〜第13話〜 再会
ネリーは満ち足りた幸せの中で、目覚める。
長い、日の出色とも夕陽色とも判別つかぬ美しい髪が、寝台に広がっている。
「(……服を着ないで、寝てしまいました!)」
久しぶりにラクな心地がした、が……既に、そういう問題では無いと愕然とする。
「(あわわ。恥ずかしい。あんなこと、するなんて)」
昨日のギルウェは上機嫌で積極的だった。
どうしてこんなことに、なってしまったのだろう……ネリーは、よく働かない頭を使い、隣でまだ寝ているギルウェを見つめながら思案する。
不思議と……嫌な感じはしない。
婚姻の契約を交わした仲だから、なのだろうか。
「(……ギルウェ様が、服を嫌がるわたしにアタフタしていた訳がわかった……)」
今更ながらに彼のこれまでの言動に合点がいくネリー……とりあえず男と裸で寝ると、大変なことになるのだと学んだ。
信頼関係のある彼でないと、あんなことは無理だ。
元の姿に戻って暴れてしまう。
「(角もだけど尻尾も。 いっぱい撫で回された……)」
半竜人の真の姿、竜を想起させる部分は見せないほうが良いと思っていたネリーに対して、昨日の彼ときたら。
「(今晩もするのでしょうか。 わからない……とりあえず角を隠しましょう……)」
ギルウェが目覚めたようだった。布団が揺れ動く。
「! おはよう……ございます」
「……おはよう」
ギルウェは寝ぼけた顔で、服を着るよりも先に髪を梳かしているネリーの美しい……温かそうな人肌、白い身体を見て
「(……自分は何ということを!)」
ネリーは連日の結界修復作業で疲労しているはずで、囮役もすることが決まっていて『無理をしないで休んでくれ』と言ったばかり。
そんな彼女に向かって
「(……昨日の自分ときたら!)」
「あの、ギルウェ様」
「はっ、はい?」
ギルウェは名を呼ばれ、いそいそと散らかる自分の寝間着を着直し、ネリーの分も引っ掴んで彼女に押し付けながら、より一層美しくなっているような気さえするネリーを見つめる。
「……わたし、外に興味があったとはいえ……不安も、ありました。 少しだけ怖かった、です……。
実際に、どんな扱いを受けるのか……それなのに、ギルウェ様は。
こんなにも……わたしに優しく、してくださって」
ネリーの言葉にギルウェは驚く。
「(あれ? 怒っていない?)」
しかし、考えてみれば……もし彼女がギルウェのしたことに怒っているのならば、昨夜あの時点で元の竜の姿に戻り、不快な相手を踏み潰していたことだろう……。
つまり、嫌では無かったのだ。
ネリーとて、それを伝えようとしているのでは、あるまいか。
そう理解したギルウェは
「……そんなことを言われたら、優しくできなくなります」
まだ寝間着を着ようとしないネリーを捕まえ、朝の挨拶がわりに抱きしめ、口づける。
すると、その時
「おはようございま〜す! 入りますよ〜?」
「洗顔用のお水と、洗面……器……」
早朝から元気なリオネッテ、リネッテの姉妹が扉を開けた。
見られた。
「っ!違」
彼女達は、まるで獲物に襲いかかる雌の猛禽類のような素早さで水差しと洗面器を床に置くと
「お邪魔しました!!」
ギルウェが弁明を言い終える前に、バタンと扉を閉めた。
……それ以来「あやかりたい!あやかりたい」と、ご利益を求め、髪を梳かしにやって来る、女性の勤め人の数が増えた気がします……とネリーは後に語っている。
***
その日は出かける予定も無いため、ネリーは髪も結わずに流し、丈の長い細身のスカートのドレスを着て過ごした。
「囮役をするのは明日なのに、今日から付きっきりで居てくださるのですか?」
「鬱陶しいと思いますが、我慢してくださいね」
苦笑するギルウェに、ネリーは微笑み返す。
「いいえ、一緒に居てくださったほうが。
一人では退屈ですし……危険だからと閉じこもっていては、せっかく妖精圏に居ても島にいる時と同じようで、つまらないと思っていたのです」
