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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
109/140

フェイズ74「WW2(68)欧州の連合軍」-2

 そして緩やかとはいえ山岳部突破を目指す現地連合軍だが、攻め込む地域に比べて部隊規模が大きすぎた。

 


・日本南欧方面軍(第8方面軍):山下大将

 ・直轄:第二空挺団、第二重砲兵旅団、他

 ・日本第7軍(軍団):第2機甲師団、第5師団、第18師団

 ・日本第32軍(軍団):第1師団、第9師団、第24師団

 ・日本第5軍(軍団):第2師団、第6師団、第20師団

 ・日本第33軍(軍団):第29師団、109師団 (後方警備)


・アメリカ第3軍:パットン大将

 ・直轄:第11空挺師団、他

 ・米第2軍団 :第7師団、第25師団、第45師団

 ・米第3軍団 :第1機甲師団、第2師団、米第32師団

 ・米第7軍団 :第2機甲師団、第4師団、第34師団

 ・米第15軍団 :第5師団、第44師団、第86師団


 以上が、1945年10月頃の日本第8方面軍とアメリカ第3軍の編成になる。

 合計24個師団、前線配備の兵士だけで70万人を数える大部隊だった。

 これに対して現地ドイツ軍は、当初は6個師団8万ほど、後に3個師団増えて11万になるが、その差は圧倒的だった。

 

 しかも、アメリカ陸軍航空隊の第5航空軍と日本陸軍第三航空群軍の、合わせて約2500機の作戦機が全面支援する予定だった。

 ドイツ側の航空機は、出せても300機に満たなかった。

 

 連合軍の心配事は、激しく動き回るであろうパットン将軍への補給だが、攻勢発起点は兵站港のトリエステ(+ヴェネツィア)に近く、北イタリアの他の軍が停滞気味なので、その分の補給車両を根こそぎ同方面に集中して対応する事になっていた。

 

 連合軍の攻勢は、内陸部のゴリツィア方面から日本第8方面軍が、沿岸部のトリエステ方面からはアメリカ第3軍が押し出す。

 途中で街道が合流するが、主力はそのまま数に任せて押し通る予定だった。

 また、敵戦力を分散するためとトリエステ全土解放の為に、アメリカ1個軍団がイストラ半島東部からアドリア海沿岸部を進み、状況が許せばクロアチア内陸部を目指す予定だった。

 攻勢にはそれぞれ2個軍団が進み、1個軍団は予備とされていた。

 このためクロアチア方面への増援も考えられていた。

 

 なお、日米の歩兵師団は少なくとも前線配備されている師団は、全て自動車化されていた。

 加えて戦車連隊(又は大隊)、軽機械化捜索(偵察)連隊を有する。

 そしてさらに、日本陸軍では近衛と第1〜第12師団までは歩兵連隊の移動がハーフトラック(米製M3系中心)になるなど、機械化師団化されている。

 他の装備も非常に重装備となっていた。

 その師団を、第8方面軍は5個師団も抱えていた。

 部隊内に機甲師団が1個なのを弱点とする研究者もいるが、十分に機械化軍団だったと言えるだろう。

 しかも第1師団、第2師団、第5師団、第6師団、第9師団と言えば、日露戦争以来その名の知られた師団ばかりだった。

 第2機甲師団も、機甲師団の中では一番の歴戦部隊であり、重戦車部隊を編成に持つ重編成師団だった。

 他にも独立重戦車部隊など、重装備も多く有していた。

 

 アメリカ軍の場合は、戦争初期から戦っている部隊の機械化師団率が高いが、第3軍の場合は半数以上がインドから戦っている歴戦の強者揃いなので、半数以上が機械化師団化されていた。

 そしてアメリカ軍の師団といえば、日本陸軍以上に大所帯の部隊だった。

 実働の車両数で比べると、ドイツ軍だと軍団規模の車両を1個師団が有している事もあった。

 

 そしてパットン将軍以下の将兵達は精鋭揃いであり、2年以上の長い戦歴もあってアメリカ陸軍最強の軍と言われていた。

 


