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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
102/140

フェイズ68「WW2(62)バグラチオン作戦」

 1945年初夏のロシアの大地は、ソ連赤軍にとって次なる総反攻の時だった。

 


 1945年初夏の時点でのドイツ、ソ連両軍の問題は、ベラルーシ(白ロシア)方面だった。

 それまでの戦いの結果、ドイツ軍をはじめとした枢軸軍は、南部のウクライナの殆どから追い出されていた。

 北部でもレニングラード正面から後退を余儀なくされた。

 しかしソ連軍主力が南部にいたこともあって、中央戦線はそれほど後退していなかった。

 この結果、ベラルーシ東部にはドイツ軍のバルコン(突出部)が形成される事となる。

 

 ドイツ軍としては、可能な限りソ連軍の欧州への侵攻を防ぐために、ベラルーシでの戦いを時間稼ぎの場と考えていた。

 もう、それが出来るのが、ベラルーシ東部しか残されていないからだ。

 しかし突出部となっているので、戦線が伸びると共に付け根の部分が大きな弱点となっていた。

 このためドイツ軍は、付け根の部分に機甲軍など有力な部隊を配置して、ソ連軍が仕掛けて来るであろう包囲殲滅戦に備えた。

 また一部の兵站拠点となる鉄道結節点の都市では、長期間の保持を目的とした要塞化も進められた。

 例えソ連軍が大きな前進に成功しても、兵站線(補給線)が伸ばせない限り、次の進撃は極めて難しいからだ。

 

 なお、ドイツ軍がソ連軍は包囲殲滅戦を仕掛けると決めてかかっていたのは、ソ連軍が戦闘教義として包囲戦を好んで行う傾向があり、戦争中でも度々見られたからだ。

 正面決戦として始まったクルスクの戦いが多少例外だが、それは「満州軍が勝手に前進したから」と結論されていた。

 

 一方のソ連軍は、現代でも知られているように、この時の攻勢の初期段階では圧倒的戦力を用いた正面突破戦闘を企図していた。

 正面からの攻勢に対して、ドイツ軍は通常ならば小規模な機動防御戦で早期に戦線の「火消し」を行って戦線の安定化を図ろうとする。

 これを逆手にとって、ドイツ軍の予測や想定を遙かに上回る戦力でさらなる突破戦と、突破後の小規模な包囲戦を連続して行うことで、単にドイツ軍の突破するだけでなく、ドイツ軍の戦線そのものを崩壊させようと構想していた。

 

 ソ連軍にはそれが出来るだけの戦力が揃っていたし、この頃には柔軟な戦いに対応できる将軍、将校も多数育っていたからだ。

 しかし不安点も皆無ではないので、作戦実行までに不安点を少しでも無くす努力が行われた。

 


 ソ連軍が不安に感じていたのは、制空権に関してだった。

 

 それまでソ連空軍の主力は、陸軍と共に南部にあった。

 まずはこれを配置換えしなければいけない。

 しかしドイツ空軍もベラルーシ方面に兵力を集中させつつあった。

 しかも戦線がバルカン半島まで迫った事で、ルーマニアに陣取るドイツ第三航空艦隊の一部が、ソ連空軍と戦うようになっていた。

 ロシアの空のドイツ空軍は、稼働機約1500機程度だが、プラス300機程度も対戦相手に含めなければいけなくなっていた。

 そして数で圧倒するソ連空軍だが、質の面ではドイツ空軍に一歩も二歩も譲る状況に大きな変化はなかった。

 以前よりかなり改善していたのだが、それでも埋めきれない溝は広かった。

 その象徴が、1945年に入ってから飛び始めていた実用ジェット戦闘爆撃機の「Me262 シュヴァルベ」とされている。

 

