Chapter 5-4 Shots Fired
――十二年前、ドバイ――
両手で構えたAKを微かに下げたレオニードの視界に広がる倉庫の光景、それは建設途中のモールに不似合いな檻が並んでいるというものだった。
まるで港に並び積み上げられたコンテナの様に整然と並べられた幾つもの鋼鉄の檻、その中には子供ばかりが閉じ込められていた。男子と女子はほぼ同じ割合で年齢は十歳にも満たない者ばかり、アザの無い者はおらず、みな傷だらけで憔悴しきった表情。汗と糞尿のすえた匂いが倉庫に満ちていた、彼らの濃く漂う体臭はまだ僅かに乳臭くもあるほど。
彼らはボロボロの服を身に纏い手入れなど全くされていない荒れて伸び続けている髪で目が隠れかけている。彼らは突然開け放たれた入り口に立つレオニードに目を向けていた、しかしその目はどれも小さな子供とは到底見えない程に澱んで暗かった、瞼を開けることすら難しいのかハッキリと目を見開いている者も少ない。中には大きなドアの開く音と銃声にすら反応する体力が無く、足を抱えて俯いて座る者、檻の中で死んでいるのか寝ているのか判断の付かない横たわった者もいた。
レオニードは慎重な足運びで進んでいく。例え檻に入っていようと、子供であろうと関係なく彼は銃口を檻に向けつつ奥を目指す。
聞こえてくるのは子供らの息をする音だけ、全く動かない彼らからは他の音は聞こえなかった。
突然レオニードが通った背後のドアが開かれて彼は振り返った、だがその視線と射線の重なった先には誰もおらず、ドアの先はただ廊下が見えていた。しかしドアの淵から一瞬だけ手が見え、同時に黒い小さな物体が放物線を描いて倉庫の中に入った。それは地面の上に落ちると野球ボールのように転がってレオニードの方向に向かっていく。
彼はドアの淵からその黒い物体――グレネードが部屋に入った瞬間から手近な檻の陰に飛び込んでいた。
耳をつんざく爆音が倉庫内に轟き炎と噴煙が幾つもの檻とその中に居る子供たちを包んだ。爆音が部屋中に反響した次の瞬間から子供の泣き叫ぶ声が全ての檻から上がった。
それでも爆発に直撃させられた檻の中にいた子供らは跡形もなく木端微塵、それか四肢や頭のどれかを吹き飛ばされて静かに転がっている。
レオニードは床から素早く立ち上がって酷くひしゃげた檻の陰から銃と顔を覗かせ、ドアから侵入し始めた男達に向けてフルオートで弾をばばら撒く。5.45mm弾が銃声と共にAKから飛び出して男達の体中を射抜き粉砕した。
すると今度は彼から見て左側のドアが開かれ、M4を構えた男達が雪崩れ込んでくる。
素早く反応したレオニードはフルオートで三、四発ごとに発砲して迎え撃つ、しかし三人を射殺したところで弾が切れてボルトが後退したまま静止。その瞬間に最初の右側にあるドアから踏み込んできた男の撃った5.56mm弾がレオニードの左前腕を抉った。
激痛に顔をしかめたレオニードがAKを取り落とす、落下していくAKの銃口が地面に触れるより先に彼は腰からBerettaM84を引き抜き、被弾した体を逸らせながら撃ち返す。.380ACP弾三発が男の胸の中心に叩きつけられる、胸骨が砕けて弾丸と共に肺と心臓を切り裂く、それでも男が倒れるより先にすかさず四発目が眼球に飛び込んで脳味噌にめり込んだ。M84はそこで弾が切れてスライドが後退したまま静止、予備の弾倉も無いので彼は銃を床に落とす。
レオニードは息を荒くしてなんとか踏み止まってた立ち続ける、そしてAKを拾って前腕筋が損傷して動かしにくくなった左手ではなく、左肘関節でAKのハンドガードを保持して構え直す。
既に倉庫に飛び込んできた男達は全員死亡し、さらに襲ってくる様子も無く倉庫は静寂に包まれた。彼は周囲を見回して急いで移動しようと足を動かす。
しかしその時彼の左脚を引っ張る何かがあった、咄嗟に銃口を向けつつ視線をそちらに移す。
