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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ08「WW2(2)英国分裂」-1

 ドイツの勝利で戦争は終わったかに見えた。

 だが、交戦国はまだ残されていた。

 ヨーロッパの雰囲気とは別に、世界はまだ「第二次世界大戦」にもなっていなかった。

 


 1940年7月18日に、パリのベルサイユ宮殿でドイツ (+イタリア)を戦勝国とするイギリス、フランスなどとの講和会議が開催されたが、フランスと違ってイギリスは大揺れとなった。

 フランスは海外に多くの植民地を持っていたが、自治領と言えるほどの場所は無かった。

 またパリ陥落に代表されるように国土の半分近くを蹂躙されたため、国民の戦意も多くが失われていた。

 これに対してイギリスは、世界の4分の1の陸地を支配し、白人のみによる事実上の独立国や自治領が多数あった。

 また戦争自体も、海外で負けただけで英本国のブリテン島には上陸すら許していなかった。

 

 このため、英本国と各自治国、植民地に温度差があった。

 本国内はもっと激しく、簡単に降伏してしまった政府に対する反発が非常に強かった。

 しかも英本土には、ヨーロッパ大陸から逃げ出したばかりの西欧、北欧各国の亡命政府や王族が多数いて、英本国に対して非常な失望を感じていた。

 

 そしてハリファックス政権は、混乱を収拾できないまま講和会議に臨むしかなかった。

 


 ベルサイユで開催された歴史上何度目かの講和会議だが、開始前から波乱状態だった。

 ドイツの鮮やかすぎる勝利の余韻があったのであまり目立たなかったが、何よりも交戦国を残したままの会議だったからだ。

 

 会議前に出されたドイツ側の条件は、基本的に「穏当」なものだった。

 特にイギリスに対しては、基本的に枢軸同盟への参加と「旧に復すこと」だった。

 古い表現だと白紙講和に近いほどだ。

 フランスに対しても、第一次世界大戦前までドイツ領だった本国地域の返還が大前提で占領も見送られる予定だった。

 占領したばかりの他の西欧、北欧の国々に対しても、自由政府が本国に復帰して全ての植民地が本国に従うのなら、全てをもとに戻す用意があると公式に発言していた。

 

 ただし、勝敗を分かりやすく示すためという名目で、軍艦など一部兵器が賠償とされた。

 また戦費賠償も含まれたが、額は常識的な範囲でドイツが欧州的外交条件を提示した事にむしろ英仏をホッとさせた。

 

 問題だったのは、実質的に参戦しただけの日本に対してだった。

 まず驚くべき事に、ドイツ政府は日本に対して講和会議への参加を正式に求めなかった。

 この行動を突き詰めてしまえば、劣等人種の国家なのだから「自ら進んで会議に来るのが当たり前」という態度だった。

 これはホスト国として完全に失格であり、国際常識にも大きく欠けていた。

 そのくせ日本に対して、基本的に賠償金を支払う以外の事は求めないと発言していた。

 

 ただしこれは、当時のドイツ政府、特に外務大臣のリッペントロープの殆どスタンドプレーであり、ドイツの優位を世界に示すためのパフォーマンスの一環だった。

 ヒトラー総統も追認し、宣伝省も日本が進んで講和に来るべきだと煽った。

 

 当然と言うべきか、日本の世論が激高した。

 日本政府もドイツの無礼に対する日本の怒りを世界中に発信した。

 そして「ドイツ政府からの正式な要請が無い限り、日本は決して代表を送らない。

 当然ながら停戦にも応じられない」と発言するに至る。

 対してドイツは、日本は戦争を続けようとしていると非難するだけで、正式招待する事は無かった。

 

 もはや子供の喧嘩だが、国家の面子、特にドイツの傲慢な面子が、全てを台無しにしていた。

 