 イタリア北東部からの連合軍の攻勢は、ある程度兵站が整い物資が集積されるのを待って、1945年11月6日に開始された。

 目標では、本格的な冬が来るまでにハンガリーとオーストリアの平野部まで突破している予定だった。

 パットン将軍は、ブタペストでの満州軍との握手まで考えていたと言われる。

 しかも、少し前までハンガリー正面でソ連軍が攻勢をかけていたので、同方面のドイツ軍は疲れ切っており、同方面からの増援もあり得ないという絶好の機会を捉えての攻勢だった。

 

 連合軍がまず進んだ先には、先の攻勢では進出限界のため取り損ねたイストラ半島に隣接するイタリア北東部の領土があった。

 

 同地域は近代イタリア成立の前後から「未回収のイタリア」と言われて、イタリア王国建国頃にイタリアが獲得目指し、第一次世界大戦後にようやく手にした地域だった。

 しかし民族構成を見てみると、イタリア人も多いがクロアチア人、スロベニア人が住人のかなりを占めている。

 長らくイタリアの領土として歩んでいたとはいえ、イタリア語の強要などでイタリアに好意的とは言えない地域でもあった。

 

 連合軍もそれを見越しており、1944年頃から隠密に反イタリア的な民族主義グループに使節を送り込んだり、飛行機や小型潜水艦を使って武器弾薬を供与したり、さらには工作員を送り込んでパルチザンや、ゲリラ兵の育成も行った。

 住民に対しても、戦線が近づくに連れてビラの散布、工作員による宣伝工作などが行われた。

 

 そして連合軍の動きが無かったとしても、現地住民は現地のイタリア軍、ドイツ軍に対して好意的とは言えなかった。

 さらに言えば、イタリア領を抜けた先のスロベニア、クロアチアも、親ナチス政権とはいえ「外の敵」に対して徹底抗戦までは考えていなかった。

 スロベニアやクロアチアが欧州枢軸なのは、基本的には国家にすらなれない弱小勢力故であり、少し南のセルビアへの対抗心からだった。

 クロアチアでは義勇武装SSにかなりの者が志願していたが、彼らがロシア人と戦ったという記録は数えるほどしかなく、ほとんどはユーゴスラビア中部から南部で活動していた。

 43年頃からは事実上の内戦状態で、彼らにとってはセルビアこそが敵だった。

 そしてセルビアに勝つために、ナチスドイツの力が必要だった。

 

(※神の視点より:この世界では1941年春のナチスのユーゴ侵攻は行われず、政治的にバラバラにされただけです。

 チトーも無名か小物のままです。

 (※フェイズ50参照))

 だが戦局の進展で、1944年秋に連合軍がギリシアに侵攻すると、事態が大きく変化する。

 セルビアは東ヨーロッパの盾として連合軍と対峙しなくてはならなくなり、ドイツの調停もあって内乱状態も若干安定化した。

 そしてさらに1945年8月からソ連軍のルーマニア侵攻が始まると、セルビア(ユーゴスラビア)の首都であるベオグラードが呆気なく陥落して、ユーゴ南東部にソ連赤軍が溢れた。

 これは親ナチス政権を立てて事実上独立していたスロベニア、クロアチアにとっては由々しき事態だった。

 共産主義政権を立てたセルビアが、ロシア人を連れて攻めてくる可能性が極めて高くなったと考えたからだ。

 近年の戦況を見る限り、ドイツ人ももうアテには出来なかった。

 

 そして全ての問題を連合軍が解決してくれるというのなら、ドイツにこれ以上義理立てする必要性はなかった。

 しかもイタリアには、かつて領土を奪われた恨みもあった(※厳密には違うが、民族的には同義と言える。)。

 そしてここで連合軍側に立って戦えば、イタリアに奪われた国土が奪い返せるのではないかという考えに至っていた。

 

 ただし総意ではなく、一部にそうした意見や主張があるというレベルで、枢軸として戦っている以上、国家的視点から見れば連合軍は敵に違いなかった。

 