ギルウェは、まだネリーが知らない城内のあちこちを案内してくれた。 ネリーが好みそうな貴重な本もある書庫や、王の執務室の場所から勤め人達の働き場所まで……。
敷地内の手入れされた庭園にも行き、花も愛でた。
荒れ地に向かった時もそうだったが、春の花が綺麗に咲いていた。
もうすぐ夏が来る。
ふと、ネリーは故郷が少し懐かしくなる。
故郷の記憶、仲間の雌竜達。
……ずっと昔は優しかったはずの兄竜。
今にして思えば、外に出たかったのは『もしかしたら兄に会えるだろうか?』という気持ちも、あったのかもしれない。
「……ギルウェ様が、一緒に居てくださって良かった……。 わたし一人では、もっと沈んでいました」
ネリーは表情を厳しいものにして、ギルウェを見つめる。
「どうか、わたしの兄だからと遠慮は、なさらないでください。 それだけのことを……したのでしょう」
「……ネリーの覚悟。嬉しく思います、が……」
ギルウェは、う〜んと唸る。
妖精騎士団員である前に……同じ妹を持つ兄の身としては、ネリーの言葉に対し、悲しみが沸き起こらないわけでも無い。
「確かに、昨年は竜に襲われて……皆、驚きましたが。 幸い、重傷者も死人も出ていませんし……」
竜の突撃により城の一部と城下の建物のいくつかは損壊したが、もう修繕も済んでいる。 逞しい城下の民は、壊されたことなど忘れているだろう。
「……建て直しの出費はかかりましたので、請求はするかと。 だから、生け捕りにしなくては」
「!」
ギルウェに笑って、そう言われ……ネリーは驚いた顔をする。
「俺は仲間を害する竜と、助けてくれる竜との区別はつくつもりですよ。
貴女は助けてくれる竜でしょう?」
「……はい、わたしは……ギルウェ様の力になりたいんです……」
ギルウェは、どうしようもなく涙ぐむネリーの手を取り、伝える。
「そんなネリーの兄なら自分にとっても家族同然です。 悪いようには、しません」
空気も涼しくなってきたため、寝泊まりに与えられている城内の居室に、二人は戻る。
「昨日アンナ様が、兄と契約をしている召喚士について、心当たりがあるようなことを、おっしゃっていましたが……」
「……師匠の、妹です」
長椅子の隣に座るネリーの質問に答えるギルウェ。
「厳密に言うと、もう妹様では無いのですが。
ややこしい話なのです……。
ネリーは、機械人形はご存知ですか?」
「えぇ。昔……アヴァロンの神殿まで、わざわざ修理をしに来ていた機械人形を見かけたことがあります」
平和になった現在では、あまり見かけないが……大戦以前、この地域には古代から存在する機械人形が何体か存在していた。
近づいてよく眺めたとしても人間と見まごう姿の彼、彼女達は……誰よりも長生きをしたノーム、長命な吸血鬼や竜達よりも、さらに古い時代から生き永らえていた。
下手をすれば……この世界を創り、のちに去ったとされる創造主が、この地に居た頃から存在するのではないかと噂されていた。
機械人形達の身体はデリケートだったが、定期的に体内部品の調整、不良箇所の修理を行えば、永遠に近い時を生きることが出来た。
「機械人形達は長生きで、何でも知っていますから。
昔からウェレスの有力者は機械人形を保護し、次の世代の子らの、先生になってもらっていたそうです。
団長や師匠、師匠の妹御には、師としてエムリスという機械人形がおりました」
「わたしがアヴァロンで見た方とは違う方のようですね……」
「しだいに師匠の妹御は……エムリスではなく、別の機械人形に心酔するようになっていったそうです……。 そして、その機械人形の『部品』にされてしまったと」
「! そんな、ことが……!?」
果たしてそのようなことが出来るのだろうか……アンナほど魔法を極めたわけでは無く、古の技術に関する知識も無いギルウェには理解が及ばないが。
