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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
108/140

フェイズ74「WW2(68)欧州の連合軍」-1

 1946年に入った頃、多く戦線は「階段の踊り場」だった。

 

 ロシア方面のポーランド東部では攻防戦が続いていたが、ドイツ軍の作戦は山場を越えていた。

 主にドイツに対する、各方面からの戦術爆撃は、冬の短さと悪天候が多い事から停滞気味だった。

 ポーランドでドイツ軍が大規模な作戦をしたところで、何か大きなリアクションができる状態ではなかった。

 

 一方で、この時期のロシア方面を除く連合軍の地上部隊は、大きく以下のような陣容になっていた。

 


・北大西洋戦域軍(ニミッツ元帥) 《イギリス方面》

  第21軍集団(モントゴメリー大将):英2個軍、米1個軍

  第12軍集団(クラーク大将):米3個軍、英1個軍(予定)


・中部大西洋戦域軍(マッカーサー元帥)《フランス方面》

  第51軍集団(クリューガー大将):米2個軍、日1個軍、仏1個軍


・地中海戦域軍(アイゼンハワー元帥)《イタリア方面》

  第15軍集団(ブラッドレー大将):米3個軍、日2個軍、伊1個軍(予定)


 このうち第12軍集団は、半数以上に当たる2個軍がアメリカ本土からイギリスに移動中、または移動準備中、もしくは本国での待機状態のため、全く戦局には寄与していなかった(※英本土の受け入れ能力がない上に、投入できる戦場自体が無かった。)。

 連合軍を代表して地上戦を戦ってきた第15軍集団は、イタリアとバルカンを抱えるのでもう一つ別の軍集団を編成するべきだと言われていたが、バルカン南部の戦いが実質的に終わった事と、1個軍が移動中という事もあり大所帯を抱えたままだった。

 ただし、東欧に進軍する予定があったので、新たな軍集団の編成も視野に入れられていた。

 またイギリス本土では、旧イギリス本土軍を再編成した軍集団規模の部隊編成が進んでいた。

 

 アメリカ軍の次に軍を派遣している日本軍指揮官の名が見られないが、日本軍は自軍の中で遣欧総軍の司令部を一応持っていたのと、中華戦線から転戦してきた形の第10方面軍を南フランスに移動させ、第11方面軍と合わせて連合軍としての軍集団編成を取る予定になっていた。

 

 また、アメリカ海兵隊(5個師団=2個軍団規模)、日本海軍陸戦隊(6個旅団=1個軍団規模)の全てがイギリス本土に移動して、部隊の編成と訓練に励んでいた。

 各国の空挺師団についても、多くがイギリス本土に移動した。

 

 春もしくは初夏になれば、連合軍はイギリス本土から侵攻する予定だったからだ。

 


 1945年の夏から冬にかけての各戦線はどうだったのだろうか。

 基本的には、6月頃に大規模な作戦をしたため、その後始末と次の準備に多くの時間が割かれていた。

 

 南フランスでは、夏までにマルセイユが陥落し、連合軍がローヌ川下流地域に溢れた。

 だがフランス軍は、南東部の中央高地を中心とした地域で地の利を活かしてねばり強い防戦に務め、いまだリヨンを守っていた。

 このため連合軍は内陸部中央へと真っ直ぐ進むのではなく、西部に大きく迂回する進撃作戦を準備していた。

 このため秋になると、イタリア方面から日本の1個軍が移動しつつあった。

 アメリカ軍が人材面で手一杯なため、新たに日本軍による軍集団を編成して事態を早期打開しようと言う動きがでたのだ。

 

 イギリス本土では、戦いそのものは呆気ない幕切れとなったが、その後のイギリス本国自体の物流網の再構築と物資供給の円滑化に思いの外手間と時間を要した。

 この事一つをとっても、ナチスドイツにとってイギリス本土を抱えることが、実質的に不可能だった事が証明されている。

 だからこそ連合軍は欧州北西部に進撃できなかったのだが、秋には連合軍が大挙ドーバーを越える可能性が高いと恐れていたドイツにとっては、大いに皮肉な状況と言えるだろう。

 

 そして連合軍は、英本土の面倒を見ているうちに秋を越えて冬に入ったため、イギリス本土からのヨーロッパ本土への早期反攻作戦は、一部の積極論者の言葉通りには行かなかった。

 

 その代わりと言うべきか、連合軍海軍の整備と再編成が終わった1945年夏頃から、3つに分かれた巨大な空母機動部隊が、入れ替わり立ち替わり、ヨーロッパの北部沿岸を激しく空襲するようになる。

