愛惜プラス
新年を迎え、一月が過ぎて寒さが一向に緩まない二月半ば、予兆はやってきた。
後から思えば、もっと以前から予兆はあったのかも知れない。
普段から、風邪ひとつひかない夫が、検査を受けると言う。
ただそれだけで、酷く胸騒ぎがした。
去年の六月には会社の健康診断も受け、何事も無かった。
内視鏡検査も受けていた。
特に病院嫌いではないが、病気に縁が無い。
そんな夫が、自ら内視鏡検査を受ける。
何か余程の事なのか、最近の夫の様子を思い返す。
心当たりは浮かばないが、胸騒ぎだけが大きくなる。
夫はいつもと変わらないように過ごし、子供たちを学校に送り出す日々。検査の前日、食事などの注意だけが私のする事だった。
検査は会社の契約するクリニックで、検査のみ。診断はしない。
検査結果は会社の医務室に託し、産業医が来る日を待つだけ。会社の医務室には、年配の看護師さんが、常駐している。
胸騒ぎは止まらなかった。
産業医が来ると言う日も、夫は普段通りに出勤して行った。
もう、三月の終わりも近い日だった。
子供たちは春休み。
寒さも少し緩み、本来なら、のんびりとした一日。
午後になり、夕食を考え始める頃、
夫の携帯電話から着信がきた。
応答する。電話に出ると、夫ではない、
産業医からの話だった。
曜日は金曜日だ。
産業医の手配で、明日には指定の病院に行き検査入院をするように告げられる。
私の口から発した言葉は、愛想良く、挨拶とお礼を言えた。ただ、産業医の口調にただならぬ感じを覚え、不安と胸騒ぎに耐えながら、家事をする。
夫は残業までして、遅くに帰宅した。
お帰りなさいと笑顔で迎える。
検査入院なんて大袈裟だと言う夫。
夕食を温めようとした時、二階でドサリと
何か倒れるような音がした。
急いで二階に上がる。子供たちも部屋から出て来る。
主寝室のウォークインクローゼットで、座った姿勢から立ち上がる夫を見る。
立ちくらみだよと言う夫。
ネガティブな言葉は言えない。言いたくもない。全くもう、頭とか打ってない?心配するじゃないの…
そう言って、夕食を用意する。
本当は、もう、広がる不安に手足が震えそうなのに、抑え込みながら、当座の入院準備を整える。
翌朝、郊外の家から一時間ほどかかる病院に向かう。最寄り駅までのバスの窓から満開の桜を見ながら、夫は良い花見だと喜ぶ。
病院に着き、産業医の手配で受付はスムーズに済み、消化器外科の診察室で、主治医になる方と話して、夫は検査巡りをする。
血液検査、レントゲン、CT…検査毎に、同意書に署名をする。
以前の私ならば、検査を待つ間に退屈していただろう。
不安、緊張、胸騒ぎに、時間の経過もよく分からないほどだった。
CT検査中に、主治医が側に来て私に話しかけてきた。
外来も終わる時間なのか、周りに人はいなかった。挨拶をして、座る。
いとも簡単に、夫が食道癌のかなり進行した状態だと告げられる。
医師は、まだ検査中なのもあり、ぼかした言い方ではあったが、手術もできない段階で、とりあえず治療はしますと言った。
私は、ただ手足の震えを抑え込み、そうですか…よろしくお願いします。としか言えなかった。
すぐ入院手続きをするように言われたので、
手続きの書類を書いているうちに、夫が待合室に戻って来た。
部屋の種類を選ぶところだったので、夫に聞いて決める。
大部屋で良いと夫は言い、書類を出すとすぐ病室に案内される。
夫はまだ自分の病気が何であるか知らない。
どこか痛む訳でもない、見た目も、体力も自覚するほど弱くなっている訳ではない。
入院の理由を、暫く検査をするためだと思い何故土曜日からなのか訝しむ。
今日の検査は済んだ。日曜日は検査は休み。
少しでも早く入院させるべき患者とは知らない夫。すぐ様子を見に来た主治医に外泊許可を貰い。一緒に帰る。
月曜日の夕方に、検査結果の説明という、病気の告知がある。夫は、それなら、月曜日の夕方までに入院すれば良いのではと不思議そうに主治医に問う。
月曜日は朝からまた検査がありますと言われ日曜日の夜には病院に戻るようにと告げられて、まだ検査ですか?と軽く笑う夫。
帰り道で、昼食がまだだったので、軽い食事をする。夫が検査を受けたきっかけは、食事が喉に引っかかるような気がしたからで、冬だったので、風邪で喉が腫れているのかと思ったのが、一向に治らないからだった。
それが二月の半ば。一月以上経過している。
食事の飲み込み難さは、かなり進んでいるはずで、柔らかい食べ物を選び、食事をする。
その日は、夕食の買い物をしながら帰宅。
夫は子供たちとテレビを観て笑い、私の緊張や、手足の抑え込んだ震えには、気付かずにいてくれたようだった。
日曜日の夕方、病院に戻る夫を見送り、同居する舅と子供たちに夕食を食べさせて、ようやく一人になる。全身の緊張、不安…
でも、明日には夫本人に病名が告げられる。
夫が一番辛いはずだ。まだ私は何も言えないし、何かできるのは、入院生活に必要な物を揃えるだけだ。
夜遅くに夫からメールがきた。とりあえずの準備で入院したので、早速困ったらしい。
パジャマは、普段のスウェットしか持っておらず、前開きのパジャマが必要だと言う。
本当は私もそうではないかと思っていた。
夫は検査入院だからと、特に細かくは考えていないようだったが、病院に戻るとすぐ、点滴をされる事になり、そうなると、スウェットは不向きだ。
病院で病衣の貸出をして貰い、パジャマを買うのと、どっちが安いだろうかと、そんなメールだった。
家に帰ればパジャマは着ないから勿体ないというくらいの考えでいる。
そんなにすぐ帰れないことを夫は知らないし考えてもいない。
月曜日、朝からパジャマをとりあえず二組買い、急いで洗濯乾燥をして、他にも細々した物を持ち、約束の時間までに病院へ向かう。
会社の産業医は、入院した大学病院の他の場所にある病院のかなり上の人だ。
その産業医と主治医、決まり事らしく看護師が一人。更に会社の医務室の看護師さんが今日の説明に参加している。
内視鏡やCTの画像をパソコンで見せながら説明が始まる。食道の画像は見るのも辛いものだった。喉から下にどのくらいの位置かはよく分からないが、食道を塞ぐように腫れ物がある。
産業医があっさりと食道癌だと告げる。
手術はできません。抗癌剤と放射線治療をします。そのための検査などが続く事。
夫は俯き、そうですかと呟くように答えた。
