Chapter 1-6 Day After Day
眼を開くと靄が掛かったような視界が広がる、けれどすぐにぼんやりと混濁した意識と視界がハッキリとしてきた。
毛布をめくり上体を起こして床にゆっくりと足を降ろす、ヒンヤリと冷たい床の感触が足の裏に広がり寒気が体の芯を巡り渡った、猫の様な動作で少し涙を含んだ目を擦ると大きく腕を広げる。
「んっ――」
小さく唸りながら伸びをし勢いよく立ち上がる。カーテンの隙間から朝日が差し込んで壁の一部を照らしていた。
ものすごく気持ちの良い朝で体と心の調子も悪くないと僕はおぼろげに考えながらカーテンを開けて深呼吸しながら暖かい日差しを体に浴びる。
ここに来てからもう2週間ぐらいが経っていたが環境の突然の変化に戸惑う暇も無い。
そして僕はここで新しい雇い主の初めての仕事をした、所定の位置にあるクラブのオーナーを殺害せよという依頼。
馴染みのある――依頼された人間を殺すこと――
僕はそれをまたなんの問題も無く完遂することができた。
ボサボサの頭で昨日のことを思い返しながら外の景色を眺める、3階の窓から見下ろした通り沿いには白や薄汚れた灰色の住宅がまるで砦の様に連なっており通りに対面している建物は絡まった糸の様な電線で至る所から繋がれている。
だけどそれら建物の外観は統一感が無い、細かなところまで華やかにデザインされバルコニーがついたヨーロッパの雰囲気を感じさせるものもあれば共産党政権下の頃の名残であろう一階の壁に無数の落書きがあり無骨でただ窓が連なっている刑務所の様な建物も。
それらは多分歴史的背景からなんだろうかなと僕は景色に感想を抱く。
この国は他のバルカン半島の国々と同じように80年代終わりまで共産党体制だったそうだ、さらに地理的要因からイスラム教やキリスト教、そして共産党時代と民主化後のものが入り混じっていることが感じられるカラフルな街の風景。
東欧のある国に含まれたラーズヴァリーヌ州、この場所も歴史の中で掻き回され公共機関や政府管理の地盤は不安定だった。街を見てもわからないけど今に至っては犯罪組織に汚染されきってしまっている、この州の政府機関や警官達は家族と共に報復に怯えて暮らし擦り減らした心は賄賂を受け取るという欲望に容易く沈み込んだ。
それが僕の生きる裏と呼ばれ、僕にとって表の世界。
不意に寒さから自分の体を抱きしめる様に身震いする。
――そういえば、パジャマのままだったんだ――
以前に住んでいた場所に比べるとこの街の一月はとても寒い、前の国では年中熱くて全く湿気もなかったしあの街に住む人たちは多くの時期で薄着のシャツやタンクトップだった、馴染み深かったスラムではない高級住宅街でもこれは一緒。
だからこそ町の人たちの服装も違って自分が全く違う土地に来たというより一層の実感がわく。
僕は元々メキシコのシナロア州クリアカンに住んでいた、うだるような暑さを纏い砂漠の先で陽炎を見かけることが多い国。
そんな所に囲まれながらも多くの植物が植えられてシミもヒビも無い白い家々があるまるでメキシコとは別の国の様な高級住宅街で住んでいた、背が高く装飾が施された鉄門に真っ白い壁や広く外に突き出したバルコニーがある家。元々別の人に建てられたが暫く住人がいなかったのを僕たちが借りて利用していたんだ。
暮らしていたのは父さんとの二人。母親は、居なかった。当然僕は周りを見て不在な母の存在は気になった。
だから「お母さんはどこ?」と昔聞いたことはあったけれど父さんは「お前が生まれてすぐに死んでしまった」そういつも言うだけだった、嘘だと直感で感じ取れるような声色で。
だからこそもう聞くのは止めた。父さんが僕に知る必要が無いと考えたならそれは従うべきなんだと。