 とは言え、初期の戦闘爆撃機型の「Me262」は、ソ連空軍の脅威とは言い切れなかった。

 戦術爆撃機としては、爆撃精度は甘いし搭載量も少ないからだ。

 確かに速度は異常に速いが、それならば45年春頃から前線に出現し始めた「Ar234 ブリッツ」ジェット爆撃機の方が、爆撃機としてずっと脅威だった。

 「Me262」は迎撃戦闘機として運用されると大きな脅威だが、45年初夏の頃にはロシア戦線にいなかった。

 

 ドイツ空軍の一番の脅威はお馴染みのメッサーやフォッケなど結局のところ既存のレシプロ機で、主に質の面でソ連空軍に対抗していた。

 大戦中に400機もの撃墜数を誇る超エースが登場したほどだ。

 対するソ連空軍は、親衛隊など一部精鋭部隊を除けば、パイロットの質は低いままだった。

 そして前線でのソ連空軍の制空権は絶対と言えず、ソ連軍指導部が求めていたベラルーシ方面後方での、枢軸軍兵站線の破壊が不十分になる恐れが出ていた。

 またドイツ空軍の偵察阻止も完全には難しく、作戦の秘匿面でも問題を抱えたままだった。

 

 そこで、ベラルーシより少し南に展開していた満州帝国空軍に支援要請が求められた。

 


 この時期のソ連空軍は、稼働機全てを集めると1万機近くに達していた。

 45年初夏の作戦では、このうち60%、しかも精鋭部隊を集中的にベラルーシ方面に投入予定だった。

 そしてソ連全軍の15%に匹敵する戦力を、ロシアの空を舞う満州帝国空軍第一航空軍は有していた。

 保有する航空機は全て供与かレンドリースだが、この頃の連合軍のほぼ最新鋭機で固められていた。

 

 連合軍のレンドリースでお馴染みとなっている、アメリカ製の「F4U コルセア」、「P-51D マスタング」、「P-47D サンダーボルト」。

 特に満州空軍は、戦闘爆撃機仕様でロケットランチャー装備の「F4U コルセア」を好んで使っていた。

 チャンス・ボート社も、現地にまで多くの社員と技術者を出向させていた。

 緑や茶色、場合によっては白を基調とした冬季迷彩されたコルセアは、満州空軍の特徴の一つだった。

 また日本製の「川崎 一式重戦闘機 飛燕III型」、「中島 三式戦闘機 疾風」、「三菱 三式艦上戦闘機 烈風」もかなりの数があった。

 「 飛燕」はソ連向けの初期レンドリースとしても活躍しているので、ロシアでの知名度も高くソ連空軍でも愛用されていた。

 

 そして少数だが、ドイツの新鋭機に対抗できるように「疾風改」の先行型、「烈風改」も急ぎ配備が進められていた。

 前線が欲しいといえば、東鉄など後方兵站を担当する人々がどこからともなく機体を調達してきた。

 この時期に日本製のジェット機が飛んでいたとも言われている。

 

 爆撃機は、こちらもお馴染みの「ノースアメリカンB-25 ミッチェル」、「マーチンB-26 マローダー」、「ダグラスA-20 ハボック」が殆どで、ソ連の「IL-2 シュツルモビク」も満州空軍機としてはお馴染みだった。

 他に「P-69 キングコブラ」が、地上支援任務のみの機体として運用が続いていた。

 それ以外にも、僅かだが「ダグラスA-26 インベーダー」、「ボーイングB-17G フライングフォートレス」もあった。

 

 そうした中でさらに珍しいのが、日本の中島飛行機が開発したばかりの「中島五式重爆撃機 昇龍」だった。

 


 「昇龍」は、「キ91」の名で開発されていた4発の大型重爆撃機になる。

 もともと「キ91」は、川崎飛行機が計画した機体に充てられていた開発名だが、川崎が「飛燕」と各種輸送機(1式貨物輸送機、他社のライセンス生産)の生産に力を入れるため、軍需省と陸軍が大型爆撃機の開発から降ろさせていた(※川崎の重爆撃機開発能力の不足も指摘されていた。)。

