小さな春
ここは北の果て、氷獄と呼ばれる大地にそびえ立つ氷の城、その城の中央に位置する謁見の間に一人の男の姿があった。
その者は氷獄の魔王、この氷獄を管理する者であり今日も日がな一日愛用の褞袍に身を包み炬燵に入ってはカチコチの冷凍ミカンを摘まんでいた。
「ガリッ!……ゴリゴリ……ゴクンッ―――ふぅ」
大凡ミカンを食べていると思えないような擬音をさせながら氷獄の魔王が小さくため息を吐く。
「暇だ」
そう言いながら氷獄の魔王が手の中にある冷凍ミカンを己の冷気を使って今以上にカチコチするという良く分からない行為に興じていた時、謁見の間の扉が開かれ氷獄の魔王の部下であり作戦参謀のエクエスが姿を現した。
「魔王様、少々お時間を頂いても宜しいでしょうか」
「どうした?」
「いえ、大した事では無いのですが……少しご報告しておいた方が良いと思われる事がありましたので」
「"思われる"とは、お前にしては随分と曖昧だな。構わん、話してみろ」
氷獄の魔王がエクエスにそう促すとエクエスは少し頭を下げながら話始める。
「実は先刻、我が領地内で”妖精”が生まれました」
「妖精?」
エクエスの口から飛び出た言葉に氷獄の魔王が不思議そうに首を傾げる。
「妖精っていうとアレか? 通常の生物とは異なり生死の概念が無く自然から生まれ、最後には自然に還って行くあの妖精の事か?」
「はい、その妖精でございます」
「何故そのような事を我に報告する? 妖精など別段珍しいものでもないだろうに」
氷獄の魔王の言う通り、妖精というのは自然が存在する場所から生まれるもので希少性の高い存在という訳ではない。
さらに氷獄に関して言えば氷獄の魔王の居城を除いてその殆どが自然そのものであり、氷より生まれた氷妖精が数多く存在していた。
「何か普通の氷妖精とは違う個体でも生まれたのか?」
「はい、そもそも今回生まれた妖精が氷妖精ではないのです。生まれた場所も場所だったので……一応ご一報は入れておこうと」
「氷妖精ではない?」
エクエスの言葉の意味を一瞬考えた氷獄の魔王だったが、すぐに何かに思い至ったのか確認するようにエクエスに問う。
「その場所とは一体何処だ?」
「”春の丘”でございます」
頭を下げたまま、エクエスが淡々とそう答える。
終始頭を下げているエクエスには氷獄の魔王の様子は一切見えていなかったが、それでも氷獄の魔王が何かを考えている事はエクエスも雰囲気で感じ取っていた。
「……あの場所から妖精が生まれたか。という事は生まれたのは春妖精か?」
「左様でございます」
「そうか……良く報告してくれた。ところでエクエス」
「なんでございましょう?」
「お前が左手に持っているその白い毛玉はなんだ?」
氷獄の魔王が指差しながら指摘する。
エクエスの左手には直径三十センチ程度であろうか、人の顔は覆い隠せるくらいの白い毛玉が鷲掴みにされていた。
「これですか、実は一報入れるついでに連れてきたのですが……魔王様の御前だぞ!何時までも丸まってないで顔をださないか!」
そう言いながらエクエスがブンブンと左腕を上下に激しく振る。
するとヒュポンという間抜けな音と共に毛玉から小さく細い四肢が飛び出し、ワンテンポ遅れてモゾモゾと毛玉の中からもう一つ毛玉のようなものが現れる。
良く見て見れば毛玉の中から出てきたもう一つの毛玉のように見えていた物はどうやら頭部のようであり、その正体は癖のある白髪のショートヘアー、青い瞳を持つ小さな女の子のような姿をした春妖精であった。
「ぴぃぃぃ……」
上下に激しく揺さぶられたためか、手足はぶらぶらと力なく垂れ下がり、弱々しい鳴き声が小さな口から漏れ出ていた。
「それが件の春妖精か?」
「はい、春の丘でひなたぼっこしている所を捕獲してきました」
「そうか……ところでその妖精、先程から小刻みに震えているように見えるのだが」
「どうやら生まれたばかりでまだ暖気を操れないようでして」
「寒さに凍える春妖精なんて初めて見たぞ、本当に春妖精か?」
プルプルと震える春妖精に氷獄の魔王が呆れたような視線を向ける。
