーの開発失敗も、新型機導入の遅れに影響していた。
完全に連合軍側となったイギリスは、米日の貸与機を使いつつも主に本国が開発していた新型機の導入を進めていた。
「スーパーマリン スピットファイアMk.XII」は一年以上前に既に登場していたが、数をかなり増やしていた。
しかし日本の「飛燕」同様に流石に限界が見られてきていたため、空軍は「スーパーマリン スパイトフル」を海軍は「ホーカー シーフューリー」の導入を進めていた。
「スパイトフル」はスピットファイアの後継機的な立ち位置にあたるが、ジェット機開発の間の「つなぎの機体」として急遽量産が進められた。
「シーフューリー」は、大戦中盤から自力開発に力を入れた英本国海軍期待の新型機で、艦上ジェット戦闘機に不安があるためかなり力を入れた開発が行われた機体だった。
性能も日米の終末期に登場したレシプロ機に匹敵し、もう1年早く登場していれば英本土を巡る海戦の様相が変わったのではないかと言われる事も多い。
そして連合軍は、新世代の航空機であるジェット機の開発と配備も手抜きはしなかった。
その裏には、次々に革新的な航空機を開発しているドイツへの強い警戒感と恐怖心があり、尚更開発と配備が急がれた。
そうして開発された機体が続々と前線に送り込まれ始めたのが1946年春頃の事だった。
アメリカは1944年に実戦配備した「ロッキード P-80 シューティングスター」、1945年海軍機として配備された「マクドネル FH ファントム」以外に、1946年春に陸軍航空隊が「リパブリック P-84 サンダージェット」、海軍が「ノースアメリカン FJ-1 フューリー」を導入した。
どちらも単発ジェット機で、戦闘機本来の格闘戦を重視した本格的なジェット戦闘機だった。
しかし、技術の発展途上の機体のため翼は従来の直線翼で、機体構造も開発期間の短縮などのために、各社が有する機体の設計をそのまま流用していた。
基礎設計は優れており、その後後退翼を持つ改良型が登場して、広く運用されることになる。
しかし戦争に間に合ったのは直線翼を持ち、さらにエンジンもまだ未熟だったため、あまり活躍は期待されていなかった。
日本のジェット機は、最初期の「九州飛行機 五式戦闘機 震電改」、その改良型の「九州飛行機 五式艦上戦闘機 震風」、「三菱 五式艦上爆撃機 景雲」、「中島 五式戦闘機 火龍」と試作機でも作るようにバラバラで、半ば迷走していた。
心臓部となるエンジンの開発も遅れていた。
見るべきものがないわけではないが、国力と技術力の限界が見える状態だった。
そうした中で登場した機体は、ある意味奇跡的だった。
「三菱 五式艦上戦闘機 旋風」の名を与えられた機体は、海軍が全面的に支援して三菱の戦闘機開発部門が総力を挙げて完成させた機体だった。
単発エンジンで機体設計には「烈風改」が流用された点は、同時期のアメリカ軍、イギリス軍の最新ジェット戦闘機と似ていた。
エンジンもアメリカのコピー品といえるもので、しかも技術面、量産面の限界からアメリカのものより総合性能は若干低かった。
だが特徴的なのは、同時期に登場したドイツ軍機と同様に後退翼を持っている点だった。
これは空技廠で開発の始まった「震電」の開発経験を応用したもので、空技廠ではその後も大規模風防実験、模型などで試行錯誤を重ねて、後退翼の有効性をドイツに次いで発見していた。
同じ情報は少し時間をあけてアメリカにも技術交換の形で伝えられたのだが、当時のアメリカ軍、航空業界は内心は飛行機後進国の技術情報だと感じて懐疑的だったと言われる。
ドイツ軍の「Me-262」を見ても大きな変化はなかった。
このため「震電」と「旋風」だけが、連合軍機の中で後退翼を備える機体として大戦中に完成した。
そして完成した「旋風11型」は、様々な機械的な点でアメリカ製の新型ジェット戦闘機に劣っているが、模擬戦をしてみると優勢を占めることが多かった。
ここで初めてアメリカ人も後退翼に着目するが、既に1946年の春を迎えていた。
しかし艦上戦闘機ながら、最初の実戦配備は海軍の基地航空隊で、艦載機部隊への機種更新はタイミングの関係で1946年初夏の頃まで行いたくても行えなかった。
また、陸軍向けの開発が旋風ほど進んでいないため、仕様変更した改良型が「三菱 六式戦闘機 狗鷲」として陸軍にも急ぎ導入された。
三菱の戦闘機が導入されたのは初めての事で(※双発の高々度戦闘機として開発が始まった「キ83」は、結局司令部偵察機として採用されている)、導入には大きな物議を醸しだしたが、戦時と言う事とどうしても必要と考えられたため導入が断行された経緯がある。
