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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
112/140

フェイズ76「WW2(70)ノルウェー侵攻準備」-2

 作戦名は「デタッチメント」。

 以下が作戦参加の地上部隊部隊になる。

 

 ・「デタッチメント」第一波上陸部隊:


 ・アメリカ海兵隊第2遠征軍(軍団)(ホランド・スミス中将)

 第2海兵師団、第4海兵師団、第5海兵師団

 日本海軍陸戦隊第一軍(太田実中将)

 本部直轄:海軍第一空挺団、他

 第1特別陸戦旅団、第4特別陸戦旅団

 第2特別陸戦旅団、第5特別陸戦旅団

 ・英海軍コマンド旅団

 ・アメリカ陸軍第24師団


 旅団は2〜3個で師団級戦力になるので6個師団規模の上陸になり、上陸する総兵士数は13万名ほどになる。

 

 地上部隊はベルゲン、トロンヘイムに主力が上陸し、オンダルスネス、ナムソス、そしてナルヴィクに中規模の部隊が上陸する。

 また、ベルゲン、トロンヘイムからそれぞれオスロに至る内陸部に、空挺部隊が降下予定だった。

 空挺部隊が少し少なかったが、英本土北部からノルウェーは少し遠くグライダーを使う事は危険と判断されたため、次の大作戦を考えると逆に1個旅団分を運んで補給を行うのがやっとだった。

 日本海軍は、急いで旧式化していた「深山」重爆撃機を簡易改装して、空挺降下作戦に使える輸送機として20機以上を用意したほどだった。

 

 また4月のノルウェーはまだ春になっていると言えず、各所に雪が残っているため、冬季装備の他、雪道を素早く進むための準備も行われた。

 特に用意されたのがスキー装備で、アメリカ軍はアラスカ出身者を臨時に編入し、日本海軍は満州軍から教官を呼んで北の出身者を中心にしてアメリカの北部で訓練を行った。

 またアメリカ陸軍の第24師団は、44年6月にアイスランドに上陸してそのまま駐留していた部隊で、約2年ぶりに前線に出る出番が回ってきた形だった。

 そして上陸作戦の経験も豊富で、ハワイで編成された部隊ながら寒い場所に駐留を続けていたため、この作戦にはうってつけの部隊と考えられていた。

 スキーの訓練も十分に積んでいた。

 

 上陸作戦の総指揮は米海軍のターナー大将、海兵隊のホランド・スミス中将だが、広く分散した上陸作戦になるため3箇所で別個に指揮官が立てられていた。

 日本海軍陸戦隊も、部隊の主導権をある程度握るために太田実提督が予定より早く中将に昇進して、大規模作戦用な司令部も用意した上で指揮に当たることになっていた。

 各旅団指揮官も、柴崎恵次少将、安田義達少将など歴戦の優秀な指揮官がこぞって参加していた。

 

 空軍部隊の方は、英本土に進出していた日本海軍航空隊、第十一航空艦隊のうち第21、第22の2個航空戦隊が支援する予定だった。

 そして支援の中核となるのが、再び北の海に戻ってきた連合軍の大艦隊だった。

 

 1945年6月の決戦の傷も癒え、さらに今まで地中海方面にいた艦隊も合流し、加えて新造艦艇も迎え入れたので、戦力は究極的といえるまでに拡大していた。

 ただし次の大作戦の準備もあるし、そのために動かせない艦隊もあるため、ノルウェー作戦に参加するのはその中でも反復攻撃がしやすい部隊が選ばれていた。

 また、海兵隊、海軍陸戦隊専属の揚陸艦艇と護衛艦艇の一部は、次の大作戦への参加を既に断念しての作戦参加だった。

 

 日米の高速空母機動部隊の数は、あわせて11群に再編されていた。

 アメリカ7群、日本4群だ。

 これをアメリカは第28任務部隊、第48任務部隊に分け、日本も2群ずつ第一機動艦隊、第三機動艦隊に再編成していた。

 4つ目の機動群と第三機動艦隊の司令官として、角田覚治中将が前線指揮に復帰した。

 

