フェイズ71「WW2(65)ドイツの新兵器」
1945年の冬が来ようとしている頃、ドイツにとっての戦争は本土決戦目前にまで悪化していた。
フランスでは、いまだ南フランスの山岳地帯で足止めされていたが、それもあと半年持てば御の字という状態だった。
そしてその頃には、連合軍がドーバー海峡を押し渡ってくるのは明白だった。
イタリア戦線も、翌年春にアルプス越えがあるかもしれないと言われていた。
そして他よりも危険なのが、「ロシア戦線」改め「東部線戦」だった。
「ロシア戦線」が「東部線戦」となったのは、その名の通りロシアが戦場では無くなり、ドイツもしくはヨーロッパの東部が戦場となったからだ。
東部戦線という言葉が戦争全期間で使われたという者もいるが、ロシア戦線が東部戦線になる前に使われていた東部戦線とは、基本的にアジア、特に自らも軍を派遣したインド戦線の事を指している。
ロシア戦線の破局は1945年6月に訪れ、その年の初秋までにはドイツ陸軍の北方軍集団と中央軍集団は戦線崩壊の一歩手前のレベルでの大打撃を受けてしまう。
南部のウクライナ方面では、8月からソ連軍と満州軍の全面攻勢を受けて、これを何とかギリギリ防ぐも戦線はハンガリー東部まで後退した。
ドナウ川の下流では、ついにソ連軍と連合軍が握手までしていた。
戦争全体の巻き返しはもはや不可能に近く、後はどれだけ戦えるのかが争点だった。
そしてドイツと残りの欧州枢軸諸国が生き残るためには、もはや停戦か講和しか無かったのだが、連合国、特にソ連はドイツを滅ぼすまで戦うことを止めるつもりは無かった。
そしてソ連は、欧州全土を占領することで、戦後の国際社会を優位に運ぼうと考えていた。
そして、このソ連のどん欲とすら言える姿勢に一つの光明があった。
連合国、特にアメリカにとって、ロシア人に征服されたドイツやヨーロッパには何の魅力もないばかりではなく、最低でも自陣営に組み入れたイギリス(本国)にとっては、大きすぎる脅威になる可能性が非常に高かった。
この頃には、ソ連が自分たちに都合の良い政府を占領地に作ると考える者も増えていたからだ。
このため連合国としては、自分たちもドイツ中枢にまで攻め込む形での終戦状態が好ましかった。
しかし、戦況がこのまま順調に推移した場合、ロシア人がドイツを占領し尽くす可能性が極めて高かった。
そればかりか、フランスの半分程度までロシア人が攻め込んでくる可能性すら十分にあった。
そうなってはアメリカにとって「採算が合わない」のは確実で、そうならない終戦状態を望むだろうとドイツでは考えられた。
そして可能な限りドイツにとって優位な状況での停戦は、ソ連がまだドイツ本土深くに攻め込まず、連合軍がより攻め込めなかった状態と言うことになる。
戦後の欧州市場を完全に失いたくなければ、ソ連以外の連合軍はドイツと停戦しなければならなくなる筈だからだ。
少なくともヒトラー総統と一部のドイツ(=ナチス)首脳陣はそう考えていた。
そして彼らの考えに従った作戦が立案される。
戦略レベルでの作戦は、大きく二段階に分かれている。
まずはロシア人をドイツに深く攻め込ませない事。
その上で、連合軍が翌年初夏に仕掛けるであろうドーバー海峡を押し渡ってくる上陸作戦を失敗に追い込む事だ。
これにより連合軍は、西欧(市場)を失わないためにドイツと停戦せざるを得ず、連合国と停戦したドイツ(+残りの欧州枢軸)は、全ての戦力をロシア人に向けることができる。
場合によっては、連合国とソ連が完全に仲違いして、ロシア人は全ての国々を敵とする可能性すら皆無では無かった。
しかし、何をするにしても、まずはロシア人の進撃を止めなければならなかった。
そこで一つの攻勢作戦が立案される。