日米以外だと、イギリス本国が半ば意地でジェット機を導入していた。
イギリス本国空軍としては比較的早い時期に「グロースター ミーティア」が実戦配備されていた。
そして1945年内にエンジンをアメリカ製に換装することで一定の性能に達したが、それでも戦闘機としては問題があるため、戦争終盤は迎撃専門機や戦闘爆撃機として運用された。
そして新たに開発されたのが「スーパーマリン アタッカー」だった。
スーパーマリン社が開発したように、名機「スピットファイア」の後継機として開発が始まった。
機体設計には「スパイトフル」が流用され翼が同じものが使用されたため、「スパイトフル アタッカー」と呼ばれることがある。
1946年の初夏の頃に量産配備が始まり、来るべき反攻作戦には何とか間に合った。
性能は同時期の日米の機体とほぼ同程度で、レシプロ機譲りの直線翼を持つなどアメリカ軍の機体に似ていた。
ドイツ軍の最新鋭機には少し劣る性能となったが、数の違い、パイロットの優秀さ、後方支援体制の充実さなど別の面でのアドバンテージが大きいため、特に問題視されるほどではなかった。
対する欧州枢軸というよりドイツ空軍だが、遂に革新的と言えるジェット機の実戦配備が1946年春頃に相次いで始まっていた。
それまでのドイツ軍のジェット戦闘機と言えば特徴的な後退翼を持つ双発の「メッサーシュミット Me262」だが、次に登場したのは2機種のどちらも単発ジェット戦闘機だった。
しかも大きく後退した翼を持ち、どちらも後ろに細く伸びた先に尾翼を持つ特徴的な姿を持っていた。
どちらの機体も、戦後の世界中の戦闘機の開発に大きな影響を与えたほどだった。
「メッサーシュミット Me P1101」、「フォッケウルフ Ta183」がそれぞれの名称で、ドイツを代表した航空機メーカーが送り出した切り札とも言える機体だった。
どちらも40度から60度という非常に大きな後退翼を持ち、連合軍の同時期のジェット機よりも小型だった。
機体の完成度は「Ta183」の方が高かったが、小さくまとまりすぎていたためか、やや発達余裕を欠いていた。
戦闘機としての性能は、連合軍機よりも高かった。
熟練パイロットならレシプロ機でも何とか対抗することは出来たが、それでも今までの双発機相手のようにはいかなかった。
対等に戦うには同程度のジェット戦闘機が最適であり、連合軍各国が新型機開発に心血を注いだのも妥当な判断だったと言えるだろう。
戦争末期にソ連空軍(+満州空軍)が空の戦いで局所的な劣勢に立たされる事があったのも、高性能な単発ジェット戦闘機の存在があればこそだった。
量産命令自体は、まだ開発半ばだった1945年春には出されたのだが、各種技術面での問題の消化に手間取り、細かい機体設計の変更もあったため、量産は1946年に入るまで本格的には始まらなかった。
また量産の遅れは、連合軍が戦術爆撃中心ながらドイツ本土にまで爆撃を行うようになって、爆撃と疎開で生産現場が混乱した事も影響していた。
さらにパイロットの訓練自体も、連合軍がドイツ本土に迫り本土上空でも安全な空が減ったため、訓練に事欠くことが多くなって未熟なまま出撃せざるを得ない場合が増え、せっかくの高性能を活かせないまま落とされる例が後を絶たなかった。
本土上空の制空権喪失に伴う訓練の減少は、ジェット機だけでなくレシプロ機を含めた全てに言えることで、1945年初夏以後のドイツは急速に空での威力を低下させていった。
特に1946年に入ってからは、連合軍が容易く制空権を奪えるようになった事に極めて強く影響していた。
単に物量の差だけではなく、ソフトウェアの面での劣悪な状態がドイツ空軍をじり貧に追い込んでいったのだ。
そうした中での希望の星だったジェット機も、様々な劣悪な環境と連合軍が対抗手段(=兵器)を用意していたため、ヒトラー総統やゲーリング国家元帥らが期待したほど、戦争を逆転させるような活躍は出来なかった。
それでも熟練パイロットを多く含んだ幾つかの精鋭航空隊(ガーランド将軍の部隊など)は、連合軍に局所的ではあっても優勢な戦いを演じ、ドイツ空軍の勇名を後世にまで伝えた。
パイロットの腕が互角ならばジェット機同士の戦いで優位に戦うことが多く、爆撃機の迎撃では連合軍が色を失うような大損害を与えたこともあった。
このため登場が半年、できれば1年早ければ戦争の様相が大きく変わったと言われることも多い。
また逆に、ドイツの新兵器を恐れたため、連合軍が物量に任せたなりふり構わない進撃を行ったと言われることもある。