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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
107/140

フェイズ73「WW2(67)「東方の守り」作戦2」

 ドイツ軍の冬季攻勢「東方の守り」作戦は、順調に伸展していた。

 作戦を行っている人々ですら順調さを疑うほどだった。

 

 対するソ連赤軍は、混乱しつつも単に事態が予想外というだけでなく、極めて容易ならざる事態だと認識する。

 しかし最初の2日間は、前線の司令部の多くとまともな連絡が取れず、モスクワの総司令部も事態の把握が大きく遅れることになった。

 このため、前線視察の名目でソ連赤軍総司令官代理であるジェーコブ元帥が直接指揮に乗り出そうとしたが、スターリン書記長から総参謀長ヴァシレフスキー元帥らと共にモスクワでの統括的な指揮を改めて命じられている。

 これをスターリンの誤断と見る後世からの評価が強いが、前線司令部が各所で混乱して詳しいことが分からない状況を考えれば、安易に換えの効かない総司令官を前線に向かわせていけないのは道理だろう。

 


 ソ連軍の混乱を後目に、ドイツ軍の快進撃は続いた。

 まるで1940年の電撃戦の再来のようだと言われる状態だった。

 兵士の約半数が1人が未熟だったり老年(※35才以上の中年)兵だったり、さらには外国人(ドイツ人以外の欧州人)だったが、この時のドイツ軍には間違いなく勝者の勢いがあった。

 ロシアから追い出されたばかりの熟練兵達は、復讐に燃えていた。

 

 しかしドイツ軍には、時間制限があった。

 自分たちより圧倒的に数が多いソ連赤軍が混乱から立ち直る前に、敵を分断し、尚かつ可能な限り無力化しなければならなかったからだ。

 でなければ、自分たちの方が敵中で孤立して、逆に包囲される恐れが強かった。

 しかも最大で250キロ近く進撃しなければならず、その行程を僅か一週間で到達しなくてはならなかった。

 作戦自体が軍事的に無謀と言われる所以だ。

 

 だが、最初の二日間、48時間は、予想以上に作戦は進展した。

 南北どちらでも強大なソ連赤軍の最前線を易々と突破した後の進撃は快調だった。

 最大で1日60キロ以上進撃した部隊もあり、各所でソ連赤軍は混乱していた。

 反撃があっても局所的で小規模で、簡単に排除された。

 そして赤軍の混乱は、基本的には第一線以外で熟練兵が少ない事と、この時期になって深刻化していたある状況が強く影響していた。

 

 ある状況というのは、兵士のなり手がスラブ系民族以外が多くを占めるようになっていた事だ。

 

 「畑から人が取れる」などと言われるほど(ヨーロッパ世界では)人口の多いソロシアだったが、戦争の終盤はそうも言ってられない状況だった。

 

 ドイツとソ連の戦争がほとんど民族殲滅戦争となった事、ソ連の主要人口地帯が主戦場となった事、長らく多くの国土が占領下となった事、そしてソ連赤軍自体が兵士(の命)を粗末に扱いすぎた事、様々な要因によってスラブ系民族の兵士は大幅な減少の一途を辿ったからだ。

 これは、終戦時にソビエト連邦全体でスラブ系民族の20〜25才の男性が極端なほど減少していた統計数字によって数字の上でも明らかだった。

 その影響は、その後半世紀以上もソ連(=ロシアなど)の人口問題に暗い影を投げかけたほど酷かった。

 そして戦争中盤頃からスラブ系住民以外に兵士となったのは、ソ連邦各地から無理矢理徴兵されてきた、中央アジア、シベリアのアジア系の若者達だった。

 そして数は力であり、優秀な兵器と連合軍の支援によって、ソ連赤軍は圧倒的物量線を展開することができた。

 


 だが兵士となった彼らには、問題が山積みだった。

 

 ソビエト連邦は、社会主義国家という建前から国民の初等教育に力を入れていたが、当時のソ連は広大なだけに古くからの生活を続けている場所が多くを占めていた。

 特にスラブ人が住まない場所は、近代的な徴税すらまともに行われていない場所もあったほどだ。

 当然ながらソ連的教育を受けていなかった。

 そしてソ連的教育を受けていないと言うことは、ロシア語が理解できないと言うことだった。

 加えて言えば、先祖伝来の文字すら書けない者も非常に多く、簡単な算数すら理解できない者も多かった。

 地平線まで大地が続く場所で羊の放牧しかしたことない若者に、近代的軍隊の兵士をさせる事自体が基本的には無理なのだ。

 