作戦の第一目的は、ソ連軍の第一線にいる精鋭部隊の重要な一部を完全に包囲殲滅する事。
これによりソ連軍の進撃速度を大きく低下させる。
第一段階は、前提条件に近かった。
その作戦の成功を受けて前線後方の兵站拠点を破壊して、さらに多くの時間を稼ぐことが第二段階として計画立案された。
どちらも既に非常に困難な作戦ではあるが、少なくともヒトラー総統はかなりの自信を持っていた。
それは、ドイツのGDP以上の資産を食いつぶして達成された戦時生産が、1945年に数字の上では1944年をも上回っていたからだ。
しかもその上に、生産された兵器は戦争を転換させると考えられた新兵器が多数占められていた。
新型戦車、ジェット戦闘機、ジェット爆撃機、そして世界初の弾道弾。
特に弾道弾は、ドイツ以外は全く保有していない上に、一度発射されれば迎撃は不可能だった。
制空権や対地攻撃力の不足に対しても、新型のロケットが多数用意されることになっていた。
新兵器についてはともかく、他にもドイツ軍に有利な要素はあった。
箇条書きにすると以下のようになる。
秋頃から本格的にイギリス本土に進出した連合軍空軍は、冬の間は天候や昼間の短さなどから活動が低調にならざるを得ない。
地中海方面でも、昼の短さはドイツにとって有利に働く。
そして圧力が減るので、可能な限りではあるが空軍を東部に回すことができる。
空軍の面から見ると、特に冬至前後に作戦を行うのが好ましかった。
東部戦線の南部では、ケッセルリンク元帥、ロンメル将軍らの奮闘によりハンガリー方面で食い止められているため、春の始めまで戦線は大きく動かないと見られていた。
ドイツ国内では、大量に生産された兵器によって、身一つで後退してきたもと北方軍集団の再装備と再編成は秋の間に完了している。
他の部隊も、可能な限り多くの装備で強化もされた。
懸念は燃料だが、天然石油由来はともかく、人造ガソリンはまだ十分に各工場で生産され続けているので、部隊の行動を大きく制約する事はない。
なお、連合軍が人造石油工場だけでも爆撃で破壊しなかった事は、戦略レベルでの大失敗と言われるほど、人造石油工場は当時のドイツにとって最後の生命線に等しかった。
そしてソ連軍は、バグラチオン作戦とさらに連続した攻勢作戦で疲れ切っており、兵站線の再構築の途上にあった。
また部隊の一部は、後方の二線級部隊と後退して再編成中だった。
秋の間は各地に取り残された要塞都市が兵站線の延長を阻んでいたが、それも1つまた1つとロシア人に蹂躙されていった。
ソ連軍の再編と兵站の充実は翌年1月後半から2月に完了し、ソ連軍は体制を整えて次の大攻勢を仕掛けるとも見られていた。
以上の要素から、攻勢は冬至を挟んだ期間に行われることが決まった。
東部戦線での攻勢の決定は、まだソ連軍の夏季攻勢が続く9月中頃だったが、ソ連軍の眼を欺きつつ秘密裏に進められた。
1945年冬の東部戦線の戦いを見ていく前に、1945年初冬の頃のドイツ軍の新兵器について一通り見ておこう。
・新型戦車
この時期のドイツ軍の主力となる戦車といえば、中戦車の「V号戦車 パンターG型」と、数は少ないが重戦車の「VII号戦車 ティーゲルII」となるだろう。
「V号戦車」は45年内までで派生型を含めて総数8000両が生産されたのに対して、「VII号戦車」はその10分の一程度が生産されたにすぎない。
高性能で使い勝手のよい「V号戦車」の生産が重視された影響なのはもちろんだが、重戦車の生産が非常に手間だったからだ。
重すぎる重戦車は、1日1両程度しか作れなかった。
この点日本、満州での「三式重戦車」の生産は驚異的とすら言える。
だが「V号戦車」は、重量約45トンと他国の重戦車並の重量とドイツ的といえる凝った設計と仕様なので、この生産数も十分に驚異的と言える。