 おかげで「飛燕」は各種合計1万5000機以上生産され、日本軍最多生産戦闘機となった。

 

 そして海軍での三菱との競争に敗れた中島飛行機が独自開発中だった機体に、「キ91」の名を引き継いで開発継続することとなった。

 

 中島の「昇龍」は、計画当初は海軍の発注に従い雷撃能力を持たせていたが、もともと重爆撃機に高度な雷撃能力を付与するのは無理がある為、そして中島が三菱ほど思いきった設計を行わなかったので競走に敗れてしまった。

 それを陸軍が運用する「一式陸上攻撃機(深山)」の陸軍型の「二式重爆撃機(飛龍)」の後継機として、軍需省の指導の元で陸軍機として改修して完成したのが「昇龍」だった。

 ただし構想当初は、中島社長の意向により大型の機体な上に6つのエンジンを搭載する超大型機の予定だったため、あまりにも巨大すぎるとして発注時に大幅に計画を縮小させている。

 

 そうして完成した能力は、雷撃能力がないだけで三菱の「連山」とほぼ同じ能力をもっていた。

 連山同様に、計画段階であった余圧室や排気タービン過給器の搭載は止めたので堅実な設計となったが、後の開発で装備できる配置になっていた。

 防御力、高空性能も十分で、アメリカの「B-29」以外と比較するなら十分に高性能重爆撃機だった。

 そして後の改良を受け入れる余地がある事から、陸軍での採用が決まった。

 軍需省も、後々のことを考えて三菱、中島の二社に重爆撃機開発能力を維持させるためにも、この機体の採用を後押しした。

 

 とはいえ日本陸軍航空隊は、「昇龍」を装備したはいいが持てあましていた。

 戦略爆撃は中華民国にしたっきりだし、生産と運用双方に金と手間のかかる重爆撃機そのものを嫌っていた。

 しかも戦術爆撃機なら、日本製よりアメリカ製の機体の方が性能も使い勝手も良いので、前線の将兵も日本製爆撃機をあまり求めていなかった。

 

 このため一部というか生産数の半数近くがレンドリースに回され、その殆どが満州帝国空軍へと貸与された。

 

 貸与された満州帝国空軍も、大型機を持てあました。

 今までは少数の「B-17」を偵察機やレーダー哨戒機として使ってきたぐらいで、パイロットが足りていなかった。

 このため中隊単位で部隊を編成するための訓練を前線でするハメになり、有り難迷惑というのが実状だった。

 しかし総司令官のドーリットル空軍大将は、この新たな機材がこれからの戦いに「使える」と考えた。

 

 長い航続距離、多少限定的ながら高い高空性能、大きな搭載能力は、今までのロシア戦線にはほとんど見られなかった特徴だからだ。

 あえて必要のない能力ばかりだから今まで重爆撃機の数が少なかったのだが、これからはドイツ本土に進むためにある程度の都市爆撃や後方の兵站拠点の爆撃に必要になりつつあった。

 

 その試金石として、ドーリットル将軍は作戦を立案した。

 

 その作戦とは、デモンストレーションとしてのベルリン爆撃だ。

 「見せる」爆撃を成功させ、装備体系に大規模に組み入れようという魂胆だった。

 


 今までも、ソ連空軍により何度かベルリン爆撃は行われた。

 しかし成功したのは最初の頃の奇襲的空襲だけで、後はドイツが首都の防空体制をある程度固めてしまったため、殆どが失敗するか政治宣伝以上の効果は無かった。

 失敗の主な原因は、ソ連空軍に遠距離航行が可能な有力な重爆撃機が、少数のレンドリースぐらいしか無かった為だ。

 にもかかわらず、1945年春の時点でもスモレンスク、キエフからベルリンまでの距離は、約1300キロメートルも離れていた。

 そしてソ連がベルリンを爆撃できる余裕が出てきた1944年頃には、連合軍がヨーロッパを爆撃圏内に収めつつあるため、ドイツ空軍が本土の防空体制をより強固に整えつつあった。