そこにはついさっきまで死体の様に倒れていた血塗れの少年が立ち、彼のズボンの裾を引いていた。傍には別の子供の体が散乱し、衝撃波ではち切れた胃や腸といった内臓から飛び散った手足が檻に引っ掛かっている。
レオニードは足を動かして手を引き剥がす寸前に少年の顔を見た、この状況で恐ろしい程に無表情で無反応、裾を掴むからは震えもまったく伝わってこない。
その少年はついさっきまで傍にいた同じような子供が爆発四散し、自分に彼らの肉片が浴びせられても一切動じていない。
レオニードの目が少年の青い眼に引き寄せられる、無表情で無反応な目、しかしその目は無気力ではなかった。まだ生を諦めていない、例え眼前に死が具現化されていようと一切その生に対する意思を揺るがす物にはなり得ないと語っているかのような目だった。
少年は刹那に彼の視線を受け止めると地面に顔を向け、しゃがみ込んでM84を拾い上げた。そしてレオニードに差し出す。彼にはそれがもう弾が切れたので、つまり銃をただ捨てたという事はもう使わないということが理解できていなかった。
レオニードはそれを受け取り、遠くへ放り投げると銃を目で追っていた少年の手を引き始めた。彼は片手でAKのストックを肩に押し当てながら倉庫を後にし、追撃してくる者たちを片っ端から射殺しながら逃亡を続ける。
彼の左手には黒い髪と透き通るような白い肌に、他人の赤い血と肉を微かに纏った少年の右手が掴まれていた。
レオニードの歩みに遅れないように、そしてこけないように忙しなく両脚を動かして彼に手を引かれるその少年、彼はやがてアレクセイ・サハロフという名をレオニード・サハロフから与えられることとなる。
――現代、ホテル・カストリオティ――
「あなたは間違いを犯した、それかそう仕組まれたのね。どちらにせよあなたは決定的なその間違いの償いをさせられる。レオニード・サハロフの子供は十二年前に彼の自宅のバスルームで殺されてる、熱傷性ショック死でね」
「だが俺の親父は……」
「実際彼にとってあなたの父親を殺すことなんて難しくも無いでしょうけれど、彼はそんなこと実行しようとも考えていなかった。これまで人に騙され続けてたあなたは当然私の言葉を疑うでしょう、でももうここで私が何を言っても状況は変わらず、つまり嘘をつく理由も無いということぐらいはわかるでしょ?」
ヘレナはペントハウスでの彼との会話を思い出す。
ムハレムが情報を流したせいで家族を惨殺されたレオニード・サハロフが復讐のためにドバイに向かい、彼を怨んでいたNLAの指揮官を殺そうとした。ところが彼は失敗、そこで偶然見つけた人身売買の商品だった子供を連れ帰り、いずれ必ず果たす最後の戦いの武器にしようと育てた――それがアレクセイ。
しかし彼はレオニードの気まぐれともいえる、これまでの育てた時間と連れ帰った意味を無為にする行為でただ生き延びてしまったのだ。復讐を果たすだけではなく情が移ってしまった彼を生かしたいという望みの為に、アレクセイは存在理由を剥奪されて生き残った。
偶然だったがヘレナはそんなアレクセイを組織とラーズヴァリーヌに招き、彼が唯一持っていた技術を彼自身の為に活用させて意味を新たに与えたのだ。
そんな無垢で生まれたてに等しい彼がムハレムへの復讐を狙うことなど考えてもいなかった。
あの時アレクセイはヘレナに感謝していた、それは勿論復讐の機会を与えてくれたからではなく、彼にとって全く新しい経験を彼女が与えてくれたからだ。戦いの経験、人との触れ合いの経験、そして未知の感情を抱く経験――。
まず間違いなく彼は契約の履行しようとするだろう、その時点でムハレムは殺害リストに載っている。
「あなたとあなたの組織は間違いなく彼にとっての敵、絶対にどうあっても何があっても殺す対象になった。あなたのその愚かな認識のせいでね。彼は勿論私との契約を果たす為に全力で向かっていくでしょう、でもここまで一方的に貶められた彼がどうするか……私にはとても気になるわね」
「くそ……ニコライ……」