これ以外だと、いまだ「III号突撃砲」と各種「IV号戦車」の生産が続いていた。
戦場での激しい消耗を少しでも補うために、生産ラインを切り替えられないまま生産が続けられているのだ。
だが「IV号戦車」は、多くが生産コストに対して火力と防御力に秀でた「IV突撃砲 ラング」となっていた。
加えて、制空権を失いつつあるため各種対空戦車の生産が徐々に増えていた。
戦車ではなく突撃砲の生産が大きく増えているのは、ドイツが防戦一方に追いやられている証でもあった。
また、ドイツ戦車の代名詞とも言われる「VI号戦車 ティーゲルI」は44年内に生産を終了し、生産工場は「VII号戦車 ティーゲルII」の生産に切り替わっている。
そうした中で、早いものだと45年春頃からより強力な新型戦車が量産され始めていた。
「V号戦車」の「H型」がそれで、「H型」の砲塔は見た目が「VII号戦車」と似ていた。
俗に「小型砲塔型」とも呼ばれるように、「VII号戦車」の砲塔を小型化したような形状の砲塔を搭載していた。
なお「H型」は、当初「F型」として開発されていたように、計画段階では「G型」よりも先行していたとも言われている。
また、量産されなかった「パンターII」の派生型に当たる「E-50」の要素も取り入れられている。
このため、改良された「VII号戦車」と部品の共通化が図られていた。
だが「VII号戦車」の生産数が非常に少ないため、あえて共通化するほどでは無かったとも言われている。
なお「ティーゲルII」は、この時の改良で「VII号戦車」の正式名称を与えて、今までの「VI号戦車 ティーゲルII」との差別化が図られている。
新型戦車は「V号戦車H型 パンターII」が正式名称で、45年3月頃から最優先で量産が開始され、夏頃から少しずつ前線に姿を見せるようになっていた。
1945年冬の作戦では、GD師団、SS師団を中心に配備されて500両以上が投入予定だった。
「パンターII」以外だと、「IV駆逐戦車 ラング」、V号戦車からの派生型の「ヤクートパンター」駆逐戦車など有力な車両の生産が優先され、一方では装甲形状を大きく変更してラングと似た外観となった「III号突撃砲」と、チェコ製の小柄な戦車から派生した自走砲の「ヘッツァー」が、歩兵部隊向けに量産が続いていた。
また、「パンターII」以外の各種構成部品の共通化も、45年に入る頃から可能な限り実施されたが、実質的な新規開発については既存車両の生産を優先することになったため、殆どが計画中止は既存車両との計画統合を行っている。
それだけドイツに余裕が無くなっていたからだ。
そうした中で、当初の目的と違って日の目を見た車両の一つが、重量188トンを誇る超重戦車「マウス」だった。
あまりにも誇大妄想すぎる性能と重量なので、ヒトラー総統の肝いりでポルシェ博士が力を入れてもなお計画は二転三転し、一時はシュペーア軍需相の手により計画途中で放棄された。
だが、44年夏のクルスク戦とその後の敗北により計画が復活。
気が付いたら、試作車両2両以外の増加試作車両の製造と、量産工場での生産準備が進んでいる状態だった。
だが、あまりにも資源と労力の浪費だと考えたシュペーア軍需相とグデーリアン元帥の直訴(※計画再開を知って激怒したとも言われる)によって計画は完全に頓挫する。
しかし計画が完全中止となった1945年8月までに試作2両、増加試作6両が完成し、量産型の車体や砲塔が約90両分も生産されていた。
そして作ってしまったものは仕方ないと運用してみようとしたが、試験小隊による試験の時点で現実的な兵器ではないことが明らかとなった。
何しろ重すぎて、まともに走れる場所がないのだ。
これを受けて、「戦車」としての運用には終止符が打たれた。
