フェイズ08「WW2(2)英国分裂」-2
その後、戦闘なきまま戦火は拡大を続けた。
アメリカ本国では、「オーガスタを忘れるな」がスローガンとなった。
しかし一方では戦争に否定的意見も強く、戦争を拡大した政府を非難する動きもかなり見られた。
しかし政府が決断して宣戦布告した以上、アメリカという巨大な国家は戦争に向けて本格的に動きだすことになる。
議会は、戦時財政の立案に動き、巨大な軍備建設計画の策定が始まり、アメリカの青年達を兵営へと追いやる徴兵制に向けての法整備も始まった。
またアメリカ各地の募兵事務所は、当面の兵士に困らないぐらいの志願者が殺到しており、一つの方向に動き始めたアメリカという国家を象徴していた。
だが、当面アメリカが力を注いだのは外交だった。
特に戦争状態を維持している日本との調整を急ぎ、緊急会議が何度も開かれ、日本からも外相が空路でアメリカへと至って、主にサンフランシスコで日米の様々な会議が行われた。
そして9月2日には、アメリカ史上初となる軍事同盟の「日米軍事同盟」が締結される。
しかし、それ以上の衝撃が世界を襲った。
1940年9月15日、カナダのオタワにて「英連邦自由政府(=英自由政府)」が成立したのだ。
英自由政府の国家元首には王位を退いたばかりのジョージ六世が復位の形で即位。
首相には、戦争初期に負傷したウィンストン・チャーチルが就任した。
政府成立の発表では、ジョージ六世が高らかに成立を宣言したあと、チャーチル首相の言葉が有名となった。
「今の英国は少し前の私と同じように病んでいる。
しかし諦めさえしなければ、私のように病はいつか完治する事が出来る。
そして我々は決して諦めることはない」
最も有名な一説がこの言葉で、以後英本国を逃れた人々を中心にして、イギリスは「祖国奪回」を旗印に戦う事になる。
なお、初期の英自由政府にはカナダなど南北アメリカの英領土が参加したに止まっていった。
オーストラリア、ニュージーランドは態度を決めかねており、全てに対する中立を宣言したまま動かなかった。
インドをはじめアジア各地、アフリカ各地は、経済、軍事の影響もあって英本国に従っていた。
しかし日本とアメリカなど主に南北アメリカの国々が、英自由政府を承認した。
アメリカと会議をしている筈の日本の外相も、オタワに滞在して歴史的な写真に収まっている。
そしてこの段階で、アメリカは英自由政府と共に英本国政府に対して宣戦布告を実施。
英自由政府が英本国政府を認めたのは、正当性の問題ではなく戦争規定に則ったもので、ドイツ宣伝省が喧伝したように最初から敗北を認めたわけではなかった。
なお、英自由政府の成立宣言により、それまでイギリス連邦各地にいた軍隊の多くも自らの去就を決めた。
そしてカナダ軍を中心として英連邦自由軍も成立した。
当面は陸での戦い、空での戦いは遠いので、この時点では英本土へ進むことの出来る海軍が重要だった。
英自由海軍の主要艦艇となったのは、「たまたま」カナダなどにいた、巡洋戦艦 《レパルス》、空母 《フェーリアス》、重巡洋艦2隻など十数隻の艦艇だった。
また英連邦各地にいた艦艇のうち、数は限られていたが何隻かがアメリカや日本を頼りつつ合流している。
そうした合流の中での一大事件は、ナチスに組みすることを拒んで英本国を脱出した艦隊だった。
英自由政府成立後、英本国政府は海軍の出動に対して非常にナーバスになって、出動禁止どころか一時的な活動停止すら命令していた。