聞くところによれば、機械人形には生体部品も多く使用されており、永遠に近い時を生きていくため、あらゆるものを自らの部品へと変える技術も持ち合わせていた。姿を変え、生きてゆく彼女達……機械人形。
「師匠の妹御とひとつになってしまった、その機械人形は……同じ機械人形でありながらエムリスとも折り合いが悪く、彼の弟子と対立しているわけです。
何度も、城下を……団長を狙ってきました。
今回も、おそらく」
「その、エムリス様は……今、どちらに?」
あの方の導きが無ければ……とっくの昔に妖精圏は魔海竜勢力に食い尽くされていたはずだ……ギルウェは今でも、そう思っている。
「彼は……」
その昔、アルトス達が頼りとし常に付き添っていた機械人形。 団長にとっては鍛治の師匠でもあり、アルトスがウェレスの王座を手に入れることに尽力してくれた彼は……失敗を犯した。
不吉な予言をしてしまったのだ。
王の子が、王に滅びをもたらすと。
殺すべきであると……しかし妖精の女達はそれを聞くと激怒した。
なぜ何の罪もない子供を殺さねばならぬのか。
王が殺されたとて、また王を探せば済む、しかし殺される子は帰らぬと。
「言い方を間違えたのです。
彼は『不安定な時期に王に子供が出来れば、必ず利用される。悪用しようとする連中が現れる。安定期に入るまで、子供を作るべきではない』と伝えるつもりが……市井に悪い噂として流れてしまい国民の不興を買った……エムリスは姿を消しました」
同時期に、もう一人女性型の機械人形が姿を消したことから『エムリスを嫌った妖精達が、その女の機械人形をエムリスに差し向け、どこかへ幽閉させてしまった』と……噂する者もいる。
真相はわからない。
ふと、ネリーは子供が欲しいだろうかとギルウェは思う。
強い力と長い命の代償なのだろうか。 聖竜の半竜女は身籠りにくいと言われており、子を授かる者は珍しいはずだ。
「(……そもそも、結婚をする聖竜が、まず珍しい…!)」
子供についてギルウェ自身の都合だけを言えば、下に弟も妹もいるのだし、ネリーが無理をして身籠もらずとも構わなかった。
自分とネリーの間に子が出来なくとも、誰かしらが血筋を残してくれる、だろう……おそらく。 残して欲しい、とギルウェは願った。
もちろん、縁ある子や優秀な子に養子に来てもらうことも出来る。
とりあえず自分もネリーも焦る必要は然程、無い……心配はしなくて良いはずだ。
ギルウェは隣に腰かけていたネリーを、ひとしきり見つめ、微笑むと。 彼女の膝めがけて倒れ込む。
「!?」
「……今日はしばらく、こうさせて貰えませんか」
ネリーは驚きつつ、膝の上のふさふさとした銀と空色に光る、癖のある髪を撫で
「えぇ。 良いですよ」
幸福を噛みしめる。
夕刻をまわったのか、ギルウェの背が光り出し、青の翼が現れる。
「っ! すみません。 顔に当たりませんでしたか?」
「平気です。……いつ見ても美しい羽」
ネリーは微笑んで、慌てるギルウェの青い翼を慎重に撫でる。
旅の途中、渓谷の支部の寝台で拾った、青い羽根。
ハンカチに隠して持ち帰ったはずのそれは……しばらくの間は形を保っていたが、そのうち羽根も本体と同じように消え去ってしまった。
「(また、触れらえるなんて)」
ネリーは羽を撫でる手を止められなかった。
指をくすぐる良質な羽毛の感触。
「…………」
「(ギルウェ様……もしかして照れている?)」
「……貴女に触れられていると、妙な気分になってきますね……」
横向きになって翼を撫でさせていたギルウェは、ネリーを見上げ、彼女の頰に手を伸ばし触れる。
「ひゃ」
思わず声をあげてしまうネリー。 ギルウェは、鱗では無い、もちもちとした彼女の肌を堪能する。
その時、
「兄貴」
「そろそろ夕飯の時間だぞ」
「開けるよ」
扉が開き、兄弟達に見られた。
「ダメだぞ兄さん!」
「仲良いのは、よいことだけど!