 高速空母数は総数で53隻。

 さらに、合流し再編成されたイギリス海軍の空母機動部隊も、今後の各艦隊間の連携を円滑にするために側面支援に当たる予定だった。

 

 艦隊の大型艦は空母ばかりで、高速戦艦は次の作戦に備えて高速戦艦部隊を編成したままだった。

 これだけ空母がいても護衛の戦艦は《金剛型》の4隻だけで、上陸作戦を支援する艦砲射撃部隊も重巡洋艦までだった。

 それだけ航空機に期待がもたれているのだが、そう思わせるだけの陣容になっていた。

 


 アメリカ海軍の新造空母は、《ノース・アトランティック級》大型空母の3〜6番艦の《ジャマイカ》《オリスカニー》《ヴァリー・フォージ》《アンティータム》の4隻だった。

 去年の5月からほぼ3ヶ月に1隻就役した基準排水量4万5000トンの大型装甲空母だった。

 他は、昨年のノースアイルランド上陸作戦に参加した空母ばかりだった。

 上部構造物が全て丸焼けになるほど大損害を受けた空母が、ほとんど新造といえるほどの大規模修理を行って復帰したのは流石としか言えないが、アメリカ海軍にしては目新しさに欠けていた。

 しかし搭載する機体は、さらに大きく進化していた。

 

 量産と航空隊の更新状況のため数が少なかったが、この作戦に2種類の新型機が投入された。

 「マクドネル FH ファントム」ジェット戦闘機と「ダグラス A1-H スカイレイダー」攻撃機だ。

 

 しかし「FH ファントム」は、もともとが試作要素の強い機体で、しかもこの時もジェット機を実戦配備した上での空母と艦隊での運用実験が目的と言われ、実際24機しか配備されていなかった。

 機体の性能自体も今ひとつで、戦闘機の主力はあくまで「F8F ベアキャット」だった。

 しかし、キレイにまとまり過ぎていた「F8F 」は戦闘爆撃機としては今一つのため、「F4U コルセア」が戦闘爆撃機として活躍しており、この時にはエンジンを強化した改良型が一部空母に搭載されていた。

 

 「ダグラス A1-H スカイレイダー」の方は、多少急ぎ足ながらも満を持しての登場と言われることが多い。

 

 開発者のエド・ハイネマンは、愛知飛行機が送り出した「流星」に衝撃を受けて、本機の開発に没頭したと言われる。

 というのも、流星とほぼ同時期にハイネマンらが開発していた「BTD デストロイヤー」が、性能面で流星に敗北していたからだ。

 流星は、攻撃機として優秀なだけでなく、場合によっては戦闘機としての任務にまで対応できる一種の万能機だった。

 

 「A1-H スカイレイダー」の特徴は枚挙にいとまない。

 まさに傑作、名機と呼ぶべきで、レシプロ攻撃機としては最高峰にして究極的存在とすら言われる事もある。

 従来の攻撃機よりも小さく、パワフルで、単座で、しかも破格の搭載量を誇る汎用攻撃機が本機の特徴と言えば特徴となる。

 しかも革新的といえる性能ながら、運用効率や整備性も大きく向上しているなど、兵器としての完成度も非常に高かった。

 あまりの完成度の高さに愛知飛行機の開発陣も賞賛を惜しまず、エド・ハイネマンに師事したと言われる。

 そのせいか、流星も単座化、兵装の全機外装備化など行った「流星改」が後に製作されている。

 


 日本海軍も、アメリカ同様に4隻の大型空母を前線に送り届ける事に成功していた。

 うち二隻は《改大鳳型》で《雲龍型》と言われることの多い空母の3番艦、4番艦の《剣龍》《仁龍》の2隻になる。

 そして後の2隻が拡大《大鳳型》空母の《黒龍》《白龍》だった。

 