 スプルアンス提督の司令部が復帰した事で、アメリカ海軍は空母部隊をキンメル提督麾下のTF28(第二艦隊)とスプルアンス提督麾下のTF48(第四艦隊)に分けて運用し、日本海軍は伊藤提督麾下の第一機動艦隊のまま運用していた。

 

 加えて、イギリス本土からも支援の航空機が飛ばせるようになったので、残された欧州枢軸軍は空母機動部隊の攻撃を防ぎようがなかった。

 ドーバーの対岸あたりだと、連合軍の空母部隊がイギリス本土の空軍部隊と連携作戦をとることもあった。

 

 そして1つ1つの機動部隊が1個航空艦隊に匹敵する上に、殆どの場合が奇襲的かつ局所的に戦力を集中的に投入してくるので対処のしようがなかった。

 辛うじて重要拠点の防備を分厚くすることで凌がれたが、守れるのはドイツ北西部沿岸地帯など、極めて限られた場所でしかなかった。

 

 フランスのビスケー湾からイギリス海峡沿い、北海沿岸、そしてノルウェーに至る沿岸部の全てが連合軍の攻撃対象となり、空母機動部隊の餌食となっていった。

 

 ドイツは、イギリスが脱落したことでイギリス海峡やドーバー海峡沿岸部の防備強化を慌てて開始したが、既に物資不足に陥っていた事と、英本土と空母部隊の空襲によって思うに任せなかった。

 


 北イタリアでは、1945年4月末日にできたドイツ傀儡のサロ共和国は、7月半ばから開始された連合軍の大規模な北イタリア進撃の前に踏みつぶされた。

 ドイツ軍とサロ共和国軍は、平野の中央を流れるポー川での防戦を考えていたが、拙速を求めるパットン将軍が、枢軸側の予想より早く、そして連合軍の予定よりも早く、手持ちの兵力と物資だけで突進した結果だった。

 

 それ以前の問題として、5月末頃に一旦攻勢限界に達して自然停止したイタリア方面の連合軍だった。

 だが、その二週間後の6月10日に、パットン将軍率いるアメリカ第3軍の一部部隊が、手持ちの物資だけで突進して目前となっていたフィレンツェを無血開城させ、さらにアペニン山脈を越えることにまで成功した。

 欧州枢軸側はまだ北部に敗走しきっていない時期なので、防衛計画すらまともに立案されていない状態での出来事だった。

 

 近代戦の補給と計画を無視した攻撃のため、戦史家や研究家の中にはパットン将軍を非難する声が少なくないが(※兵站上は薄氷の上の成功であり、成功も偶然に過ぎないと言われている。)、潤沢な物量を誇る連合軍、特にアメリカ軍は万事慎重すぎる場合が多いため、パットン将軍のような人材は不要などころか極めて有用だと言えるだろう。

 これは結果論ではなく、攻勢で慎重すぎたらかえって勝機を逸し、さらに手間と時間がかかりすぎる事が多いからだ。

 それにパットン将軍が停止したときだけが、本当に燃料が無くなっただけで、連合軍が補給不足に陥ることは末端においても極めて希だった。

 

 なお、5月末に連合軍の進撃停止線となったすぐ先にあったフィレンツェは、水面下で連合軍と交渉したうえで事実上の無血開城をしている。

 イタリア統一前の長い分立時代を生き抜いてきた都市の、賢明すぎる判断だと言えるだろう。

 

 そしてフィレンツェの奇襲的陥落とアペニン山脈突破で、成立したばかりのサロ共和国の人々の士気は大きく落ちてしまった。

 唯一の防壁が破られたに等しく、チェスで言えばチェック・メイトに等しいからだ。

 

 そして枢軸軍の予測より早く、8月に連合軍の大規模な攻勢が始まると、貴族や富裕層を中心としたサロ共和国の人々は総崩れだった。

 基本的に南部の庶民への嫌悪感から抗戦を続けるため分かれた者が多く、ムッソリーニやファシスタ党に忠誠を誓う者は限られていた。

 加えて言えば、軍隊としてもほとんど何の役にも立たないまま敗北し、ドイツ軍の救援も間に合わないと見ると簡単に両手を挙げてしまった。

 

 北イタリアでの攻防戦は、「蹂躙」や「戦闘に値しない」というような言葉で表現される事が多く、しかもサロ共和国軍の人的損害は極めて少ないというのが一般的だった。

 攻めかかった当人達が「戦闘に値せず、進駐に似たり」と表現したほどだ。

 パットン将軍に至っては「演習」と酷評していた。

 