だが、これだけ重くて堅いと解体するのも手間だし、作ったものは無駄にはできないとも考えられ、量産型の砲塔(※単体で55トンもある)はコンクリートや鋼鉄製の土台の上に旋回砲塔のまま載せた「超重トーチカ」としての使用が決まり、急ぎ砲などを揃えた上で各所に設置される事となる。
そうして設置された「マウス・トーチカ」は、各所で予想以上の活躍を演じることとなる。
砲塔を構成する各部装甲はいかなる対戦車砲も受け付けず、敢えて弱点があるとすれば上面装甲が60mmという点だが、大型重砲の直撃でもないと地上兵器での破壊は極めて難しかった。
遠距離からの破壊手段は空爆しかなく、しかも爆撃目標としては小さいので水平爆撃での破壊も非常に手間取ることとなる。
殆どの場合は接近戦で歩兵が制圧するしかないが、それも出来ない場合は包囲した上での弾切れを待つしかなかった。
このため、連合軍、特にソ連軍の進撃を遅らせるのに大いに貢献したと言われる。
特に同砲塔多数で組み上げられた対戦車陣地は、機甲師団数個師団分の戦闘力を発揮したと言われている。
実際、1個戦車軍の進撃を長きに渡り阻止するなど、その活躍は枚挙にいとまない。
1945年内だと、秋以後のハンガリーでの攻防戦で大活躍しており、とある砲塔は周辺の部隊と連携する事で、たった1基で1個連隊を長期間足止めしていた。
「ゴーレム」という異名も、的を得ていると言えるだろう。
戦車として完成した8両についても、ドイツ終焉の頃にベルリンの「門番」としてソ連軍を手こずらせたと記録されている。
約100基のマウス(砲塔)が撃破したソ連軍車両は戦車、突撃砲だけで1000両を越えるとすら言われるので、計画は中断されたが投資した以上の結果は残したと言えるかも知れない。
なお、ソ連の博物館に自走可能なもの1両、外観のみのもの2両が現存している。
また満州国の博物館にも1両が現存し、現在自走できるようにレストアが進められている。
砲塔だけのものも、各国に持ち帰られているので見ることができる。
・ジェット戦闘機
ドイツ軍のジェット戦闘機と言えば、当時としては先進的な後退翼を持った「メッサーシュミット Me262」が最も有名だろう。
当初は爆撃機もしくは戦闘爆撃機として開発と生産が命令され、そして運用されたが、全く満足いく結果は出なかった。
戦闘機としての方針転換があったのは、1945年に入ってからだった。
連合軍が、ヨーロッパの地中海側で制空権を奪うようになると、既存の戦闘機だけでは苦戦以上の苦戦を強いられるようになったのが原因していた。
特に連合軍が、重爆撃機などで前線より少し内陸部の戦術爆撃を大規模に行うようになると、この迎撃が急務となった。
そして連合軍は、新型の高速重爆撃機(「B-29」または「連山」)を用いた交通網に対する戦術爆撃を重視していた。
そして爆撃自体は昼間の爆撃が多く、しかも当初は高々度からの爆撃が多かった。
特に「B-29」は、成層圏に近い高空からの爆撃を好んだ。
そして今までを大きく上回る高空、高速という敵の条件に対して、最も有効な迎撃手段がジェット戦闘機の配備だった。
この時期のドイツは、各社にジェット機の開発促進を求めていたが、完成して運用まで至っていた機体は「Me262」しかなかった。
このため前言撤回で戦闘機としての改良と量産が急ぎ進められ、戦闘機型は1945年3月には登場し、5月には実戦配備が始まった。
しかし「Me262」は双発機で速度以外は戦闘機としての能力は高くはないし、双発機なので資源的にも不利なので、単発機で対戦闘機戦闘にも優れた機体が各社で進められることになる。
そうした中で、45年5月にフランスで実戦航空隊が作られた「He162 サラマンドラ」が注目されたが、結局ドイツ空軍が採用することは無かった。