「いちゃいちゃしてる時に、例の竜が突っ込んで来たらどうすんだ!」
おそらく、今朝の話が広まり、監視の眼が厳しくなっていたのだろう……。
***
翌日。
天気は少し曇っていた。
結局、アンナから例の兄竜を確保したという知らせは妖精の巣城へ届いていない。
「では。居竜区の管理人へ、物資を届けに行きましょうか」
「はい。ギルウェ様」
兄竜がまた接触してくるかもしれないネリーに付けることが出来るのは必要最低限の護衛……つまりギルウェとグリンということになる。
ネリーの元へ必ず兄竜が来るという保証も無いため、城下を守備する騎士の数を割くことも出来ないし、囮の意味がなくなるから、ぞろぞろと行くわけにはいかないのだ。
ギルウェは、アヴァロンから出立した時と同じ赤い旅用ドレス姿のネリーを後ろの席に乗せ、グリンを飛翔させる。
今回は西の湖に向かい、森の上を進む。
「いつも、こうしてグリンに乗って行くのですか?」
「いえ。 鷲獅子と相性の悪い竜も居りますので。 刺激してしまうと良くないので基本的に、あちらには自前の翼で行くのです。
今回は戦力が多いほうが良いので、特別ですよ」
「……それならば、やはり、あの時わたしが見たのは……ギルウェ様だったのですね」
「あの時?」
「荒地の神殿へ行った時……言えなかったんですけれど」
『……わたし……実は、朝の一族の方を。
青い鳥の翼が飛んで行くのを、島で見たことがあるんですよ』
そう、ネリーは伝えたかったのだが、料理が来てしまったため、そのまま流れてしまった会話。
「……あれは去年だったか、もう少し前だったかしら。 このくらいの時間帯に……青翼の猛禽類を、湖の向こうに見たのです。
とても珍しかったから、あれからよく岸辺まで足を運んで捜しましたの」
「……本当に?」
「本当ですよ。 わたしは、あの時からギルウェ様のことが気になっていたのに」
ネリーは笑う。
「わたしが心変わりするだろうと思っているなんて」
「そ、そのことは忘れてください……!」
ギルウェは動揺しながらも……喜びを感じる。
「そうか、なんだ。
ネリーは俺のことを、知っていたんですね」
あまり帰りが遅くなると、周囲も薄暗くなるし
ただでさえアヴァロン付近は霧も発生する。
だから、ギルウェが管理人棟へ向かうのは、いつも朝。帰るのも陽の高いうちだった。
さっさと行って、ウェレスへ帰還してしまうのだ。
「(物資を運ぶ姿を……ネリーが見ていたなんて)」
「えぇ、そうね……わたし。
あの時、ギルウェ様に……一目惚れしていたのね、きっと」
ギルウェと話すうちに当時の自分は『気になっていた』どころでは無かった、とネリーは考えを改める。
無事に気持ちを伝えて、すっきりとした笑顔の彼女に、ギルウェは忠告する。
「……だから貴女は、そういう、今スグこの場で押し倒したくなるようなこと言わないでください……?」
「えっ!?」
「(夜になったら、覚悟してもらおう)」
こんなにも夜が待ち遠しいと思うのはギルウェにとって初めてかもしれない。
しばらくグリンを羽ばたかせると、古びた石造りの屋根が小さく見えてきた。
「そろそろ降りましょうか」
木々を避けて草原の上に着地。
グリンの手綱を引き、民家というよりは古い神殿を思わせる建物……管理人棟に向かい、ギルウェとネリーは連れ立って歩く。
***
開かれた木製の扉からは、葡萄色を深く濃くしたかのような黒髪のノームの女性が出迎えた。
女性の着ている青いドレスは、取り立てて高級なものでは無かったのに、とても美しく感じられた。
何より……その幸せそうな笑顔に、思わずネリーは見惚れる。