ムハレムが彼女から視線を外し、ヘレナは上目遣いで不敵な笑みを一人浮かべる。
「ふふ……ニコライね」
誰によって父親が殺されたか未だ不明だが、父と古い友人の死亡で動揺していた彼はニコライに嘘の情報――カルテルに見せかけてアレクセイが復讐のために陰で動き、そして父を殺したという情報に踊らされてしまった。
「だがそんなガキに何ができる? 俺が嘘の情報でヤツを疑ってあんたを攫った。今後の状況の変化にあいつは何も関与できんさ」
彼は自分に言い聞かせるように、実際そうであると信じ込もうと言葉を必死に紡ぐ。
「そうかしら? 私も状況は変えられない、あなたにも変えられないでしょう、それに彼も――アリョーシャもきっと変えられない、彼はもう決まったことを確定させるために実行するだけ」
その時突然ムハレムのポケット内から振動が漏れる、彼は立ち止まり震える両手で慌ててスマートフォンを取り出した。
「アレクセイ・サハロフを取り逃がしました、それに……」
ムハレムは無意識に手の皮膚を爪が裂く程に拳を握り締め、ギシギシと歯軋りしつつスマートフォンを握る。
「――ユリアナ奥様が重症を負われました、今は病院に」
一瞬彼の中の時間が止まる、それからじわりじわりと言葉にできない感情が間欠泉の如く噴出した。
「ぬぁぁぁぁああああああああ! ! !」
彼は大きく振りかぶってスマートフォンを地面に叩きつける、薄い青色をしたタイルの上で跳ねあがって画面が砕け散った。
ムハレムはヘレナに一切視線を向けることも無くドアに向かって走っていく、護衛の部下たちが後を追うがホテルマネージャーが声を掛けた。
「ボス、この女は――」
「絶対に目を離すなッ! こいつには後で話の続きをしてもらう、ホテルの警備には最高レベルの武装をさせておけ」
「りょ、了解しました」
ムハレムとその護衛は部屋を後にし、残ったのはホテルマネージャーとその部下、そして顔色を悪くして冷や汗を垂らしたヘレナだけになった。
――ラーズヴァリーヌ州立病院――
緑の病衣を纏った患者たちが点滴スタンドを引きながら往来する真っ白い廊下、時折手元の資料を読みながら歩く白衣の医者の姿もある。
その廊下を赤いスーツの部下三人を引き連れて急ぎ足で闊歩するムハレムが現れる、彼を知る者も知らぬ者もその怒りと焦りが混ざり合ったオーラを垂れ流す彼にこっそりと目を向ける。彼自身はそんな視線を一切に気にしないまま真っ直ぐに目的の病室に向かっていた。やがてその目的の病室前に辿り着く、ドアの前には引き連れている連中と同じような赤スーツの護衛と医者が立っていた。彼らはムハレムが目の前に来ると何も言わぬままドアを開け、彼を中へ案内する。
中は一人用の大きな病室で車椅子と大きなベッドが一つだけ置かれ、そこには病衣を着て真っ白い毛布で顎の下まで覆われているユリアナが横になっていた。彼女はムハレムの来訪に反応して目を開き、弱々しくゆっくりと彼に笑みを向けた。
ムハレムは部屋に入ってから口を開いた医者の説明に耳を貸さずに彼女の傍まで走り寄って行った。オロオロとどうすれば良いかわからないとった様子で彼女の前で一瞬止まり、そして毛布の上から慎重に抱き締めた。
「大丈夫なのか?」
「大したことないわ、死ぬほどの傷じゃないから……」
「くそ……」
彼はそう呟くと振り返って涙を少しだけ浮かべながら充血した目を医者に向けた。
「肩に酷い刺創と幾つもの打撲、それに頬骨にヒビ、加えて右足首のアキレス腱が完全に断絶されています。歩けるようになるには相当な時間が掛かると思われます」
最近のムハレムならここで医者に怒りをぶつけるところだったが、すでに彼の中では怒りが乾いて消える程に妻の痛々しい姿に悲しみと罪の意識が胸を一杯にさせていた。
「本当にすまない、許してくれ……」
「何言ってるの、これはあなたのせいなんかじゃない。私がヘマをしただけよ」
