Chapter 5-7 Shots Fired
「私は教会崩壊の事実を収集している、気晴らしに。最近シチリアで起きたのを見たかね? 素晴しい! 特別ミサで教会の正面が六十五人の祖母たちの上に崩れ落ちたのだ。あれは悪かね? かりにそうだとしたら、誰がやったのだ? 天に神がいるのであれば、神はそれがたいへん好きなのだ、スターリング捜査官。チフスと白鳥――みな同じ所から来るのだ」
――トマス・ハリス著、菊池光訳『羊たちの沈黙』
――
ムハレムが殺害されてからまだ一時間も経っていない頃。広大な敷地で芝生に囲まれた三棟から成る屋敷があった、そこはイストレフィファミリーの本部であり、ムハレムの家族が暮らす場所でもあった。
平穏な日常を豪勢に飾りながら送るはずの屋敷、二メートル以上の高さの正門を備えた、その敷地内からは叫びと銃声が鳴り響き続けていた。
「ちっくしょおおおおおお! !」
赤いスーツを着込んだ男は怒りの悲痛な叫びを上げ、拳銃を握った右手首を掴まれて脇を締めた形になりながら、至近距離からグロック34で弾丸を撃ち込まれている。
屋敷の警護であった男は背中から血肉を吹雪の様に飛び散らせながら心臓を撃ち砕かれ、目の前で立つアレクセイの肩を掴んでいた腕から力が抜けていった。
大理石の白い床に死体が崩れ落ち、金色の薬莢が転がる。
アレクセイは表情を変えぬままにぎょろりぎょろりと青の虹彩が煌めく眼球を動かし、同時に死体のポーチからグロックのマガジンを引き抜いていく。そしてすぐさま立ち上がって銃口を正面に向ける。黒いグロックの銃身と彼のスーツがムハレムの豪勢な輝きと生気に満ちた屋敷に影を落とす。その黒い存在が屋敷を進めば進むほど、辺りは赤黒く染まって静寂が満ち満ちる。
装飾の多いシャンデリアが時折ぶら下がる廊下を抜けていき、瓶や像が幾つも飾られている壁を通り過ぎ、時折壁に開いた穴のように見える曲がり角から現れる、赤スーツの護衛達の胸と顔を撃つ。
二度の重い銃声が轟き終える間もなく三度目の銃声が鳴り響き、顔面に肉々しい穴が穿たれて、赤スーツの背後の壁に脳味噌と頭骨と血が赤々とこべりつく。
鳴り止まぬ銃声と怒号、歩み止まぬアレクセイ。
ムハレムの死を伝えられることもなく、ただ突然屋敷を襲った混乱と銃撃の嵐で警備を担っていたイストレフィの構成員たちは右往左往しながら、無線に向かって状況報告を求めつつ拳銃を握りしめていた。
アレクセイは走り出して曲がり角から飛び出す、AK12を構えた男の右腕に体当たりし、すぐに左腕をAKに絡ませる。薬莢がスーツに次々と叩きつけられて跳ね上がる中、男が彼を振りほどくより先に、グロックの銃口を右頬に突き付けて二度発砲する。
頬が衝撃で膨らんで口から粉々になった赤い歯が噴出する、弾丸は斜め上に突き進んで飛び出し、脳幹は粉砕されて弾丸の後を追って宙を舞った。
アレクセイは男が即死して二つの眼球を別々の方向に向ける顔を見ることも無く、ライフルから手を離しつつ反対方向の曲がり角から現れる敵の胸と顔を撃ち抜いた。
さらに銃口を左へと振って目の前の曲がり角の先に撃ち、先程撃った方向の壁に身を寄せる。
視線の先に見える曲がり角からヴェープル12モロト セミオートショットガンを持った敵が半身を覗かせた、ストックを肩に押し当ててハンドガードに左手を添えられたショットガンの真っ暗な銃口がアレクセイに向けられる。
彼はショットガンの銃口から真っ直ぐに伸びる射線が自分の体に触れる寸前に、グロック34の引き金を引いて相手の右胸と首の右側面を弾丸によって薙いだ。血肉が舞い散り、呻きを上げる相手は背を壁に打ち付け、あらぬ方向に一度だけ発砲して倒れ込んだ。ザクロのような束でOOバックの散弾が地面を抉る。