なぜなら僕の眼前にはもっと大きなモノがあったから――。
それは訓練、そして殺しの仕事。
僕は小さい頃から父さんの訓練を受けて育った。
体を鍛え。
ナイフを握る。
どこを切り、どこを刺すべきか学ぶ。
銃を組み立てる。
構えて、照準を覗く。
疑うことなど何も無く意味があやふやな日常の中で多くの技術を教え込まれた。
そんな父さんは訓練中や日常でも厳しく怒鳴ったり無為な暴力を振るったりはしなかった、けれど訓練の時以外は僕にあまり構ってはくれなかった。
ただひたすらに僕の人生とその生活は殺しとそれらの付属品に満ちていた。
依頼の元与えられた、生じた殺す理由がある。
そして僕には殺せる。
ならば殺す。
僕に必要なのはそれだけで余計なものは依頼主が抱えれば十分。
そう考え教えられたことを忠実に実行すれば父さんは僕を褒めた、頭を撫でそれで良いと声をかけてくれた。あの頃僕が見つめた父さんの眼には何かが燃えていたように見えていた、絶対に燃え尽きること無く如何なる理念や信念、道徳をも燃やし尽くすであろう心に憑りついた煉獄の炎が。
でも段々と様子は変わっていった、僕が訓練や仕事を上手くやっても褒めることは減り黙って頭を撫でるようになった。
そして寂しそうな眼を向け始めるようになったんだ、けどその眼を僕が見つめ返すとすぐに逸らしてしまう。その頃には父さんの眼の中の炎はもう弱くなっていた、それも僕を見ている時に限って。それでも撫でてくれただけで僕には嬉しかった。
暫くすると代わりに訓練以外で父さんと接することが増えどこかに行きたいか?何か食べたいもの、欲しいものは無いか?と聞いてくるようになった。不思議に思った。何故、急に態度を変えたのか。
段々と雰囲気や表情が柔らかくなる、今までに見たことが無いくらいに。
でもどんな父さんも好きだった。育て愛を注ぎ、多くの知識を授けてくれたのだから嫌いになる理由なんてあるわけが無かった。
それでいつも父さんに頼むのは露店で売っていたアイスクリームだった、熱い砂が舞う道路の片端で、老人が営む小さなアイスクリーム屋さん。
これでいいのか?といつも不思議そうな、そして心配そうな顔で聞いてきたけれど僕は甘いアイスクリームが好きだったから十分だったんだ。
――それに、身近で好きなものなんて他に無かった――
だけどある時突然父さんは今までに見たことが無いあの寂しい、いや申し訳なさそうな顔でただ一言
――「行ってくる」――。
そう言うといつもの荷物を持って家を出ていった。
一週間そして二週間、父さんのいない時間は泥の中を泳ぐように遅く過ぎる、それは一人訓練し続け依頼を果たしていても変わらなかった。
そして二度と戻ってくることは無かった。
僕を供回りとして宿命の場に連れていくことを彼は寸前で止めてしまったんだ、それが何を意味してこれまでの意味が何なのか考えることも無く。
暫くして連絡がきた。シナロアや他の州で大きな力を持つ組織の幹部でいつも僕たちに仕事をくれる人。でも今回は依頼じゃなく伝言だった、すぐにその内容は予想がつく。
父は一人で向かい一人で死んだ、懇願していた目的を果たして。だけどその瞬間僕は存在意義を無くした、大きな家には一人その中には冷たく静かな空気が満ちている。
僕は来るかどうか分からない依頼に備えて装備を手入れするだけ、これからどうすればいいのか分からなかった。使い手のいない道具が放置されればあとは忘れられ錆びて腐って消えるだけ。
しかし、僕が過ごしてた虚空の生活の中で突然奇怪な運命によって僕の人生は躍動を始めた。
それは何の事もないメキシコ北西部、クリアカンの静かな夜――――