「それで魔王様、如何いたしましょうか?」
「何をだ?」
「この妖精の処遇です。妖精という事は最期を迎える時、最後を迎えた場所の自然を自身が生まれた場所と同じような環境に変化させる力を持ちます。このまま我が領地内で野放しにしておくのは些か問題があるかと」
氷獄には氷妖精も居るため直ぐにどうなるという事はないが、暖気を操り自由気ままにあちこちを歩き回る春妖精と違い氷妖精は寒い環境を好むため、春に浸食され暖かくなった土地に好き込んで近づく事はない。
このまま春妖精を氷獄で野放しにしておくと氷獄の環境を塗り替え、塗り替えられた環境から新たな春妖精が生まれ、それを繰り返しいずれ氷獄全土の環境が春に浸食される恐れがあった。
「ご命令頂ければ、今すぐにでもこの妖精を何処か遠くの大地に放り出すか――」
そう言いながらエクエスの右手に魔力が集まり氷の剣が出現し、その剣を春妖精の首筋に突き付ける。
「元より存在しなかった事にする事も出来ますが」
「ぴぃぃぃいいい!!」
寒さとは違う意味で春妖精が全身を震えさせる。
「止めろ、春妖精は自由気ままな存在だ、放してやれ。それに自分の気に入った場所で最期を迎え、自然となりその土地と共になる事が妖精の役目だ、それは我々の都合で干渉して良いものではない、我々にも我々の役目があるようにな」
「畏まりました」
春妖精を野放しにする事の危険性を説いていたエクエスだったが、意外なほどあっさりとその意見を撤回し氷獄の魔王の言う通りにする。
左手に鷲掴みにしていた春妖精から手を放し、春妖精が謁見の間の床の上に落ちる。
「ぴぃっ!?」
氷の床に触れた瞬間、そのあまりの冷たさに驚いた春妖精がその場で一度だけ大きく飛び跳ねた後、暖かな場所を求め謁見の間を白い毛玉が駆け巡る。
謁見の間を一通り駆け回った後、春妖精は謁見の間の中央、つまり氷獄の魔王が入っている炬燵の中へと潜り込む。
バシャァァン!
例の如く炬燵の中は氷の床が溶け足湯状態になっており、そこに春妖精が落下した音が氷獄の魔王とエクエスの耳に届く。
「「……………」」
突然の事態に氷獄の魔王とエクエスは唖然とし、謁見の間にグツグツと炬燵の熱で煮え滾る音だけが響いていた。
そんな時、炬燵の中から凄まじい悲鳴が響き渡る。
「ぴぃぃぃやぁぁぁあああああ!?」
「あ、おい!大丈夫か!?」
その悲鳴に我に返った氷獄の魔王が慌てて炬燵の中から春妖精を救出する。
「ひゅぴぃぃ…」
もふもふだった毛玉が水に濡れ、まるで浴槽に落ちた猫のようなその姿は見るものを物悲しい気分にさせる。
ビチャビチャになった春妖精を両手で抱え上げながら氷獄の魔王が呆れたようにため息を吐く。
「はぁ……まったく、生まれたばかりとはいえ手間のかかる奴だ」
「妖精で良かったですね、生死の概念があったら今ので死んでましたよ」
「死なないとはいえ、流石にこのまま氷獄の放り出すのは少々不安だな、魔物の腹の中で最期を迎えるなんて事態になりかねん」
「しかしそうは言ってもこの氷獄にこの妖精が安全に過ごせるような場所など――まさか魔王様!?」
何かに気が付いたようにエクエスが慌てた様子で氷獄の魔王に詰め寄る。
「以前にも一度春妖精を受け入れた事があるのだ、今回受けれても同じ事であろう」
「それはなりません! 領地内で放っておくのならまだしも受け入れるなどと! 以前もあの女を受け入れたせいで魔王様がこんなポンコツになってしまわれたというのに……もし今以上にポンコツになったらどうするのです!?」
「お前本人を目の前にして良くポンコツとか言えるな……第一変わったのは我だけなくお前達もそうだろうに」
二人が言い争う中、氷獄の魔王に掲げられていた春妖精に変化が起きる。
炬燵の中から救出された時はまるで茹でダコのように顔を真っ赤にし全身から湯気を発していたが、氷獄の冷たい空気に晒され水に濡れた身体が急速に冷やされ、氷獄の魔王の手の中で春妖精が電動マッサージ機を連想させるほどに震えだす。
「ぴぇ――」
「ん?」
「ぴぇっくしゅん!!」
ボフンッ!!