アレクセイはグロック34を構えて突き出していた両手を曲げ、銃を胸元に寄せながら背後に振り返る。銃を手に半円を描く形で射線を背後に向けるより早く、銃を胸に抱えたHIGHPOSITONで背後の敵の胸目掛けて二発撃つ。
赤い防弾スーツの上で9mm弾がひしゃげて皮膚と肋骨を破壊し静止する、敵は拳銃を握った右手を突き出したままに左手で胸を押さえて呻く、その一瞬だけ顔を正面から背けてしまうもすぐに引き金を引いた。
男の胸を撃ちながらも僅かに怯ませることしかできなかったアレクセイは素早く距離を詰め、相手の拳銃のスライドとフレームを掴み、右手を突き出して相手の右手の甲を押さえつけつつ銃を捻って捨てさせた。
相手は咄嗟に左フックを放つが右手を下に向けた右前腕で逸らし、左手で相手の左前腕を掴むと、左手を勢いよく引いて自分の右前腕で抑えていた左肘関節を逆に折った。
続けて繰り出された右フックを屈んで避けて右肘打ちを鳩尾に叩き込み、宙を切った相手の右前腕を掴むと外側に捻り上げた、そしてその下からグロックを握った右手を突き出して別の敵の胸と顔を撃つ。
さらに腕を掴んだままの相手の右膝裏を蹴りつけてしゃがませ、反対側に現れた敵の顔面をさらに撃つ。銃声の余韻が残る中、しゃがまされた男の右腕と後頭部を横へと押しやって投げ捨てる。壁に打ち付けられて叫ぶ間を与えることなく、倒れ込んだ相手の顔面を両手で固く構えたグロックで至近距離から二度撃ち抜いた。
素早くかつ油断のない動きで辺りを見回し、それから彼は半身を撃たれて息絶え絶えに座り込んだ敵に近づく、足音を聞いて持ち上がった敵の額を撃ってから足元に転がるヴェープル12モロトを掴み上げた。
――クラスニークルーグ本部、ニコライのオフィス――
静かなオフィスにはニコライがたった一人でデスクについている。彼は車椅子の肘掛けに体重を掛けながらスマートフォンを耳に当てている、何も持っていない手はコツコツと机をつつき続けていた。
暫くコール音を聞いていたニコライは諦めて呼び出しを止め、溜息をつきながらスマートフォンをデスクに乗せ、弾いて滑らせると奥へと追いやった。
「カルテルは完全に手を引いたか、これで街に残るのは俺が最後」
一人小さく呟く、答える者は居ない。だが視線を斜め上へと向けたまま、無表情に頬杖をついた彼はただ一人思案に耽る。
ラーズヴァリーヌで権力を握っていたシンジケートは4つ、ムハレムは殺害されてその全てがもう街から消えたとニコライは判断していた。今街で大きな力を持ちながら残っているのはクラスニークルーグのみ、資金援助や殺害依頼をしてきた上部組織は消滅して唯一の存在となった。
犯罪組織にとって活動しやすく、金を稼ぐことと活動の拠点にすることに適していたこの地をたった一つの組織が支配する、それは長い動乱の歴史を辿ってきたラーズヴァリーヌには考えられない在り方。だがその現実がすぐそこにまで迫っている、そんな考えがニコライの頭に残り続ける、彼は騒乱を収めた地の支配者になる未来を脳裏に浮かべて笑みを抑えられないでいた。
それでも最後の懸念がある、たった一人ニコライの栄光ある未来を見据えた意思に反して動く存在。彼が消えるまでニコライの見つめる先は蜃気楼になりかねない、確実な排除と自分自身の生存が絶対であった。
ニコライにはアレクセイの行動理念が完璧には理解できなかった。彼は依頼を受けてそれを達成するだけの存在にも見えるが、ヘレナ・マーガレットとはどこか部下と上司を越えた関係を匂わせ。実際に彼女がムハレムの手によって誘拐されると依頼でもなく、明らかに契約を越えた救出をしようとしている、最早それは感情によるものとしか考えられず、こうなればどう動くかニコライに予想することは困難だった。