 当然ながら、兵士として徴兵しても複雑な事は出来なかった。

 訓練期間も短い場合が多いため、兵器の取り扱いと簡単な命令と言葉を覚えさせるのが精一杯だった。

 戦争の中盤までは、無闇に突撃して死なせることも多かった。

 それでも戦況がソ連軍に有利になると戦死率は大きく改善されたが、今度は後から徴兵されたおかげで戦死せずに済んだアジア系の兵士が、下級兵士の多くを占めるようになる。

 このため将校(=スラブ系が大半)の命令が分からない兵士が多いという状況は、戦争中盤よりも悪化していた。

 アジア系のみの軍隊といえる満州帝国軍が同じ戦列にいても違和感無かったのも、ある意味当たり前の状態だった。

 

 そして突発的に上級司令部との連絡が取れなくなると、自発的な戦闘に頼るしかないが、複雑な命令が分からないと言う事は、自ら複雑な戦闘を行うこと自体も出来ないと言う事だった。

 無論、今までの経験や本能的に戦うなどで個々の兵士として活躍した場合もあるのだが、数十万の兵士が平原で激突する複雑な近代的戦闘では、あまり意味がなかった。

 

 しかもソ連軍の指揮系統は、独裁国家の典型例として基本的に総司令部、司令部、各部隊と上下で直結していた。

 各方面軍同士の連携も、事前に定めた作戦の時はともかく、突発事態には柔軟に対応できなかった。

 例え隣り合う司令官同士の関係が良好だったとしても、命令系統がそれを許さないからだ。

 命令は中央から下されねばならず、将軍や将校達に命令をきかせるために政治将校(NKVD)などという存在までが、政府中央から各部隊に派遣されていた。

 勝っているときや重要性が低いときは、現場(戦場)重視で多少融通が利くこともあるが、不利な場合はコマンド・システムは悪い方に働く事が多かった。

 


 この時は、各所で命令系統の寸断が起こり、無数の兵士達は烏合の衆と化してしまう。

 しかも軍人としては無能な政治将校は、目の前の敵に突撃しろと「命令」するなど、大戦初期によく見られた醜態が各所で展開された。

 なまじ近年は優位に戦争を行い、さらに空前の大勝利を得たばかりだった事が、逆に組織の弱体化と硬直化をもたらしていた。

 

 もちろん総司令部、各方面軍は事態の改善をはかるべく努力した。

 だが前線の司令部は、初動の段階で攻撃を受けて混乱状態に陥り、なかなか立ち直ることができなかった。

 そこにドイツ軍の大規模な攻撃で混乱が広がり、一部では恐慌状態に陥るか、思考停止して何もしなくなる部隊も出た。

 中には、ドイツ軍が姿を見せただけで部隊ごと降伏する事態まで発生した。

 あまりにも快調に進撃を続けるドイツ軍将兵は、目の前の状況を訝しみ、ロシア人の巧妙な罠にはめられつつあるのではと疑ったほどだった。

 ほとんど不可能ではないかと前線の将兵達も内心思っていた進撃スケジュールは、順調に消化されるばかりか、かなりの部隊でそれ以上の成果を挙げていた。

 突進するドイツ軍部隊の中には、敵の輸送部隊と遭遇して、そのまま全ての物資を奪って進撃するような場面も見られた。

 また別の部隊では、あまりにも沢山の捕虜を得て困惑するような事もあった。

 

 戦闘も各所で行われたが、進撃中で最も激しい戦闘が行われたのは、戦闘初日の前線に配備されていたソ連軍精鋭部隊(の一部)を突破する時だった。

 この時ありったけと思えるほどの重戦車が各部隊の先陣として突破戦闘を仕掛け、油断し、混乱していたソ連軍部隊を粉砕した。

 