手続きは淡々と進む。今日の説明内容、治療計画を書面にして、主治医、立ち合う看護師
夫、私と読んで署名をする。
それで、病室に戻る。
いつもは冗談ばかり言い合う私たちだが、夫は無言だった。私は、パジャマを一組出し、
もう一組を棚に仕舞う。飲み物を買い足すかどうか聞くと、夫はパジャマに着替え、一緒に売店に向かう。
飲み物は、大部屋の冷蔵庫が共有なので、冷蔵庫には入れず、棚の上に置く。
慰めや励ましの言葉など言える空気ではなかったし、言えば虚しいだけに思えた。
結局、暫くしてから、明日も来るから、必要な物があればメールしてねと言い。
私は帰った。食事は作る自信がなく、弁当を買って、帰宅した。
夜一人になり、色々な思いや気持ちが込み上げてくる。
何故夫が、何故今なのか、何故もっと早く気付けなかったのか、憤りや悲嘆。
神がいるのなら問いたい。夫が何をしたというのだろう。何の罰なのか。
泣くことはできなかった。
翌日、病室が少し寒いと言う夫にカーディガンを持って、病院に行く。
面会に行く時間をメールで知らせていたので夫は外出許可を取り、着替えて待っていた。
特に検査がない時間なら、外出も、週末は外泊も許可される。夫はお酒も煙草も飲む人だった。入院して、お酒が飲めないのが辛いかも知れないと言っていたが、お酒は飲みたいと思わないのが不思議だと言う。
煙草だけは、吸いたくなるらしく、入院した病院は禁煙外来があるような所で、敷地内禁煙。なので、私が来ると外出して、煙草を吸えるような店でコーヒーを飲む。
病院は最寄り駅から徒歩五分くらい。駅前にはコーヒーショップも色々ある。禁煙ではない店を探して、アイスコーヒーを二つ買い、喫煙席へ向かう。
夫は、イタズラをする子供のような顔をして、煙草とライターを取り出す。私も実は喫煙者だ。二人でコーヒーと煙草を手に、電車の中で見たことや子供たちのことを、面白可笑しく話す。
ドラッグストアやコンビニで買い物をしながら、病院に戻る。守衛室でチェックを受けて病室に。私たちは、手を洗いうがいをしたけれど、煙草の匂いは分かるはずだ。
面会時間ぎりぎりまで、他愛もない話しをして、明日も来るからと告げて、帰る。ナースステーションに顔を出し、挨拶をすると、主治医が話したいということで、一階の人気のない外来のソファーに座る。
主治医が私だけに話す。何となくそれだけでも、良い事ではないのが予想できる。
話は、核心に触れるものではなかったが、言いたい事は分かる。そんな話だった。
外出や外泊も許可します。食べたい物があれば、好きに食べてください。喫煙も医師としては何とも言い難いけれど、患者様のしたい様に過ごしてください。
他の親族の方も話しを聞きたいなら、お話しします。
こんな風に言われてしまうと、本当は聞きたいが聞けないことが頭に浮かぶ。夫は後どのくらい…
入院が三月の終わり頃で、治療が始まったのは四月の後半だった。
抗癌剤治療は入院している病院でするが、放射線治療は、少し離れた大学病院で受ける。
治療を開始するまでに、こんなにも時間がかかるものかと思った。後で知ったのだが、産業医のコネや力で本当は早い方だった。
夫は病室にパソコンを持ち込み、自分の病気についてや、治療についてを調べていた。
そして、自分は治ると、前向きになっていた
パソコンで検索すると、ステージ四、末期は治療不可と書かれている。なので、治療ができるから末期ではないと思った訳だ。
病院に、人事部の部長と担当者が面会に来て必要な手続きの書類を書いたり、医務室の看護師さんも、時々来るようだ。
この病院は、会社の社員が、人間ドックを受けに来たりする。関連会社の人に出くわして驚かれるくらい、夫の見た目は元気で、入院患者という言葉にはほど遠く見えた。
治療はニクールに分けて行う。治療に至るまで、検査のひとつひとつに同意書があり、署名をした。かなりな量の紙がたまった。
抗癌剤の説明にも同意書。放射線治療にも同意書。説明の冊子も渡された。
抗癌剤に放射線と言うと、髪が抜けるというイメージがある。説明の冊子にも、髪が抜けた時の対処について書かれていた。
一クール目の治療が始まり、夫の様子を見る毎日。外出はさすがに禁止だ。
放射線治療に行く時、病院でタクシーチケットを貰い、駅二つくらい離れた病院にタクシーで通う。帰りのタクシーに乗る前、喫煙席しかないというカフェを見つけ、一服しているとイタズラっ子のように言う夫。
治療で、少し気分は悪く、食欲もあまりないのに、以前と変わらず冗談も言う。
喫煙カフェを見つけた話を得意そうに話す。
不思議と髪は抜けなかった。主治医の話でも
これほど副作用の無い患者は珍しいとの事。
一クールが終わり、世の中はゴールデンウィークだった。面会の後、主治医と私だけが話すのも、習慣のようになった。
主治医も数日休みを取ると話し、また何気ないように、家族で旅行にでも行かれるなら今のうちにと言われる。
他の親族と話をしなくても良いのか、とも。
治ると信じ、頑張る夫。
他の親族と言っても、舅か夫の妹しかいない
夫は元々、舅ともあまり話をしないし、舅は腰の具合があまり良くなく、タクシー以外の交通手段を使えない。
妹は、独身だが、少し離れた場所にマンションを買い、働いている。
その妹とも、話をしない。
いつも私が間に入り、コミュニケーションを取ってきた。
夫も、主治医に他の親族と話をしなくても良いのか聞かれ、必要ないと答えていた。
一週間ほど家に帰って来た夫に、何処かに出かけるか聞いてみた。
治ってからでも旅行に行こうと言われ、そうねとしか言えない。
ニクール目の治療が始まり、治療中に結婚記念日が来た。病院ではいつも通りに話したりしながら、結婚記念日だねくらいしか言わなかったが、家に帰ってから長いメールを送った。
夫を大切に思っている事、一緒に頑張って生きたい事を、ストレートには書けず、回りくどい文面で、ちょっとラブレターのように。
返信は、短く、色々とありがとうとだけ。
それだけで嬉しかった。
ニクール目の治療でも、髪は抜けなかったし、副作用も軽いままだった。
白血球もあまり減少しなかった。
大部屋なので、他の人たちの話は聞こえてしまう。
白血球が一定以下に減少した患者さんは、個室に移る。差額ベッド代が掛かる。
夫は、そんななかでは運の良い方だった。