それでも、アレクセイは自分に危害を加えた者を一切見逃すことなく殺害する、その一点だけは直接戦ったニコライに確信できることだった。つまり一度幸運にも助かった彼はまだアレクセイの殺害リストに残っている、恐らくは常に更新を続けられているリストに。
ニコライは自分を切れ者だと自負している、そして腕っぷしもそこらのチンピラや殺し屋に後れを取ることは万に一つとありえないとも考えている。だが彼を思い返すとその自信が根元から融解するような気分にさせられてしまう、もう一度対面した結果あらゆる手段で殺されるビジョンまでもが脳裏に映ってしまう。
だから手を打つ必要がある。
するとその時オフィスのドアが開いて、ニコライの秘書を務める黒スーツのスタッフが現れた。
「お時間です。護衛と車の用意ができました、飛行機も既に離陸の指示を待つ状態です」
「わかった」
ニコライは自分の手で車椅子を動かし、オフィスを後にした。
――イストレフィ―の屋敷――
マホガニー材で作られた両開きのドアがある、それはガラスの嵌め込まれていないシンプルなデザインで全体的に赤茶色だった。
そしてドアの左右には護衛が立っている、二人の護衛の手にはAK12が握られている。ストックを肩に押し当てながらも、ローレディ状態でしっかりとフォアグリップとピストルグリップを握りながら、引き金を人差し指で撫でている。
姿勢は訓練の成果を示している、だがその態度は緊張と戸惑いを隠せない。二人は時折左右に目をやり、度々目を合わせていた。
数十分前から屋敷内から聞こえ始めた銃声、それは段々と彼らの方向に近づいてきているのがわかった、だが届く幾つもの銃声は屋敷内で反響を繰り返して何処から聞こえてくるのか判別できなかった。
確実に危険な存在が向かってきている、それだけがハッキリしながらも具体的な方向すら予想できない、だから彼らは銃を教本通りに携えていながらも緊張と汗を滲ませた顔で、ドアの前で左右に伸びる通路の先に視線を向け、すぐにでも発砲できるように銃を構えていた。
ふとした時から銃声が止んだ。護衛達はそれぞれが左右の廊下の先に視線と射線を突きつけたままに静止していた、瞬きまでもが煩わしいイヤな静寂と緊迫感、ちょっとしたことですぐさま引き金を引いてしまいそうな状態だった。
その極限までに高められていた緊張が逆に彼らの反応を鈍らせた。
一人の護衛が見据えていた先、そこには廊下の終わりで左右への曲がり角があった。するとそこに小さな何かが、小さな黒い塊がひょこりと姿を見せたのだ。
「ドンッ」という爆音が廊下に響き渡り、OOバックの散弾が護衛の顔面を覆った。皮膚を突き破り、頭骨を撃ち砕いた散弾の衝撃波が頭部内で充満して頭部の皮膚を一瞬限界まで膨張させた、珍妙なまでに顔を膨らませた護衛は後頭部と側頭部を爆散させ、脳か頭骨か皮膚か頭皮か全く判別のつかない血肉を壁と床に叩きつけ、遅れて体を床に倒れ込ませた。
一人の護衛を射殺したアレクセイは、ヴェープル12モロトを構えたまま曲がり角から全身を露わにし、前進しながら驚愕した表情で振り返ったもう一人の護衛を二度撃った。
一度に聞こえた素早い二連射のうち、初弾が防弾スーツ越しに胸を直撃、護衛を突き飛ばした。そして二発目が肺から押し出された空気で頬を膨らませた顔を吹き飛ばした。
二発分の衝撃を受けた護衛の体が廊下を滑り、その後には赤黒い汚れが残る。
二つの死体が並ぶドアの前にアレクセイは立った、まだ8発装填されたままのマガジンを引き抜いて未使用のマガジンを差し込んだ。