 あまりの進撃速度の早さに、故障で脱落する重戦車が続出し、兵士達はブレスト到着までに重戦車は全て戦闘以外で姿を消すだろうと思ったと言われる。

 時間さえあれば、後方から付いてきている整備部隊によって故障した重戦車たちも再び動きだすのだが、最前線の動きは後方の部隊を置き去りにするほどだった。

 

 もちろんソ連軍も、醜態と欠点ばかりさらして、何もしなかった訳ではない。

 

 ドイツ軍が目指していると分かったブレスト=リトフスク方面では、早くも攻勢開始3日目には周辺部隊をかき集めたり阻止用の陣地構築が開始された。

 また前線の一部からは、進撃するドイツ軍の方に部隊を向ける動きも出てきた。

 このためドイツ軍の進撃は日を追うごとに徐々に難しくなったのだが、基本的に後方で出くわす部隊は二線級のアジア兵ばかりの部隊が多く、抵抗はドイツ軍の想定内に収まっていた。

 たまに出現する精鋭部隊も、まとまった数である事は珍しく、また統制の取れた反撃はほとんど見られなかった。

 

 流石にブレスト前面は、各地から集められた部隊が防衛につき、俄作りとはいえ防御陣地が構築されていたが、そうした戦場は苦労して進軍してきた重戦車部隊にとっての晴れ舞台だった。

 

 ソ連軍も、兵站地区から届いたばかりの新型戦車を繰り出したが、戦車対戦車の戦いだと最低でも3倍以上の数がなければソ連軍に勝ち目はなかった。

 そして新鋭戦車と精兵で編成されたドイツ軍部隊は非常に強力で、しかも犠牲を省みず勇敢に戦うため、2日の激闘の末に現地ソ連軍が苦労して構築した最後の守りも突破されてしまう。

 

 

 12月24日、ドイツ軍の予定より1日遅れで、第6SS装甲軍の先鋒部隊がブレスト=リトフスク東方に到達。

 その半日後の同日夕方、北方から第5装甲軍の先鋒部隊が達し、さらに進撃を続けていた第6SS装甲軍の部隊と固い握手を交わす。

 ドイツ軍の作戦が、一つの大きな山場を越えた瞬間だった。

 大規模な包囲戦の成功は、それこそ1941年以来の事だった。

 

 しかし楽観は出来なかった。

 ドイツ軍は4個軍、43個師団、合計60万人以上の兵士を作戦に投入したが、彼らの包囲下には150万、周辺には合計300万以上のソ連赤軍が犇めいていた。

 いまだ混乱が続いている部隊が多いのが幸いしていたが、包囲しているドイツ軍の包囲網は薄く、ちょっとした齟齬で逆に各所で包囲される危険性もあった。

 

 だがこの段階で、ドイツ軍のワルシャワ正面にいた部隊が総力を挙げて進軍と攻撃を開始する。

 それまでは重砲による砲撃だけだったが、ヴィスワ川の渡河も開始した。

 突進した機甲部隊の穴埋めを行う作戦参加していなかった歩兵部隊も、続々と川を越えていった。

 南北から伸びる進撃路には、ヨーロッパ中から集めた部隊が続々と送り込まれ、包囲陣を少しでも分厚くしていった。

 

 そして作戦の目標地点ブレストでは、予定通りソ連軍が築きつつあった兵站拠点の破壊が急ぎ行われた。

 包囲下に置かれたソ連兵は、政治将校の命じるまま徹底抗戦したが、戦争序盤のロシア兵ほど頑強に抵抗はしなかった(※1941年のブレストのソ連軍守備隊は、全員戦死するまで戦い続けた。)。

 それにドイツ軍には時間が無かったので、攻略が非常に面倒くさい近世の城塞都市に容赦しなかった。

 持てるだけの重砲で破壊し、戦闘工兵で一気に焼き払い、爆破していった。

 駅などに集積されていた物資も問答無用で破壊した。

 とある場所では、積み上げられた弾薬の誘爆で、守備していたソ連兵数百名が吹き飛ばされたりもした。

 

 なお、物資の量が膨大すぎるため、小さな町中だけでは集積しきれず、物資集積所は街の郊外の各所に設けられていた。

 だがそれも多くも破壊される事になる。

 

 今回の作戦中に必要と考えられた、一部の兵器、物資、燃料、食糧は進軍したドイツ軍部隊と将兵が活用したが、時間を優先するため基本的に掠奪が禁じられており、精鋭の兵士達もそれをよく守った。

