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はぐれた時へ

作者: 坂下成実

 列車が走り出す。僕が改札をくぐったのは、まさにその瞬間だった。

 僕は、その列車の後を追う。何処を目指すのかは、説明されなくても分かっている。一番後ろの車両―と言ってもたった三両編成だが―の、後ろから三番目の開いた窓。その窓の中にあるボックス席。窓際の手すりに、わずかに落ちる、細く白い腕の影。

 車掌室、一番後ろの窓、後ろから二番目の窓、と、僕の足は列車を抜かしていく。もうすぐ三番目の窓に辿り着く。という所で、無情にもホームが終わる。僕は、後ろから三番目の窓の中を見ることなく、ただ走り去る電車の最後尾をぼうっと眺めて立ち尽くす。


 そこで目が覚めた。最近は、たまにこんな夢を見る。背中には、まるで全力疾走をした直後のように、じっとりと汗をかいている。寝ても、まるで疲れがとれない。

 僕は、眠い目をこすりながらパジャマを脱いだ。背中の汗の痕が生々しく、脱ぐ時に少し不快なにおいが鼻をついた。

 一人暮らしを始めて三年になるが、洗濯だけは、相変わらずまめにこなす気にはなれない。料理はもともと嫌いではないし、掃除も、やる気になってしまえばそれほど苦ではない。しかし、洗濯だけは気だるい。だから、できるだけ服を汚さないようにと思って生活している。しかし、これほどにおってしまっては、もう洗濯するより他はない。僕は、部屋の隅にある洗濯かごに、脱いだパジャマをそのまま投げ込んだ。

 大学も、四回生の夏前になってしまうと、さほどやることはない。就職活動も人並みに行い、人並みに終わった。今はただ、寝ては起きての毎日の繰り返しの中で、わずかに残った単位を拾い、漠然と卒論に向かうだけである。

 つい一週間前に、面倒くさいのをおして洗濯した山の中からTシャツを一枚取り出し、それを、昨日も履いたジーンズと合わせた。少なくとも不潔な感じはしない。僕のファッションの基準と言うのは、その程度の水準にしかなかった。ファッション雑誌など、買い方も知らなかったし、デニムとジーンズの違いも、さっぱり分からなかった。

 ドアを開けると、空気は、もうすっかり夏のそれになっていた。湿気くさい、ぬるい風が肌を撫でていく。自転車に乗ると、それは一層顕著になり、地面に落ちる影さえ生ぬるい。

 こうして自転車を漕いでいると、この上なく幸福なのだが、同時に虚しくもなる。

 大学受験、就職活動と一応頑張ったのだから、これくらいのモラトリアムは許されてもいいだろうと思う一方で、このように無為に過ごす時間が、ひどく人生を薄めている気がする。衝撃を緩和するためにゆっくりと、しかし確実に、自分の人生の色が薄くなっていくのが、肌で感じられる。

 これではいけない、と思えるほど、僕はもう若くはなかった。十代の自分は、もう、影も踏めないほど遠くへ行ってしまった。あの頃なら、そう思えただろうか。いや、きっと思えたはずだ。思えなくなったのは、誰のせいでもない、ただ、時間が悪いのだ。

 十代の頃は、すぐに約束をすることができた。誓いを立てることができた。夢を描くことができた。若かったから、の一言で片付けることは簡単だが、そんな一言さえも越えた世界に、僕は確かに立っていた。それは何も僕に限ったことではなく、誰もがみな、そうだったはずだ。

 

 僕の実家は田舎で、僕は高校卒業までの十八年間を、そこで暮らした。何の娯楽もない町は、不良さえも生みようがなく、僕は何らのレールも踏み外すことなく、小学生から中学生、そして高校生へと成長していった。僕の周りにいた人間もまた、同様だった。

 顔ぶれも、小学校一年生からほとんど変わらない。肩書きが変わるたびに、その人数はほんの少しだけ増え、ほんの少しだけ減った。

 その中に、僕は、好きな人がいた。名前は、理緒といった。姓は、残念ながら思い出せない。と言うよりは、最初から覚えていないと言った方が正しいのかもしれない。僕たちは、淳と理緒と呼び合うだけで、いつも分かり合えた。

「私には、最初から淳だけだよ。昔からずっと」

 高校生一年の夏、僕が思い切って告白した時の返事である。僕は、飛び上がるほど喜んだ。彼女の、理緒のためなら、どんな約束でもできた。どんな誓いも立てられた。どんな夢も描くことができた。

 その年の夏、二人で行った神社の夏祭り。暗がりの細い脇道に理緒を抱き寄せて、静かにキスをした。初めてのキスは、何の味もしなかった。自分の汗が少し唇に粘りついていたが、それすらも忘れて、夢中で目を閉じていた。

 金もなく、娯楽もなかった。大学生の今の生活とは、明らかに正反対である。今は、少し足を伸ばせばどんな娯楽もある。少しがんばってアルバイトをすれば、金もふんだんに手に入る。

 それでも、あの頃の方が遥かに豊かな気がするのはなぜだろうか。理由は分からないが、少なくともあの頃の僕は、人生を薄めるような真似はしていなかった。今よりは、濃度の高い人生を送っていた。

