転
先日投稿したものを少々変更させていただきました。
転機というものはいつも唐突で、私は目の前に倒れた次女の心臓を貫いた短剣を引き抜いた。
血は吹き出そうとして衣服に阻まれて、浸透していく。それを伝って私の手にこびりついて、その温もりを必死にハンカチで拭き取った。
どうしようもなく、掌の皮が火を噴きそうなほどに擦った。
命の灯がまた、音を立てて消えた。血はまだ暖かいのに、体はみるみる冷たくなっていく。
後戻りはできない……そうわかってはいるけれど、この身の震えは、高揚は抑えられなかった。
こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ……。
あなたが間違えたこの身は、血で錆びれて、寂しく朽ち果てる。
もう、誰にも止められやしない。
機は熟した。長い休日はもう終わってしまったの。すでに終わっていたの。あの時に全てが……。
私は短剣を引き抜いて、次女をベッドに運んで寝かし付けた。血がつくことなんて考えもせずに。
「おやすみなさい、お義姉様。大丈夫、すぐにみんなそちらへ行きますから、上のお義姉様と一緒にお待ちになっていてください。もうお伽噺はお終いよ。新しい現実はすでに幕開けていた、あぁ悲しき家族の行方はどこへやら」
体は震えたまま、私は三女の元へ向かった。
これ以上、時間が経ってしまえば自分自身がもたないような気がしたからだ。もう私の所業がばれたところで、どうでもいいとすら思っていた。完全に壊れてしまっていたの。今でもこの時の記憶は鮮明に憶えているわ。
足早に廊下を進んだ。
他の女中たちは私を横目にすれ違っていき、血に気が付いた者は短く息を吸って口元を抑え、尻餅をついた。慄き過呼吸になる者も居たし、お義兄とすれ違った時は女々しく壁に貼りついていたわ。
そんなものは気にも留めずに、私は不気味にほくそ笑みながら一直線に三女を探した。なぜ自分の表情が見えたかって言うと、廊下に向かい合うように立てかけられた鏡映っていたから。
嫌でも胸の上あたりから腰のエプロンまで伸びた血痕が擦れたようになっていたのが見えたわ。クリーム色の服を着ていたから余計に目立って、猟奇的であった。
私が正気であったら吐いていたと思うわ。
右手に短剣を持ったまま、屋敷の角を何度も曲がって、奥にある三女の部屋の前に立った。
中からは声が聞こえるので、彼女がいることはすぐに分かった。
三女は演劇の役者をしているので、そのセリフを練習しているようだった。
「ああ、お父様、私の唇に霊薬が籠り、二人の姉に与えられた深手がこの接吻によってお直りますよう!」
「(傍白)あなたとコーディーリアとの共通点は三女ってだけよ。あと、殺されるってこと。ゴネリルとリーガンはもう死んだ……最後はあなただけ」
私は短剣を握る手を強くして扉をゆっくりと開けた。
お義姉様は私を見るなり悲鳴を上げて後退った。そんなことはお構いなしに私は短剣を向けて歩み寄っていく。
「やめなさい、その短剣を置きなさい!今まであなたにしたことは謝るから!」そう言って必死に叫んで膝まづいたが、無視をした。
「やめ……まさか、お姉様を殺したのは……。やめて、嫌よ、私は……お姉様のような末路は辿りたくない!なんでも言うことを聞くから許して」
「すぐにでも二人の所へ行けるわ」
お義姉様は、はっとして、「下のお姉様も……」と狼狽えて「お願いします、命だけは」そう言って命乞いを続けた。
私は怯えるお義姉様の首筋に短剣を突き立てて
「私がなぜ二人を殺したかわかる」
問うた。
お義姉様は首を横に振った。
「二人はあなたの替わりはいくらでもいる、て言ったから殺したの」
「私はそんな事言っていないじゃない!」
「そうね……けれど、もう遅いわ、もう私は壊れてしまったの」
お義姉様は理不尽だと泣き喚いたが、私は無慈悲に短剣を突き刺した。三人目となると慣れたものだったわ。しかも感情的でもないので、ベッドに寝かし付けるまで早かった。
――そして、部屋を後にしようとした時、勢いよく扉が開かれた。
「あなただったのね」
お義母様がそこに立っていた。血まみれの私と血が滴る短剣を見て二、三歩下がって睨んできたわ。
私は驚いてどうしようか迷った末にお義母様に切りかかった。冷静さを失い、焦点が合っていなかったせいか短剣はお義母様の脇腹をかすめて、前のめりにすり抜けた。それがさらに私の平常を奪っていき、私は屋敷の外へと逃げ出したの。もう全力で……。