春妖精がクシャミをすると同時にまるで爆発でもしたように毛玉が一瞬にして膨らみ、毛先についた水を勢いよく周囲にまき散らす。
撒き散らかされた水は氷獄の冷たい空気によって一瞬にして凍結し、無数の氷弾となり側に居た氷獄の魔王とエクエスに向かって襲い掛かる。
「「ぶっ!!」」
至近距離からのその不意打ちに二人は対応出来ず全身で無数の氷弾を受け止める。
しかし腐っても史上最凶と恐れられた魔王とその眷属、その程度で怪我などするはずも無く平然とした様子で春妖精を抱え上げていた。
「あービックリした。お前、クシャミをするならすると言え」
「ぴぃー」
「ん? なんだお前、まさか喋れないのか?」
「ぴぃん」
「ふっ……それが返事か、変わった奴だ」
氷獄の魔王と春妖精がそんなやり取りをしていると、すぐ横から凄まじい冷気が漂ってくる。
「ふふふ……」
横を見ればエクエスが不敵な笑みを浮かべていた。
氷獄の魔王の眷属でもあるエクエスもあの程度では怪我をする事は無かったが、良く見て見れば右目に嵌められていたモノクルのレンズが割れていた。
エクエスは笑みを浮かべたまま右目からモノクルを外すとモノクルを握り潰し、モノクルを握り潰した右手から氷の剣が現れエクエスがそれを再び春妖精の首筋に突き付ける。
「この毛玉、良い度胸ですね。首切り取って毛玉二つにした後、雪だるまと称して中庭にでも飾ってやりましょうか?」
「ぴぃぃぃぃぃぃいいいいい!!!」
「止めろ馬鹿、モノクル一つ壊されたくらいでキレる奴があるか」
「いいえ魔王様、別に私はモノクルを壊された事に怒っているのではありません。不意打ちなどと言う汚いやり方に怒っているのです。奇襲、挟撃、偽装、陽動、私は正面から正々堂々と戦おうとしない者がこの上なく許せないのですよ」
「何時も思うが作戦参謀としてそれはどうなのだ? まぁそれは置いておいてだ、別にわざとではないのだからそこまで怒る事もないだろう。お前もわざとあんな事をした訳ではないのであろう?」
「ぴぃん!」
春妖精が元気良く頷き、氷獄の魔王が目線でエクエスに訴えかける。
「はぁ……魔王様にそこまで言われた時点で私に異を唱える事など出来ませんよ。とりあえずその妖精を雪だるまにするのは諦めましたが、その妖精を受け入れる事自体は認めてませんからね」
「そう言うな、コイツが一人で生きていけるようになるまでで、以前のように長期間そばに置くつもりはない。それにコイツは――」
そこまで言いかけてふと、氷獄の魔王はエクエスから視線を外し抱え上げていた春妖精に視線を向ける。
「そういえば暫定的にコイツや春妖精などと呼んでいたが、我が城で保護するとなると名前くらいは付けてやらねばなるまい」
「名前ですか? 別に春妖精で十分だと思いますが」
「冷たい奴だなお前は、短いとはいえ共に過ごすのだ、名前くらい付けてやりたいと思うものだろう」
それだけ言うと氷獄の魔王は再び春妖精に視線を戻すと首を捻って考え出す。
「うーん……名前、名前かぁ……」
「ぴぃー?」
「お前は春の丘で生まれたんだったな」
「ぴぃん?」
「何故に疑問形……それは肯定と取って良いのか?」
「ぴぃん!」
「うむ、そうか」
そう頷くと氷獄の魔王は目を瞑り僅かに口角を上げ楽しそうな笑みを浮かべながら、春妖精の名前を告げる。
「ならばお前は今日から”コハル”だ!」
「ぴぃぃぃん――ぴぃ!」
「そうか、気に入ったか!」
「ぴぃんぴぃん!」
こうしてコハルと名付けられた春妖精は暫しの間、氷獄の魔王の元で過ごす事となった。
この小さな春との出会いが、止まりかけた氷獄の魔王の物語を再び動かす事になろうとは、この時は誰も予想もしていなかったのであった。
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