「他国の機体」を採用することは混乱を招くというのが一応の理由だが、ハインケル社は元々ドイツの会社だが、反ナチス的とされた事よりも、メッサーシュミット社が政治的横やりを入れたのは間違いないだろう。
既に実績もある「He280 F ミラージュ」については、見向きもされなかった。
一方でメッサー社では、「Me1101」の名称を持つ先進的な設計のジェット戦闘機の開発が急ぎ進められており、フォッケウルフのクルト・タンク博士らも「Ta183 フッケバイン」の試作と試験を続けていた。
しかしどちらも先進的過ぎるため短期間での実用化が難しく、1945年12月の時点ではどちらも数百機の量産が命令されながら、増加試作機での試験を続けている状態だった。
実験中の事故も一度では済まなかった。
なお、あまりにも先進的な姿を持った機体として一部で有名な全翼機の「ゴーダ Go229」は、この時期もまだホルテン兄弟の手によって試験が続けられていたが、ヒトラー総統の期待をよそに実用化の目処は立ちそうになかった。
ドイツの航空機開発は一部では先進的な面は見られたが、多くが先を行きすぎて合理的、実用的ではなかった。
主にレシプロ戦闘機の強化で対応した連合軍とは、対極を成していると言えるだろう。
・ジェット爆撃機
第二次世界大戦で、ほぼ唯一の実用ジェット爆撃機が「アラド Ar234 ブリッツ」になる。
同機体は1944年秋には実戦配備が始まり、1945年になると東部戦線を中心に配備が進められるようになる。
ソ連赤軍のバグラチオン作戦での阻止爆撃でも、一部が活躍した。
だが、黎明期のジェット機なので、主にエンジンに不安を抱えているため洋上での使用は厳禁とされ、地中海方面でも乱気流の多いアルプス地域での運用には制限が付けられていた。
また、ジェットエンジン自体が予備を多数揃えておかないと戦場での運用に支障をきたすのだが、エンジンの生産が全く足りないため生産数も伸び悩み続けていた。
これは本機の責任ではなく、戦況の悪化による生産現場の混乱とドイツの生産力の限界のためだった。
加えて言えば、この年代ではジェットエンジンの大量生産はまだ少し早かった。
このため爆撃機としてよりは高速偵察機としての運用が主になされ、敵機を寄せ付けない高速を武器として偵察に威力を発揮する事となる。
性能自体は、エンジンの調子が良好でパイロットが標準以上の能力であれば、敵機を振り切って任務を果たす事が出来た。
とにかく巡航速度が速く高空での運用が可能なので、連合軍にとっては非常に厄介な相手だった。
俄にアメリカと日本で、ジェットエンジン搭載の迎撃戦闘機の開発が進められたほどだった。
しかし戦術爆撃に用いるとなると、確率論で打ち上げられる地上からの濃密な対空砲火には弱く、この時代にジェット機を爆撃機として用いる事の問題の多さも示す機体となってしまっていた。
結局ドイツ空軍は、レシプロ機の「Ju188」「Do217」そして「Hs129」の生産を重視した。
とは言え、爆撃機よりも各種戦闘機の生産をより重視しなければならない事も、世界初のジェット爆撃機の生産を低調なものにしたのは間違いないだろう。
・その他の新型機
ドイツ空軍の戦闘機といえば「メッサーシュミット Bf109」と「Fw190」系列の機体になるだろう。
この二つの機体は、共に第二次世界大戦で最も量産された機体の一つに数えられ、特に「 Bf109」は生産数のギネスコードを有しているほどだ。
そして1945年でも「Bf109」はイギリスのスピットファイアと並んで、第一線機として運用されていた。
この頃の「Fw190」は発展型といえる「Ta152」の生産に移行し、徐々に主力機としての座を掴みつつあった。