「人殺しよ!誰か捕まえて頂戴!一刻も速く!あの血も涙もない偽りの娘を!」
後ろから叫び声が聞こえて、それを聞きつけた屋敷内の男たちが私を追いかけてきたわ。普段から堕落した生活を送っている人間が大半であったおかげで、楽に屋敷から逃げ出すことができた。
それから、多くの人が来ないような町はずれの教会へと着いたのはもうミネルヴァの梟が飛び立った後くらいだろう。
煉瓦はカビていて、中央の塔の最上にある大きな鐘は錆びてしまっているほどに古びていた。
正面扉を叩いた。すると、黒いベールを被った老婆の修道女が出てきて、皺々の手で私の手を包み込んだ。
「何も言わなくてもいい、その手を洗ってきなさい」そう言って井戸へ案内してくれた。
擦れて今にも切れそうな縄で水を汲んで、老婆のポケットから取り出したハンカチで血糊を洗い流していく。「こうやって、過去も洗い流しなさい」って。
それから教会へ入り、用意してもらった修道服に着替える。その時に「短剣は置きなさい、あなたには必要ないものです」と勧められたけれど、私はそれを拒んだ。
「いつか放せるようになるわ」老婆はこんな私を哀れんでくれた。
真っ黒い服は私を悪魔のような身なりにした。少なくとも私は鏡に映る自信を見てそう思ったわ。悪魔には変わりないのだろうけど……。
私は修道女たちに晩御飯を振舞ってもらい、「今日はもう眠りなさい」と教会の一室にある硬くて薄い布団に案内して「いい夢を」と言い出ていった。
はじめはこんな所では寝れないと思ったけれど、意外と速く眠りにつけた。今までの舞踏会の夢も見なかったわ。それほどに深い眠りだった。
きっとネズミが私のお腹に数回乗っただろうけど、起きられなかったわ。気を遣ってくれたのかしら。
朝になると屋敷からの追手が来て「血まみれの娘が来なかったか?」と聞いてきたらしい。老婆は知らないふりをしてくれたそうだけど、犯罪者のために嘘をつくのって神様は見逃してくれるのだろうか、なんて思いながら朝食をとる。口の水分を吸いつくそうとするパンを温かい豆のスープに付けて食べる。屋敷の食事とは天と地ほどの差があったけれど、なぜか胃袋を心地よく刺激した。不思議だったわ。
私はその後、ここには長居できない、とお祈りを終えて、夜逃げする準備を始めた。準備をすると言っても、行く当てもないので乞食に変装して凌ごうと考え、暖炉の炭を小袋に詰めたり、服を汚すことができる場所を探して過ごした。
ここに引き取られている子供たちは私を奇怪な目で見つめたが、お構いなしに続けたの。
――夜が来る。
私は手はず通り皆が寝静まった後、裏口からこっそりと抜け出して、顔に灰を振りかけ、そして服の裾を短剣で裂き、水たまりで泥を塗った。
初冬ということもあって、冷たかったけれど生きるためには仕方がなかった。
元来た道を戻りつつ、隣町に続く道に向かっている途中で、前から多くの光が見えた。地面からは馬轟が足を通って伝わってくる。だから咄嗟に脇の茂みにうつ伏せになって目を凝らした。
「あの娘はなんてことをしてくれたのだ。おかげで嫁に面倒を押し付けられて……。本当にあのボロボロの教会が怪しいのだな?」
父の声だ。
「はいそれらしき姿をしたものが駆け込んだ、と言っていた者がおりました」
「昨日はいなかったのではないか?」
「相手は老婆です、朝起きたことも忘れているような年でした。それに脅されて、嘘を強要された可能性だって大いに考えられます。だから今日は強制的に中まで調べようと思っています」
「あまり騒ぐなよ。もう面倒はあの娘で十分だ」
数名の兵と共に教会の方へ歩いて行った。まぁ当然よね。私は生まれた時から父には愛されていなかったけれど、性格が悪い再婚相手の"愛する"義娘が実の"愛さぬ"娘に殺されたとなったら、誰でも"愛さぬ"方の娘を咎めるでしょう。「かわいそうな娘」なんて少しも感じないはずだわ。
彼らが戻ってくるまでに私は駆け足でその場を去った。
大通りに出てから少し経過した頃、雲行きが怪しくなって月が隠れてしまった。深くなった闇にポツポツと雨が降り始め、やがて大粒の雨が肌を刺すようになったの。だから急いで近くの馬小屋に雨宿りしようと駆け込んだ。
凍えないように身を丸めて、座り込んだの。
最後まで読んでいただきありがとうございます。