 拡大《大鳳型》空母は、第二次世界大戦のタイトルホルダーを持つ大型空母になる。

 基準排水量4万6500トン、全長298メートルの巨体を有し、日本海軍で初めてジェット機運用能力を付与されていた。

 それだけでなく、幾つかの新機軸を採用していた。

 新機軸装備は建造と平行して行われ、模型を使った実験を何度も実施した上で艤装された。

 新機軸の見た目での最大の特徴は、艦の左側の飛行甲板の張り出しが大きく、斜めに着艦用の塗装ラインが施されている事だ。

 今日では「斜め甲板」や「張り出し甲板」よりも「アングルド・デッキ」として知られ、空母の一般的な装備となっているが、これを最初に行ったのが日本海軍の《黒龍》と《白龍》だった。

 

 もともと日本海軍の装甲空母は、右側の艦橋と煙突との釣り合いをとるため、飛行甲板の左側が広く取られている。

 しかも艦橋やマストに装備する電子装備が大きく、高い位置に設置されるとさらに飛行甲板は左に張り出していった。

 さらに《天城》以後の空母は、艦の左側にサイドエレベーターを備える事で、左側の張り出しが大きくなった。

 

 そこに自由英連邦、救国フランスの人々からの技術情報、アメリカとの技術交換で大量の技術が入り込んできた。

 一般的には、ここで自由イギリスの技術情報があったと言われるが、しかしその中に今日のアングルド・デッキの情報は無かった。

 フランスに概念があり、実は《ジョッフル級》空母の設計段階で検討されたが、これはあくまで大型クレーン設置のための緊急措置であり、実際は採用されなかった。

 

 日本での採用は、小型軽空母の有効活用の一環としての技術研究の過程で偶然見つかったとか、空母《鳳祥》の改装を巡る会議の中で出た発想だとか、とあるパイロットの「迷」着艦に着想を得たとか、名物人だった小園大佐のアイデアだと言われる事もある。

 しかし、いかにも日本的と言うべきか、発案者の名はついに見つけることはできない。

 事実として、日本海軍独自の着艦方法と組み合わせた斜め着陸の方法として1944年中頃に考案された。

 

 《鳳祥》を使った技術試験も、さらに改装するには旧式で小型過ぎるため、従来の後半に斜めの線を引いた実験しか行っていない。

 試験の多くは、地上の飛行甲板を模した滑走路で行われている。

 

 と言っても、今日目にするのと比べると迫力に欠けている。

 ラインの傾きも5度と少なく、飛行甲板の出っ張りも極端ではない。

 しかし、設置してみると有効性は明らかだった。

 着艦時の危険性の低下、飛行甲板上の駐機空間の確保、発艦、着艦の同時進行可能な能力など、空母としての能力を格段に向上させる効果を生む事が分かった。

 パイロットが斜めに着艦できるのかという問題も、日本とアメリカ双方の長所を既に備えていた着艦システムともマッチし、実際してみると特に問題も発生しなかった。

 むしろ、着艦時のパイロットの心理的圧迫が減り、着艦が失敗しても再加速してやり直せるなど、効果の方が大きかった。

 効果が高く、しかも欠点がなく、それでいて設置が比較的容易という良いことずくめだった。

 あえて欠点を挙げれば、本来なら最も必要とされる小型空母に設置しても、艦の規模の問題から効果が限定されることになるだろう。

 

 なお、《黒龍》と《白龍》も当初計画では4万2000トンで計画されたのが、様々な装備の追加と共にアングルド・デッキを採用したことで排水量が10%以上も増加している。

 (※戦後の近代改装で、さらに大きく増加している。)

 ちなみに、1隻当たりの大型化と予算拡大など様々な要因から建造が中止された3番艦の名は《赤龍》を予定していたと言われる。

 これで古い伝説で四方に位置する龍の色が空母の名で揃うからだ。

 そしてもう1つ龍である《蒼龍》は、アメリカ東部での大規模修理のついでに若干の改装を施し、斜めにラインと着艦装置を引き直して、《黒龍》と《白龍》がやって来るまでパイロット達の訓練場となり、さらには実戦にもそのまま投入された。

 


 また日本海軍でも、この戦闘までにジェット艦載機を前線に送り込んでいた。

 