「Ta152」へと移行したのは、性能もさることながら連合軍の爆撃機が厄介になっていた証でもある。
そうした中での新型機の多くは、種類としては連合軍の重爆撃機に対抗した夜間戦闘機だったが、夜間戦闘機はレーダーなど戦闘機としては重い装備も多いので基本的に双発機となり、当然ながら生産に手間のかかる機体が多い。
そして連合軍は夜間爆撃や都市爆撃を重視せず、前線での戦術爆撃と後方での輸送網の破壊を重視し、どちらも護衛を伴った昼間の運用を重視しているため、夜間戦闘機の開発と生産は常に低いまま維持されることになる。
ハインケル社が開発した革新的と言われる「He219」夜間戦闘機も、「ビボン(Bubo=ワシミミズク)」としてフランス空軍で採用され少数がパリ防空などで運用されたに止まっている。
変わり種の双発機としては、ドニエル社が開発した「Do3335 プフィール」がある。
本機はエンジンとプロペラを前と後ろに串刺し状に備え、高速発揮が可能だった。
同機は爆撃機メーカーの老舗が作った爆撃機であり、限定的な対戦闘機戦闘も可能という程度の能力しか無かった。
だが最高速力763km/hを誇る俊足で、ジェット爆撃機に劣らない速力が特徴だった。
しかし、ドイツ空軍全体で戦術爆撃機の需要より戦闘機の需要が高まっていた為、一度爆撃機としてデビューするも戦闘機もしくは戦闘爆撃機としての改良が行われた。
そうして1945年2月に量産型が誕生したのだが、爆撃機を落とす以外に戦闘機としての使い道に乏しく、双発機のためエンジンの生産などで足かせがついてしまい、結局大量生産には結びつかなかった。
生産された機体も、大隊編成をせずに中隊単位に止められ、主な用途も俊足を活かした戦術偵察と奇襲的な戦術爆撃に限られていた。
重爆撃機の迎撃も行ったが、あくまで補助的な任務に止まった。
1944年後半以後のドイツには、とにかく使い勝手が良く出来る限り生産単価の安い戦闘機こそが求められていた。
・弾道弾・ロケット
ドイツ軍の先進的な新兵器の代表と言えば、やはり世界初の弾道弾は外せないだろう。
「A-4」もしくは「V-2(報復兵器2号)」で知られる準中距離弾道弾は、マッハ6近くの速度で天空を切り裂いて突然落下してくる脅威の兵器だった。
最大射程距離は320キロメートル程度。
一度発射されてしまえば迎撃は不可能で、心理的衝撃が非常に大きな兵器だった。
しかし当時の技術では、多少の爆弾を搭載した「高価な爆弾」の一種でしかなく、戦術的な効果は低かった。
しかも命中精度が非常に低いため、戦術兵器としても落第点に近かった。
このためドイツは、戦況が逼迫するまで研究以上の開発はしなかった。
状況が変化するのは、連合軍が地中海に出現して、ロシアで大敗を喫してからだった。
従来の兵器で敵の進撃を止められないため、新兵器に活路を見いだそうというのが心理面で開発を後押ししたのだ。
そしてその後は、徐々に制空権を失うようになると爆撃機の代替手段としての開発が促進されるようになる。
古くは1930年代から開発されていたが、急速な戦況悪化を受けて起死回生の兵器としてヒトラー総統の肝いりで1943年頃から開発が大規模化。
そして1945年夏頃に本格的な実用化にこぎ着け、冬の段階ではすでにドーバー方面、ポーランド方面、アルプス方面に実戦部隊の配備が進められていた。
しかし使い捨ての兵器になるので、爆撃量に対してコストが高く、エンジンの保守点検、燃料の保管(※人体に強い悪影響がある)など運用にも非常な苦労が伴われる。
このため、この時点でもヒトラー総統が期待したほど、他のドイツ人達も期待していなかった。
