Chapter 6-2 Battle Royale
『男爵がお前を狙っている』
たったその一言だけが表示されたスマートフォンを見つめるアレクセイ、彼には男爵などという人物に覚えはない、ただ当惑した表情の彼はスマートフォンをジャケットに仕舞った。
彼は大きなモールで柱に身を寄せて警戒するが、すでに辺りからは客の姿が無くなっている。辺りを見回す彼の顔に汗が滲む。
マガジンを抜いてP-10の残弾を確認、装填し直すと両手で構えて慎重な動きで柱の陰から外を覗き込んだ。
その時轟音がモールに響き渡り、アレクセイが疾く身を引いたと同時に彼の手からP-10が吹き飛んだ。数粒の散弾がめり込んだP-10が床を滑っていく。
「見つけたぞ、見つけたぞ! 狂犬病に罹った子犬だっ! 領主としてはこいつを狩る義務、それに獲物の首を飾る権利があるな!」
彼が柱に隠れ直したのと同じタイミング、その位置から数十メートル離れたモールの二階から大声が聞こえてくる、それはあまりにも場違いで喧しい声。アレクセイがこっそりと柱の陰から飾られていた観葉植物の隙間越しに声の方向を見る、そこには黒いスーツででっぷりと太って突き出た腹を縛る男が立っていた。意味不明なセンスのシルクハットをかぶって太い葉巻を左手で持っている。右手には長く真っ直ぐに伸びた円筒のバレルが横二列に並び、金色のパーツが組み込まれた木製ストックのダブルバレルショットガンが煌めく。
「お前のように派手な獲物は久しい! 流石はヘレナが気に入った子犬だ、可愛らしいその容姿に闘牛の如し荒々しさ! 夜もあの女とは激しかったのかね? 羨ましい限りだっ!」
轟くダブルバレルショットガンの銃声、アレクセイはすぐさま柱の陰に引っ込む。直後には観葉植物が鉢ごと木っ端みじんに、柱は彼が顔を覗かせていた付近が砕け散った。
「私はスペンサー・アッシュクロフト男爵。君の魂を彼女の下に送ってやろう、代わりにその体は私が頂く。トロフィーというやつだ」
男爵はラッチを解除して煙を吐く薬室からショットシェルを捨て、新しい12ゲージの真っ赤なショットシェルを装填する。そしてフォアアームを持ち上げて物々しい金属の衝突音を立てて薬室を閉鎖、ハンマーが起こされた。
「もう楽になって貴様も飼い主と同じ場所に落ちるんだな。私と私の愛する猟犬で弔ってやろう、行けラナッ!」
男爵の大声を耳にしながらアレクセイは腰の後ろに手を回してグロック26に触れた、だが柱に背中を預けていた彼のすぐ横に目にもとまらぬ速さで小さな影が現れ、その影は換気扇のファンに似た大きな手裏剣を投擲した。
アレクセイは咄嗟に左腕を顔の前に持ち上げ、防刃仕様のジャケットの袖越しに手裏剣を弾く、手裏剣は弾かれても勢いを殆ど維持したまま飛翔して床に突き立った。
ガードした左腕を下げた先にはアレクセイに据わった目を向ける少女がいた。
彼の胸の下までしか背丈は無く、その短駆は赤い装飾が加えられた黄色のドレスに包まれ、まるで誕生日のパーティーに出席するための服に見えた。だがスカートの下から見えるのは脚を覆うカラフルなハイソックス、それにパンクファッションじみたベルトで縛られた黒い厚底ブーツ。ついさっき手裏剣を放った手には黒く厚い革手袋が嵌められている。
その少女は手裏剣を投擲してから、それが弾かれるのを見るより先にアレクセイに走り寄り、左足首を狙った右逆手ナイフの右フックに似た横薙ぎを振るっていた。
手裏剣が衝突した痛みが左腕に残るアレクセイは、慌てて足元に走り寄ってきた少女のナイフを、左足を持ち上げることで避け、一歩後退してから右脚のローキックを放った。