 巨大な物資集積所に集積が進められていた膨大な量のガソリンと軽油などの燃料は、自分たちの当面の使用予定分を運び出した上で燃やされ、その後一週間以上燃えさかることとなった。

 膨大な量の鹵獲品で全て活用されたのは、戦車、重砲、トラックなどすぐに使える兵器だけだった。

 そしてブレストでの膨大な量の鹵獲品は、進撃で消耗していたドイツ軍精鋭部隊に一息を吐かせるだけでなく、さらに続く包囲戦を戦わせる原動力となっていった。

 この時鹵獲した大量の物資がなければ、その後の戦いもどうなっていたかは分からないと言われる事が多い。

 ドイツ軍の作戦は、それほど危険なレベルで実施されていたからだ。

 


 ブレスト陥落と赤軍精鋭部隊の包囲にソ連中が震撼した。

 

 しかもこの時包囲されたのは、最精鋭の第1ベラルーシ方面軍、第2ベラルーシ方面軍で、もしこの部隊が全て降伏した場合、戦争の進展、ドイツ本土への進撃は最悪半年遅れると考えられた。

 そうでなくても、東以外から進んできている連合軍に、ドイツ占領の先を越されるかも知れないとも考えられた。

 特にスターリン書記長の一瞬の落胆の後の怒りと焦りは強く、側近などに命令を下すまでの数時間の間、自室に籠もってしまったと言われている。

 そしてその後、ドイツ軍の完全な撃滅と包囲網の破壊、友軍救出を最大限の強さで命令した。

 


 この時の状況を数字の上だけ見ると、基本的にソ連軍の方が数が多いので一見包囲を破るのは容易く見える、と言われる事が多い。

 だが、包囲された精鋭部隊は、兵士こそ精兵揃いが多かったが、戦うための物資を十分に持っていなかった。

 なまじ大軍であるため、大規模な戦闘に及ぶための物資が膨大な量に達してしまうのだ。

 食糧ひとつとっても、何も生産に寄与しない100万の兵士を三度三度食べさせるだけでも大事業だった。

 幸い食糧はある程度手元にあったが、それよりも弾と油のない戦車は鉄の棺桶でしかなかった。

 

 そして損害を受けたらすぐにも装備ごと補充を受ける体制を作っていたソ連赤軍は、一旦包囲されてしまうと脆かった。

 整備体制が貧弱なのですぐに稼働できる兵器がなくなり、戦力が短期間で激減するからだ。

 この点は、ドイツ軍との大きな違いであり続けた。

 (※ソ連軍は、他国に比べて整備兵が少ない。)

 既に包囲された時点でも、それまでの戦闘で包囲下のソ連軍は大きく戦力を低下させていた。

 またブレスト近辺は基本的に前線の後方だったため、ドイツ軍の包囲を破れるだけの機甲部隊がいなかった。

 さらに言えば、後方は中年を中心とする老年兵かアジア系兵士を中核とした二線級の部隊ばかりなので、統一された命令系統が無ければ強力な反撃はできなかった。

 将校も、前線に比べると熟練度と質の双方で劣る者がほとんどだった。

 

 そして前線で包囲網の外から反撃作戦を指揮できるほどの手腕を持つ将軍となると、一番は包囲されているロコソフスキー元帥であり、次が南寄りにいるイワン・コーネフ元帥だった。

 だがどちらも、攻勢を受けている当事者なので、その将軍を引き抜いて反撃の指揮を執らせるわけにいかなかった。

 コーネフ元帥なら可能だという研究もあるが、この時はコーネフ将軍の部隊の正面にいたドイツ軍部隊も活発な活動を行っており、指揮官と司令部要員を他の作戦に臨時移動させるわけにもいかなかった。

 

 この時点で遂にジェーコブ元帥が動いたが、それでもジェーコブ元帥は総合的な統括指揮を担当するだけで、集められつつある部隊を指揮するのは他の将軍達とされた。

 そしてジェーコブ元帥がミンスクで事態を掌握するまでに、事態はソ連にとってさらに悪化していく。

 ドイツ軍の包囲下に置かれ指令系統を失った前線部隊の一部が、早くも降伏を始めたのだ。

 