 助太刀に入った形のドイツ軍1個軍(第10軍)は、それでもポー川を利用した河川防御戦を実施しようとしたが、現地の北イタリアの人々が協力的ではなくなっていたため、ほとんどが机上の空論に終わってしまった。

 あまりにも呆気ない戦線崩壊なので、ドイツ軍はかえって兵力を損ねることは無かったのがせめてもの救いだった。

 

 そして9月までにはパダノ=ベネタ平野の平野部での戦闘も終わり、日本の山下将軍、アメリカのパットン将軍にインドから続く勝利の1ページをわざわざ献上しただけに終わった。

 


 1946年に入ってもアルプス山脈のイタリア側麓で踏ん張っているのは、ほぼ全てドイツ軍だった。

 しかし、ドイツ軍の北イタリア投入も泥縄式だった。

 最初は2個軍団規模の投入予定だったが、連合軍の進撃が早すぎて展開が遅れた。

 そして機甲師団(装甲師団)を含んだ本隊が到着した頃には、殆ど何も出来ないまま後退に後退を重ねざるを得なかった。

 そして機動戦の難しい山間部に追いやられたため、慌てて交代の形で山岳師団を投入することで、何とか連合軍の進撃を防いでいた。

 

 それでもムッソリーニらは、ドイツ軍がイタリア北東部のアルプス山岳地帯の谷間にあるボルツァーノに政府を疎開させ、抵抗を続けさせた。

 

 一方で、1945年11月には、それまでアレキサンドリアにあったアイゼンハワー元帥の地中海戦域軍の司令部が、ローマに前進してきていた。

 イタリア戦線の状況を物語る、典型例と言えるだろう。

 

 地中海方面の連合軍空軍部隊のかなりも、イタリア半島に基地を前進させるか、させつつあった。

 チュニジアのチュニスを根城にしているのは、大型爆撃機の部隊ぐらいだった。

 エジプトのアレキサンドリアの爆撃機部隊も、ドイツまでの距離が遠すぎるのでチェニスなどに移動していた。

 そればかりかナポリやローマへの進出計画も進んでいた。

 

 しかし欧州枢軸にとって一番の問題だったのは、北イタリアのパダノ=ベネタ平野を僅か1週間で蹂躙した連合軍の地上部隊だった。

 ジョージ・パットン大将率いるアメリカ第3軍と、山下大将率いる日本伊太利亜方面軍(第8方面軍)は、圧倒的な圧力と速度で平野部を瞬く間に蹂躙し尽くすと、すぐにも周辺部への進撃を開始した。

 

 だが、パダノ=ベネタ平野は北部一帯にアルプス山脈がそびえ立ち、その向こうのドイツ(オーストリア)に進むのは極めて難しかった。

 山間部の道を封鎖するだけで進軍は不可能になるからだ。

 そこで連合軍が選んだのが、沿岸部を東に進むことだった。

 

 中華戦線から転戦してきた岡村大将指揮下の地中海方面軍(第10方面軍)は、少し遅れて進んできた上に当初の予定を変更してフランス方面に所属が変わりそうなため、二人の司令官とは別行動を取り、南フランス方面に上陸した友軍と握手するべく西のニースを目指していた。

 

 ホッジス大将の第1軍は、遅れてイタリアに進軍した事から、アルプス山脈でドイツ軍と睨み合うように薄く布陣した。

 しかしそこは、距離的には最短でドイツに至れるので、ドイツ軍としては守りを固めざるを得なかった。

 だが連合軍もぬかりなく、圧倒的な空軍でイタリア北東部の山岳地帯からオーストリア西部のチロル地方、さらにはドイツ南部バイエルンにかけて制空権を奪うように作戦を展開し、ドイツ軍が隙を見せればすぐにも進軍できる体制を日々強めていった。

 

 そしてパットン将軍の米第3軍と山下将軍の第8方面軍は、ベネツィア湾を右手に見つつイタリア西部を縦断していった。

 


 パットン将軍と山下将軍の目標は、当面はイストラ半島だが、本当の目的はその先にあった。

 パットンと山下の目的は、イタリア東部からスロベニアに入り、そのまま素通りしてオーストリアへと進軍する事だった。

 このため第8方面軍は、45年9月の時点で伊太利亜方面軍は南欧方面軍と改称していた。

 また改変に際して、日本陸軍総予備から1個軍(軍団)を編入して4個軍(軍団)編成を取っている。

 4個軍団に拡大したのはパットン将軍の第3軍も同じで、軍直轄などを加えると2人の指揮する部隊は、実質的には軍集団規模に膨れあがっていた。

 

