3話 大丈夫
明日実の後輩 咲凛の日常です。
酔っ払いが吐きます。
私の朝は早い。
5時に目覚ましが鳴り、そこから家族5人分のお弁当を作るのです。
佐々木家は父 哲夫と母 昌代という普通の名前から私、咲凜、大学生の弟 玲央、高校生の妹 衣歩という今風に名付けられた子供たち。
玲央と衣歩は性格も見た目も明るいから似合ってるけど、私は平凡だし地味だから名前がちょっと恥ずかしい。
梅干しと高菜が両親なら私はおかかで弟と妹は明太マヨと天むすみたいな感じがする。
衣歩の朝練が早いから6時過ぎまでには弁当を作り終え、私は8時半まで二度寝をする。
会社まではバスで30分。10時までに出社すれば良いので、本来ならゆっくりできる。
会社でも私はお弁当を作っている時と変わらない気分だ。
「佐々木ー!こないだの資料どこ!?」
「佐々木さん!このプレゼン一緒に行ってくれないかなぁ?」
「まじで取ってくるからA社にアポ入れてくれよー!」
『はい』と全てに返事をして、仕事をする。
営業事務の仕事は向いているのかもしれない。
献立を考えて、買い物して、切って焼いて詰め込む。
でも、一緒に食べるのは私じゃない。
仕事終わりにちょっとデートをしたりもする。
「きょーもちょー疲れたよー」
二個上の彼氏の拓篤くん。
友達に誘われた街コンで知り合って、来ていた人の中では一番顔が整っていた。
ちょっと亭主関白ぽい感じが私の内面と合ってしまったのだろう。
最近付き合い始めたというか、流されてる。たぶん付き合っている状態なんだと思う。
拓篤くんは飾り巻き寿司みたい…かな。私だったら作らない。
拓篤くんは流行り敏感でいつも話題のお店に連れて行ってくれるので、世間から離れずに情報が私に入ってくる。
「お疲れ様」
「ぶちょーうるせーんだよ。いちいち」
彼の言葉は聞き取りやすいというか、私にはひらがなに近い発音に聞こえる。
「大変なんだね」
「あーまじ大変だわー…。ここの店うまいだろ!予約したんだぞ!」
この店、こないだ朝の情報番組でやってた。
半分寝てたからあんまり覚えてないけど、店内はお洒落だ。
「あ、うん。ありがとう…」
私にはちょっと味が濃い。
「あーうめーわ。こんなん作ってくれる彼女が欲しいわ」
「これなら…」
作れると思うよ。
なんて言ったらお店の人に失礼かな。
「飯とかなんも作れねーんだろ!エミリー実家だもんな!」
「え?いや…うん」
お弁当作ってる話したのに?
「いいよなー、実家とかちょー楽じゃん」
「あはは…そうだね」
「今日は?」
拓篤くんは期待した目で私を見るけれど、週末でもないのに泊まりにはいかないよ。
「…帰るよ。明日も仕事だし」
「俺ん家から行けばいいじゃん!」
「えーと…泊まる準備もしてないから急には…」
押しが強いと負けそうになるけど、私にはお弁当を作る役目があるんだ。
「んだよ、早く一人暮らししろよ!」
「ははは…お金がねー」
「じゃあ俺ん家くれば!そしたら飯作ってよ。毎日カレーでいいよ」
「…………ははは、美味しく作れるかな」
私はバスの時間があるから帰るね。
朝、お弁当作らなきゃいけないし、一人暮らしの家賃分は家にお金いれないと、まだイヴは高校生だし…レオも抜けてるから留年とかしちゃうかもしれないし…。就職浪人とかもあるかもらしいから…。
私にお金はかけられない。
咲凛は繰り返し繰り返し同じことを頭の中で言い続けて、帰宅し、家事を終わらせた。
「一時過ぎちゃった…寝なくちゃ…」
目を瞑れば、朝が来る。
朝が来れば、お弁当を作る。
私だって…。
「二度も寝出来なかった…」
咲凛はどこにも行きたくない気持ちを噛み締めて起き上がった。
会社はいつも変わらない台所だ。
「今日の飲み会、夏までの決起集会だからみんな参加ねー」
飲み会はなるべく行きたくない。
みんな花金。明日休みかもしれないが、イヴの部活は土曜もある。
わたしは明日も5時に起きなければいけないし、バスの終電は早い。
それを理由に飲み会を断ったことは一度もない。
「咲凜もテキトーに帰んなよ」
飲み会の途中にこっそり明日実が咲凛に耳打ちしにきた。
「明日実先輩…!」
店の中に散り散りになっていたので、今まで気づかなかったが、明日実が珍しく参加していて咲凛は驚いた。
「私もう眠いし、帰ろうかなって」
一緒に出る?と明日実はいつも通り無表情で聞いた。
「えぇっと…」
出来れば帰りたい!今すぐに!