その時少女は驚くべき速度で蹴りに反応して顔を向け、右逆手のナイフを避けられてからすぐ左手を彼の右脚に添え、花びらのような身軽さでその上に両脚を曲げて倒立した。そして彼女は弾丸の如き勢いで左脚の蹴りを放ち、ブーツの分厚い靴底がアレクセイの胸を打った。
蹴りを受けた彼は一瞬息を詰まらせて後ろによろめき、僅かに彼の体が柱の陰から出た。打ち付けるような低い銃声が轟いて柱が欠け、慌てて一歩前進した彼の背中に散弾が数粒掠めた。これまでの被弾で皮膚が裂けている背中に激痛が走る、アレクセイは歯を食いしばって首筋を浮かび上がらせる。
グロック26を抜く間がない彼は両手を軽く持ち上げ、眼前に佇む少女の動きに備える。
少女の金髪はやや後頭部寄りの左右で縛ったツインテールでまとめられており、西洋人形のように白い肌に幼くもどこか気品を感じさせる相貌は可愛らしく、宝玉のような緑の瞳が美しい印象を与えている。
彼女は頭を下げると同時にスカートの端を両手で摘まみ上げ、片脚を引きながら両脚を軽く曲げてカーテシーをして見せた。
その時アレクセイは摘まみ上げられたスカートの下から覗き見える大腿、その白い肌に黒いバーコードらしきタトゥーと何かのホルスターらしき影を目にする。
「こんにちはお兄さん。私はスペンサー様の飼い犬、ラナです」
薄っすらとピンクの口紅が塗られた唇から紡がれる最低限の挨拶、その言葉を述べた直後、彼女は手品のようにどこからともなくナイフを取り出す。逆手で握ると両手のナイフを下におろした。そして軽く両脚を曲げて姿勢を下げた。
アレクセイはその予備動作で次の攻撃をほぼ本能的に察し、彼女の目と全身の動きに全神経を集中させた。
ラナは弾丸の如き速度で一歩踏み込み、同時にアンダースローで両手のナイフをアレクセイに投擲した。ナイフが回転しながら宙を舞い、少女が僅かに前屈みな状態で駆け出す。
顔と胸を狙ったナイフのうち一本は左腕のジャケットで弾かれたが、一本は顔を守ったアレクセイの右手に突き刺さった。甲からナイフの刃が突き出た腕を引き、痛みに小さく声を上げた彼が怯む。
ラナはアレクセイの足元に滑り込んで新しく出した右手の逆手ナイフを振るい、彼の左大腿の付け根に走る動脈を切り裂こうとする。
だがアレクセイは刺さったナイフを左手で抜こうとしながら彼女の攻撃に反応し、右足で彼女の振るった右前腕を受け止めた、続けて脚を左から右へと上向きに回す。彼女の右腕を両足で挟み込んだ、彼はそのまま肘関節を逆に曲げさせて折ろうとしつつ、引き抜いて左手に握ったナイフで右首筋に上から斬りかかった。
刃がラナの首筋に触れるより先に、彼女は挟まれた右腕と左腕で彼の右脚に抱き着き、勢いよく全身を床の上で回転させてアレクセイを地面に引き倒した。ラナはすぐさま新しいナイフを左逆手に握り、彼の上に乗っかった状態で喉目掛けて振り下ろす。
なんとか左手でラナのナイフを受け止めたアレクセイ、両腕を使って渾身の力でナイフを押し込む彼女の首筋に右手刀を叩き込む。首を折りかねない威力の手刀を受けたラナ、彼女は一瞬苦悶の表情で小さく声を上げたが、怯むことなく一瞬で右手にナイフを順手に持ち替えて彼の左首筋を狙って突き出した。
アレクセイは首を狙った突きを左手で抑え込み、続けて右掌底を彼女の喉に打ち込もうとした、だがラナはその右腕を左手で逸らすように受け流し、いつの間にかにナイフを捨てた右手を使って彼の右腕に抱き着いた。そして両脚で彼の胸を抑え込んで腕挫十字固に持ち込み、腕をロックした。