 そして連合軍の進撃が始まると、簡単に地図が塗り変わっていった。

 平地では、枢軸軍がいてもいなくても同じと言わんばかりだった。

 しかも連合軍は周到で、進撃路の予定地域に対して山間部では空挺部隊、沿岸部では海兵隊や海軍陸戦隊の中小規模の部隊を各地に送り込み、協力的な現地住民(民兵またはゲリラ兵が主)と合流して、戦う前から大勢を決していった。

 

 枢軸側にとって防戦の要だった山岳防御は、ほとんど機能することなく連合軍に短時間で突破されていった。

 1週間後の11月13日には、トリエステ地域は完全に解放される。

 もう一山、この地域で最も高い山々を越えればスロベニアだった。

 

 これにはドイツ軍も慌て、急ぎ対処しようとした。

 そして泥縄式ながら、二つの作戦を実施した。

 一つは、無理をしてでもハンガリー方面から1個軍団を抽出し、スロベニア方面の兵力を増強する事。

 もう一つが、少数の部隊を用いてオーストリア南部のケルンテン地域からイタリア北東部のウディネ方面に牽制攻撃をかけることだった。

 

 連合軍の後ろから牽制攻撃を仕掛けたのは、連合軍がほとんど配備されていない事を見抜いての事だった。

 これは連合軍の慢心ではあるが、やはりこの時期にドイツ軍が攻勢に出るわけがないという先入観故だった。

 

 そして攻撃したのがドイツ山岳師団と、現地人を中心にした(士気の高い)北イタリア兵、さらに山に慣れたドイツ南部やオーストリアの国民擲弾兵だったので、予想以上の効果を発揮した。

 連合軍の気付かない短期間で、攻勢発起点まで進出する事に成功していたからだ。

 しかも、山を抜けてすぐにも平地での進撃にもなるので、突撃砲、自走砲ばかりながら機甲部隊も1個大隊以上装備していた。

 

 現地の防衛は、内陸寄りを進んでいた日本陸軍の予備軍だった、日本第33軍の担当だった。

 だが主力の第29師団は、牽制作戦を兼ねてトリエステ方面のドイツ軍を攻撃していたので、ドイツ軍の前には第109師団しかいなかった。

 しかも守備範囲が広いため広く薄く分散しており、ドイツ軍の攻勢が1個師団以上の戦力なのに対して、支隊(=連隊戦闘団)程度の部隊しか攻勢正面にはいなかった。

 


 第109師団は台湾で編成された部隊の一つで、兵士のほとんどが台湾出身者だった。

 しかしそれでは将校、特に高級将校が足りないため、将校の多くは日本人から派遣されていた。

 諸外国で言えば、イギリスのインド軍やフランス外人部隊に少し近いだろう。

 師団長も日本陸軍の栗林忠道中将で、台湾人は戦時特例でも大尉が最高位だった。

 

 このため数合わせの後方警備用の部隊としか見られておらず、この時も敵の攻撃がないであろう場所に薄く配置されていた。

 欧州に派遣されたのも、戦うためではなく台湾兵が戦場に行ったという「実績」を作ってやるためだった。

 それでも前線に出られるという事で、台湾兵の士気は非常に高かった。

 

 そして師団長の栗林将軍は、この作戦の配置が決まったときから現地の危険性を感じていた。

 加えて、第8方面軍さらにそれ以外の現地連合軍全体に漂う、「ドイツ軍などもはや恐れるに足らず」という楽観的ムードにも危ういものを感じていた。

 

 そこで栗林将軍は、第8方面軍とアメリカ第3軍から建設専門の機械化工兵部隊を借り受け、また重いとか扱いにくいからとヴェネツィア港やトリエステ港などで余っていた対戦車砲(※自走砲ではない)、小型で威力が低く射程距離が短い重砲(75mm砲)、重ロケット弾(四式奮進砲、四式重臼砲)などを引き取って自軍に臨時に配備した。

 また、接近戦の可能性も考慮して、軽機関銃、擲弾筒などの歩兵火力の強化も、集積所や倉庫から半ば奪い取るように集めていった。

 戦車や自走砲は得られなかったが、迅速な移動用にトラックも十分に確保した。

 