「おはようございます、エレヴェニーグ様。
お元気にされていましたか?」
「えぇ! どうぞ中に。 その方が?」
「はい。 お連れするようにと、トリストから言われておりましたので。
ネリー、この方がエレヴェニーグ様です」
はっとしたネリーは促されて挨拶をした。
「ラグネリーネと申します」
「会ってみたかったわ」
髪同様、葡萄色の眼差しで優しく微笑む元王妃の後ろで、
「ラグネリーネじゃないの!……久しぶり」
白髪に金緑色の眼を光らせる、白い細身のドレスの半竜女……彼女は、乳飲み子を抱えていた。
「お久しぶりです、エレーネ。
……!? 可愛らしいお子様!」
「ネリー……これは本当に、極秘のことなのですが。
あの後エレヴェニーグ様は、懐妊していまして……出産されているのです」
「そういえば、聖竜の仲間から聞いたことがあります」
出産の時には、癒しの魔法を得意とする半竜女達が管理人棟に招集された。
当時あまり詳しいことは教えてもらえなかったネリーだが、あの時の騒ぎの子かと感づく。
人の口に戸は立てられぬから『エレヴェニーグの子なのか?エレーネの子なのか?ランツェの時同様、拾い子なのかはわからないが……とにかく管理人棟にどうやら赤子がいるらしい』という噂は広まりつつある。
「(必要物資の中に、どうしても子育て用品がありますから……まぁ、ジワジワとバレますよね……)」
ギルウェは持って来た荷物の確認をエレヴェニーグと行う。 エレーネとネリーの会話が聞こえてくる。
「男の子、ですか?」
「そうよ。 あんた達、アヴァロンには立ち寄るの? ここだけ?」
「はい。 まだギルウェ様の故郷へ行っていないのに、アヴァロンへは帰れません」
弟達と『いつかキニフェに来て欲しい』と式の日に言った話をネリーが覚えていてくれたことに、じーんとくるギルウェ。
エレヴェニーグは、ふふとギルウェに笑いかける。
「仲が良いのね、彼女と」
「ええ! ……そういえば、ランツェが居ませんが」
「ちょっと、ひとまわりしてくるって」
定期的に彼は『俺は団長を裏切ったのに!こんな幸せ、許されない!!』と発作的に狂乱し、飛び出して居竜区と妖精圏の境界を駆け回るそうだ。
結果的に、その道中で迷子の竜や、脱走しようとしている竜、逆に居竜区へ入り込もうとしている不審人物を発見することにもなり……この職場を天職と呼んでも差し支え無い働きを見せている。
「いつも通りですね。 しっかり勤めを果たしてくれているようで何よりです」
「ランツェは竜から愛されるものね。
竜のほうから進んで、彼を守ろうとするもの」
エレヴェニーグの言葉に、ギルウェは頷く。
「(やはり、千年に一人の逸材と言っていい……)」
アヴァロンの聖竜が住む湖などはウェレス寄り……同じ島内にある。が、海の向こうへ広がる島々や大陸方面のエリッシア領内には、火竜族や雷竜族が暮らしている。
あちらまでは管理人も目が行き届かないので、頼れる竜の一族に統治してもらっている状態だが、新たに保護されて居竜区へ連れて行かれる竜は、入り口としてこの付近を通過することもある。
ネリーのように、竜が居竜区から外へ出る場合も、管理人が立ち会う場合があるし、竜に好かれやすい彼には、ここはもってこいの職場であるはずだ。
「(それに……エレヴェニーグ様を捜しに来る野次馬も。 流石に、この居竜区の付近には、近寄りたがらないから安全だ)」
ギルウェは、そう改めて思いつつ、エレヴェニーグとランツェの子をネリーと一緒にあやすエレーネを見て
「……いつも思うのですが、あれで良いのですか?