 このためソ連空軍では、デモンストレーション以外でのベルリン爆撃はもう少し先の事と捉えていた。

 

 ドーリットル将軍は、その先を行こうというのだった。

 

 そして後方の基地でパイロットが集められ、2個中隊32機による訓練が、短期間ながら激しく行われた。

 

 作戦は、キエフ郊外の飛行場を飛び立って、まずはワルシャワを夜間爆撃すると見せかける。

 しかし最終段階で進路を少しずらして、大きく増速した上で一気にベルリン上空へと突進。

 約500キロの距離を1時間弱の短時間で突進する。

 そしてベルリン中心部にレーダー照準で爆弾を落とし、その後は進路を真北にとってバルト海に抜ける。

 後はバルト海を通ってレニングラード方面に帰投するというものだった。

 

 「昇龍」は5000キロメートル以上の航続距離があるので途中を増速状態で進んでも問題はなく、爆撃自体は精度を求めないので小型の散布爆弾を大量に絨毯爆撃で投下する事になっていた。

 

 そしてワルシャワ爆撃の夜間爆撃と思わせるので、それまでに本当のワルシャワ爆撃を実施して、相手の注意をワルシャワに向けさせると同時にベルリン方面の油断を誘う。

 さらにベルリン爆撃も夜間として、バルト海のドイツの勢力圏もほとんど夜間に抜けきる事が出来ようにスケジュールを組む。

 そしてベルリンを抜けてしまえば、高々度の海上を飛ぶ爆撃機を邀撃できる戦闘機を、ドイツ空軍はほとんど持っていなかった。

 

 作戦決行は1945年4月18日。

 

 計画当初から唯一変更されたのは、部下達の懸命の説得によって将軍自らが陣頭指揮すること断念しただけだった。

 ドラマなどでは、こっそりと爆撃機に乗り込もうとするドーリットル将軍を、副官や参謀などが力ずくで引きずり降ろすのが定番シーンとなるが、その逸話の大元はこの時のエピソードだと言われている。

 


 満州空軍によるベルリン爆撃は、結果として大成功した。

 

 ドイツ空軍は不意を打たれた形となり、ベルリン郊外から慌てて飛び立ったインターセプターの殆どが「昇龍」部隊に会敵すら出来なかった。

 高度8000メートルを最大時速570km/hで突進するので、同じ高さの空で待ちかまえておかないと迎撃は極めて難しかった。

 しかも夜間攻撃なので、レーダー装備の上で高速発揮できる夜間戦闘機がほとんど配備されていないので、予測位置に高射砲を打ち上げるしかないのが実状だった。

 ごく少数の機体が幸運も手伝って会敵できたが、夜間戦闘機自体の機材も戦術も未熟だったので、有効な打撃を与えることなく満州空軍機の侵入と爆撃、そして離脱を許した。

 

 「昇龍」爆撃機隊はゆうゆうと帰投し、レニングラード郊外の飛行場で蘇満双方の将兵達から英雄として迎え入れられた。

 

 爆撃効果自体も、複数機によって測定したレーダー照準によって実施したため、ベルリン中心部に投下できた。

 小型爆弾ばかりなので大きな損害は出なかったが、作戦参加機数と比較すると広い範囲に被害が出ていた。

 

 そして何より、ドイツ空軍、ヒトラー総統とベルリン防空は万全と豪語していたゲーリング国家元帥の面子は丸つぶれであり、責任者の処罰ぐらいでは済まなかった。

 当のゲーリング国家元帥も、失態の責任を取って1週間の謹慎をしたほどだった。

 また現実問題として、ベルリン防空、ひいてはドイツ本土の夜間防空が敵新型機に対してほとんど機能しない事が暴露されたため、急ぎ強化しなければならなくなった。

 