ついでに言えば、開発した当のフォン・ブラウン博士も、兵器としての開発は宇宙ロケットを開発するための手段としか考えていなかった。
それとは逆に開発と生産に力が入れられたのが、一種のミサイルである「V-1(報復兵器1号)」こと「Fi 103」飛行爆弾だった。
こちらは1944年頃から開発が始まるも、一年を待たずに量産開始にまでこぎ着けることが出来た。
同爆弾は、飛行機に近い形をした長距離ロケット弾で、パルスロケットによって時速約600キロで巡航できた。
飛行は搭載されたジャイロコンパスで行い、目標に到達したら墜落の形で投弾される。
既存技術で簡単作れる兵器であり、何よりコストが安い為(※「V-2」の約10分の1。
中型爆撃機の40分の1のコスト。)、新たな戦術爆撃の手段として大いに期待されていた。
しかし命中率が非常に悪いため、広い目標に対して大量に使用しなければ戦術的な効果を求めるのは難しかった。
また、航続距離(射程距離)が250キロメートルほどなので、敵地深くを攻撃することが出来なかった。
とは言えドイツ軍の目的は、同兵器を一斉にそして大量に使うことで、敵の後方や橋頭堡、補給拠点などに大打撃を与えることだった。
また場合によっては、敵の前線飛行場への攻撃も有効と判断されていた。
また一部では、航続距離を伸ばすための補助ロケット搭載型が開発されたり、命中率を上げるために安価で小型のレーダーの逆探知装置を搭載して自動操縦とある程度連動するタイプも開発されている。
また一部では、有人型も計画されていた。
そして来るべき「決戦」のために生産と備蓄に務め、1000発以上を一度に放つべく準備を進めていたのが1945年秋以後の事だった。
一部はソ連軍のバグラチオン作戦の後半で使用されたが、ソ連軍を驚かせるだけでなく、それなりの結果も残していた。
それ以外の誘導兵器だと、長らく連合軍海軍を苦しめた誘導爆弾と誘導ミサイルがあるが、この頃には母機となる爆撃機が少なくなっていたので、ほとんど使われなくなっていた。
それよりも重視され、そして開発されたのが「ライントホター」の名で知られる地対空ミサイルだった。
徐々に制空権を奪われているドイツ軍としては、航空機以外で制空権を奪い返す切り札の一つとなりうる兵器なので、1944年後半ぐらいから開発に力が入れられるようになっていた。
しかし開発は難航し、1945年冬の時点ではまだ実用化には至っていなかった。
他にも、研究レベルでは多数のミサイル、ロケット兵器が開発されていたが、ほとんどのものが実用化には遠かった。
・新型潜水艦
海のドイツ軍と言えば、やはり潜水艦だった。
主に北大西洋での活躍だが、アメリカが長らく大西洋を押し渡れなかった最大の原因は、欧州枢軸がカリブに陣取っていた事だけではなく、アメリカの円滑な生産を阻害し制海権を脅かす潜水艦の存在があればこそだった。
しかし連合軍、特にアメリカ軍が戦術と兵器を急速に洗練させ、部隊を充実させると、徐々に封じられていくようになる。
しかも欧州枢軸では、ドイツ海軍以外の潜水艦開発は低調だった。
イギリス本国には、ドイツが量産する大型、中型の潜水艦が図面と実物、さらには冶具までが提供されたが、イギリスが潜水艦建造を重視する事はなかった。
イギリス本国としては、1943年半ばまでは自らの海外領土との海上交通を維持することの方が、はるかに重要度が高い優先課題だったからだ。
またイギリス本国は、制海権を守る側こそが勝者であると理解していた。
安価な兵力を揃えた通商破壊戦は、歴史上常にじり貧になっているからだ。
他の枢軸陣営のイタリア、フランスは、イギリス本国よりは潜水艦建造を重視していたが、質量共にあまり頼りにはならなかった。
そこでと言うわけではないが、ドイツ海軍は自らだけでも潜水艦開発を重視した。