ムハレムはもう既に薄々悟り始めていた、あのアレクセイ・サハロフという少年が常軌を逸した強さを持っていると。だから今までの厳しい殺しの依頼を達成し、ムハレムの暗殺部隊の殆ど投入しても殺せず、返り討ちにされてしまった。そんな相手にユリアナは正面から挑み、しかも素手で戦って生きて帰ってきたのだ、それは最早奇跡と言っても過言ではなく、もしもの想像が絶え間なく頭に流れてる来る程あの少年との対峙は危険なものだった。
「違うんだ、本当に今回の件は俺のせいなんだ」
ムハレムが涙を零しながらユリアナの胸に顔を擦りつける様にうずめる。ユリアナは彼の頭をやさしく撫でた。
彼にはもうユリアナの優しい目と表情を直視することすら辛くなっていた、本人は言わないだろうし攻めるつもりも無いということぐらいわかる、それでも彼にはここで見る彼女の姿は自分の愚かな罪の結果であるという事が耐えられない程に辛かった。
「クラスニークルーグのヘレナとその部下のガキが俺たちを狙っていたのは嘘だったんだ、俺はそんなものに踊らされて君を危険な目に遭わせてしまった」
顔を上げてすぐそばで涙声で彼は語り、ユリアナは彼の頬を愛おしげに撫でて優しい笑みを浮かべて向き合う。
「そんなことない。彼らは元々危険な存在だった、いつかは結局消さなきゃいけなかったはずよ」
ムハレムは彼女の手を掴んで自分の顔から離させると涙が止まった目をハッキリと開き、覚悟を決めた表情で語る。
「もしもの事があったら子供たちを頼む、こんな酷い状態の君に頼むべきじゃないんだろうけど、お願いしたい。そして、この後始末は俺自身が必ずする」
――クラスニークルーグのオフィスビル内――
クラスニークルーグの幹部のオフィスがある階、そこにエレベーターで訪れると廊下があり。オフィスを目指して廊下の一番大きな両開きのドアを開けるとデスクが整然とスペースの限界まで見苦しくない程に並べられ、そこにはスーツを着た9割が女性で残りが男性で構成されたスタッフ達が座っている。ある者はPCに向かってひたすら機械的にタイピングをし、また別の物はヘッドセットで誰かと無機質な業務の会話をしている。
ドアが開かれてスタッフ達のデスク群を中心で2分する通りを背の高い白人に押されている車椅子が進んでいく。彼らの行く先にあるのはヘレナのオフィス。
スタッフたちはドアが開けられてから車椅子の人物に視線を向けていてた。その人物はアレクセイに撃ち抜かれた足首を街で一番大きな闇医者に治療させてきたニコライだった、そして彼の車椅子を押すのはアフリカから送り込まれた殺し屋のジェイク。
彼らは王の凱旋を思わせる程に堂々と通りを抜け、我が物顔でヘレナのオフィスに入っていった。しかしオフィスのドアを閉める前にニコライは車椅子を180度回転させて自分に視線を寄せるスタッフ達に顔を向けた。
「ヘレナ・マーガレットはイストレフィ・ファミリーの襲撃によって死亡した、よって私ニコライ・ラスコーワがクラスニークルーグの代表を引き継ぐ。また同時期にヨセフ・ポドロフスキーも死亡したので、そのポストはこいつ」
ニコライは親指の先を背後に立つジェイクに向ける。
「ジェイク・アーチャーが座る。詳しい話は後でまた伝えるが、今後ここは新たな体制で業務をこなすことになる。君たちにはより一層の働きを期待している、がんばってくれ」
ニコライはそれだけ言うとオフィスの中に入ってドアを閉めさせた。
そして奥へと自分の手で進んでいきヘレナのデスクに辿り着く、指で椅子を指して暗に指示を出すとジェイクに手を貸してもらいながら椅子に座る。例え自分の力だけで座れなくとも彼は心底満足そうな表情で黒く高級な椅子に深く座って目を瞑る。それから何かを思いついた表情で目を見開き、ヘレナのPCに向かい手慣れた様子で素早くパスワードを打ち込んでログインを成功させる。
一切表情から考えが読めないままだがジェイクの視線がニコライに突き立てられる、彼はそれを得意げな表情で受け止めてPCに向き直る。
「俺はもうあいつの傍で数年働いてきたんだ、パスコードぐらい入手するチャンスは幾らでもあったさ」