 ヒトラー総統が激しい口調で命令したように、急ぎ防空網の充実と改善が実施されたが、それは前線での戦力を低下させ、前線の受ける重圧を強めることとなった。

 

 そしてドーリットル将軍が目論んだのも、ヒトラーの顔に泥を塗りに行く事だけではなく、その結果起きる事によって間接的にロシアの空での優位を強めるためだった。

 


 一方で、現地の満州空軍自体は、目の前の戦場での支援も疎かにする気は無かった。

 1945年春が到来した時点で南部戦線は、部隊の再編成、兵站線の伸長と構築のため停止しているので、空軍もそれほど忙しくはなかった。

 だからこそソ連空軍も主力を中央へと移したのであり、満州空軍も一部が再編成や休養に入るも、かなりの戦力をベラルーシ方面に向けた。

 

 満州空軍は、戦力の三分の一に当たる1個航空団を制空権獲得と補給路、補給拠点の破壊に向けて、ソ連空軍と共にベラルーシのドイツ軍を疲弊させていった。

 

 そしてソ連空軍が制空権を圧倒的優位としてしまうと、ドイツ軍が手に入れることの出来る情報の多くを遮断することが出来るようになった。

 これが攻勢のための最初の「下準備」だった。

 

 その後も初夏を目指した作戦準備は続けられたが、ほとんどがソ連の思惑通りに運んだ。

 


 そして1945年6月15日、「バグラチオン作戦」と命名された白ロシア作戦が遂に発動される。

 

 あまりにも規模が大きい戦闘のため詳細については割愛するが、ソ連軍の作戦は大きな成功を収めた。

 

 この時の攻勢も、通常通りの限定された攻勢だと考えて各所で機動防御戦に出たドイツ中央軍集団は、初期の段階で先鋒集団が予測を大きく上回る攻撃を受けて、津波に押し流されるように壊滅していった。

 そしてその後もソ連軍の犠牲を省みない大規模な攻勢が続き、ドイツ軍は建て直しができないままソ連赤軍の赤いローラーの前に踏みつぶされていった。

 強引な突進なのでソ連軍の損害も小さくはなかったが、ソ連軍にとって損害は折り込み済みなので作戦に齟齬が出ることもなかった。

 対して、ソ連軍以上にドイツ軍が受けた打撃は大きかった。

 あまりの多くの損害のため、短時間で空前の規模の戦死者を出した戦いとして、ギネスブックに記録されるほどだった。

 (※一度の大軍降伏だと、1940年の中華民国軍がギネス記録とされている。)

 しかもソ連軍の攻勢はこれだけではなく、ベラルーシの都ミンスクの解放、北部のバルト方面軍による大突破によるドイツ北方軍集団とドイツ本土の分断、そして一気にポーランド東部にまで侵攻するという激しい攻勢となった。

 (※この地域は、進撃には向いているが防御には向いていないというのもある。)

 最大進撃距離は約5週間の作戦で700キロに迫り、1941年初夏のドイツ軍のソ連侵攻に匹敵する電撃戦となった。

 そしてあまりにも見事な電撃戦は、その後ソ連赤軍を敵とする人々を恐れさせる最大級の成功例として長く記憶されることになる。

 


 だが、ソ連軍の攻勢も完全な成功では無かった。

 

 準備をしてもなお、ドイツ空軍を完全に排除できなかった為、事前偵察こそ許さなかったが、度々阻止攻撃を受けて進撃が一時的に停滞することがあった。

 このためドイツ地上軍の一部脱出を許した。

 特に第3装甲軍の多くの部隊の脱出を許し、さらにその後再編成された第3装甲軍の一部部隊によって外から包囲の一部が破られ、他のドイツ軍部隊の脱出までも許した。

 大規模すぎる作戦のため、第一線以外で本当の意味での熟練兵が少なかった事が、進撃途上でのソ連軍の連携不足を呼び、ドイツ軍の脱出を許すことにつながったのだ。

 