一通りの治療が終わり、治療結果の説明がされた。産業医と主治医に看護師一人。
患部の癌細胞が劇的に減っている事が分かり夫は笑顔を見せる。私も、もしかしたら、今までの不安は杞憂ではないかとさえ思う。
説明書に署名して、退院の準備をする。
夫は、本当に大変な治療を受けたのに、気力も体力もさほど落ちていないように見えるし自覚しているようだ。
産業医と夫は軽口をたたくような仲で、治療についても、産業医は抗癌剤と放射線を、毒薬飲んで被爆するようなものだと言っていた
次に病院に来る日を指定され、会社に出勤してもいいかと主治医に聞くほど、夫は自分は大丈夫だと思っている。
勿論、会社は駄目ですと言われた。
次は二週間後に診察になり、夫は退院した。
増えた荷物を、二人で持ち、帰り道で外食。
オムライスとパンケーキを分け合ってゆっくり食べ、家に帰った。
治療の効果はまだ進んでいるようで、夫は飲み込みやすい日や飲み込み難い日があり、食事は柔らかい物にしていたが、あまり食べない日もあった。
ある日食べたい物を聞いてみたら、ジンギスカンが食べたいと言う。家ではジンギスカン鍋が無いので、店を探して、退院祝いを兼ねて出かける。舅も夫の妹も一緒に。
その店の肉は少し厚く切られていた。お酒は禁止だったので、ノンアルコールビールを飲み、煙草も吸いながら、食事を始める。
少し食べただけで、引っかかってしまい、お手洗いで、無理に吐く事になってしまった。
食べたい物が食べられない。辛いと思う。
退院して一週間、突然、夫は水も飲めなくなった。私は狼狽する。病院に電話をするとすぐ来てくださいと言われる。
夫に伝えると、いつも穏やかな人が、勝手に電話した事を怒り、病院には行かないと言い張る。電話をかけ直し、本人の意志を伝える
水も飲めないで、どうするのか。辛い一週間を過ごす。水分を口にすると、喉の奥に溜まり、ほんの少しずつ糸のように下に流れていく感じはするようだ。
ようやく、診察の日。即日入院になると私は予想して、準備をして一緒に病院へ向かう。
やはり入院になる。ほんの少しの水分しか取れないのだから、家でどうにかなるはずもない事は、分かり切った事だ。
点滴をされ、また検査をする。
入院して数日後、現状の説明になる。
産業医、主治医、看護師、画像を見ながら、
説明される。
夫と私では多分認識の違いが有り過ぎるので
病気や治療について、細かく話し合った事が無い。私も希望を捨てたくはない。
食道の一部に腫瘍が有り、それが癌なのだと
だから癌細胞が減っていけば、普通に食事ができるはずだと夫は思っていたようだ。
そんなに単純な事ではなかった。
食道は気管とほぼくっついている。食道の内側に腫瘍があるだけではなく、治療を始める前から、気管も浸潤して食道壁そのものが癌細胞に置き換わった状態だった。
その状態で、癌細胞が死滅した。
では、どうなったのか。
瘢痕収縮という状態だそうだ。
火傷や酷い傷跡は、とても硬い跡になる。
夫の食道壁は、硬い傷跡のようなものになり
癌細胞が無くなったので、縮むように細くなった。
その後、一週間ほど、色々な方法が提案されながら、しかし、どれも危険だと言われる。
バルーンを入れて膨らませ、拡げる。バルーンが破裂する恐れがある。その他、毎日病院に行く度に違う話がされていた。
内視鏡検査も再び行い、内視鏡を通した分だけ食道が、ほんの少し拡がり、水分は少し多く、口から摂れるようになった。
結局、食道をどうにかする話ではなく、点滴で栄養や水分を摂りながら、家で生活する方向になっていた。
中心静脈栄養という、右胸の上の方にポートと呼ばれる物を入れて、そこから点滴をする方法。
夫の腕は、血管が細くて、点滴をする場所を探すのも可哀そうなくらいになっていた。
ポートの手術は、手術と言えないくらい簡単なものなのがせめてもの救いだった。
点滴は、流量を調節する機器があり、機器の扱いの練習や点滴のパックを取り替える練習を二人で教わる。
針は勿論、私たちは扱えない。
自宅の近くで、訪問看護師と契約して、定期的に来てもらう。
充分に準備がされて、夫は二度目の退院をして、家に帰って来た。
夫は、このあたりで、本当に元通りの生活はできない事に気が付いたようだった。
毎日一緒に点滴のパックを替え、訪問看護師が来てくれた時にお風呂に入る。
ベッドに座り、壁にもたれてテレビを観て、子供たちと笑う。
それだけ見れば、普通の日常だった。
車の運転もできる。平日の店に一緒に買い物に行く。冗談を言う。好きなアイスコーヒーを少しずつ飲み、煙草を吸う。
点滴のパックと機器を入れた専用の鞄を常に持ち歩くこと。シャツの下に鞄から出た管が固定されてポートに常に針が刺さっている事が、以前と違うだけ。
辛いのは、食事の時間だ。子供たちは食べ盛り。夏休みになり、三食作る。良い匂いが家中に広がるのだ。舅は晩酌もする。
夫は、気にしていない風に見えた。私が辛いだけかも知れない。
でも、身体にずっと針が刺さっているのだ。
夫の精神力は賞賛に値する。
週に一回病院へ診察に行く。
その時に、産業医から、ある提案をされた。
実は、産業医は皮肉にも、食道癌の権威だった。
もう一度、口から食事をしたいかと尋ねられて、夫は勿論食べたいと言った。
胃を持ち上げて、残存する食道に繋ぐ、バイパス手術をするかと聞かれた。
是非お願いしたいと夫は答える。
私には、産業医の話し方から、残り少ない命を削ってでも手術をしたいかと聞こえる。
私が悲観的過ぎるのかと思うが、そういう風に聞こえてしまう。
この頃には、夫は痩せ始め、体力も落ちているように見えた。
夫は、食事ができれば元通りになるという思いがあったのかも知れない。
手術をするなら、産業医が診察室を持つ、郊外の病院に行くことになる。
夫は話を進める。郊外の病院に予約がされた
八月の後半になっていた。
郊外の病院に診察に行く。
幾つかまた検査をして、産業医の診察室に入る。会社の医務室の看護師さんも来ていた。
改めて、手術を受ける意志確認をされる。
夫は背を伸ばし、はっきりとお願いしますと言った。
夫は選んだのだ。私も応援しなければいけない。お願いしますと頭を下げた。
産業医は、準備をしてくれていた。
明日入院しなさいと言い、手術の説明書を書き、確認、署名する。
入院手続きをしてから帰るよう言われ、その日は帰る。