けれどラナの細い腕の力では腕を折るまでには至らない、彼女は左手で彼の腕を掴んだまま右逆手に新しいナイフを握って腹に振り下ろす。アレクセイは彼女のナイフを左手で受け止めた、その刹那にナイフを持った彼女の前腕に注射痕が無数に存在するのを目にする。それからアレクセイは右腕をロックされたまま立ち上がり、頭部を叩きつける様に柱目掛けてラナごと腕を振るった。
その時ラナは彼が腕を振るう動作の中、両手を腕から離して全身を丸め、両手を柱について受け止めた。そして一気に全身をバネのように伸ばして両脚のキックを彼の顔面に打ち込んだ。
固く鋭利な角が目立つ靴底がアレクセイの顔を直撃する、眼窩骨に小さなひびが入って鼻からも血が迸る、靴底が引き裂いた頬の皮膚からも血が流れる。避けること叶わず攻撃を顔に受けた彼は頭部を仰け反らせてやや後退した。
表情を一切変えずに着地したラナはその隙を見逃さず、再び彼の足元に駆け込むと右逆手ナイフで大腿中央、大腿直筋を強引に防刃ズボンごと引き裂いた。パックリと開いた薄い楕円状の裂傷から血が溢れ出す。彼女はさらに右腕を振るった動きの延長線として全身を回転させ、左逆手のナイフを彼の腹目掛けて裏拳に似た動作で突き立てた。
切り裂かれた大腿を抑えてよろめくアレクセイ、しかし彼はラナの振るった左腕を降ろした右手刀で受け止め、左から右へ上向きに回して両手で掴んだ。彼女の左前腕を掴んだ右手を下げつつ、彼女の左腕の肘関節に右膝蹴りを打ち上げて関節を横に折る。ラナは甲高い悲鳴を上げて咄嗟に右順手のナイフを突き出すが、アレクセイはそれを右脚の蹴りで打ち返し、弾き飛ばされたナイフが柱に衝突して床に落ちる。
さらに彼は左手で彼女の頭を掴み、今度は右膝蹴りを頬に打ち込んだ。
避ける間もなく激しい膝蹴りを受けたラナは吹き飛び、砕けた歯と血を口腔内から吐き出しながら柱に顔から叩きつけられる。
ラナは頬骨を骨折して唇から血を垂らしながら柱に左手を突き、右手で大腿のホルスターから唯一の銃である、手の中に納まるサイズのデリンジャーを抜いた。
デリンジャーの射線が体に突き刺さるより先に駆け出したアレクセイ、左手でデリンジャーを握るラナの右手を抑え、発砲された一発があらぬ方向に消えていく。同時に駆けた勢いも乗せて伸ばした右手で、彼女の横顔を掴むと反対側を柱に叩きつけた。「ガンッ」という皮膚越しに頭骨がコンクリートに衝突する音が響く。
デリンジャーの銃声を聞いた男爵が慌てた様子で声を上げる。
「ラナどうした! ? そいつを早くおびき出せ!」
大声で命令を飛ばした男爵はショットガンを持ち上げ、二人の戦う姿が時折覗き見える柱に照準を向けた。
ラナは横顔を柱に押し付けられ、右腕を掴まれたまま持ち上げられ、裂けた皮膚から流れる血で右目を濡らす。そしてギョロリと見開かれた左目でアレクセイを見据えて、強引に内側へ曲げた右手で彼の顔目掛けて最後の一発を撃った。
22LR弾がアレクセイの左耳を掠め、耳介の上部を半円状に抉った。耳の血で顔を濡らし、激痛で顔を歪めさせたアレクセイ、彼は一瞬だけ右手をラナの顔から離して後頭部の金髪を鷲掴みした。
それから数回、真っ赤になって損傷具合がわからない程ラナの顔面を柱に叩きつけた。ふわりふわりと金髪のツインテールを揺らしながら「ガンガン」という固い音から「ガチュンガチュン」というコンクリートに肉と骨がぶつかって崩れる音に変わり、彼女の脱力した体から手が無力に垂れ下がると、思い切り彼女の体を柱の陰から投げ捨てた。