ドアの向こうには奥の方に長方形の空間が広がっている、それはムハレムが使用していたオフィスだった。一番奥には大きなデスクがあり、ドアからデスクまでの間には応接用のソファとテーブルが置かれている。壁には絵画が幾つも飾られ、床には飾り切れなかった絵がカバーに覆われたままに立てかけられている。
そして銃を持った護衛が5人ドアに視線を向けたままに等間隔で立っており、デスクの前には車椅子に乗ったユリアナ、傍には息子のシュパトと娘のアリアナが居た。
子供たちは彼女のズボンを掴みながら足元で怯え、硬直したままに護衛達と同じようにドアを見つめていた。
ユリアナが両手を二人の頭に添え、密着させるようにさらに近くへと寄せて顔を上げた時。ドアから散弾が飛び出した。
病衣の上からジャケットを羽織った姿のユリアナ、その肩にOOバックの散弾が二粒めり込んだ。着弾の衝撃で後ろへと吹き飛び、車椅子の上から転げ落ちた。子供たちは車椅子と一緒に弾き飛ばされる。
ドアは続けて小さな爆発を起こし、木片と散弾を部屋の中にぶちまけた。
3人の護衛が防弾スーツの上から散弾を受けて後方へと吹き飛んだ、銃を取り落として床を少し滑った彼らは血を吐く。
ヴェープル12モロトのトリガーを引き続け、足元に10発分の薬莢を落としたアレクセイはドアを蹴破る、眼前に開かれた視界には3人の倒れた護衛、そして倒れたユリアナに寄り添う二人の子供。
アレクセイは左にヴェープル12モロトの銃口を向け、ドアの陰から銃を構えた敵の胸を撃って吹き飛ばした、さらに右側から現れた敵の拳銃を握った手にショットガンのストックを突き出す。
相手は左手でストックを逸らして払いのけ、拳銃を握った右手を彼の頭に向けて突き出した。敵に向き直ったアレクセイは左手で敵の右手首を掴み、抑え込む。そこでヴェープル12モロトのグリップから離した右手の、体重を乗せた正拳突きを鳩尾に叩き込んだ。相手が息を吐き出して前屈みになった所で、掴んだ相手の右腕の下をくぐってから体を反転させ、大きく左腕を回して敵を逆宙返りさせるように回転させて地面に投げつけた。
その時、血が流れ出る肩を抑えたユリアナが叫んだ。
「子供達には手を出すな! 」
アレクセイが手放したヴェープル12モロトが音を立てて床に落ちる。
彼は敵を投げるのと同時にグロック34を腰から抜き、近くの胸を押さえつつも銃を向けてきた敵の額を撃ち、部屋の奥へと視線と射線の先を移した。
それと同時に彼の突き出したグロックを握る右腕の、手首目掛けてナイフが振るわれた、相手は逆手に握ったナイフを右から左へと横へと振っていた。アレクセイは右手を引くことでナイフを避け、相手はそのまま左足を踏み込み、今度は斜め上へと左から右の喉を狙ったスラッシュを繰り出した。
アレクセイは首へのスラッシュを、上体を逸らすことでギリギリ避ける。だが相手は続けて右脚を踏み込むのと同時に、手の中で素早く逆手から順手に持ち替えたナイフを、彼の顔目掛けて突き出した。彼はそれを曲げた右手の前腕で外へと逸らし、顔の傍をナイフが通り過ぎたところで、相手の右内肘に自分の左肘を振り下ろして曲げさせた。次に左手でナイフを持つ手を掴んで捻り上げ、両手で相手の背後へと押し込んで肘と肩の関節を極めた。左手でナイフを引き剥がし、右腕を相手の右腕に絡ませて関節を極めたまま、左手で胸元を掴み、右足を踏み込んで相手の右脚を引っかけながら背中から地面に引き倒した。
「お前の敵は私と組織だ! もう抵抗しない、お前の好きなようにするがいい! 」
ユリアナは片腕で二人を胸元に抱き寄せて吠える、子供たちは彼女にしがみついてきつく目を閉じていた。
アレクセイは最初に投げた敵の上に、もう一人を引き倒して重ねて膝を押し付けることで動きを抑え込み、しゃがんだまま至近距離から額に一発ずつ撃ち込んだ。頭を仰け反らせて後頭部から水飴に近い粘度の脳みそが混じった血を噴出、白い頭骨が赤黒い血溜まりに散らばる。