 世界の世論、特に新大陸の世論は日本に対して同情的で、尚かつ日本の高潔な態度を賞賛する向きが強かった。

 だがドイツは、日本を支持するのはドイツに敵対するのも同じだと宣伝したが、かえって世界の反ドイツ感情を高めただけに終わった。

 そしてこれで焦りを強めたドイツは、日本を無視して講和会議を進めてしまう。

 既に集まった各国代表を待たせるわけにもいかなかったからだ。

 

 7月16日よりパリのベルサイユ宮殿で開催された講和会議は、基本的には圧倒的勝利を飾ったドイツによる「欧州帝国」化を確認する会議となった。

 

 フランスは、ドイツとの間に改めて領土条約を結び、占領地からの撤退との交換条件に近い形で枢軸陣営にも参加する事となった。

 エルザス・ロートリンゲン (仏名アルザス・ロレーヌ)をドイツに割譲する事で、主要部からのドイツ軍撤退と領土復帰を認められたのだ。

 また別交渉では、捕虜の解放、軍備の再建も認められる。

 

 フランス降伏後にフランスを離反した植民地や軍の多くも、元のフランスに戻った。

 だが反ドイツ、さらには反イギリス感情の強いフランスは、一部亡命組織や人物がアメリカへの亡命を続けた。

 また一部の海外フランス領が、亡命したフランス人達が作った「フランス救国政府(亡命政府)」に属することを表明し、フランスは分裂する事になる。

 

 そしてアメリカ政府は、「正統なフランス勢力」への支援を約束。

 このフランス組織は、フランス降伏時に陸軍次官だったシャルル・ド・ゴールが代表となっていた。

 

 フランス以外のベネルクス三国 (ベルギー、ネーデルランド、ルクセンブルク)、ノルウェー、デンマークは、枢軸国への参加と親枢軸政権樹立を事実上の条件に独立復帰した。

 また全ての植民地も、本国に倣うことに合意した。

 主にロンドンに亡命していた欧州各国の自由政府は、ドイツによる主権復帰の公約を受けて、ほとんどが解散して王族なども帰国した。

 だが一部は、さらにアメリカなどに亡命する。

 

 イギリス側が講和条件の一つとしたポーランドの独立復帰については、ソ連も関わるため事後の案件とされている。

 

 そして会議の中で新たな軍事同盟の締結が行われ、ドイツ、イタリアにイギリス、フランスなど欧州諸国を加え、大防共同盟、通称「枢軸連合 (アクシス=ユニオン)」が成立した。

 もっとも一般的には、「欧州枢軸 (ユーロ・アクシス)」と呼ばれた。

 

 この同盟には、ほとんど全てのヨーロッパ諸国とその植民地が参加し、ドイツによる「欧州帝国」の成立や、「ゲルマン・コンクエスタ」を体現する存在となった。

 そしてこの条約により、ドイツ軍はドイツ軍の望む国、望む場所への無条件駐留が認められることになり、駐留費用も基本的には駐留される国が支払うというかなり過酷なものだった。

 


 そして問題だったのが、イギリス及び英連邦だった。

 

 イギリス本国では、講和会議に代表が到着するまでに、玉座の主が代わっていた。

 敗戦の責任を取るという建前でジョージ六世が退位して、親独派としても知られていたエドワード八世が緊急帰国して再度即位したのだ。

 しかもジョージ六世は、隠遁するという発表の後に姿を一時的に消して、その後カナダで「静養中」だと発表されてから再び姿を見せることになる。

 

 英国王が代わることはドイツも了承済みで既定路線ですらあったが、先王となるジョージ六世は最低でも英本国で実質的に軟禁できると考えていた。

 この点ドイツは、イギリス人を甘く見すぎていたと言えるだろう。

 イギリス政府は、既に私人となったので止めることは法に反するので出来ないと言う態度だったが、真意がどこにあるのかは明白だった。

 

 そして首相自らが会議に乗り込んできているので、イギリスの体面を傷つける事を特にヒトラーが拒絶した。

 ヒトラーとしては、今後はイギリスと手を携えてヨーロッパの覇権構築に邁進する予定だったので、英国の「多少のわがまま」は寛容な態度で対応するつもりでいた。

 