 そして万全の体制を取る時間がない事を悟ったジェーコブ元帥は、包囲下のロコソフスキー元帥と連絡を取りつつ、内と外から包囲網を破る作戦を決行に移す。

 


 ソ連軍が総力を挙げた反撃に出てくることはドイツ軍も折り込み済みであり、戦闘が行われる場所も最初から分かっていた。

 

 ブレスト・リトフスクの東部は、モスクワへと伸びる大街道が東北東へと伸びている。

 周辺は基本的に平原で真冬なら沼沢地も泥の海も全て凍っている。

 昔から強固な城塞都市で防ぐしかない地形なのだが、その都市郊外の平原で敵を迎え撃たなければならなかった。

 

 夏なら南東部を中心にして河川を中心にした湿地帯もあり、ブレストから少し東南東に離れるとロシアから伸びている巨大なブリピャチ沼沢地が伸びていたが、季節は冬だった。

 当然ながら、ソ連軍の一部はドイツ軍の東側に当たるその凍った沼沢地にも陣取っていた。

 

 しかし河川の方はまだ凍結しておらず、一部ではブレストにも流れ込んでいるブーク川などが防衛線として使えた。

 そして河川防御が出来ると言うことは、短期間でブレストの西側に回り込むのが難しいことを現していた。

 この作戦でドイツ軍の進撃が最も苦労したのも、ブレストの東側に回り込むために河川を越えなければならない時だった。

 

 そして散々書いてきたが、ソ連軍が反撃点に選べる場所は、短期間で兵力と物資が集中できる東南東の街道沿いしかなかった。

 

 決戦の場所は、最初からブレストの北東部の平原と決まっていたのだ。

 


 両軍共に最も精鋭の重装備部隊を集中させ、ここに「東方の守り」作戦最大の戦闘となる「ブレストの戦い」が行われる。

 

 ドイツ軍は第6SS装甲軍と第5装甲軍が包囲網の守りを固め、ソ連軍は第3ベラルーシ方面軍の一部を中核とした臨時のブレスト方面軍が外側から、第2ベラルーシ方面軍が内側から攻勢を仕掛けた。

 

 この戦闘では、今までも度々見られたように重戦車部隊の激突が各所で演じられた。

 そしてこの時の攻勢では、既に生産の停止している「VI号戦車 ティーゲルI」が相変わらずの強さを見せた。

 すぐに故障したり進撃速度の遅さを友軍にも呆れられた「VII号戦車 ティーゲルII」も大活躍した。

 同様に、ティーゲルIIの派生型である「ヤクート・ティーゲル」も、前線まで持ってくるのには一苦労したが、その苦労が報われるだけの活躍を示すことができた。

 また半ば戦場伝説だが、「マウス」重戦車の姿もあったと言われている。

 また「ヤクートパンター」駆逐戦車、「IV号駆逐戦車 ラング」といった駆逐戦車(突撃砲)も、攻勢よりも防戦に向いた兵器なので、この時のような戦闘の方が大いに活躍できた。

 なお、この作戦におけるドイツ軍装甲車両の数の上での主力は、戦車ではなく無砲塔型の各種自走砲だった。

 戦車よりも多い数の「IV号駆逐戦車 ラング」、「III号突撃砲」などが占めていた。

 さらに主に歩兵師団所属の300両以上の「ヘッツァー」が含まれているので、装甲戦力の総量は最盛時に匹敵するほど投入されていた。

 

 対してソ連軍は、「IS-2 重戦車」、「IS-3 重戦車」、「SU-100 自走砲」、「ISU-122 自走砲」などを投じたが、個々の戦いではドイツ軍戦車の方が優れており、強引な突破戦闘を仕掛けて多くの犠牲を出した。

 

 中戦車による機動戦も依然としてドイツ軍が優位で、新型の「V号戦車H型 パンターII」は額面通りの高い性能を発揮して縦横の活躍を示し、対抗馬として無数に量産されていた「T-34/85」を圧倒した。

 戦場には新型の「T-44」の姿もあったと言われているが、数が少なかったと見られているし、特に活躍した記録も見つけることは出来なかった。

 とにかく、局所的で機動的な防御戦となると、精兵揃いのドイツ軍機甲部隊は滅法強かった。

 この作戦では、ドイツ軍歩兵は未熟な兵士、年老いた兵士が多く質が低かったと言われるが、熟練兵も一定数いたおかげか、極端に問題化する事も無かったと見られている。

 