だが反骨心の強い人々を止めることは出来ず、戦艦 《ウォースパイト》《クィーン・エリザベス》などが隙を見てスカパ・フローなどから脱出を図った。
洒落っけのきいた艦の中には、自らの乗艦を最初の「獲物」として海賊旗を掲げたりもした。
実にイギリス人らしいと言うべきだろう。
そしてこれに呼応して、北米のニューファンドランド島にいた英自由海軍も最初の出動を実施。
さらにアメリカ大西洋艦隊の任務部隊も出動し、「友軍救出」作戦が実施された。
この時北大西洋上で発生した海上戦闘こそが、戦争再開を告げる号砲となった。
「北大西洋海戦」は非常に複雑な海戦だった。
参加した艦隊だけで、脱出した艦隊、追撃する英本国艦隊以外に、英自由艦隊、アメリカ大西洋艦隊、ドイツ艦隊と5つの艦隊がほとんど独自に動いていたからだ。
だが全ての艦隊が戦艦を含み、空母も属する艦隊もあるため、最大規模の戦闘ともなった。
最初に「敵」を見付けたのは、空母 《イーグル》を有する英本国艦隊だった。
彼らが見付けたのは「裏切り者」の艦隊だったが、ここで躊躇が見られた。
「友軍」となるドイツ艦隊に報告せず、自らは距離を詰めるだけで航空機の攻撃隊を放つ事もなかった。
しかも追加でソード・フィッシュ雷撃機を出すも、それは追跡用であると同時に発光信号で降伏を促す為の機体だった。
この時英本国の追撃艦隊は巡洋戦艦 《フッド》、《レナウン》を中心とした高速艦隊で、追撃速度をあげるためにあまり速度が出ない《イーグル》は護衛をつけて後方において追撃した。
本国艦隊としては、可能な限り戦闘をせずに翻意させたかったのだった。
そして次に「敵」を発見したのは、ドイツ艦隊だった。
ドイツの場合は潜水艦による発見で、見付けたのはアメリカ大西洋艦隊の任務群だった。
こちらは圧縮通信のやり取りのため、ドイツ艦隊以外は情報を知らなかった。
ドイツ艦隊は、ノルウェーの戦いでの傷を急ぎ修理した巡洋戦艦 《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》、重巡洋艦 《ヒッパー》の大型高速艦のみの編成だった(ただし修理は完全ではなかった。)。
アメリカ艦隊は、無線封鎖をしている英脱出艦隊から事前に受けた航路を目指していた。
また自由艦隊からの情報も得ていたが、敵の動きは把握していなかった。
同艦隊は戦艦 《アリゾナ》《ネヴァダ》を中心にしており、重巡洋艦から偵察機を放ちつつ敵との戦闘よりも脱出艦隊の保護と護衛を最優先としていた。
そしてその日の戦場となった場所は、やや高緯度に位置していたためか靄がかかって視界が悪かった。
北大西洋ではありがちな天気なのだが、まだレーダーをどの陣営も搭載していないため、誰もが目視が頼りという状態だった。
そして多数の艦隊が入り乱れて行動しているので、不意の遭遇戦が発生した。
最初に火蓋を切ったのは、相手が脱出艦隊だと思いこんでいたドイツ艦隊だったが、砲撃を受けたのは護衛を兼ねて脱出艦隊の東側に回り込みつつあったアメリカ大西洋艦隊だった。
アメリカ戦艦は既に特徴的な篭マストから三脚楼に改装していた為、《クィーン・エリザベス級》戦艦と誤認しての戦闘開始だった。
先制攻撃を受けたアメリカ艦隊だったが、噴き上がる水柱と少し後で捉えた艦影から相手がドイツ艦隊だと認識。
ただちに戦闘態勢に移行した。
この時慌てることはなかったが、相手の主砲が自分たちの戦艦の重装甲を貫くことはないと考えていたからだ。
さらにアメリカ艦隊は、脱出艦隊とは違う方向に進路を取りつつ、急速に距離を詰めてくるドイツ艦隊に反撃を開始する。