翌日、荷物が多いし、通勤ラッシュの時間帯
で、夫の体力を考え、かなり遠いがタクシーで行くことを私は主張した。
これには、夫も同意してくれた。
指定された時間に入院する。
手術まで五日ほど。
消化器外科の病室に空きがなく、少し良い部屋で、天気が良いと富士山が見える。
明るい病室で、夫も明るい表情をしていた。
手術後は違う部屋に移るし、手術の日はICUに入るので、荷物はあまり出さない。
ちょっとした行き違いがあった。入院手続きの時に、中心静脈栄養のパックが、まだ何箱もあり、病院で使用するか病棟に聞いてもらった。その時は、持って来て下さいと言われ、タクシーに乗せた荷物の中で、一番嵩張り重いのが、その栄養パックの箱だった。
旅行用の大きな鞄に詰めた箱たちは、病室であっさり、それは使いません。と言われた。
処分も、家でするよう言われ、持ち上げるのも大変な荷物を、病院の二階の外にあるコンビニから宅急便で送り返した。
その日は改めて、手術のチームの医師たちを紹介された。
バイパス手術自体は失敗の可能性はほぼ無いが、残存食道と繋げて、回復しても、本当の意味で機能するかは、やってみなければ分からない。
この郊外の病院は一階の外、バス停や駐車場のある所の少し奥に、堂々と喫煙所がある。
夫は喫煙も厳禁なので、残念そうだった。
手術までは、体力を少しでも上げるための点滴や、輸血までされていた。
手術当日、元々夜型で朝は弱い私たちだったが、最近はそんな事は関係なく、朝早く、
病院に行き、ICUに持ち込む物を手提げ袋にまとめ、残りの荷物は鞄やリュックに入れる。
夫の貴重品、財布、鍵、時計、携帯は小さい鞄に入れて、全て病院内のコインロッカーに分けて仕舞う。パソコンや周辺機器もだ。
時間になると、その日手術を受ける患者たちが、手術棟へ送られてゆく。
家族は手術専用の待合室に案内される。
終了予定時刻まで、じっとしていられず、悪いとは思いながら、コーヒーを買い、喫煙所に行ってしまう。
でも、気もそぞろだ。朝から何も食べていないが食欲はない。コーヒーの味もよく分からない。
待合室と、喫煙所を何回か往復する。
昼過ぎには手術は終わる予定なので、昼頃からは待合室に座って待つ。
やっと名前を呼ばれ、医師と家族が面談する小部屋に入る。
産業医とチームの医師は和やかな雰囲気だった。手術は上手くいった事を告げられ、頭を下げる。
その後、ほんの少しだけICUで、色々な物を付けられ、話しもできない夫と面会する。
担当の看護師が、早く帰ってほしいとあからさまに言うので、すぐに追い出された。
誰かに何か説明されることもなく、帰るしかなかった。
翌日は、ICUにいるのかどうかすら分からない状態で、病院に行き、面会受付で聞いてみる。
もう病室に移った事を聞き、コインロッカーから荷物を出して、病室に向かう。
病室は消化器外科の階で、四人部屋だったが
あまり明るい雰囲気ではなかった。
夫はICUが辛かったのか少し機嫌が良くなかった。
泡状の唾液が喉に上がってくるので、ティッシュペーパーに出して、拭き取っていた。これは以前からそうで、ティッシュペーパーを箱で持ち歩き、ゴミ用の袋も一緒に持っていた。
ICUで、ティッシュペーパーが足りなくなり、ティッシュペーパーを買って、ICUに返すように、ナースステーションで言われる。
荷物を出して、入れる所に入れ、手の届きやすい所に使う物を置く。
看護師が来て、いつの間にか身体から沢山の管が出ている痛々しい夫の姿を見る。
肌着を着ていない事に気付く。
管だらけにされたので、肌着も前開きの物が必要だ。
買い物を早急にするため、その日は早く病院を出て、デパートの介護福祉用品店に行き、
前開きの肌着を多めに買う。パジャマも買い足す。
また洗濯乾燥をする。病院で買うように指示された腹帯も買っていた。
子供たちの夏休みも終わり、行事もあるし、学校からの手紙にも目を通し、返事もしなければいけない。
一番辛いのは夫だ。希望を持ち手術を受けた
しかし、身体から複数の管が出ている。部屋にはお手洗いとシャワーもあるが、シャワーを使える状態ではない。
ICUの導尿のカテーテルが痛かったせいで、
尿意が頻繁過ぎ、部屋の中とはいえ、何度も立ち歩くことになる。その度に身体から出た管の先のバッグを、点滴の棒の下の方にまとめてかける作業をする。
私がいる時には素早く手伝えるが、一人の時は、どれほどもどかしく、ストレスを感じることだろう。
子供たちのこともあり、以前より遠くなったため必ず毎日病院に行ける訳ではなく、不安と焦りは私も酷いものだった。
夜、食欲のない私は栄養ドリンクを飲み、甘い物なら何とか食べられるので、何か口に押し込み、そのままキッチンの床に倒れているのを、長男に何度か見られてしまった。
ベッドに入ると眠ってもすぐ目が覚め、朝まで無理に横になっていようと努力する。
逆にキッチンで片付けをしながら、ちょっと座る小さな椅子で、気絶するように寝てしまい、床に落ちる。
夫の妹は一度、面会に行ったそうだ。そんなに大変そうには見えなかったようだ。
この頃から何か、少しずつ坂を下り始めたようだった。
病院の食事は重湯から始め、お粥を食べるようになった夫は、あまり嬉しそうではなかった。身体から出た管。それは、手術前には聞いていなかった事だ。
私は、退院の話もないのに、家に帰ったら管の管理をするからと言われ、看護師に指示されながら、管の周辺の洗い方、固定する場所を毎回少し変えながら管を固定するテープの貼り替え、バッグに溜まった体液を計り、捨てる。汗をかきながら、作業をする。
こんなに管だらけで、家に帰るとは思えないが、指示された通りに、毎回作業をする。
夫の回復は、あまり良くは見えない。手術後の回復のために、フロアを一周歩く訓練を始めた。一緒に歩くが足取りは重い。
そうかと思えば、次に病院に行くと、歩くことは中止になっていたりした。
手術は成功したはずなのに、違和感がある。
夫も、多分同じように感じていた。いや、私以上に何かを実感していたのだろう。
夫は笑わなくなった。食事もあまり食べていないようだった。
この頃の事は、何か重苦しい雰囲気に耐えるような感じで、詳しい説明をされることもなく、手術後二週間くらいで、元入院していた都内の病院に転院するように言われた。
私が通うのに大変だろうからという理由で。