 ソ連軍はそれなりの戦果を挙げつつも、ドイツ軍の十倍以上と言われる損害と犠牲を積み上げただけで、包囲網を破ることも結果を得る事も出来なかった。

 


 そしてソ連軍は、地上からの力押しだけでは包囲網突破が無理だと分かると、周辺から根こそぎ集めた空軍機によって突破口を開こうと試みる。

 

 だが空でも、精鋭部隊による局所的優位を目的とした防空戦を仕掛けたドイツ空軍に対して、犠牲ばかりが大きくなってしまう。

 ドイツ本土に近いことが、ドイツ空軍機の稼働率を大きく引き上げ、逆にまだ進出途上だった上に初戦で大きな損害を受けたソ連空軍は、各野戦空軍基地の整備能力、補給能力を超えた機体を集めたことが徒となり、思うように戦えなかった。

 ドイツ軍とソ連軍の差は、ドイツ軍が周到に作戦を準備したこともさることながら、ソ連軍が基本的に突発事態に弱いためだった。

 また、なまじ軍隊が巨大になりすぎていたため、狭い戦場に大軍を集めて運用する事も難しくしていた。

 

 またソ連空軍は、輸送機による包囲下の友軍への補給を行おうとしたのだが、空路にはドイツ軍の高射砲と対空戦車が並べられ、戦闘機も最優先で輸送機を攻撃してきた。

 冬の悪天候と昼間の短さも、大いに飛行の邪魔をした。

 このため消耗と犠牲だけが積み上がり、焼け石に水という程度の成果しか挙げられなかった。

 これも包囲されていた部隊が大きすぎた弊害が出た形だった。

 例え1日1000トン空から補給できたとしても、150万の兵士の前には無いよりマシでしかなかった。

 

 膨大な数が集められた輸送機だったが、整備兵が不足していた事もあって稼働率も時間と共に低下し、損害による数そのものの低下もあって、年を越える頃には稼働機数は空中補給開始当初よりも半数以下に落ちていた。

 ソ連軍の輸送機は、戦争全体の半数をこの作戦で失ったと言われている。

 

 あまりの苦境に、少し南に展開していた満州帝国空軍に支援要請が出されたが、既に時機を逸していた為、満州空軍もいらぬ消耗を強いられただけに終わっている。

 


 なお、満州帝国遣蘇総軍に対して、輸送機要請の前に包囲網突破のための地上兵力の抽出と協力が要請されていた。

 しかし戦場から400〜500キロも離れたハンガリー東部にいる上に、鉄道での移動になるとロシア西部を大きく迂回しなければならず、自力で強引に行けば到着するまでに稼働車両が激減する事が確実となる場所に援軍を出すことは物理的に不可能だった。

 ソ連軍内なら無理を承知で行ったかもしれないが、同盟国でもあるため合理的な理由を添えて謝絶された。

 しかしソ連の総司令部が出した要請のため、相手の面子を潰すわけにもいかず、参謀長の石原大将らがモスクワまで赴いて断りに行くなど余計な手間をかけることになった。

 そしてソ連側も、自らの窮地に対してさして期待もせずに出した援軍要請なので、それほど気を悪くしたわけでも無かった。

 だが、満州軍として味方の窮地に何もしないわけにもいかないので、満州空軍第一航空軍が貧乏くじを引くことになったのだ。

 加えて、満州総軍向けに移動中だった兵站列車の幾つかが、途中で進路をかえてブレスト方面のソ連赤軍に向けられた。

 この兵站列車だけでも、満州総軍は春に予定していた攻勢が2週間が遅れることになっているので、かなりの支援と言えただろう。

 


 1945年12月30日、ついにソ連軍の包囲網突破作戦は中断される。

 犠牲が大きすぎたのと、立っているだけで人が凍り付くほどの非常に強い寒波のため、作戦続行が難しくなったからだ。

 空中補給部隊も戦闘での損害で稼働率が落ち、さらに低空にたれ込めた濃密な雪雲の前に一時的に停止された日が一週間近く続いた。

 