ただし高速と視界の悪さから、アメリカの砲撃はドイツ艦にほとんど命中しなかった。
一方のドイツ艦隊は、先制した事と手数の多さから命中弾を出すも、戦艦相手には55口径とはいえ11インチ砲では威力が不足していた。
有効打を与えるにはさらに接近するしかないが、それは危険だった。
また距離1万5000メートルを割った時点で、ようやくドイツ側は相手が脱出艦隊ではなくエスコートに出撃してきたアメリカ艦隊だと気付く。
思いこみが判断を狂わせていたのだ。
しかもたった1発の砲弾を受けた《シャルンホルスト》が、2番砲塔に直撃を受ける。
誘爆はなかったが戦闘力は大きく殺がれ、《シャルンホルスト》に座乗していた艦隊司令のクメッツ少将は後退を命じた。
かすり傷程度のアメリカ艦隊も、戦闘よりも護衛を優先して進路を西に向けた。
だがドイツ艦隊への追撃は続き、英自由艦隊の空母 《フェーリアス》から出撃した雷撃隊が砲撃戦終了の約2時間後に攻撃を実施し、《グナイゼナウ》と《ヒッパー》にそれぞれ魚雷1発を命中させ、これで出撃したドイツ艦隊は全ての艦が傷つけられた。
そして帰投後、何の戦果も挙げずに損害だけ受けたことをヒトラー総統から激怒される事になる。
またかなりの期間、出撃することも出来なくなった。
戦闘はまだ終わりではなかった。
今度は、英本国艦隊がアメリカ艦隊が護衛に入るより早く脱出艦隊に急接近したからだ。
英本国艦隊は、先行した駆逐艦が発光信号を出して、後方の戦艦も無線封鎖を解除して、脱出艦隊に降伏と本国への帰投を促した。
だが脱出艦隊は、「ナチスの蛆野郎へ、我らの君主はジョージ六世なり」と返答しただけで砲塔を「敵」へ向けた。
この時点で発砲は無かったが、本国艦隊も本格的に戦闘態勢へと移行した。
そしてそこに、周囲を警戒していた偵察機からの報告を受ける。
戦艦2隻を中心とするアメリカ艦隊が、急速に接近中というものだった。
しかも報告があって10分もしないうちに、距離を詰めてきたアメリカ艦隊は距離3万ヤードを切ると砲撃を開始する。
砲撃を受けたのは脱出艦隊に近づいていた本国艦隊の駆逐艦だったが、この砲撃で本国艦隊はアメリカ艦隊との戦闘を決意。
進路を変えて、アメリカ艦隊への突撃を開始する。
この戦いは両者正面からの対決となり、反航しつつ急速に距離を詰めた。
互いの戦力は、アメリカ側が45口径14インチ砲22門、イギリス側が42口径15インチ砲14門。
装甲でも火力でもアメリカ側が優位だった。
イギリスの巡洋戦艦は15インチ砲を搭載していたが、42口径と砲身の短い砲で砲弾も比較的軽い為、アメリカの45口径14インチ砲と同程度の威力しかなかった。
だがイギリス側の巡洋戦艦の1隻は、「世界で最も強く、世界で最も美しい」とイギリス海軍が自画自賛した基準排水量4万トンを越える巨大巡洋戦艦「マイティ・フッド」だった。
それを知っていたアメリカ側も積極的に戦闘に及び、イギリス艦隊は思わぬ苦境に追いやられた。
しかし《フッド》が放った5度目の斉射弾のうち1発が、《アリゾナ》の三番砲塔脇を貫き弾薬庫で炸裂した。
《アリゾナ》爆沈。
船体は後部で二つに折れ、乗組員全てを飲み込む渦巻きの中で船体を前後に屹立させつつ、《アリゾナ》は艦隊司令部を道連れにしてその場で沈んでいった。
これで大混乱に陥ったアメリカ艦隊だが、それでも牽制雷撃と煙幕展開を実施して後退しようとした。
脱出艦隊の援護ならもう充分の筈でもあったので、この選択は間違っていなかった。