 このため会議で「英国内の問題」について触れられることはほとんど無く、リッペントロープの嫌味と取れる言葉をヒトラーが制したほどだった。

 

 おかげで講和会議での英国は、ドイツに対して程度問題の賠償金と兵器(主に軍艦)を渡すだけで済んだ。

 軍艦が賠償に含まれたのは、先の大戦でのドイツの雪辱を果たすためで、これだけはヒトラーも譲る事が出来なかった。

 ただし、軍艦はもらっても他国のものを使いこなすのには時間がかかるため、ドイツとイギリス双方の協議の後で決めるとして事実上先送りされた。

 


 そうして7月28日に会議は終了したのだが、全く平和は訪れていなかった。

 

 やはり問題は、イギリスとそして日本だった。

 さらにイギリスの問題に、アメリカが大きく介入してきた。

 

 ベルサイユ講和会議では、イギリスと英連邦各国は基本的に一つと考えられ、主権を持つ国の中には宣戦布告した国があるにも関わらずオブザーバー参加に等しかった。

 これは主にカナダに対する政治的配慮だった。

 カナダは北アメリカの国家で、北アメリカとヨーロッパが国際会議を持つことは、アメリカにとって伝統の「モンロー主義」に触れるので、英連邦も英本国の一部として扱うことで、出来る限りアメリカとの政治問題化しないようにしたためだ。

 

 また英本国と、各自治国、植民地にかなりの温度差があった。

 このため英連邦諸国の事は、イギリスの内政問題とされた。

 

 だが、英本国と各連邦の溝はドイツが考えたよりも深かった。

 カナダ、アンザックの白人連邦国では、イギリス本国に対する強い失望感があり、賠償割り当てにも強い不満があった。

 一方インドでは、イギリスが敗北した事で独立の気運が盛り上がるも、イギリスは実力で独立を抑え付けた為、不満はいっそう高まった。

 そこにアメリカが介入してきた。

 


 アメリカ合衆国政府は、かなり積極的な政治姿勢で参戦準備を進めている最中の突然の戦争終了に大きく混乱した。

 既に参戦してしまった日本ほどの混乱ではなかったが、日本以上にイギリスに「裏切られた」と感情的になった。

 これは歴史的な感覚で、イギリスから独立した歴史がイギリスへのマイナス感情となった。

 

 また純粋に政治的にも、イギリスの事実上の裏切りにアメリカ政府は激怒した。

 アメリカ政府を中心とした政財界は、ヨーロッパの戦争に大挙参戦してヨーロッパ経済を牛耳る事を画策していた為だ。

 だが目論見は露と消え、アメリカは世界戦略の大幅な練り直しを迫られる。

 

 そして目の前に材料は揃っていた。

 

 当面戦争状態を維持している日本を頼ろうとしていた、ポーランド自由政府、チェコスロバキア自由政府に対して、表だって手を差し伸べたのだ。

 これは「弱きを助ける」という行動が大好きなアメリカ国民に大受けだった。

 さらにアメリカの手はフランスのド・ゴール将軍にも向けられ、そして核心であるイギリスの「心ある人々」へと伸びた。

 そして「国家の魂」を保つためナチス・ドイツに屈してはいけないと考えるイギリスの人々は、意図が分かりながらも敢えてアメリカを頼ることにした。

 

 だがアメリカの行動の多くは、ベルサイユでの会議が終わるまでは水面下で、終わるが早いか実質的な行動に移った。

 アメリカとしては根回しも必要だったからでもあるが、陰謀史観上でもよく言われるように、アメリカにとって都合の良い戦争を作り出すための行動だった。

 


 イギリスでは、戦闘停止と共に多数の船が国外へと旅立つようになった。

 主に客船で、貨物船などの商船も多かった。

 これらの船の多くは、貿易や旅行を名目にした、人と物の英本土からの脱出だった。

 

 そしてこの「エグゾダス」を、ドイツもガス抜きと考えて最初は意図的に放置していた。

 特に、ユダヤ人など劣等人種が、ヨーロッパから出ていくことについては歓迎すらしていた。

 体の良い厄介払いだった。

 