残った護衛は二人、一人は右腕が数粒の散弾を受けて千切れかけてしまい、怒り狂った犬のように吠えながら左手でライフルを持ち上げようとしていた。さらにもう一人は拳銃を握ったまま、黒に白い筋の走った大理石テーブルを持ち上げて盾にする。
アレクセイはEXTENDEDに構えを切り替えながら立ち上がり、 真っ先に左手でライフルを掴む男の胸と顔を、二発一発と撃ち抜いた。続けて歩き出しながら両手を伸ばし、APOGEEの構えに切り替えてテーブルに向けて四度発砲する、立てかけられた大きなテーブルにヒビを纏った弾痕が瞬く間に四つ穿たれた。その背後から拳銃を持った男が転げ出る。男は腕と首から血を流しながらも右手を持ち上げたが、アレクセイが先に二発撃ち込んで男の後頭部が爆散した。
「サハロフ頼む、子供たちだけは見逃してくれ !」
既に涙声で懇願するユリアナ、そんな初めて見る母親の姿に二人の子供は震え始めた。
そこでグロック34は弾が切れ、スライドが後退したまま静止、アレクセイはユリアナを見据えて真っ直ぐと歩み寄っていきながらマガジンを交換する。一秒にも満たない時間で再装填を終え、スライドをリリースして銃口を前方へと向けた、その先にはユリアナとアレクセイは名前も知らない子供二人が怯えた目を向けていた。
彼がトリガーに掛けた指に力を入れ始めたその時、シュパトが突然立ち上がってユリアナの下から走り出し、彼に向かっていきながら大声を上げた。
「うわあああああ !」
反射的に照準をユリアナから外し、シュパトの顔面に合わせたアレクセイは一瞬で二度発砲した、それは殆ど弾丸が隣り合う様な速度だった。
二発の弾丸はシュパトの額と鼻に直撃し、後頭部から飛び出してユリアナが寄り掛かるデスクにめり込んだ。シュパトは小さな頭を仰け反らせて、真っ赤な血と真っ白い脳を後頭部から滴らせながら、背後から頭骨と床の衝突音をたてて倒れ込んだ。
ユリアナは直ぐ傍に弾丸が当たったことも、息子の脳漿と血の混じった液体を顔から浴びたことにも気が付かず、眼前で糸の切れた人形のように倒れたシュパトの死体を見開いた目で見つめていた。
「あぁ、うそ――」
アレクセイはシュパトを射殺してもユリアナに向かって歩いていき、彼女が微かに声を漏らす間だけ挟んでから、彼女の胸に二発と顔面に一発を刹那に撃ち込んだ。
ユリアナは胸に受けた弾丸の衝撃で小さく体を跳ねさせ、額に受けた弾丸で激しく仰け反った頭部をデスクにぶつけて、脳味噌と髪が混ざり合った赤い挽肉をぶちまけた。
脱力した彼女はうなだれて額から血を垂らし続け、虚ろな目で真っ直ぐと自分の死体を見つめている。そしてそんな母親にしがみつきながら茫然と見つめていた娘アリアナ、彼女は信じられないといった表情でユリアナを見ていたが、やがてその視線はアレクセイに向けられた。
その短い間、アレクセイは銃をユリアナに向けたまま静止してた、だが目はゆっくりと振り返ってきたアリアナと重なった。子供の身には余る圧倒的恐怖を抱いたアリアナの目、そしてなんの感傷も迷いも滲ませない静かな碧眼を向けるアレクセイ。
そして見つめ合った目が動くことなく、アレクセイは小さく右手を動かし、アリアナの顔面に二発撃ち込んだ。アリアナは斜め上から額と左目を撃ち抜かれ、眼球を破裂させて右側頭部を耳と共に爆発させると、大きく頭を振ってから血の流れる空っぽの眼孔をユリアナに向けて、彼女の胸に寄り掛かった。
アレクセイは構えを解いて銃を握った右手を垂らし、ジャケットの裾を翻しながら踵を返した。