だが追撃しなければならない英本国艦隊は、敵戦艦轟沈の戦果で士気が大きく昂揚している事もあり、持ち前の高速を全開にして追撃戦を続行した。
この中で《ネヴァダ》は2隻の巡洋戦艦の猛烈な射撃を浴びて、辛うじて生還するも主砲弾20発以上を受けて大破する。
だが牽制攻撃と献身的な戦闘が功を奏して、脱出艦隊の離脱を十分に助けると共に、英本国艦隊にも追撃を断念させるだけの損害を与え任務を全うした。
一連の戦闘の最後は、英自由艦隊の空母 《フェーリアス》と英本国艦隊の空母 《イーグル》のソードフィッシュ雷撃機による、双方の艦隊に対する攻撃だったが、特に大きな戦果を挙げることもなかったので、戦艦同士の砲撃戦が実質的な終幕となった。
「北大西洋沖海戦」の結果、アメリカとイギリス、ドイツは互いを敵と認識せざるをえない状態になった。
特にアメリカは、世界一有名な戦闘艦に自国の戦艦を沈められた事で、かえって戦意を昂揚させた。
一方のイギリス本国は、脱出艦隊の亡命は阻止できなかったが、「植民地人」の戦艦を「マイティ・フッド」が見事に仕留めた事で、こちらも戦意を昂揚させた。
どちらかと言えば蚊帳の外だったのが、良いところの無かったドイツだが、ドイツはドイツで文字通り水面下でアメリカ攻撃の準備を進めた。
アメリカが海上戦闘で敗北したことで、ヒトラーなどナチス中枢の多くの者は、いっそうアメリカを侮るようになっていた。
そして英本国からの亡命騒ぎがこれで一旦収拾したが、ヨーロッパ世界が失ったものは意外という以上に大きかった。
戦闘艦の離脱はむしろ取るに足らない傷であり、英本国政府の降伏から約二ヶ月の間に、主に英本土とポルトガルなどの中立国からヨーロッパを脱出した人々と彼らが持つ知識や技術の方が、大きすぎる損失だった。
特にナチス・ドイツが民族差別を進めていたことが、イギリスに逃れていたユダヤ系の大量脱出を引き起こしていた。
この脱出した中には、著名な科学者や学者も多数含まれていたからだ。
また英本国の心ある人々、ナチスを憎み嫌う人々による手助けで新大陸へと移った英本国の技術、会社、そして人材は、その後戦争に大きく影響するほどだった。
しかしこの当時、事の重大さを実感する人々はごく僅かで、多くの人は英本国から「厄介払い」が出来たと思っていたほどだった。
なおアメリカでは、1940年11月に大統領選挙が行われたが、海戦での敗北はむしろ政権政党の共和党にとって追い風となった。
新たに大統領となったのも、二期目となるアルフレッド・ランドンだった。
彼は一期目の大統領に選ばれる以前からナチスに批判的だったし、社会主義的な政策を認めていたように大きな統制を必要とする戦時の大統領としては向いていた。
一期目の指導力はそれほど高く評価されていないが、4年間を無難に乗り切りアメリカを参戦へと導いた事で指導力も認められるようになっていた。
また戦争が始まったばかりで大統領を新しくすることをアメリカ市民が嫌った点も、彼の勝利に大きく貢献したと。
そして二期目に入ったランドン政権は、翌年2月に大規模な軍拡政策(両洋艦隊法案=スターク案の大規模拡大法案)を議会で可決させ、さらに翌月には「レンド・リース法(武器貸与法)」も可決した。
日本や自由英連邦とも頻繁に接触を持ち、いっそう太いパイプを作った。
しかし世界中を舞台にした戦争が本格化するのは、まだもう少し先だった。
なぜなら、誰もが「容赦のない戦争」への準備に追われていたからだ。