電車やバスに乗るのは無理があり、荷物をまとめ、タクシーで転院する。
一応退院なので、ナースステーションの前を通る時におめでとうございますと言われる。
夫はパジャマにカーディガン姿のまま、タクシーに乗り、転院した。
郊外の病院は大きくて、内装も綺麗だったが大きな分、誰がどのように指示をして、何に向かっているのか分からず、あまり良い印象を持てないままだった。
都内の病院は、大学病院にしては、小さく、
フロアもあまり広くない。その分、話もよく分かり、慣れた所に戻った感じがした。
大部屋に入り、入院手続きの書類を書く。
この病院は、内装も古く、個室以外はお手洗いやお風呂は病室には無い。
頻繁な尿意は収まっていたので、トイレに行くのは大変そうではなく、少し安心する。
九月になっていた。
夫は、荷物からパソコンも出さず、携帯もあまり見なくなった。
鬱状態だろうと主治医から勧められ、精神科の診察を受けて薬を処方された。
こちらの病院では、管の洗浄などは看護師が全てやってくれた。私がしなくて良いのか尋ねてみると、退院の予定が決まったなら、それからするかも知れない事だと言われる。
夫の食事についても本人と話し色々と試して、メニューを変えてくれる。
暫くして、夫は熱が高くなり、感染症の原因になりやすいポートを外す手術をした。
また点滴がし難くなった。理論上は、バイパス手術が成功したので、飲んだり食べたりできるはずで、でも食事はあまり食べないため点滴がされる。
会社の医務室の看護師さんが、時々来るのは同じだった。ある日、夫と気になって話していた事を、聞いてみた。
手術のお礼のような事は、するべきなのかどうか。勿論、郊外の病院も、都内の病院も受け付け、ナースステーション、廊下の壁、いたる所に、入院案内にも、一切の金品をお断りしますと書いてある。
菓子折り程度のお礼はどうなのか?答えは驚くもので、まだお礼をしていないのかと。物事をよく知らずすみませんと言いながら、お礼の内容も分かりませんので、教えて下さいと聞いた。
その答えを聞いた夫は無表情になった。お礼は現金、金額はかなりのものだった。
会社の産業医としてではなく、それなりの肩書に名声もある医師へのお礼。
ナースステーションに差し入れもしなかったのは、常識外れだったようだ。
あれ程あちこちに張り紙があるのに、金品を渡すのが常識とは、私たちには分からなかった。試しにこちらの病院のナースステーションに、お菓子を差し入れたら、普通に受け取られた。夫は何かがっかりしていた。
転院して最初の頃は、外出してコーヒーショップに行き、煙草を吸うこともあった。
かなり痩せてしまった夫は、歩くのもゆっくりになり、私が小走りになる早さで歩いていたのが信じられないほどだった。
十月になる頃、子供の学校の行事が多く、毎日は病院に行けない時が多くなる。
夫の妹が、水曜日なら会社の後に面会に行けると言った。夫に言うと、別に私だけで良いと嬉しくなさそうに言う。
妹と本当に仲が悪いのかは分からない。
放射線治療を受けた病院には、定期的に診察を受けに行く。
タクシーで行くが、夫一人で行くのは心配になり、朝早くに家を出て、入院先に向かい、一緒にタクシーに乗り、放射線治療の病院に行く。
とても大きな病院で、放射線科は性質上受付からかなり離れた所にあった。二重になったドアを抜け、見るからに壁が厚い棟に入る。
ここでの受付をして、少し待ち、診察室に呼ばれ、その後調子はどうか、変わった事はないか聞かれる。
夫は質問に、簡単に答える。
診察はすぐ終わり、医師は、次の予約をするためにカレンダーを見る。放射線治療による副作用も無いので、次は二月だねと言われ、予約の日時が決められる。
夫は、診察室を出て、二月かと呟いた。
まるで二月までは何事もなく過ごせる約束を貰ったように、嬉しそうだった。
帰りは、夫自慢の喫煙カフェに寄る。
カフェに入ると、本当に、喫煙席しかありませんがよろしいですかと聞かれる。
夫は得意そうな顔をして、私を見る。
ゆっくりとコーヒーを飲み、久しぶりに楽しそうな夫と話す。
楽しい時間だった。
カフェを出て、病院から渡されたチケットが使えるタクシーを、夫が携帯で呼ぶ。
タクシーを待つ間も、ここでタクシーを呼ぶと、よく分かっている運転手なら、あのあたりに来てくれるなど、夫はよく喋った。
運悪くなかなかタクシーは来ない。
突然、夫が戸惑った顔になり、何だか具合が悪いと言う。途方に暮れたような顔だった。
タクシーが来て、病院に戻る。
パジャマに着替え、夫は少しむせた。
痰のようなものをトイレの洗面台で出した。
心配で、外から私も見ていた。
夫は少量の血を吐いた。
主治医に知らせた。夫は顔色が急に悪くなったりはしていない。気管の浸潤の部分からの出血でしょうと言われ、息が苦しいなどありませんかと問われる。それは無いと夫は答える。
その日も面会の後、主治医が一階で待っていた。大人しくしていた癌細胞が動き始めたと思われる事を告げられる。
今まで、はっきりとした事を聞けないままだったが、これ以上の治療ができない事は分かっていた。
状態が悪くなれば、個室に移るようになります。万一の時に、延命治療は望みますかと、
そんな話になる。
ああ、やはりそういう事かと、胸の内で思い
どこか遠くに聞こえる私の声が、無理に命だけを延ばすよりは、苦しみや痛みを楽にしてあげてほしいと答える。
夫は最近、背中の痛みを訴えるようになっていた。食道はリンパに近く、転移し始めている可能性が高い事も言われた。
少し強い痛み止めを処方すると主治医は言った。
また、他の親族にはと言われる。最近は、まるで、私が無理に他の人を拒んでいるように聞こえてきて、板挟みのような気分だった。
夫の妹と、夫、私、主治医の説明会がセッティングされる。
夫は不機嫌だった。夫の妹は、血液検査のデータに拘り、貧血気味の夫に自分の血を輸血できないかと言う。
ドラマか何かではない。人から人への輸血は
手続きや検査などが大変で、現実的ではない
主治医にそう言われても、夫の妹は何故か自分からの輸血に拘っていた。
水曜日に面会に来るのも、通っているスポーツクラブが水曜日だけ休みだから、会費が勿体無いから毎日行くし、水曜日もスパだけは開いているから本当なら行くところだと。夫の妹と話すといつも少し違和感を感じる。