静かなオフィスには彼の足音だけが響く、それでも時折聞こえるのは血の滴るささやきの様な小さな音。呼吸を繰り返し、衣擦れの音を立てながら動いていた人たち、それが今は歩く彼の直ぐ傍で、一人残らず頭の銃創を晒しながら静かになっている。
銃を向けてくる者、ナイフを振るってくる者、懇願する者、絶望する者。皆等しく静かな死体となり、オフィスのドアを潜ったアレクセイをただ沈黙で送り出す。
彼が歩く廊下も変わらない。血で染まった壁の傍に倒れる死体が、温かさだけを生の痕跡として示しながら、仕返しも非難も、何もできぬままに見開いた目で虚空を見つめ続けていた。
アレクセイは正面玄関のドアを押し開き、踏み出して屋敷の外へと出た。すると灰色に染まった空からは激しい雨が降り注いでいた、大きな雫は地面に落ちると弾け散り、彼のジャケットに落ちるとさらに深い、艶やかな黒へと染めていった。
少しだけ立ち止まって空を見上げ、顔から雨を浴び、黒い髪は重く降りて顔に張り付いていく。それでも暫し動かず、目を瞑ってその感覚に意識を寄せていった。
下げた白い右手に握られたグロック34、その黒い銃身に透明の雨粒が降り注ぎ、スライドを伝って銃口から地面に落ちていく。黒い装束を纏った、黒い銃を提げた白い少年が、土砂降りの中で立ち尽くしてただ雨を浴びている、その姿はまるで土砂降りの世界に溶け込もうとするかのようだった。
すると頬の傷から、固まった血の間から鮮血が流れ出し、顎を伝って雨に交じりながら落下する。そして彼は目を開けた。
顔を前方に向け、再び歩き出した。
――
暗い空の下で豪雨降りしきる、光を漏らす街灯とビル群に挟まれた表通りには、車と人が忙しなく行き交っている。傘を差して真っ直ぐ前を向いたままに歩き続ける者たち、そんな中でアレクセイは雨に濡れながら同じように人の流れに紛れて歩いていた。
タイヤが道を踏みしめる軋むような音、シャワーに似た雨粒が傘に叩きつけられる音、土砂降りの騒音に囲まれている中、彼のポケットの中からバイブレーションの音が聞こえる。取り出すと画面にニコライの名前が表示されていた、その名前を見て少し立ち止まると、彼は電話に出た。
「ようサハロフ、ひさしぶりだな。とは言っても数日ぶりってところだが」
「どうもニコライさん」
彼はそう一言だけ返した、それ以上何も言うことはないかのように。
「もしかして、怒っているのか? それはお前を殺そうとしたからか? それともヘレナを殺そうとしたからか?」
「そんなことありませんよ」
「へぇ、そんなもんなのか。だが一応言っとくと俺は怒っていないぞ、お前がぶち込んでくれた9mmのお陰で足首の関節は粉砕、しばらくは車椅子生活になっちまうがな」
「……」
「正直この電話は俺自身も意外なんだが、感謝の気持ちを伝えたかったのと、あまりにもお前が不憫だったんでな、必要と判断した」
「僕はあなたに何もしていないです」
「ハハッ! ぶっ殺そうとしてきた相手を殺し返す一歩手前まで追い込んだことが、何もしていないって言えるのはお前だけだな。俺はお前を嵌めてこの一連の騒動を引き起こして、その結果ヘレナの席に付けた。しかもあろうことかお前はムハレムまでしっかり始末してくれた。ここまでは俺が感謝するべきだと思ったんだ」
「そうですか。でもそれは結果的にそうなっただけです、そんなつもりは僕には全くなかったのですから」
雨に濡れた黒い髪の先から雨粒を流れ落としながら彼は淡々と語る。
「だろうな。そしてもう一つ、お前はムハレムどころかユリアナまで殺した。これも一応は俺が感謝できる点ではある、ムハレムが死んだってあの女が組織を引き継いだら俺はさらに抗争を続けることになってた、死んでくれて俺としてはとてもありがたい。それでも、女と子供まで殺したことで最終的にお前が哀れで、不憫に思えちまった」