でもすぐにそう言っていいのか考えてしまう。
イヤイヤ参加しているのが周りにわかるのは…。
「あー!天野が帰ろうとしてるー!」
明日実の後ろからゆるパーマの細身の男が声を上げた。
北村 岳。明日実の同期で咲凛と同職の営業事務だ。
「ち、岳か。あいつ黙らせてくるから…帰るならそろそろだよ」明日実は一瞬眉間にしわを寄せ、後ろを振り返って岳を睨みつける。
「ありがとうございます」
明日実先輩は付き合いが悪いとよく言われているけど、こうやって私に声をかけてくれる時点でそんなことはないと思う。
明日実先輩は、お弁当箱とは違うタッパに入っている林檎みたいな感じ。ちょっと塩っぽくて生温かくて酸っぱい。
「ねぇ?佐々木さん」
明日実が席を離れた入れ替わりに新人の山口琴南が目の前に座った。
「…山口さん」
営業に入った山口さんはちょっと苦手なタイプ。
主張する前下がりのショートボブが、勝気なその瞳が、好戦的な性格が私とは正反対だ。
この人はトマトとモッツァレラにオリーブって感じで、家の弁当には入れられない。
「何飲んですか?」
「…グレープフルーツ」
ジュースです。
「お酒飲まないんですか!?会社持ちですよ!私もう何杯目だろあはは!」
琴南はだいぶ酔っ払っているみたいだ。笑いながら口にかかった前髪を耳にかけた。
「私翌日まで残るタイプだから…明日も朝早いからね…」
「ふーん。私たちってタメですよね?23?」
山口さんはからみ酒だな。
「あ、うん…。そうだよ、だから敬語じゃなくても…」
そういえば、同い年に見えないと、他の人から言われたなぁ…。咲凛は無意識に机の上の枝豆の数を数えた。
「入社3年目とかでした?ってことは高卒?」
「…うん、そう」
「へー…佐々木さんさぁ?もっと人生楽しんだらいいんじゃないですかぁ?」
琴南の笑い声に咲凛は目を見開いた。
どういう意味…?いや、でも…。
「……そうだね」
から笑いして咲凛は顔を上げた。
琴南は眉間に皺を寄せて思っていた反応じゃなかったと嘲笑う。
「…は、つまんなすぎ」
「…ごめんね。ちょっと飲もうかな」
咲凛は一番近くにあったメニューに手を伸ばした。
「エミリちゃん飲むの!?珍しい!コレ美味しいよ!一口飲む?」
岳が急に琴南の隣に座り、会話に割り込んだ。
「岳さんうざ!」
言葉とは裏腹に琴南は笑っている。
「あんまり強いのは…」
岳さんは、なんにでもなれる冷食みたいな感じだ。
この人は読めないのにたまに本音を言いそうになる。
咲凛はハイボールを頼んだ。
「山口うっせー。てかまじ、エミリちゃんこないだサンキュー!A社ってなかなか担当まで辿り着けないイメージあったのに
アポ取ってくれて!」
「いえ…、顧客にできたのは岳さんの力なので…!」
ハイボールが運ばれてきて、咲凛は受け取る。
その間に岳の声に営業部の同僚が集まってくる。
「えー!謙遜!担当の人もエミリちゃんに会ってみたいって言ってたよ?電話で結構話してくれたんだって?もうサイコーだわ」「それな!俺もこないだ佐々木ちゃんに着いてきてもらってフォロー完璧すぎて天使と思ったわ!」
「わかる〜!作ってもらった資料が俺にマッチしすぎてて読みやすさがパない!」
周りの反応に琴南がつまらないという表情に変わる。
「いえ、私は別に…」
久しぶりに飲んだら、気分が…。
咲凛は化粧室に行くと言って、席を立った。
自分の靴を探しながら、壁に手をついて体重をかける。
「ちやほやされて嬉しい?」
背後からそう呟かれて咲凛は振り返る。
「山口さん…」
「大人しそうにしてるけどあんた本当はあんな風にみんなの中心にいたいんでしょ!」
「そんなこと…」
頭が痛い。
咲凛は自分の靴を見つけて、その場から離れようとする。
「待ちなさいよ!」
「ちょっと?山口なにしてんの?」
咲凛と琴南の様子を見ていた明日実が二人の間にはいる。
「明日実さんには関係ないですっ!うっ!」
おええ!と声を出して、琴南は明日実の足に吐いた。
「えぇぇ…?山口、大丈夫?」
明日実は琴南の背中をさする。琴南はその場にしゃがみ込んだ。
「なにやってんのー!山口吐いたの!うける!」
明日実の後ろから岳が現れて笑う。明日実は面倒なやつがきたと目を細めて威圧するように名前を呼んだ。
「岳」
「天野こわ…いて!優子さん!!」
岳の頭を軽く叩いて優子はため息をついた。
明日実と同じように咲凛と琴南の相性の悪さを気にしていたのだ。
「岳。自分とこの新人なんだから酒の量ぐらい見てやんなきゃだめ!」