その時ショットガンの銃声が轟き、宙に浮いていたラナの小さな体を直径8mm弱の散弾数粒が吹き飛ばした。
「あれ?」
ショットガンの銃口が指し示す先、視線の奥で人形のように軽々と吹き飛んで床を滑るラナを見た男爵は茫然とした。
すかさず引き抜いたグロック26を左手に握ったアレクセイが柱から半身を覗かせ、ショットガンを手に茫然と立ち尽くす男爵の顔面を狙って二発撃った。一発は防弾スーツ越しに胸にめり込み、二発目は左眼孔に飛び込んだ。眼球が砕け散って眼孔から噴出し、後頭部から9mm弾が飛び出して脳味噌を引き摺り出した。
男爵の死体がショットガンと一緒に倒れ込む大きな音を耳にし、アレクセイはゆっくりと柱の陰から離れていく。
しかし彼は立ち止まって振り返った。彼が見つめる先には、広がる血溜まりに大きな弾痕だらけになった小さな体を沈めるラナの死体。右目を閉じて驚愕の表情で口を開いたままになっている、だがアレクセイにはその表情が戦っている中で一番人らしいと感じた。
一瞬だけ立ち止まっていた彼だったが、前方に向き直って再び歩き出す。
――
アレクセイは強引に両開きのドアを押し開け、モールの従業員用通路を進んでいく。
大腿を切り裂かれた左足を引き摺る彼の歩いた後には真っ赤な血が残っている、傷跡を抑える彼の左手も指の間から血が溢れ、朱色に染まっていた。
グロック26を握った右手を壁に突きながら彼は進む、静かな廊下で彼の激しい息遣いだけが聞こえる。時折額の汗を拭う右手だが、その手の中に握られたグロック26はとても軽い、マガジンを見るまでも無く残弾がもう僅かなのは明らかだった。
すると彼の後方からドアが開かれる音が聞こえ、振り返ると地面に血の跡が点々と残った廊下の先から救急キットを持った救急隊員が現れた。
「怪我人がいると通報を受けてきました! そこの君だね? もう大丈夫だよ」
救急隊員が言い終わったのと同時にアレクセイはその顔を撃ち抜き、スライドがストップしたグロック26を投げ捨てた。
救急隊員は爽やかな表情で額に穴を開けられ、後頭部を爆散させながら後ろに倒れ込んで救急キットを地面に落とす。アレクセイは死体に歩み寄り、救急キットを掴み上げると左足を死体の服に押し付けて血を拭い、血が落ちないように注意して一番近くにあった小さな倉庫に入った。
彼は倉庫の奥で壁に背中を押し付け、苦悶の表情で痛みに耐えながらゆっくりと地面に腰を降ろす。天井を仰ぎ見ながら大きく一度息を吐き、それから救急キットのプラスチックケースを開いた。
救急キットの中には当然ながら止血帯やガーゼ、包帯などが詰め込まれていたが、中でも特に目についたのは、サプレッサーの取り付けられたS&WのM&P9M2.0サブコンパクトだった。銃自体が小さくグリップも短く、引き抜いたマガジンには10発の9mmHP弾しか入っていない、予備のマガジンも見当たらなかった。彼は装填し直してスライドを引き、サムセーフティ―を掛けてすぐ横に置いた。
それから消毒液を取り出して体で手の届く範囲の傷に振りかけ、可能な限りガーゼと包帯を施した。それから腹部の刺傷を塞ぐと、最後は大腿に開いた裂傷の手当てを始めた。
白い皮膚と脂肪と筋肉の断面が見える裂傷に消毒液が注がれ、少しだけ消毒液で薄くなった血液が溢れ出す。彼はジャケットの袖に噛みついて必死に痛みと悲鳴を堪え、十分に消毒して回りの血とゴミを拭い、それから縫合セットを取り出して手早く糸と針を準備する。
一旦アレクセイは長く深呼吸を繰り返し、額と髪の汗を拭って大腿に開いた傷口に視線を向け直した。