 その後もブレストからワルシャワにかけた地域での激戦が続いたが、年を跨いだ1946年1月23日、包囲されていた第1ベラルーシ方面軍、第2ベラルーシ方面軍が遂に降伏する。

 燃料や弾薬だけでなく、食糧が尽きてしまったのだ。

 最初にドイツ軍が包囲したときは150万だったが、薄い包囲網からの脱出、戦闘による死傷、さらには餓死、凍死などを差し引くと、最終的には80万人が降伏している。

 約20万人が戦死(戦病死)したので、ソ連赤軍は合わせて100万人もの精鋭を失ったことになった。

 また、ブレスト=リトフスクなどに備蓄が進んでいた膨大な物資も失われ、兵站拠点自体も壊滅した。

 

 一方のドイツ軍は、作戦に直接参加した60万の将兵のうち8万人が失われた。

 ワルシャワ正面や包囲網の増援部隊などそれ以外の損害を含めると、さらに5万人が失われており、負傷者も合わせると決して手放しで喜べる勝利ではなかった。

 さらに1945年内にストックした兵器の多くを放出したが、その兵器の半分以上も戦場で破壊されているため、その後兵器の充足に大きな支障を出すようになっていた。

 ソ連軍の兵器を多数捕獲したが、戦いの中で荒く使われて消耗していたので、補完できるほどの量では無かった。

 

 また当初の予定では、作戦達成後は戦線整理のための後退を行う筈だったが、予想以上の結果(勝利)に浮かれたヒトラー総統が、後退を禁じて現地での防衛体制の再構築を命じていた。

 確かにブレスト=リトフスクは交通の要衝だが、中規模の河川があるだけで周辺は平原地帯が多く守るのが難しい。

 戦争中に簡単に独ソ双方が占領できたように、地域全体で守るには敵を上回る大軍を用いるしか無かった。

 そしてソ連軍の方が戦力で勝るので、勝利に驕らず守りやすい地点まで下がる方が、ドイツ軍にとってはるかに賢明なはずだった。

 しかし命令は後退計画の中止であり、現地に止まり続ける事だった。

 

 また予想よりも損害が大きく、さらに予測した以上にポーランド前面のソ連軍の圧力が低下しなかったため、当初予定していたハンガリー方面に兵力を移動しての大規模な反撃作戦はほとんど中止されていた。

 フランス方面、アルプス方面(イタリア方面)への増援も、予定していたほど送れなかった。

 


 一方、予想外の大損害を受けたソ連軍だが、冬季攻勢こそできなかったが、1946年春には体制をかなり立て直していた。

 

 これには二つの大きな要素があった。

 前線への物資備蓄が進んでいなかったということは、後方に沢山残っていると言うことだった。

 そして何より、精鋭部隊といえどもソ連軍にとっては、余程のことが無い限り換えの効く兵士、兵力でしかないという事だった。

 

 包囲されたロコソフスキー元帥らは空路で脱出しており、それ以外にも換えの難しい熟練した高級将校のほとんどは空路か、包囲の合間をすり抜けて脱出していた。

 それでも、従来なら大失敗をしたと言うことで銃殺や軍事裁判、収容所送りになってもおかしくないところを、次の成功で取り返すという約束で、殆どの将校がそのまま前線に復帰していた。

 この「恩情」は、流石のソ連軍や共産党も、熟練兵、特に将校の希少性を認めていたからだった。

 


 そして100万の精鋭を失ったソ連赤軍だが、当時のソ連軍は稼働機1万機を越える空軍と軍属と合わせて総数1500万人に達しており、100万の損失も致命傷では無かった。

 多くのスラブ系兵士と精鋭部隊を失ったことは大きな損失ではあったが、一連の戦闘でソ連が失ったのは、「戦争の終幕が3ヶ月遅くなっただけ」だと言われている。

 

 この事実こそが、第二次世界大戦終末期の戦略的状況を端的に示していると言えるだろう。

 フリードリヒ大王以来のプロイセン軍人達が信奉してきたアート・オブ・ウォーの時代は、既に遠くに過ぎ去っていたのだ。

 


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[一言] ジェーコブではなくジューコフでは? いや、読み方的にはあっているのかもしれませんが
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