次に面会に行った時に、今後どうしますかと聞かれた。夫は家に帰りたいと答えた。
準備を始める事になる。
帰りにまた主治医から、在宅療養をするためには、本人が現状の告知を受けて、承諾する必要があると聞かされた。
ホスピスに入るのと同じように、自らの意志で、医学的治療は受けず、緩和ケアを選ぶと言わなければ、病院側も退院させられない。
今の夫に、あなたの生命は残り少ないと告げる。残酷な事だ。
でも、家に帰るには避けられない。
夫が言う、家に帰りたいという願いは、元通りになりたいと聞こえる。
在宅療養の準備を進め始めてから、私の誕生日がきた。病室で、水で乾杯しておめでとうと言ってくれた。とても嬉しかった。
これ以上準備を進めるには告知をしなければいけない時がきた。
主治医と看護師の同席で、現状の告知がされた。夫は、そうですかと呟き、家に帰りますと言った。
その日から急いで準備を進める。
そして夫は、その日から、急激に悪化し始めた。
トイレにも行けなくなり、肺炎の恐れもあり水も飲んではいけなくなった。
点滴を嫌がり、身体に繋がる管から、腸に直接高カロリーの栄養を入れるようになる。
声も、囁くようにしか出せなくなった。
酸素濃度を計る器具を指先に付けられ、酸素吸入もされていた。勝手に動くと危ないので大きく動くと分かる器具も付けられていた。
在宅療養と言うより、在宅介護になる。
ケアマネージャーが決まり、自宅に医療用のベッドを始め、使う機器のレンタルを決め、
ヘルパーや訪問看護師の手配、近所の病院の医師への引き継ぎ。
家にいて、書類に署名する仕事は、兄が大変だからと暫く休みを貰った夫の妹に任せた。
次々と進むなか、役所の介護認定の人が、病院に来た時には、要介護度は最低にまで落ちていた。
夫は、話しかけてもあまり反応しなくなり、
時々意識が戻るように、話すこともある。
そんな風だった。
これまで、最初に入院してから、夫は特に、誰かに連絡をしたりはしていなかった。
友人にくらいは連絡をしたらと思いながらも
治るために頑張る夫に、言えずにいた。
少し前、我慢できなくなり、年賀状を探して
夫の大学時代の友人に、突然で失礼とは思いながら、連絡を取り、ありのままを伝えた。
友人たちが、偶然を装い夫に連絡して、面会に来てくれた。
まだ夫が普通に話し、歩ける時だった。会社の人事担当者は、時々仕事で病院に訪ねて来ていた。会社の人にも、夫がまだ普通に見えるうちに、親しい人がいれば面会に来てほしいと私の独断でお願いしていた。
同期の人や同じ部署の人が適度に間をあけて面会してくれていた。
最初に面会に来た友人たちは、後で私にメールをくれて、案外元気そうだったと言った。
その友人が、また他の人を連れて面会に来た時には、夫はもうあまり反応しなくなっていた。
在宅介護の条件は、一戸建てなら一階に病室を作るのが普通で、自分では動けない夫を二階に上げる事が最後の問題になった。
意識が浮かぶ時に、夫はどうしても、自分の部屋に帰りたいと言い続けていた。
もう、座ることもできない夫を、介護タクシーで連れて帰る事は決まっていた。
病院の医療コーディネーターの尽力で、介護タクシーの運転手の他に人をお願いして、布の担架で二階に上げることになった。
十一月も後半、退院の日。
荷物は私物も増えていたが、腸管栄養のパックやチューブ、処方薬などで、大きなワゴンに積み上げた荷物は悲しいほど多かった。
荷物を積み込み、夫を車椅子でタクシーに乗せ、自宅への道を走る。酸素吸入は、持ち運び用のボンベをレンタルしていた。
この移動だけでも、体力は削られる。
自宅に着き、二階の寝室に入れた医療用ベッドに横たえられる夫。
荷物を運び、必要な物を寝室に持って行く。
誰か手伝う人はいない。汗をかきながら、ひとりで作業する。
ケアマネージャーとヘルパーが来ていた。
夫の妹も、来ていた。
急に、夫の瞳に力が入り、ベッドの柵を掴み起き上がろうとする。
抱き上げるように起こすと、出ない声を必死に出して、自分でトイレに行こうとする。
二階の寝室からトイレは近い。家に帰れば自分でトイレに行けると、夫は思っていたのだろう。
ヘルパーと私が支え、もう骨がくっきり見えるほど痩せた足で、夫はトイレに行けた。
ベッドに座らせると、驚くほどはっきり発音して、ほら、トイレくらい自分で行けるだろうと言った。
それで力を使い果たしたように、横になり、瞳の力は消えるように弱くなった。
その後は、酸素マスクを付けても、介護されても、反応はしなくて、目を閉じるのが怖いのか、夜も目を開いたままだった。
私が一日に二回、腸管栄養と、水分を補給するため、ぬるま湯に溶いた薬を腸に繋がる管に入れる。
栄養は、病院で練習したくらいの早さで落とすと、吸収力が弱っているだろう夫は、下痢をしてしまい、可哀そうだし、おむつを替える時も時間が掛かり辛そうに思う。
高カロリーの栄養液はどろっとしたもので、あまり遅く落とすと管が詰まってしまう
ぎりぎりの遅さで落とすように調節すると、
二時間以上掛かる。
ヘルパーや訪問看護師の来る時間には終わっている必要があり、なかなか難しかった。
ヘルパーも訪問看護師も一人しか来ない。
骨と皮だけのように痩せた夫でも、一人で世話はできない。私も手伝う。
夫の妹は家に泊まり込んでいたが、自分が世話をすると兄が嫌がると言い、ケアマネージャーと何か話をして笑っていたりした。
妹が悪い訳ではないが、私は辛かった。
夫は最初の頃、私が近づいて話しかけると、泣く前のように息が短くなり、怯えて泣きそうに見える表情になった。助けてほしいとも見えるが怖がっているようにも見える。
私が怖いのかと傷つく気持ちになるほどだった。子供たちの声が聞こえると穏やかな表情になる。
三日目くらいに私が近づくと、何か必死に手を動かし、早く早くとかすれてほとんど出せない声で言う。抱き起こすと、私の手を振り払い、立ち上がろうとする。
私一人では無理だ。丁度、訪問看護師が来る時間で、二人で支え、立たせる。
その後、訪問看護師が来たせいか、夫は何も言わない。
トイレに行く?椅子に座る?と聞くと、椅子の方で頷く。ベッドの横の、夫の定位置。パソコンを置いた机の椅子に座らせる。
本来なら、ベッドに起き上がり、床に足を下ろして、たったの一歩の場所。
それからは、パソコン開ける?携帯見る?もしかして煙草?