楕円状に切り裂かれた皮膚の奥には真っ赤な筋肉とその周囲に脂肪と皮膚の断面が見える、だが大きな血管が裂かれた様子は無い。激痛を無視しながら血を拭い、すぐさま針を皮膚に突き立てた。まるで自分の皮膚を布だと思い込んでいるかのような勢いで傷口を上から下、下から上へと針を刺し込んで縫っていく。その間彼は歯を食いしばり、痛みで抑えられない頬を流れる涙を無視して手を動かす。針がブツリブツリと皮膚を貫通している間、口から小さな呟きが漏れていく。
「僕は生きて、殺す。絶対に生きて、殺す……ヘレナさん――」
やがてぬいぐるみの補修痕の如き縫合痕をガーゼと包帯で覆い、鎮静剤を口に放り込んで水なしで飲み込んだ。
ゆっくりと老人のような動きで立ち上がり、M&P9をサプレッサーからジャケットの内ポケットにねじ込んで倉庫を出る。灰色の壁と床で囲まれる質素な廊下をよろよろと彼は進み、脚を動かしながらスマートフォンを開くとメッセージが大量に届いていた、全てが殺害予告のメッセージを、彼は一切見ることなく通知を切ってスマートフォンをポケットに仕舞う。
従業員専用口からモールを出ると依然夜の街は雨が降りしきっており。服や傘や地面に残る雨水が街の明かりを煌びやかに反射させ、忙しなく道路を行き交う車のライトもさらに歩道の水溜まりで光を撒き散らす。
アレクセイは歩道の脇をおぼつかない足取りで進んでいたが、地下鉄へと続く階段を見つけると地上から逃れる様に、そして気を抜いて転げ落ちないように降りていった。
地下鉄内は地上より明るく、雨によって体を冷やしてしまうこともない。
雨でジャケットと髪を濡らしたアレクセイは、少し猫背気味になりながら左足を引き摺って一目を避ける様に人通りが少ない場所を選んで歩く。そして脚の痛みに歯を食いしばりながらホームで電車を待ち、到着するとすぐに乗り込んですがるように手摺を掴んで体を預けた。
彼が手摺を握って立つやや斜め右には身なりの良い男が座っていた、磨き上げられた革靴に高級そうなスーツ、しかも傘を持っていないのに体のどこも濡れていない。
その男に視線を向けていたアレクセイだったが。不意に正面に座っていたビジネススーツに身を包んだ女性が立ち上がり、彼の横に立って声を掛けた。
「どうぞ座って下さい」
「あ、ありがとうございます」
傷だらけで明らかに疲れ果てた様子のアレクセイに空いた席を指し示す女性、アレクセイは小さく頭を下げながらジャケット内のM&P9のグリップを掴む。そしてM&P9を引き抜いて銃の側面を胸に寄せながら、ゆっくりと椅子に腰を降ろす。丁度の目の高さにある女性が下腹部の辺りで握る拳銃が目に入った。
アレクセイが左側を流し見すると若い男がコートの下に手を突っ込んでいるのが見える、彼はM&P9をその男の頭に向けていた。すると右側に座っていた身なりの良い男が口を耳に寄せて話しかけてきた。
「私たちは少し話をしに来ただけです」
銃口を左の男に向けたままゆっくりと顔を右側へ向けるアレクセイ、そこには磨き上げられた演技力のビジネススマイルが浮いていた。謎の男が爽やかな笑顔を見せ、言葉を発しても正面の女が持つ銃口は未だにアレクセイに向けられている。
「誰ですか」
M&P9の引き金に指を掛け、全ての席に人が座ったこの電車内で戦闘するならばどう動くか考えを巡らせるアレクセイ。その相貌は疲労と貧血で白く、同じような理由で目の下には隈が黒く残っていた、いつもより少し降りている瞼から覗く眼球は宝石のような輝きではなく、何処か空虚なガラス玉じみている。