エレヴェニーグ様」
小声でギルウェは尋ねる。
「……良くは無いわ。 ラハッドは、わたくしにとって一番最初の子なのに。 このままエレーネに取られちゃうのねってハラハラします。
でも実際にね……子育てって大変だし、家事をしたい時に彼女が居てくれると助かる時もあるのよ」
「ヴェニーったら本人が居る前で、平気で笑って言うのよ。 そういうこと」
そう言うエレーネも笑っていた。
「だいたい取られるも何も。 あたしだって、そこまで、ここに入り浸ってるわけじゃあ無いわ……あんなことしてランツェからは、すっかり嫌われたし。 勝手なことをしたって母様達からは怒られるし……」
悲痛なエレーネの言葉を補足するようにネリーはギルウェに説明した。
「エレーネの母様は、以前にも話したアヴァロンの長老様なのです」
「そうなのですか!?
千歳近く生きている、という……?」
二年前の事件を起こした責任を取りに……というだけでは無いのだろうが、エレヴェニーグの元へ度々やって来るエレーネ。 この二人は、今では言いたいことが言い合える仲らしい。
「(自分だったら嫌なのだが、この複雑な空間……。
しかし、よその家なのだし……別に良いか)」
ギルウェは、あまり深く考えないよう努めた。
荷物の確認も終えたエレヴェニーグは次回、必要な物資をギルウェに依頼し終えると、焼き菓子とアップルティーで持て成してくれた。
「おい……しい……!!」
例によってネリーは、すっかり餌付けされた。
「家事ね、昔より上手くなった気がするのよ。
もともと裁縫や刺繍は王妃になってからも続けていたし、大戦中は随分お手伝いしたもの。
出来ないわけ無かったのよ」
彼女の柔和で見るものを癒す美しさは、王妃をやめても衰えることは無いようだった。
最初にエレヴェニーグと再会した時こそ、ギルウェは不憫に思った。
本来であれば、こんな場所で暮らす身分の方では無い……大勢の侍女を従え、美しい着物を着、王と共に敬われるべき存在。 そうあるべきだった。
だが、結界生成の重責から解放され、一人の女性として愛する男と共に生活する彼女は、こうして幸せな様子なのであった。
エレヴェニーグは、嬉しそうに焼き菓子を頬張るネリーも感慨深く眺め、
「ラグネリーネさんには、わたくしの代わりに苦労をさせてしまうわね……」
「でも! そのおかげでギルウェ様に会えたのです。
感謝しておりますわ」
明るいネリーの言葉にエレヴェニーグは少し驚きながらも言葉を返す。
「……そうね。あなたは、わたくしと違うように思います。 わたくしは……陛下に救ってもらえるまで、身に余る力に振り回されて生きてきた……。
でも、ラグネリーネさんなら、きっと」
「良いわよね〜、あんたは。
幸せになりなさいよね」
心底幸せを満喫している様子のネリーに、エレーネも苦笑した。
ギルウェは申し出る。
「……もう何年かして、ほとぼりが冷めたら。
いつかエレヴェニーグ様とランツェを、あの城へ呼び戻したいとは思っています」
「そんなことは別に良いのよ。
……まぁ確かに、ランツェが居たほうが、騎士団は何かと頼れて助かるのでしょうけど……。
でも、わたくしまで戻ったら……アンナ様を刺激しちゃって悪いし」
エレヴェニーグの落ち着いた言葉を聞いて、確かに!と真顔になるギルウェ。
「わたくし達のことは良いの。
ここでの暮らし、悪くないのよ?
ただ、そんなことよりもね……もう何年かして、ラハッドが大きくなったら、そちらで育てて欲しいの。
いつか、ちゃんと外で働けるように。
……陛下へのご恩に報いることが、出来るように」
「えぇっ!? 嫌よぉ!!