どの質問にも頷くことはなく、暫く座った後ベッドに寝かされ、訪問看護師と私が、管の状態を確認したりなど世話をする。
この日の動きで、夫は本当に体力を使い果たしたようだった。後から思うと、意識がはっきりした時に医療用のベッドで、管だらけなので、家ではないと思い、家に、元通りの家に帰ろうとしたのではないだろうか。
時々来るケアマネージャーが、訪問入浴を手配した。部屋で浴槽を組み立て、外の水道から、車のタンクに水を入れて、玄関から二階の寝室まで、ダクトを引き、お湯を出す。
布のような担架に夫を乗せ、吊り上げてゆっくり浴槽に下ろす。便利な装置があるものだと思いながらも、また体力が削られる心配をしながら夫の側にいる。
お湯を出す時に、とても大きな音がするので私が側にいて顔を見せたり、話し掛けたりした方が良いとアドバイスされたからだ。
私が側にいて、安心してくれるなら嬉しい事だが、本当の所は分からない。
入浴をしている間にベッドの入れ替えがされた。床ずれが酷く、違うタイプのベッドにすることになったからだ。
新しいベッドに寝かされた夫に、肌着やパジャマを着せて、軽いブランケットをかける
病院にいた、最後の頃、布団をかけない夫に寒いよと言ったら、布団が重いと答えた。
普通の掛け布団も重く感じるようになっていたのだ。
入浴した翌日には、ヘルパーの女性が男性のヘルパーと一緒に来た。ヒゲを剃るのは男性が良いと言う事で、夫はヒゲを剃ってもらい
さっぱりした雰囲気になった。
酸素はマスクではなく、鼻の下にチューブを置いたようなものにして、顔がよく見えるようになった。
私は介護に少しずつ慣れていった。夫のベッドの横にマットを置いて、眠る。
ぐっすり眠れる訳はなく、昼間に少し眠ることもある。
夫の妹はする事が無いし、疲れるからと、スポーツクラブに行って、スパに入り、帰りに弁当を買ってくる。そんな感じだった。
夫はずっと目を開けたまま、手も動かせず声を出すこともなく、生きていた。
こちらの声は聞こえると信じて、おはよう朝だねとか、薬の時間だねとか、話し掛けていた。
子供がパソコンでゲームをするため、寝室に来て、父さんパソコン借りるよと声を掛けると、瞳が、ほんの少し和らぐように見えた。
十二月になっていた。
このまま年を越せそうな気がしてきた頃、訪問看護師が検温しても、計れない日があった
不安に思うが、どうしようもない。
朝早くに栄養を落とし、その後チューブを洗浄するように、薬を溶かしたお湯をシリンジで入れる。水分を足すため更にお湯を入れる
それからヘルパーが来るので、必要な物を用意する。
ヘルパーと一緒におむつを替え、身体を拭き
午前中は終わる。
洗濯は、夫の物と家族の物で一日に三回。
浴室乾燥機で乾かす。
午後は訪問看護師が来て、検温や血圧を計り一緒におむつを替える。
子供たちや舅に夕食を食べさせ、夫に栄養を落とし、薬とお湯。
ヘルパーと訪問看護師が来る前には、液体の痛み止めを、シリンジで入れる。
合間に買い物も行かなくてはならない。
子供たちや舅の食事は、作る暇も気力も無く、惣菜や弁当を買う。酷い物だった。
その日は、そんなに長くないうちにやって来た。土曜日、子供たちが家にいる。
夜中はうとうとして、朝起きるのが遅くなり
ヘルパーの時間に合わせるには、栄養を落とし始めるのには遅かった。
おはよう、寝坊しちゃった。朝の栄養が昼になっちゃうごめんね。と声を掛けた。
ヘルパーといつも通りに世話をして、昼から栄養を落とし始める。
子供はパソコンでゲームをしながら、スカイプで友達と会話していた。
子供の声を聞き、穏やかな瞳をしている夫。
私は疲れもあり、少し寝るね、隣にいるからねと声を掛け、横になった。
母さん、栄養もうすぐ終わるよと子供に言われ、起きる。子供はゲームが終わったのか、
寝室から出て行った。
薬の用意をして、結構寝ちゃったよ、薬を入れるからねと声を掛けながら夫の顔を見る。
息をしていなかった。素人の私でも分かる。目は開いたまま、覗き込むと、瞳孔が開いているのが見える。
それが何を意味するのかすぐ理解した。
腸管のチューブを外し、言われていた通り、
訪問看護師に連絡する。
すぐに来た訪問看護師も、無言で頷いた。
担当の医師は夕方しか来られないと言われ、待つ間、夫の目をそっと瞼を撫で、閉じるようにする。
夫の妹はその時には家にいなかった。少し前から、自分のマンションに帰っていた。
まだ泣けなかった。
もう痛くも辛くもないねと、聞こえない夫に呟く。
夕方医師が来て、型通りのように瞳孔を見て、脈を取る。その直前まで来ていた夫の妹はどこかに出かけていた。
まるでドラマのように、ご臨終ですと宣言される。
泣く暇も無いまま、死亡時刻を何時にするか聞かれ、葬儀屋を手配される。
訪問看護師と一緒に身体を拭き、ハンドクリームを手足や顔に塗る。乾燥を防ぐためだか何か、よく覚えていない。
身体中の管が外され、良かったねと呟く。
一番嫌だっただろう、おむつを、パンツにしてあげられないか聞く。それは、まだ体内から出るものがあるからと、叶わなかった。
白装束に着替えさせ、横たえる時に、そっと抱きしめる。
夫は今、元通りの姿で笑っているだろうか。
訪問看護師が帰り、葬儀屋が来た。
本当に、泣く暇など無かった。
葬儀のプランの打ち合わせ、準備する物。
会社の人、友人、親戚への連絡。勿論舅や妹にも、手分けしてやってもらう。
寝室には看護に使ったテーブルに白布が掛けられ、焼香台が準備される。