 日本軍でのジェット機開発は、早くは1941年頃に本格化したと言われている。

 技術先進国ドイツと戦う以上、必ず必要になると考えられたからだ。

 だが、早急に必要というわけでもないので、機体開発は各メーカーに任せて行われた。

 ただしエンジン開発を行える企業となると限られているし、全く新しい技術のため石川島での統括した開発が行われた。

 それでも短期間での開発は難しいため、アメリカ企業(GE社)の協力を仰いだり、有償技術供与を受けたりした。

 ただし陸軍、海軍ではなく軍需省が統括したため、今までのレシプロエンジン開発より混乱や無駄は少なかった。

 このため石川島のジェットエンジンは、当時の日本軍機全てに供給されている。

 戦後にアリソン社から有償技術供与を受けた川崎が開発するまで、完全に一本化されていた。

 

 そして無駄になりかねないながらも、複数種類の機体がほぼ同時に開発された。

 それは失敗した場合の保険という意味合いが強かったのだが、結果として3機種全てが一応は開発成功している。

 これはひとえに、ジェットエンジンが取りあえず使い物になる性能だったからだとも言えるだろう。

 

 開発は海軍空技廠、日本陸軍航空本部がそれぞれ中核となり、設計陣に余裕のある会社、名乗りを上げた会社を選定した上で決められた。

 また決定に際しては、開発期間短縮のため既存の機体からの改良が可能かも審査された。

 

 その結果、三菱、中島、そして九州飛行機が選ばれた。

 


 三菱、中島が共にアメリカと同様のレイアウト、従来の航空機の基本レイアウトに、胴体のほぼ真ん中下部に2基のジェットエンジンを据えたデザインだった。

 これに対して九州飛行機は、非常に斬新な、ある意味日本らしくない奇抜なデザインを有していた。

 前翼機やエンテ型と呼ばれる、主翼の前方に前翼を有していたのだ。

 しかも主翼は先端にいくほど細くなり、僅かだが後方に後退する先進的な形状をしていた。

 前翼型の形状はともかく、主翼自体の形状はその後の日本での航空機開発に非常に大きな影響を与えたほどだった。

 

 そして「震電」と名称までもらった九州飛行機の機体は、レシプロ機なのにエンジンと主翼が一番後ろにあり、推力も推進式で、主翼も真っ直ぐではなく少しだけ後ろに傾いていた。

 さらに垂直尾翼も主翼の中程にそれぞれ付いているなど、非常に奇抜なデザインを有していた。

 

 もともとは試作機というより実験機で、開発と試作が命じられたのは大戦初期に日本本土が空襲を受けた頃だった。

 開発も海軍空技廠が実験を行ったのが始まりだった。

 そして各メーカーがこぞって迎撃機を開発するも、日本本土空爆の危険性はすぐにも遠ざかったため、多くのメーカーの迎撃戦闘機の開発は立ち消えとなった。

 その中で、突発事態に備えるためという名目で開発が続けられた。

 そして丁度仕事の少なかった九州飛行機に試作が命じられ、九州飛行機は自らを売り込む格好の機会と捉えて、全社を挙げて開発に勤しんだ。

 そうして短期間で試作機が開発され、1943年秋には早くも試験が開始されるも、実験結果はあまり芳しくなかった。

 そこにジェットエンジン搭載の話が舞い込んでくる。

 

 ジェットエンジン搭載は空技廠が持ち込んだもので、自分たちが開発に携わった機体を成功させることで、今後のジェット機開発にも発言権を得ようとしての行動だった。

 

 そしてジェットエンジン搭載に合わせたエアインテークの大型化などの改変が行われ、1944年春には試作機が完成。

 さっそく試験が開始される。

 「震電(11型)」とジェットエンジンの相性は良く、レシプロ機で起きた問題もほぼ解消された。

 しかも試作機の試験段階で、最高時速も900km/時以上をマークし、当時の日本最速を記録した。

 これで気を良くした海軍は、局地戦闘機「震電改(22型)」の正式名称を与え、増加試作とさらなる試験、そして量産化のゴーサインを出す。

 三菱、中島よりも早い実用化だった。

 