ラハッドと離れなきゃいけないの!?」
悲鳴をあげたのはエレーネだった。
彼女は愛する人が誰を想っているかについては最早どうでも良いらしく、彼の子供を育てる、ということだけを強く望んでいる様子だった。
長命な竜の開き直りなのであろうか。
「エレーネ?
そんなにラハッドを甘やかしているとね、本当に、本ッ当に! その子、貴女のことが大好きになっちゃって……貴女が困ることになるんですからね」
口調は柔らかでもエレヴェニーグの眼は真剣だった。 不服そうなエレーネと彼女の抱える赤子を笑顔であやすネリー。 赤子……ラハッドも笑っていた。
「だいたい、そんなに心配なら。 あなたがラハッドと一緒に付いていけば良いのだわ」
「……エレーネも来るんですか……」
ギルウェは苦笑いをする。
「凄く嫌そうね!?
あたし、もう暴走したりしないわよ!?!」
信用できないなぁ!と内心、思うギルウェに感づいたのかエレヴェニーグは
「なまじ我慢させててもこの娘、暴走しちゃうから。
好きなようにさせたほうが良いと思うわ」
「……わかりました!」
すっかりエレーネのことを理解しているエレヴェニーグにギルウェは感心しながら返事をする。
「アルトス陛下を、説得しなければなりませんね」
「(ネリーは笑顔でそう言うが……!
まぁ、ラハッドは歓迎されるだろう)」
ひと仕事増えたな、と思いつつギルウェはアップルティーを飲み干す。
用事も済んだし、あまり長居をして、この場所に師匠による魔法の鴉だの、ネリーの兄竜だのが突っ込んで来ては困る。
「ネリー。 では、そろそろ」
「はい。 ギルウェ様。
エレヴェニーグ様、美味しいお茶をどうも、ご馳走様でした」
「こちらこそ、どうもありがとう。
特に今日は大変なようね」
エレヴェニーグは何かを見通しているのか、ふわりと笑ってくれた。
「気をつけて……あなたたちなら大丈夫だけれど。
墓の道を通って帰るのよね?」
「? あそこを通らないと、帰れないですからね。
それではランツェによろしく」
「お幸せに」
待っている間、仲間にいれて欲しそうに『ピーーィ……』と寂しげに鳴きながら、窓から顔を覗かせていたグリンを連れ。
ギルウェとネリーは、ゆっくりと旅立つ。
***
「師匠から、例の危険な手紙が飛んで来ません。
おそらく……まだ捕らえていないのでしょう」
「そう……ですか」
自分達が管理人棟に居る間、アンナや巡回をしているはずのランツェや、他の騎士達が兄竜と接触してくれていれば一番良いとギルウェは思っていたのだが……上手くはいかないようだ。
「……ギルウェ様!
微かですか……兄の気配が、します」
「!」
ずっと気配を探っていたらしいネリーが、ギルウェにそう告げる。
しばらく、彼女の言う方角へ木々を避けながらグリンをゆっくり進ませて行くと……。
「ラグネリーネ……」
霧と木立の向こうから重々しい足音がし……兄竜が姿を現した。
あの日、渓谷の神殿へ向かう途中に見た時と変わらない、黒く澱んだ聖竜らしからぬ鱗。
ネリーと違い、鋭く冷たい金の眼光。
『ネリーとの接触に……用心深く、しばらく時を置く場合もあるのでは無いか?』という予測もギルウェはしていた。
……そして、もうネリーの前には、そのまま姿を現さないで欲しい……と願っていたと言うべきか。
しかしアンナ師匠が言っていた通り、ウェレスと居竜区の境へ追い込まれたこの竜は、そこから逃げずに留まり続けていたのだろう。
『あの竜が召喚契約を結んでいるのが、あのコなら、必ず接触してくるわ。
まだ用事があるもの。 アタシなら、そうする』
アンナからの手紙にはそういう文章もあった、と、出立時アルトスからギルウェは聞いている。
「……アヴァロンへ帰る決心が、ついたのか」
「いいえ、お兄様」
厳しい兄の声を、ネリーは凛と否定した。