 そして最大の失敗は、ドイツ軍北方軍集団のドイツ本土からの分断と、その場での包囲に失敗したことだった。

 

 ドイツ軍は、空軍が献身的に稼いだ貴重な時間を使い、ドイツ本土側に向けて総退却を実施した。

 現場の懸念はヒトラー総統の死守命令だったが、比較的早くに事態を把握したヒトラー総統も追認の形で「必要最小限の後退」を認めた。

 それでも殿しんがりを受け持った部隊以外にも、かなりの部隊がソ連軍に包囲されてしまい、現在のラトビアの半島状になった僻地に5万以上の兵士が閉じこめられてしまう。

 

(※その後海軍が中心となって救出作戦が行われたが、ドイツ側の兵力の少なさと救出艦船の少なさから、救出できたのは半数程度で、残りは1945年内にほぼ全滅している。)

 ただしこの後退は、ドイツ軍部隊の多くが重装備を棄てて逃げ出す事で実現された場合が多かった。

 当然だが、逃げてきた兵士達は再装備、再編成するまで兵力としては使えず、ソ連軍がワルシャワ前面まで迫るのを阻止することが出来なかった。

 また、最大の獲物を逃したソ連赤軍の追撃も激しく、ソ連軍の自らの損害を構わないような猛烈な追撃戦により、かなりのドイツ軍部隊が後退途上で捕捉撃滅されている。

 

 しかし、かなりの数のドイツ軍が脱出できたことには違いなく、ソ連の攻勢は将兵と機械化装備の疲労と補給線の長大化などのため、徐々に停滞を余儀なくされていった。

 特に北方軍集団主力を逃したツケは大きく、ポーランド東部に進撃したソ連軍は、何度も北方からの牽制攻撃を受けて進撃を停滞させることになった。

 

 また、東プロイセン東部では、ドイツ軍が断固とした意志で防戦に務めたこともあり、ソ連赤軍は旧ドイツ国境(第一次世界大戦前の頃)に踏み込むことは出来なかった。

 プロイセン発祥の都市とすら言える歴史的な街ケーニヒスベルグの前面地域は、ドイツ人の不退転の決意を体現したかのような要塞陣地群が建設されていた。

 


 また、ワルシャワ正面とはドイツ本土東部の正面も同じのため、ポーランド東部の主要都市ブレスト=リトフスクをはじめとしてビアリストク、ルブリンなど多くの都市が、1944年夏以後の工事で鉄とコンクリートにより要塞都市化が進められていた。

 クルスクの戦いで敗北した時に最初の具体的な計画が立案され、秋には具体化し、そして冬には各地で工事が開始された。

 工事は主にポーランド東部と東プロイセンの一部で行われた。

 ルーマニア方面でも行う計画だったが、南部は戦線がなかなか安定しない上に資材も労働力も足りないため、工事は後回しとされた。

 

 ポーランド首都だったワルシャワも、ヴィスワ川沿いの地区や外縁部を中心として要塞化が進められたため、多くのポーランド人の反発が起きて、多くの者をゲリラに走らせることにもなった。

 しかも要塞陣地の一部は、その後のワルシャワ蜂起でポーランド市民に使われてしまう事にもなる。

 

 ソ連軍が必ず必要とするブレスト=リトフスクなどは、欧州枢軸がロシア戦線で完全に守勢になった1944年秋頃から大規模な要塞化が実施された。

 逆に他の多くの都市は、十分な要塞化とは言えなかった。

 それでも多くの鉄とコンクリート、そして徴用を含めた多数の労働力を投じることで、歴史と伝統を持つポーランドの街々を近代的な要塞都市にしたてていった。

 また都市に隣接する形で、周辺の地形そのものを変更する大規模な土木工事を実施した場所もあった。

 平坦すぎる地形では、いくら兵力を用意したとしても、膨大な数のソ連軍を止めることが出来ないからだ。

 