 二人で都会の大学へ行こう、という夢を描いたのは、付き合い始めてからちょうど一年が経った、高校二年の夏のことだった。今なら到底こんなことを軽はずみには言えない。

 例えば、結婚しよう、と言って見た所で、住む所は、貯金は、仕事は、といった疑問が後から後から湧いて来て、結局は現実の中に飲み込まれてしまう。

 しかし、あの頃は違った。どんな無責任なことでも、驚くほど軽率に、口にすることができた。それを叶えよう、と約束することも、簡単にできた。

 僕と理緒の間には、何の疑問もない時間が流れていた。カレンダーが一枚、また一枚とめくられても、変わるものと言えば着ているものくらいで、僕たちは相も変わらず、自転車を二人乗りし、たこ焼きを買い食いし、時々往復三時間近くもかけて、映画を観に行ったりしていた。それは全く無為な時間ではなく、その証拠に、一緒に都会の大学に行くという誓いは、何ら薄まることなく、僕たちの将来としてそこに在った。

 僕たちは、幸せだった。押し付けたくはないが、理緒もそうであったと、僕は信じている。

 何かが変わったのは、高校三年生の、ちょうど今時分のこと。もう、四年前の話になる。理緒の父親が、転勤することになったのである。最も、僕がそのことを知ったのは、事が全て終わり、理緒が僕の目の前から姿を消してからのことだったのだが。

 理緒は、僕にそのことを隠していた。いや、言いたくても言えなかったのかもしれない。本当に狭いコミュニティなので、放っておけば噂はすぐに広まってしまう。しかし、逆に言えば、せき止めてしまうのもそう難しくはない。理緒は、高校の友人全員に、緘口令を敷いた。母親にも、極力言わないで、とお願いしていたらしい。

 僕はその事実を、理緒が出発する日の朝に母の口から知らされた。母は何も知らなかったらしく、ただ何気なく、あの子の所引っ越すんだってね、寂しくなるわね、と朝食の卵焼きを焼きながら言った。僕は持っていた味噌汁の椀を取り落としそうになった。

 食べかけの朝食をそのままにして、家を飛び出した。町には、朝の時間帯でも電車は一時間に二本しかない。何時に来るかは、時刻表がなくても分かってしまう。

 飛び乗った自転車には、まだ少し、理緒のにおいが残っていた。僕は、今までにないスピードでペダルを漕いだ。次の電車は、十分後。駅まで普通に自転車で向かえば、二十分かかる。無駄かも知れない、何の先行きも見えない船出。それでも、そうすることに何の疑問も抱かなかった。理緒が行ってしまう。ただそれだけで、自転車を全力で走らせることができた。

 田んぼの角を曲がり、林を抜け、駅が見える最後のホームストレートに入った。大きな建物が皆無なので、一気に駅まで見渡せるが、実は距離に直せばまだ一・五キロはある。ホームには、既に電車が止まっていた。

 発車五分前。僕は、少し下り坂になっているのに、迷わずペダルを踏み込んだ。

 スタンドを立てることもなく、改札の前に自転車を横倒しにしたまま、僕は無人の改札をくぐった。自転車が倒れた時に鳴り始めた発車ベルが止まった。田舎の駅に入ってくる、たった三両編成の小さな列車は、無情にも走り出した。

 目指す所は分かっている。僕と理緒が、いつも乗っていた一番後ろの車両、後ろから三番目のボックス席。

 車掌は怪訝な目で僕の顔を見て、もう止まれないよ、と叫んだ。僕は大きくかぶりを振り、なおも走った。一番後ろの窓、二番目の窓を追い抜かした。三番目の窓の手すりには、理緒のものに相違ない、白く細い腕の影が見える。

 刹那、僕の足は止まった。それは決して意図的な停止ではない。駅のホームがなくなり、止まらざるを得なかったのだ。

「理緒!」

 僕の声は、理緒に届いただろうか。今となってはもう、それを確かめる術もない。ただ、あの白い腕の影が、小刻みに震えているように見えた。そのまま、列車は見えなくなった。タンスの引き出しから引っつかんで着たTシャツの背中の汗が、いやに冷たくなっていた。


 僕が最近見る夢には、こんな因縁がある。今思えば、何のことはない。付き合っていた女の子一人と別れただけのこと。薄められた人生の中では、それよりも更に薄い出来事の一つに過ぎない。しかし、あの頃は確かに違った。限度いっぱいまで濃縮された時間の中でも、より一層濃密な部分。

 理緒が何処へ引っ越して行ったのか、今の僕にはもう、確かめるべくもない。確かめる気もない。たとえ今、再び出会った所で、もう、あのように何の疑問もない時間は流れない。

 思えば、あの三番目の窓の中にあるのは、僕の十代そのものだったのだ。僕が、今もあの中を見ることができないのは、何のことはない、どれだけ希求してもあの時間が帰って来ないから、というだけのことなのだろう。

お初にお目にかかります。坂下成実と申します。


こんな恋愛小説ばかりを書いておりまして、これからも、基本的にはこんなものばかりを投稿させていただくことになろうかと思います。


よろしくお願い致します。

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