 つまりは、連合軍の期待の大きさを現していると言えるだろう。

 特に1946年の春から初夏にならなければ北の海での上陸作戦が気象的にできないため、南部で進撃するしかなかった。

 でなければ、ソ連により多くの占領地を渡してしまう事になるからだ。

 

 その彼らがイタリア北東部入りしたのは、1945年8月頃だった。

 総司令部は、兵站拠点となるヴェネツィアに構えられたが、二人の司令官はヴェネツィアを簡単に観光するとすぐにも共に前線に幕僚と共に向かっていたので、ヴェネツィアは兵站と後方の連絡場所程度にしか使われなかった。

 二人の司令官の関心は、ほとんど無防備な地域をどれだけ早く、遠くまで突き進めるかにあった。

 

 実際、1945年9月15日には、イストラ半島西端部にあるトリエステ市まで進軍していた。

 トリエステは港湾都市で、ここの港湾施設を無傷で押さえてしまえば、スロベニアへ迅速な進撃が可能だった。

 ヴェネツィアからトリエステに至るまで抵抗はほとんど見られず、むしろイタリア人の多くは敗北を受け入れて従順になっていた。

 ドイツ軍、イタリア軍は、半島南部や山間部に追いやられていた。

 


 一方のドイツ軍だが、連合軍に想定以上に攻め込まれたことで窮地に陥っていた。

 1945年9月の段階だと、ポーランド東部ではソ連軍の大攻勢によって陸軍主力が窮地に陥っていた。

 またルーマニア方面でも、連合軍(ソ連軍+満州軍)の大規模な侵攻が始まっていた。

 南フランスも、予断を許さない事態が続いていた。

 

 つまり、簡単に増援できる戦力はどこにも無かった。

 

 それでも、ドイツ本国やフランスなど各地で再編成や休養を取っていた部隊を集成して新たに第14軍を編成し、慌ててオーストリア経由でスロベニア方面に送り込んだ。

 当座の第14軍は2個軍団、6個師団編成で、しかも1個師団当たりの戦力差も大きいので、正面からでは連合軍に太刀打ちできる戦力では無かった。

 だが、イストラ半島内陸部は、カルスト地形で有名な多少緩やかながら山岳地帯で、アルプス山脈とバルカン半島のジナルアルプス山脈に挟まれていた。

 このため、谷間に当たる鉄道と主要街道の守りを固めれば、防衛は比較的容易だった。

 

 とはいえ、単純に師団数だけで4倍の差があり、1個師団当たりの規模、兵士数の差、装備や航空支援を合わせると5倍どころか10倍以上の戦力差となるので、短期間の足止め以上のことを求めるのは難しい戦力差だった。

 その事はドイツ軍の上層部も理解していたが、最も近在のハンガリー方面の方が強い攻勢を受けていたので、そこから兵力を引き抜くのは自殺行為だった。

 仕方ないので、秋に入って安定しつつある東ポーランド方面から、装甲師団(機甲師団)を含んだ1個軍団が一時的に移動することになる。

 だがこの戦力も冬の攻勢作戦の支援に必要なので、11月にはスロベニアから引き揚げさせなければならなかった。

 その代わりドイツ本土で再編成した部隊を投入する予定だったが、この部隊は歩兵師団1個と国民擲弾兵師団2個だった。

 

 国民擲弾兵は歩兵の一種だが、普通の歩兵は少なく本来は徴兵されない徴兵不適合者、傷病兵、老人、少年兵、それでも足りない場合は陸軍以外から調達した兵士が過半を占めていた。

 率いる将校の質も一部傷病兵などの例外を除いて総じて低い。

 当然戦闘力は高くないのだが、「ラング」や「ヘッツァー」など以前と比べると格段に優良な装備を与えることで、十分に戦えると判定されていた。

 

 とはいえ国民擲弾兵は、戦況の悪化と度重なる敗北で人的資源が枯渇したことの現れだった。

 特にソ連のバグラチオン作戦発動以後に部隊編成されたものが多く、戦力の建て直しのために編成された穴埋め用の部隊でもあった。

 しかし戦局悪化は日に日に増すため、最終的には50個師団以上が国民擲弾兵師団編成されている。

 

 この時配備されたのは、その最初期の部隊なので定数一杯の「ラング」や「ヘッツァー」を有するなど、確かに表面上の戦力はかつての歩兵師団より強力だった。

 歩兵にも、簡易の対戦車装備パンツァーファウストが多数配備されていた。

 

 それでもともかく、秋以降は3個軍団で1個軍を編成して、スロベニア、オーストリア南部を守ることになる。

 

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