「総督連盟という名の組織から派遣されました、名前はマルティノヴィチ・スルジコフです」
マルティノヴィチと名乗った男は名刺を差し出す、シンプルで真っ白い名刺には電話番号とメールアドレス、そして彼の名前だけが書かれていた。だがアレクセイはどんよりとしたどこか眠たげな目で見つめ返すだけだった、しばし名刺を差し出し続けていたマルティノヴィチだったが、最後は彼の胸ポケットに静かに差し込んだ。
「我々はあなたをリクルートしに来ました。我々の目に留まったのです、あなたが持つ卓越した人殺しの才能が」
アレクセイの動かない視線が言葉の先を促す、さっさと結論を言えと目が語る。
「我々総督連盟には問題の排除、敵の抹殺を間違いなく依頼通りにこなす人員が必要なのです。だからクラスニークルーグや、多くのマフィアに対しても依頼をすることがありますが、最適解としてはやはり我々の専属としてあなたのような人が欲しい」
「僕のようなですか?」
訝しむ目、疑いの表情で彼の眉間に皺が寄る、そんな顔と握られた銃を交互に見たマルティノヴィチは言葉を続けた。
「確かにあなたはこの街で甚大な被害を出し、総督連盟にも無視できないほどの損害を与えた。私たちがあなたを殺すとしても誰も驚きませんし、あなたもそちらの方が困惑を抱かないで済んだのでしょう。しかし我々は利益と立場を重んじつつ、同時に未来を見据える、あなたのような」
「僕があなたの申し出を受け入れる理由があるのですか?」
「そうですね、勿論今回の件は不問にします。まあ抗争ですからあなた一人に責任全てを負わせるのは筋違いですし。それに我々の支援を受けることができます、金銭や物資、大小さまざまなトラブルへの対処も、勿論あなたが解決できないようなことをです」
「それで?」
苛立ちを見せたアレクセイ、声の抑揚が一言発する毎に失われているようにマルティノヴィチは感じた。彼は誰にも見えない服の内側と髪の中で汗を掻き始めた、気持ちとしてはまるで肉食獣に肉を差し出そうとしている者、それか原子炉で燃料棒を移動させている技術者の気分だった。
「勿論逆にあなたが少し不満を抱くと予想されることもあります。まず今後は総督連盟の依頼を最優先として動いてもらうこと、そしてニコライ・ミハイロヴィチ・ラスコーワの殺害を止めて頂きたいことです。この抗争で起きたことの大部分を我々は把握しており、その結果あなたが彼を殺すつもりであることも知っています」
その言葉を言い切るより早く「殺害を止め――」とマルティノヴィチが言った瞬間、彼の全身が鳥肌で覆われるほどの殺気を目の前から感じた。まさに爆弾処理を行っている状態、彼の言葉一つ一つが爆弾の配線一本一本を切断している、そのどれが起爆に繋がるか誰にもわからない。
「ニコライを助ける理由があなた達にあるのですか?」
そこでマルティノヴィチは大きく息を吐くのを堪えるのに苦労した、今の瞬間にこの会話が完全に決裂せず、続きを促されたことの安堵はあまりに強烈だった。だが爆弾はまだカウントダウンを続けている、それはこの電車がアレクセイの家の最寄駅に到達するまでを意味していた。その時爆弾は目の前から去るのか、それともこの場でマルティノヴィチの眼前で炸裂するのか。
「あの男はクラスニークルーグ、及び彼の機関全体が最高機密として保持している殺し屋リストと引き換えに、身柄の保護を求めてきたのです。我々としてはそのリストがどうしても欲しい、彼らはとても優秀な人員を抱えているのですから」