 こうした栗林師団長の動きは、師団内の高級将校から半ば呆れられたが、将校不足から応召された年かさの将校、下士官からは好評だった。

 また栗林将軍は、台湾兵も分け隔てなく接するので兵士からの人気も高かった。

 

 第109師団に与えられた時間は長くはなかったが、9月末から次の攻勢が始まるまで、ほとんどを陣地構築と装備の習熟に費やした。

 


 ドイツ軍の牽制攻撃は、11月15日に山のすそ野のジェモナに対して開始される。

 そこはアルプスに流れ込む川があり、山と平地の境目に位置しており、連合軍側からは防備には向いていなかった。

 栗林将軍もここが守れるとは考えておらず、哨戒拠点程度しか置いてはいなかった。

 連合軍が最初に守るべきは、鉄道路線のあるウディネ。

 第一次世界大戦ではイタリア軍の司令部が置かれた歴史のある街で、ドイツ軍の攻勢発起点から30キロもない場所だった。

 そして連合軍としては、最終的にはドイツ軍を沿岸部にまで進撃させなければそれでよかったが、栗林将軍はウディネまでで止めるつもりで防戦準備をしていた。

 

 とはいえ、周辺には1個連隊が散らばって布陣しているだけで、陣地戦をしつつも遅滞防御戦をするのが精一杯だった。

 そして敵の進撃を遅らせている間に、西のヴィットリオ・ヴェネト手前まで薄く広がっている自らの師団部隊の集結を急ぎつつ、各方面への援軍要請、さらには空軍の支援を要請する。

 援軍要請は、ヴィットリオ・ヴェネトから西側を守るアメリカ第1軍(ホッジス大将指揮)にも出された。

 

 しかしドイツ軍も連合軍の空襲は予測していたので、昼間は派手には動かなかった。

 また、ちょうど現地の天候が悪化していたため、空軍も活発な活動は難しかった。

 

 結局第109師団は、一部の戦力だけで当初はドイツ軍と戦わねばならなかった。

 だが幸いと言うべきか、敵が攻勢を仕掛けると予測していた場所でもあるため兵数に対して防備は分厚くそして縦深もあり、有線無線も充実させていたので指揮も師団長以下師団司令部が直接下すことができた。

 

 そして栗林将軍は、歴史のある建造物も多いウディネを戦場にする気は無かったので、陣地は敵の進撃路となる街道沿いなどの郊外に構築された。

 だが、平たい農地がひろがるばかりの比較的単調な地形なので、農地を借り上げて土木機械で盛り土するなどして、陣地の構築を事前に行っていた。

 


 予想に反して頑健な現地連合軍に対して、もともと牽制攻撃しか考えていなかったドイツ軍は、山からいくらも出てこないうちに進撃速度は鈍った。

 今まで道案内や山での活動を指導していた一部の熟練した山岳兵はともかく、兵士の多くが未熟なため進撃速度はいっそう緩やかとなった。

 だが、枢軸側の攻勢で連合軍は大きく動揺していることが飛び交う無線からも明らかだった。

 そして牽制攻撃としては大きな成功だったため、事態を楽観した総司令部から進撃の強化と増援派遣の約束が伝えられると、進まざるを得なくなってしまう。

 

 そして「ラング」や「ヘッツァー」を前面に押し立てて進軍したのだが、山を出てすぐは非常に快調に前進できた。

 このためさらに楽観して進軍したのだが、10キロも進まないうちに激しい反撃を受ける。

 対戦車、対装甲車両に対応する考えられた陣地帯に阻まれて、先鋒の装甲車両はあっと言う間に撃破されていった。

 当然ながら、以後の進撃速度は停滞したままとなった。

 しかも、最初は連合軍の数は少なかったが、時間が経つに連れて数を増しており、進撃は尚のこと難しくなっていった。

 

 またドイツ軍は「ラング」や「ヘッツァー」など優れた装甲車両はかなり持っていたが、ハーフトラックやトラック、自動車はあまり有していない部隊ばかりなので、徒歩で進軍する以外だと「ラング」にへばり付くように乗るぐらいしか手が無かった。