そうした中での新兵器は、水中で高速機動できる潜水艦と、長時間潜行できる潜水艦だった。
前者が水中高速型とも言われる、その後登場する涙滴型型につながる流線型のシルエットを持ち、電動推進と充電を大幅に強化したタイプだった。
後者は、当初はオランダで発明されたシュノーケル装置で対応されたが、連合軍がマイクロ波レーダーを装備すると、水上に出た小さな目標すら探知されるようになって威力が低下した。
そして充電池だけで水中行動するには限界があるため、酸素を内包した過酸化水素水(H2O2)を用いた動力装置の開発が行われる。
だが、過酸化水素水自体が危険で高価な上に、扱いが非常に繊細で面倒なため、凝り性といわれるドイツでも実験艦以上に発展させることが出来なかった。
実験艦が戦場に投入された事もあったが、単に水中を長く動くだけでは連合軍の高度で濃密な対潜水艦戦術には通用しなかった。
水中で高速機動できる潜水艦の方は、「XXI型」として1943年中頃から開発が始まる。
だが、まだ戦況が逼迫しているとは言えなかった事、大型水上艦艇の建造を優先していた事、既存潜水艦の建造の削減が躊躇われた事などから、開発と量産開始の双方が遅れた。
量産が開始されたのは1944年に入ってからだったが、それでも数は多くはなく、建造速度も比較的緩やかだった。
大きく変更されたのは、1944年6月にドイツ海軍の総司令官がデーニッツ提督に交代してからだった。
デーニッツ提督は、従来の潜水艦の建造計画を全て変更して「XXI型」を大量生産する事を決める。
そして建造には、大量建造に向いたブロック工法が採用されるなどした結果、1945年後半には主力潜水艦の一角を占めるまでになっていた。
兵器としても従来の潜水艦よりも有効で、大戦初期に主に日本海軍が運用した小型の護衛艦艇では、速度の問題から対応が非常に難しかった。
だが、「XXI型」が登場したのは、1945年中頃だった。
この頃には連合軍の護衛艦艇の主力は、速力が20ノット台半ばが出るアメリカ製の贅沢な装備を載せた護衛駆逐艦だった。
より贅沢な艦隊型の大型駆逐艦も、数百隻が実戦配備に就いていた。
さらに護衛空母も100隻近い数が前線配備されていた。
装備の方も、磁気探知装置、高性能マイクロ波レーダー、対潜誘導魚雷、対潜ロケットランチャー、様々な対潜爆雷など兵器が充実していたので、「XXI型」の高性能をもってしても「従来型よりマシ」という程度でしかなくなっていた。
特に様々な装備を満載した重爆撃機改造の対潜哨戒機は、昼夜を問わず潜水艦の天敵となっていた。
しかし従来より高性能なのは間違いなく、連合軍を少なからず苦しめる事ができた。
しかも「XXI型」は、新兵器によくある連続する初期不良に悩まされた。
加えて乗組員の練度不足、さらには燃料不足もあって、初期の頃は活躍と言えるほどの活躍も望めなかった。
だが、潜水艦としては連合軍を含めても頭一つ分優秀な事に違いなく、ごく少数の熟練した艦長と乗組員が連合軍に十分対抗する事が出来た。
連合軍も最優先目標としていたほどだ。
紹介した以外にも、当時の技術先進国だったドイツが開発した新兵器は多数に上るが、多くの新兵器は俗に言われる「戦場の蛮用」には耐えられず、ごく一部が実用化され、さらにその中の一部が限定的に活躍できたに過ぎなかった。
連合軍が恐れたと言われることも多いが、多くは連合軍の「敵は強いので油断するな」という味方に対する宣伝でしかなかった。
だが、戦車のように現用技術の延長線上にある新兵器は、確かにドイツ軍に新たな力を与えた。
連合軍にも小さくない脅威をもたらした。
そして彼らは、その新兵器を用いることで戦局を戦争から政治へと転換するより残された道が無かった。