 これらの建設作業では、ポーランド内にも多数あったユダヤ人労働収容所の収容者達も過酷な労働にかり出されており、多くの犠牲が出たと言われている。

 ただし、ユダヤ人のかなり(約100万人)は近東のパレスチナに送り込まれていたので、ポーランド人の収容者が最も多数かり出されている。

 次いでロシアで得たソ連兵捕虜が多かった。

 また、要塞化と戦災による破壊からの復興は、戦後半世紀を経ても完全には修復されていないほどの傷跡を各地に残している。

 

 なお各街々では、煉瓦や鉄筋の建物の窓を塞ぎ、敵に対する側の壁を分厚くするなどでさらに強化して臨時のトーチカとしていた。

 しかも強制移住で無人とした家々には、そこかしこに爆薬などの罠を設置した。

 道という道にはバリケード、対戦車障害物、塹壕、鉄条網を設置し、高い場所には観測所や狙撃兵の陣地を作り、さらに進撃路となる街道には丈夫トーチカを作った。

 トーチカの中には戦車の砲塔を移設したものも少なくない数が見られた。

 特に重装甲の戦車の砲塔を流用したトーチカは、ソ連軍が必ず進まねばならない場所に複数設置して強固すぎる対戦車陣地群を形成した。

 当然ながら、長期間孤立して戦うことが前提なので、多くの弾薬と食糧などが各所の強固に作った倉庫などに備蓄された。

 

 ドイツ宣伝省は、ポーランド東部をドイツひいては欧州世界を東方蛮族から守るための「長城」や「防波堤」だと、後に宣伝したほどだった。

 

 このためソ連赤軍は、街を迂回することで進撃だけは継続することが出来たが、要所要所の都市は簡単に攻略できないので、進撃中は殆どの場合が包囲に止めなければならなかった。

 当然ながら十分な補給路が伸ばせず、またかなりの兵力を各都市の包囲と攻略に用いなくてはならなかった。

 特に鉄道路線が延ばせないのが致命的で、あまりにも攻略に手間と時間がかかるため、わざわざ迂回路線を敷設した都市もあったほどだ。

 

 これらの都市の攻略には、短いものでも一週間程度、長いものだと3ヶ月以上を必要とした。

 そして大規模な突破戦闘よりもはるかに多い犠牲と消耗、そして手間をソ連赤軍に強いることになった。

 それでも、ソ連軍が先にドイツ野戦軍に大打撃を与えていたおかげで、ドイツ軍が当初構想していた要塞都市と機動的な野戦軍を連携させた有機的な防衛網を機能させなかった事は、ソ連軍にとって非常に大きな成果であり幸運だったと言えるだろう。

 もしドイツ軍の思惑通り進んでいれば、戦争は半年から一年長引いたとすら言われている。

 

 しかしドイツ軍の野戦部隊は一時的に壊滅状態で、堅固な要塞都市は大海に孤立した岩礁でしかなかった。

 

 だがそれでもソ連軍の進撃は、ロシア領内を越えると急速に鈍化した。

 本来ならソ連軍は、8月には旧国境のブーク川を越えている予定だったが、9月に入ってようやく越えるができた。

 ワルシャワ前面に至ったのは9月半ばだったが、補給線が伸ばせないため秋が深まってもそこより先へは一歩も動けない状況だった。

 前線の一部では補給が滞り、最低限の物資しかないような状態も見られた。

 

 ソ連赤軍が同年夏に起きた「ワルシャワ蜂起」を助けなかったのは、共産主義的ではない人々を見殺しにしたためだと言われるが、政治的にはそうかもしれないが、実際は動きたくても動けなかっただけだったという事が、1990年代になって明らかになっている。

 


 しかし、「バグラチオン作戦」と一連の攻勢でソ連は国土奪回を果たし、そればかりか東ヨーロッパへと進撃する事で戦争を完全に逆転させることに成功する。

 

 加えてソ連軍の夏季攻勢は、南部でも実施されていた。


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