ジェイクは何も言わないまま視線を彼から外し、PCの画面に向けた。そこには何かのリストがずらりと並んでおり、ニコライは時折マウスポインタをリスト欄に載せてポップアップした顔写真とプロフィールらしきものを眺める。それはヘレナが管理していたとある人達のリストだった。
「今やお前は何処にも居場所がない、だが今回の件を俺の思うように片付ければお前もこのリストに入れてやれるぞ?」
PCの画面に表示されていたのはクラスニークルーグが管理している殺し屋のリストだった。それは東欧で活動する者たちであり、当然ラーズヴァリーヌ内で仕事をするものも多くリストに含まれていた。しかもこのリストに含まれているのは一人残らず尋常ではない程に優秀な強者ばかり、ギャング団に一人で立ち向かえる者や輝かしい軍歴を背負ったものも少なくない。実力だけで言えばジェイクも登録されていてもおかしくなかった。
「さて、俺達も後始末をこなしさえすれば何もかもが終わり、何もかもが手に入る。イストレフィの連中ももうガタガタ、カルテルも混乱してるだろう。それにサハロフ、あのクソガキを永延に黙らせてやる」
――シエラマドレカルテル本部ビル――
アロンソのオフィス、彼はデスクチェアに深く座って腕を組み、デスクの前に立つ部下三人と対面していた。誰もが暗く険しい顔をして影が差している。
「ボス、どうします?」
「……」
部下はとても落ち着かない様子で体を揺らしている、発言をするにも大げさな身振り手振りを続けている。
「激しい戦闘が始まったせいで本国からロス・ファナティコス部隊を寄越すように言われるなんて……彼ら無しで進める戦いは少し厳しいですよ。しかも今は誰もが敵に回ってこっちも殺し合い続きだ」
アロンソは単に冷静なのか、それとも部下をこれ以上不安にさせない為か表情にも姿勢にも変化はない。
「状況を確認しようじゃないか」
彼の目で落ち着く様に制された部下は一瞬だけ体を強張らせ、大きく息を吐いてから真っ直ぐと姿勢を正した。
「はい、スレイマノフ・ファミリーは我々が殲滅。サルヴェッティ・ファミリーもこの地における幹部を殺害しましたが、残存した本国の方針かラーズヴァリーヌからの撤退を考えているようです。そしてあのクラスニークルーグという組織はイストレフィに襲撃を受けた模様、ヘレナ・マーガレットという幹部は彼らに誘拐されたとのことですが死亡した可能性も高く、現在はニコライと呼ばれる男が引き継いでいる模様。それから当地の最大勢力であるイストレフィ・ファミリーは現在我々カルテルと抗争中、またどういった理由か不明ですが下部組織であったはずのクラスニークルーグを攻撃しています」
「様子見を――」
「その前にムハレムにはさっさと死んでもらう、どんな事態に発展しようがやつが切っ掛けみたいなもんだ。ケツまくって逃げ出される前に落とし前は付けてもらう。部隊を送り込んで首を落としてくる、まずはそれからだ」
「了解」
「だが時間制限があることを忘れるな、早急に始末する必要がある。ムハレムの位置は?」
「追跡してます」
「よし、追跡を続けろ。それに部隊の準備もだ、流石にヤツを殺すとなると全力が必要だ、部隊には最後まで活躍してもらうぞ」
――ダイチェチェロベーク美術館――
地下施設の裏には幾つか宿泊用の部屋が用意されている、大きなシングルの白いベッドが一つ、それにデスクとテーブルなどと高級ホテルと相違ないほどの設備が揃っている。
今は白いベッドの上に黒い銃と弾丸が収められたマガジンが並べられていた。
するとベッドのそばにアレクセイが歩み寄っていって立ち止まった、黒いシャツと黒いネクタイを締めてその上からダークグレーのベストを着る。ボタンを閉めて腰のベルトには拳銃用のホルスターをアレクセイが正面を向いて四時の方向に、また予備マガジンを一本だけ追加で銃とセットで差し込めるコンシールドホルスターは六時の方向に取り付ける。