 だが、あまりにも大規模な事と、重要人物や資産、知識が大量にカナダに流れているという情報を前にして、日を増すごとにイギリスに呼びかけ、統制を求め、そして中止とイギリス政府への要求を強めた。

 だがイギリス政府は、へたに止めると混乱を助長することが分かり切っていたので、表向きの対応を行うに止まった。

 それでもイギリス本国は、カナダに有力な艦艇を派遣するなどの動きは実施しており、ドイツもあまり強く文句は言えなかった。

 

 しかし、イギリスから新大陸に簡単に亡命できるという情報は短期間で知れ渡り、戦争状態が終わった事も手伝って、ヨーロッパ中からナチスの支配を恐れる人々が新大陸へと旅立つようになる。

 特に、ユダヤ人、ロマ (ジプシー)の亡命数は多かった。

 大西洋航路の船は、どの船も満員御礼だった。

 

 そして7月末には規模が大きくなりすぎたとして、ドイツが直接統制を開始すると発言。

 これにイギリスが反発して、自ら渡航の禁止と既に出航した船を艦艇を用いて引き返させる行動に出る。

 

 そしてこのイギリス海軍の行動に難癖を付けたのが、アメリカだった。

 

 アメリカ合衆国は、1940年7月30日に移民及び亡命者受け入れと保護のため、ヨーロッパ近くまで海軍艦艇が出動する事を決定。

 同時に、大西洋の半ばにまで艦艇を進める。

 これをアメリカによる強い干渉だとして、面子を潰された形のイギリスがさらなる艦艇を投入。

 

 そして8月8日、客船を停船させようとしたイギリス艦艇(駆逐艦)に対して、アメリカの巡洋艦が急接近して睨み合いに発展。

 しかも双方ともに近在する友軍艦艇を増援に呼んだため、事態はエスカレート。

 互いに接近して、ついにアメリカ海軍重巡洋艦 《オーガスタ》が、イギリス軍駆逐艦と客船との間に割って入る。

 この場合船がイギリス船籍だったため、イギリス海軍は発光信号で内政干渉だと抗議。

 アメリカ側は難民保護の要請を受けたと応えるのみで、話しは平行線を辿る。

 

 そこに潜水艦が発射したと考えられる魚雷4本が《オーガスタ》に殺到し、うち3本が命中。

 弾薬庫に直撃した《オーガスタ》は轟沈してしまう。

 

 奇襲攻撃を受けた形のアメリカ側は、《オーガスタ》に随伴していた駆逐艦がすぐにも戦闘速度に上昇。

 潜水艦を警戒しつつ戦闘態勢に入り、威嚇の砲撃を実施する。

 

 幸い戦闘はそれ以上拡大しなかったが、《オーガスタ》轟沈にアメリカ世論が激高する。

 報道各社も、ここぞとばかりに世論を煽った。

 偶然客船の乗員が撃沈の瞬間の写真を撮っていたので、その画像がアメリカそして世界中に広がっていった。

 そしてアメリカでは、いまだドイツと唯一戦争状態にある日本と共に、ドイツに蹂躙された国々を助けるべく、ヨーロッパの悪逆な帝国と戦うべきだという声にまで高まった。

 

 そしてすぐにもアメリカは、イギリスに対して厳重抗議を実施。

 受け入れられなければ戦争も辞さずと脅しを賭けた。

 これにイギリス本国は強く反発。

 ドイツもイギリスを擁護して、アメリカを悪し様に非難した。

 

 そして緊急開催されたアメリカ議会は、与党野党の多くの連名による宣戦布告の議案が提出され、8月15日に宣戦布告が可決。

 48時間後に正式に交戦を開始する旨を通達するに至る。

 

 ただし、アメリカが宣戦布告した国家はドイツであり、戦闘に及んだイギリス本国ではなかった。

 そしてその理由は、すぐにも分かることになる。


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