食欲は無いが、子供たちのためにファミレスの出前を取る。
私が、泣かないし、事務的に働くので、子供たちも泣かないままだった。
親戚の都合もあり、通夜まで四日あった。
葬儀屋は毎日来る。慌ただしい日のなか、
通夜の前日が、次男の誕生日だった。
せめてもと、ファミレスで食事をした。
子供たちの学校にも連絡をしていたので、
忌引になっていた。
喪服や数珠を探し、葬儀屋と段取りを話し、
親戚の宿泊の手配もする。
淡々と準備が進む。
お布施の金額など、素っ気無い話もする。
通夜の日、遺影と白木の位牌を持ち、葬儀会場に向かう。
会社や取引先、友人、親戚などからの花を、
家族葬のしきたりに従い配置を確認する。それは舅に任せた。
受付は、私の兄夫婦と夫の従兄弟夫婦に任せて、私と子供たちは最前列の席から動けない
時間になり、通夜が始まる。
私と子供たちが焼香を済ませ、後は焼香をする人たちに、席から頭を下げるだけ。
家族葬なのに、かなりの人たちが参列していて、焼香を終えるまで時間が掛かり、受付をしてくれた人も大変だったようだ。
100人以上の出席者がいたそうで、別室の通夜振る舞いに席を移す。
親族以外の人たちはもうほとんどいない。
受付をしてくれた人たちにお礼を言う。
親戚の人たちや私の身内とも話し、明日があるので、早めに帰る。
家に帰り、子供たちに早く休むように言う。
私の隣には、誰もいない医療用ベッドがあるだけだ。
翌朝、疲れていたが、子供たちを起こし、簡単な朝食を摂る。
喪服を着ながら、私は何故こんな事をしているのだろうと、ぼんやり思う。
部屋の隅には腸管栄養の箱が積み上げてある薬やシリンジ、介護用品。
何の冗談だろうか、何故私の隣に夫がいないのか。
頭では理解していても、心が追い付かない。
受け入れたくないのだろう。
タクシーを呼び、葬儀に向かう。
白木の箱の中に眠る夫を見ても、何か現実味が無い。夫の髪は白くなっていた。
通夜に来られなかった夫の友人たちが、棺を見て、号泣している。
私と子供たちは何故か泣けない。
私は感情に蓋をしてしまったように、機械的に挨拶をしたり、会話をしたりしている。
葬儀が始まり、遺影を見上げる。
また焼香をして、参列してくれた人たちも焼香をしてゆく。
葬儀が終わると、棺に花を入れる。夫の好きな青い花を選ぶ。泣いている人たちの中、私たち親子は泣けないままだった。
出棺前に喪主の挨拶をする。覚えられなかったので、原稿を読み上げるだけだ。
親子で位牌や遺影を持ち、私の知る目立つ霊柩車ではなく、寝台車と言われる黒塗りのワゴン車に乗る。
火葬場に向かう。手順が決められていて、火葬炉の扉の前ではなく、天井の高い、綺麗な小部屋で棺を安置し、僧侶がお経をよみ、最後の焼香をする。
そこからは喪主だけが火葬炉の、エレベーターのような入り口まで棺に付き添い、棺は扉の中に自動で送り込まれてゆく。
金属や石で作られた火葬炉の入り口に、小舟のように頼りない棺が消え、扉が閉まる。
扉の閉まる音を聞き、目を閉じ、瞑目する。
参列者と共に、食事が用意された部屋に案内される。それぞれ会話をしながら、食事をしている。
喉が渇いていた事に気が付き、お茶を飲む。
少し食事をして、一人部屋を出る。
喫煙所を探して、寒い屋外に出た。
煙草に火をつけて、隣で煙草を吸う人がいないことを何か不思議に思う。
ねえ、何で私、こんな所にいるのと頭の中で夫に話し掛ける。
ぼんやりと、煙草の煙を見ていた。
暫くすると、兄が私を探しに来た。兄も煙草を取り出す。
私ももう一本火をつける。
黙って煙草を吸い、火を消す。
みんなが心配するから、早く戻るよう言われた。心配されているのかと思う。
部屋に戻ると食事はほとんど終わっていた。
お茶を飲み、子供たちを見る。
親戚に話し掛けられて、会話をしている。
大丈夫そうだ。
時間がきたと告げられ、天井の高い小部屋に案内される。
また、喪主だけ火葬炉の扉の前に行き、扉の中から金属の台が出てくる。
棺は跡形も無く、骨だけが見える。
夫の肉体は消えてしまった。
何て呆気ないものだろう。
小部屋に戻り、骨壷が用意され、骨を拾う。
大きな骨壷が一杯になり、残りは火葬場で供養すると言われた。お願いしますと、口が機械的に喋る。本当は灰の一片までも、他人に渡したくは無い。
葬儀場へ戻るのはマイクロバスだった。
初七日の法要をして、骨壷、位牌、遺影を持ち、家に帰る。
葬儀屋が、家に安置するための物を渡してくれる。
家に帰り、閉じた仏壇の前に台を置き、白布を掛け、位牌、遺影、骨壷を置く。
夕食は、親戚たちと駅前で食べる約束をしていた。
喪服を脱ぎ、普通の服に着替えて、子供たちと出かける。
夕食はみんな、普通に会話をして、私も会話する。誰かが冗談を言い、笑うこともできた
一緒に冗談を言う人が隣にいないだけだ。
買い物をして、子供たちと家に帰る。
お風呂に入り、位牌の前に線香を立てる。
こんな木の板に夫の魂がいると言われても、納得はできない。
寝室に入り、マットの上に座る。無機質な医療用品を眺め、それでも涙は出なかった。
たった八ヶ月だった。
心の中では泣き続けていたのかも知れない。
ウォークインクローゼットを見ても、パソコンを見ても、主を失った物たちが、そこにあるだけだ。
泣くことの無い物たち。
私も泣くこともできない、主を失った物たちと同じように、そこにあるだけのように。
ただ、胸の内に、
愛惜の思いがあるだけだった。