 しかし「震電改」には欠点があった。

 まず、海軍の機体だが、現状のままでの艦載機化は無理だった。

 レシプロ時代に問題とされた着陸脚の長さの問題はジェットエンジン搭載に伴う改良と変更で解消されたが、空母艦載機としては翼面荷重が大きく着陸速度が速すぎたからだ。

 また艦載機としては航続距離も短く、単発エンジンなので洋上で故障した場合の危険性も高かった。

 このため局地戦闘機としての運用が決まり、そして配備が進められた。

 

 最初の航空隊は1944年10月、四国の松山に開設された。

 その後1945年3月にはアレキサンドリアに移動して、日本初のジェット戦闘機部隊として実戦配備される。

 しかし既に欧州枢軸軍が敵後方の拠点を爆撃する余力は無くしていたので、出番はごくたまに飛んでくる偵察機の邀撃ぐらいしかなかった。

 それに日本軍というより連合軍が欲しかったのは、迎撃用の防空戦闘機ではなく制空権を得るための戦闘機だった。

 このため三菱、中島のジェット機の開発も継続して進められ、半年ほど遅れて配備が進む事になる。

 

 だが空技廠は、「震電改」の艦載化もしくは汎用戦闘機化を諦めていなかった。

 

 当時「震電改」は、技術先進国ドイツですらほとんど実用化していない、エンジンを1基搭載しただけの単発ジェット戦闘機だった。

 そして局地戦闘機ながら、かなり優秀な格闘戦性能を有していた。

 これは当時の他のジェット機にはない優れた特徴であり、従来のレシプロ機を圧倒するには必要な要素でもあった。

 そこで空技廠は、エンジン開発の石川島にエンジンの単なる性能向上よりも、耐久性の向上、故障率の低下を優先するように命令する。

 

 機体に対してもさらなる改良を加え、機体に適合した自動空戦フラップを開発して搭載し、翼面荷重の低下を図る改良を施す。

 航続距離に関しては、直接的に大型増槽ドロップタンクで対応した。

 空母に着艦できるフックも、機体構造の特殊さにもめげずに設置された。

 

 しかしこの開発は流石に失敗と言われることが多く、生産数自体が少ないうえに戦後も母艦搭載はほとんど行われなかった。

 しかし艦上戦闘機「震風」として、日本海軍艦載機の末席を占めることになる。

 

 さらに空母の方では、ジェット機に必要な初期加速を得られる高性能のカタパルトが開発され、新造の大型空母に装備された。

 

 なお、三菱が海軍向けに開発した機体は、艦載機として無理に開発した事がたたって、速度性能は高かったが運動性が低いため、当面は偵察機兼爆撃機として採用され艦上爆撃機「景雲」とされた。

 ただし46年春の時点での艦載は、最新鋭で大型の《黒龍》と《白龍》にしか無理だった。

 

 陸軍向けに中島が開発したのは、五式噴進戦闘機「火龍」と命名された。

 この機体は、当時の各国が開発したジェット戦闘機とほぼ同じような外見を有しており、性能も似たようなところが多かった。

 失敗を避けるため無難に開発したのだと言われることも多いが、当時の技術と知識では当然の行き着く先という形とも言えるだろう。

 戦闘機を開発するつもりが爆撃機になった「景雲」や、レシプロ機から一気に当時最高クラスのジェット機へと昇華した「震電改」、「震風」の方が変わり種と言うべきだろう。

 

 そして1946年春の日本海軍空母機動部隊は、《黒龍》と《白龍》に「震風」戦闘機を各16機、「景雲」偵察機を各12機搭載して戦場に臨んでいた。

 しかし、使う側も使い勝手が分からないところも多いため、「震風」は艦隊防空用の迎撃機、「景雲」は高速偵察機として運用されている。

 

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― 新着の感想 ―
[気になる点] >陸軍向けに中島が開発したのは、五式奮進戦闘機「火龍」と命名された。 某有名架空戦記では日本製ジェット戦闘機は「噴進戦闘機」となっていますが、どちらが正しいのでしょうか?
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