 だが「ラング」は、ソ連戦車のように掴まる取っ手が付いているわけではない。

 しかも、連合軍の攻撃で砲弾の破片をあびたら、突撃砲が無事でも上に乗っている歩兵は簡単に吹き飛ばされてしまう。

 ソ連軍だとお馴染みすぎる悲惨な光景ではあるが、それ以外ではこの時期以後のドイツ軍でも度々見られる情景となっていく事になる。

 

 加えて言えば「ヘッツァー」は見た目は小さな突撃砲だが、本来は対戦車砲を旧式戦車のシャーシに載せて薄い装甲で囲っただけの自走砲だった。

 なまじ見た目が突撃砲に似ているので友軍からも誤解されており、この時も最前線で突撃に参加して大きな損害を出している。

 


 攻防戦は3日3晩以上連続したが、結局11月21日までにドイツ軍は撤退。

 もともと牽制が目的なので、本来ならもう少し早く撤退予定だったのだが、後方の司令部から支援を行うので攻勢を続けるように命令が下り、無理をした攻勢を続けることになる。

 そして未熟な兵士が多いため、同日の最後の攻勢では周辺から戦力を集めた連合軍の水際だった反撃を受け、ちりぢりにアルプスの麓へと逃げることになった。

 

 この反撃では、日本第33軍(軍団)直轄の予備部隊だった第26重戦車連隊(西竹一少佐指揮)が、進撃先の東部から慌てて転進してきて、横合いから他の部隊の先頭に立って進軍し、勝敗を決定づける一撃となった。

 「三式改重戦車」は、重戦車ながら短期間での機動戦でも役に立つことが、図らずもこの戦いで立証された事になる。

 こうした活躍もあるため、重戦車ではなく主力戦車の先駆けだったと言われることがあるほどだった。

 

 なお、この戦闘を後に知ったパットン将軍が栗林将軍の防戦指揮と西少佐の部隊を激賞し、部隊装備の強化の上で「ウィーンに共に進撃しよう」と最前線に引っ張っていってしまうという後日談がある。

 

 

 結果として大失敗したドイツ軍の小さな局地攻勢は、牽制攻撃としては大きな効果を上げていた。

 このため戦略的には、ドイツ軍の勝利だった。

 

 スロベニアに向かう山脈を越えようとしていた連合軍は、後方が危機に瀕したため一時的に進軍どころでは無くなり、さらに後方に援軍を送るために部隊を一旦停止させた。

 部隊の一部を後方に増援として送り、今まで無視していたアルプス沿いにも兵力を分散配置せざるを得なくなった。

 そうして配置換えを行っている間は進撃を続けるわけにもいかず、貴重な時間が浪費された。

 

 そして後方での危険が去った頃には、ドイツ軍が山岳部の防御をある程度固める時間を得ていた。

 しかもハンガリー方面からの増援が間に合い、防戦の指導をハンガリーにいたケッセルリンク将軍が的確に指示したため、数日前とは比較にならないほど防衛体制が強化された。

 おかげでこれ以後は、余程の準備と時間がなければ山間の街道は進めなくなった。

 

 このため短時間でスロベニアに進軍する事ができなくなり、少し後にパットン将軍に「あと10マイルが遠い」と嘆かせた。

 

 結局、連合軍の野心的とも言えるイタリアから東欧への短期間での進撃は失敗し、敵が防備を固めた冬山を強引に進軍するわけにもいかないため、「カルスト戦線」とも言われた戦線はいったん停滞する事となった。

 

 だが、枢軸軍はギリギリで数ヶ月を稼ぎ出しただけで、戦略的な不利が覆されたわけではなかった。

 しかも連合軍は、春までの数ヶ月を攻勢のための準備に費やすし、空からの攻撃が衰えるわけではないので、枢軸側としては春になったら状況がより悪化しているのは確実だった。

 

 欧州枢軸、ナチスドイツとしては一日も早く連合軍と停戦しなければならない事に何ら変化はなかった。

 

 しかし連合軍としては、戦局がここまで進んだ以上、敵の反撃を受けようとも進撃を緩める気はなかった。

 


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