さらに十時、九時、八時の位置のポーチにグロックのマガジンを差し込み、七時の位置にはライフルのマガジンを差し込んだ。
するとドアのベルが鳴り、アレクセイは素早く鍵だけを開けてベッドの前に戻って準備を再開した。ドアを開けてムッシューは部屋に踏み込んでいき、彼の後ろに立った。
アレクセイはグロック26を取って十三発が込められたマガジンを差し込み、薬室を確認しつつスライドを引いて初弾を送り込むと左手に持ち直して6時のホルスターに収める。
「サハロフ様、これからの行先を聞いても良いでしょうか?」
一切振り返る事も無く銃を手に取って動作の最後の確認をしつつ答える、その徹底した顔と目を合わせないという意思は向き合って何かを悟られる、そしてそれを自分も認識してしまうことを恐れているかのようだった。
「彼らのホテルに向かいます」
彼の口調はとてもハッキリとし、強い意志を滲ませている。どんな自体であろうと、自分がどんなことを考えていようと、この行先だけは決して変わることが無いという決意と確信。
「そうですがか、しかし今はそこにムハレム様は居ないようですよ。ヘレナ様が運び込まれたのは確認しましたが、その後出て行ってます」
「だとしても、行きます」
「それは、仕事ですか?」
「……はい」
アレクセイはグロック34のスライドを引いて初弾を装填した直後、一瞬だけ手を止めて手元のグロックを見つめた。ブラックのフレームとスライド、滑らかな触り心地のスライドと開けられたポートから覗く煌めくブロンズ色のバレル。グロックの握る感触がハッキリと手を通じて伝わるもの、しかしぼんやりと意識を引っ張られてしまっている彼は不意に我に返る。触っていた感触の記憶が無い。確かな物に触れていようとその認識そのものは曖昧であり、脳のシナプスによる一瞬の閃光が織りなしたイメージに過ぎない。
不定形であり、思い出すことも難しく、簡単になくなってしまい、そうすれば二度と戻っても来ない。しかしそんな朧気で脆いものに人生や自分の存在意義まで懸けてしまう者は少なくない、しかもそれは情動的であり、理性を越えて本能の如く意識をだましだましに体を操る。
「……」
「僕がヘレナさんと契約したのは彼女に危害を加えようとしたもの、加えた者を彼女自身が殺されるより先に殺すというモノ。それを果たすだけです」
殺す為に向かう、ならば行く先はホテルではなくムハレムの居る場所、ムッシューはそう言わない。
アレクセイはグロック34をホルスターに押し込み、今度はウルティオを掴み上げる。
「それに必ず戻ってくる」
ウルティオのホロサイトを調整し、各動作も確認する。そして一旦ベッドの上に戻すと今度はナイフを取って刃の動きを確認し、ポケットに仕舞う。
ダークグレーのジャケットを羽織ってからマガジンを装填してベルトにそのままMARLⅣを差し込み、ジャケットの皺を伸ばしてから前ボタンを留めていく。
ジャケットを羽織った彼の後ろ姿は黒かった、陰に馴染み、目の上を滑って印象に残らない。しかし一度彼を認識した者には視界に映る他一切を朧気にしてでもその姿が意識に突き刺さる。彼はそういう存在――知らなければどこにも居ないし、一度知ってしまえばいつもそこに居る、決して逃げられない。
「契約ですか……確かに契約履行は大事ですね。では準備が済み次第お呼びください、ホテルまでお送りしますよ」
そこでアレクセイは振り返ってムッシューに向き直る。
「やっとわかりました、僕をここまで手厚く扱ってくれる理由が……」
一瞬だけ彼は言い淀む。
「さっきの話も本当でしょうけれど、やっぱりあなた達にとって一番大事なのは利益です。僕のこれからの行為が、あなたたちの利益につながる訳ですね」
ムッシューは彼の非難の意志を含んでもいない、ただ理由を理解出来て安堵したという感情を一部含んだその目を静かに受け止める。そして否定も肯定もしないまま、見慣れた営業向けの笑みを浮かべ続けていた。