「すみません、僕には意味が分かりません」
「それはこっちのセリフだ、あいつらまで殺すとはな。プライドがクソ高い殺し屋、それか舐められたら商売に響く組織ならわかる、だがお前がそこまでやるのは想像を超えていた。その結果がどうなるかもお前はわからないんだろう」
「どうなるんです?」
彼は問う、だがそれでも彼の声色は空っぽ、恐れや心配、疑念を抱く様子もない。ただ機械的に聞いていた。
「アルバニア人が自分の命よりも大切にするカヌンにおいて、例え血の復讐であろうと女子供は殺すなと決められている、お前はそれを一気に三度破った。ユリアナは組織の人間だから例外かもしれんがな。でもお前は、イストレフィに繋がる組織は当然として、世界中に存在するアルバニアの血が入った者、彼らの影響下にある全ての者、そいつらに死ぬまで追いかけられるだろうな」
「僕が追われる身になると、それが哀れだと。そんなことはともかく、ニコライさんはお元気ですか?」
「は?」
「いえ、イストレフィの人たちがあなたを殺そうと、部隊を送っている可能性があると思っていたので」
「俺のことを心配するのか? お前が?」
「勿論です。どんな追手が僕に向かって来ようと、あなたは僕が殺すまで生きていて貰わないと収まりがよくありませんので」
「そうかい――」
そう言ってニコライは一方的に電話を切った。
自家用ジェット機の中、傍に折りたたまれた車椅子を立て掛けて、彼は椅子に深々と座りながらスマートフォンを耳に当てていた。
電話を切り、スマートフォンを握った手を降ろすと、傍でノートパソコンを操作する部下に目をやった。その女性の部下は彼に目を合わせると静かにうなずく、パソコンの画面にはニコライとアレクセイのスマートフォンの識別番号や通信状況、そして位置情報が表示されており、その位置情報とアレクセイの各種詳細を数十の宛先にメール送信したというウィンドウが映っていた。
ニコライが乗っている自家用ジェット機は既に離陸している、もうラーズヴァリーヌからも離れているところだった。
離陸した時、大きな衝撃と共に内臓が浮き上がり、一種の安心感で彼は小さく笑みを浮かべて椅子に座っていた。彼はアレクセイに電話をし、その位置を特定して街中の殺し屋に知らせることで同じような喜び、安心感を得られるのだろうと予想していた、だが実際に連絡した結果、彼は最早逃れることのできない恐怖と嫌悪感に、1万メートル上空で囚われてしまっていた。
――
スマートフォンの画面に水滴が次々と浮かび、表示される画面の光が小さく歪む中、通話の画面を閉じてアレクセイはポケットに仕舞った。
彼は顔を上げ、目をしっかりと開き、晴れ晴れとした控えめな笑顔を浮かべた。
「そこのあんた」
不意に声を掛けられた彼は振り返る、すぐ傍には痩せこけた青年が立っていた。青年は枯れた雑草のような金髪をだらしなく伸ばし、眼孔は落ち窪んで表情は皆無だった。
閉じかけた瞼の隙間から覗き見える青年の目、それはアレクセイの目をしっかりと正面から見つめていた、彼もそれを真っ直ぐと見つめ返した。
その時体が小さく背後に揺れ、アレクセイは腹部に衝撃を感じた、そしてすぐに刃物が体内に入り込んだ冷たさも感じた。視線を青年から外して自分の腹を見る、そこにはジャケットとベストの細い隙間を狙って突き立てられたナイフのグリップ、それを握る青年の左手が見えた。
それからもう一度目を上げて青年の顔を見た、死んだ濁り切った青い目、皺の寄った痩せた唇。
アレクセイの顔からは先程の喜びが綺麗さっぱり消滅し、青年とは違った無表情に変わる。その目は青年を正面から見据えていた。