カチリカチリと時計の秒針が動く音が聞こえる気がする、今すぐにでも目の前の爆弾は起動して自分の体を粉々に引き千切ってあの世に叩き込むんじゃないか、マルティノヴィチは恐怖のあまりこの場で失禁しかねない程怯えていた。だが彼もこの道のプロ、そんな様子を全く見せないまま清々しい営業スマイルを維持して口を動かした。
「僕があなた達の申し出を断ったらどうなりますか?」
地下鉄の壁に設置された明かりの光が一定間隔で電車内に差し込み、アレクセイの静かに据わり果てた目の横顔と、気味の悪い笑みのマルティノヴィチの横顔が照らされる。
「どうもなりません。あなたの今の状況が変わらないだけです。当然、今この場にいる彼らは何もしない」
そう語るマルティノヴィチの目線は下に降り、所々が破けて赤黒く血に濡れたスーツを見る。大腿の部分は大きく裂けて包帯が見え、ジャケットとベストの隙間から見えるシャツには赤い血の跡が残っている。視線を上げると顔には打撲痕と切り傷にまみれ、鼻の下には鼻血の痕が薄っすら見える。耳も大きな大きな絆創膏で上部を覆われている。
まさにアレクセイの酷い現状、今にも死にそうな状況が変わらないということをマルティノヴィチは暗に語っていた。
「そうですか」
アレクセイが膝に片手を突いて重々しい動きで立ち上がった、正面で銃を向けていた女も咄嗟に横へと逸れて道を開ける。
車内アナウンスが次の到着駅を繰り返し放送している。
彼は揺れる電車内をおぼつかない足取りで進み、時折手摺を掴んでなんとかまだ開いていないドアの前に立った。
「殺さないなんていう選択肢はありません。これまでそれを守ってきましたし、今後も間違いなく続けていきます。どんな申し出の条件であっても例外は無いです」
顔を向けることも無く、アレクセイはそう言い放つ。
「わかりました……ですが最後に一つ」
するとアレクセイの背中に向けてマルティノヴィチが言葉を投げた。アレクセイは肩越しに振り返る。
「何故そこまでして家に戻ろうとするのですか?」
「ヘレナさんがくれた大切なモノを取ってこなきゃいけないんです」
「でも本当に彼を殺すつもりなら、これから家に向かうのは止めるべきだと思います。死んでしまうかもしれませんよ」
マルティノヴィチの笑みが初めて姿を消し、真剣な表情で真っ直ぐ視線を突き合わせて言う。
「わかっています。忠告ありがとうございます」
その時電車が止まってドアが開き、マルティノヴィチは両目を微かに見開かせて驚愕した。
マルティノヴィチの方向を見て言葉を受け取ったアレクセイが、彼自身の状態とこれから待ち受ける状況を理解してなお、ついさっきまで深海の水圧を思わせる殺気を放った人間とは思えない、柔らかい少年の笑みを向けてきたのだ。
そうしてアレクセイは脚を引き摺りながら電車を降りる。背中には車内に座っていた人たちの、冷たい警戒した視線が突き立てられているのを感じながら。
全身の至る所から生じる激痛に耐えながら、地下鉄のホームを抜けて地上に通じる階段を上がっていく。革靴が地面を叩く乾いた音が響く、手摺を掴んだ腕で体を引き上げる様にゆっくりと進む。
地上に出ると夜空に見下ろされた静かな住宅街が広がっている、歩道を進むアレクセイは周囲に目を向けるも人の姿はとても少ない。
閑散とした道を歩きながら、彼はジャケットの中からM&P9を引き抜いてセーフティーを外した。右手に握られたM&P9のステンレス鋼から成るスライドは街灯の光を朧げに反射させている。
やがてアレクセイはは重く痛みに満ちた歩みを止め、ゆっくりと目の前にそびえ立つ住居を見上げた。自分の家に辿り着いたのだ。