「はい…」
岳は優子に叱られて口を閉じる。
「わたしストッキング変え持ってるから、明日実は履き替えな」優子に渡されたストッキングはベージュだった。普段、黒の厚手の物しか履いていない。
「え、…大丈夫です!」
明日実はやばいと思って首を振る。
「いや、それじゃ帰れなくね?」
岳は足を指差した。
「今日は脱げない!」
「なんで?」
「…」
岳に対しては苛々して返せるが、優子に対しては困った顔をすることしかできない。
「薄暗くて別に見えねーよ」
「岳うっさいなー…」
「岳はうっさいよ、しょうがない。ほら明日実」
優子の目は有無を言わせず、おしぼりも渡した。
「っー!」
「明日実先輩…?」
珍しく明日実が動揺しているので、咲凛も首を傾げる。
「わかったよ…!着替えますよ」
明日実は柱の影に隠れてタイツを履き替えた。
明日実は自分の足元を見てため息をついた。
三人は明日実の足の甲に書かれた文字を見つめる。
「大…丈夫?」
岳が読み上げる。
「足…」
咲凛は何故足に落書きしてるのかと目で問う。
「だからやだったの!」
明日実自身も馬鹿らしいと思うおまじないなのだ。
「何コレ?自分で書いたの?」
優子は真顔で聞く。
「…はい」
明日実は眉間に皺を寄せて俯いた。
「なんで?」
優子と岳と咲凛の声が重なった。
「家を出るのが嫌な日があって…そういう日は大丈夫って右足に書いて…右足から踏み出すようにしてるの……」
「それは…」
岳は本気で頭大丈夫かと引いた。
「すごくいいですね!明日実先輩…!」
咲凛は感動していた。
「え?どこが?」
今度は岳と明日実の声が重なる。
「なんか魔法みたいじゃないですか!」
「ふふ、そうだね。何かあったら私も真似しよう。明日実はいつも頑張ってるから!」
優子は珍しく表情のある明日実と笑う咲凛をみて微笑ましく思った。
「もちろん、咲凜も岳もな!」
そう言ってから忘れていた足元の人物を見下ろす。
「っと、飲むの頑張り過ぎた山口は…」
「あ、私がトイレに付き添います」
咲凛はしゃがんで琴南に話しかけて立ち上がらせる。
「…咲凜平気?」
優子は顔色が悪い琴南より咲凛を心配する。
「はい、よいしょ。軽いので」
咲凛は琴南の腰を持つ。
「岳、トイレ前まで手伝って」
優子は岳の背中を押した。
「大丈夫…ですかね?」
明日実は無表情に戻って優子に聞いた。
「うーん…」
トイレでは琴南はさっきの続きをしていた。
「髪の毛髪の毛…!」
咲凛は琴南の前髪を自分のヘアピンでとめる。
「うぇ…!」
「ちょっとは落ち着いた?」
咲凛は覗き込んだ。
「な、なによ、私が惨めで面白い!?」
琴南はトイレットペーパーで口を拭う。
やっと言い返してきたことにほっとした咲凛は琴南を押しのけた。
「おえ…!」
「なんでそっちも吐くの!?」
琴南はびっくりして、後ろに下がる。
「寝不足だったの、お酒は…」
あんまり強くない。次の日に残るのも困る。
「は!バスの時間が!私は帰るね!山口さんは何かあったら岳さん呼ぶんだよ!」
吐いたらすっきりしたと咲凛は立ち上がって早々と去ろうとする。
「え、ちょっと…!」
「じゃあ、お疲れ様でした!」
トイレの外には岳と咲凛の鞄を持った明日実がいた。
明日実と咲凛はそのまま居酒屋を後にした。
「明日実先輩!駅まで一緒に行きましょう」
「山口はどうだった?」
「たぶん平気だと。岳さんに任せましょう」
「…あいつこの会社で1番信用ならないんだけど」
明日実は一段と低い声を出した。
「同期じゃないですか」
「だからだよ」
「咲凜は…無事?」
「大丈夫…ですよ?」
咲凛は足元を少し見た。
「ふふ、恥ずかしい」
「明日実先輩もそういう日があるんですね…。どんな忙しい時でも表情変えずに仕事してるから…なんでも割り切れる人だと思ってました」
ごちゃごちゃした思考に動けなくなるような気持ちをコントロールしたい。
小さなジンクスでもいいから。
咲凛はそう思った。
「まさか。…表情が乏しいだけだよ」
感情はたぶん激しい方だ。
「お願いします…!わたしにも魔法を掛けてください…!」
「…いいよ。手ね」
明日実は鞄からサインペンを取り出して、咲凛の掌に花マルを書いた。
「今週もよく頑張りました。咲凜にとって良い週末でありますように…!」
「…ありがとう…ございます…!」
咲凛は掌をぎゅっとした。
琴南は別に嫌なやつのつもりで書いたわけでなく、咲凛とちょっと相性が悪いだけ。
岳は曲者であってほしいキャラクターです。