Chapter 5-1 Shots Fired
ラーズヴァリーヌの街の中、黒いSUV3台が等間隔に並び、真っ直ぐと目的に向かって走行していた。カーブを曲がる減速時もその隊列は崩れず、車列が一つの流れの様に街の中で動いている。
車列の周りを囲み、後方へと流れていく街。正方形に幾つもの建物が固められたブロックで街は構成され。建物の殆どは似通った4,5階程度、またオレンジ色の屋根瓦。
時折街のブロックには灰色の、多少大きな建物が含まれ。それらは社会主義時代から残る政府の建築物であった。
太陽がやや傾き、仕事を終えた男女は家やレストラン、それかバーなどへと足を向けつつある時間。
SUVの走る道路左右にはぽつぽつと、車が走り抜ける姿が存在する、それは静かでも確かに生きる街の風景だった。無骨で似通った建造物群、そんな風景でも太い道路沿いに植えられた木々は、鮮やかな緑で別の雰囲気を醸し出さんとするよう。
車列に流されていく路肩にはタクシーや他の一般車が、路肩の隙間を埋める勢いで止められていた。
車列は1台たりとも速度に乱れなく、カーブや信号を通過していく。真っ黒いSUVの屋根、そこに建物や木々の暗い姿が次々と映っては後方へと消えた。
すると車列の先頭、その鼻先に一台の車が車線変更してくる。明らかに雰囲気が異なる車列に、全く気が付いていないかのように、その車は前方を堂々と走行していた。
そして前を遮る車と車列は、大きな十字路に差し掛かり、減速して十字路に入り込む――。
その瞬間、車列の中で2台に前後から守られていた同種のSUVが、横から猛烈な勢いで走ってきたレッカー車に衝突された。
ヘッドライト、テールランプのガラス片や千切れ飛んだミラーを撒き散らし、大きくへこみひしゃげたSUVは片輪を浮かべて横転した。その衝撃は強く、先の襲撃に遭って通常のウィンドウガラスから交換された、防弾のガラスが砕けず丸ごとドアから外れてしまう。
歪んだボンネットは衝撃で小さく開いてしまい、車は道路上を跳ねながら転がる。
やがて荒れ果てた姿で最後に一回転、サスペンションによってバウンドしながら全てのタイヤを道路上に乗せて静止。
車を吹き飛ばしたレッカー車は、衝突の瞬間にタイヤから煙を上げながら停車し、その背後からは4台のバンやトラックが現れる。赤いスーツを着た、ライフルや拳銃を提げた男達が次々と降りる。
そして護衛していた車が吹き飛ばされ、その直後に停車した2台のSUV。それらも停車すると、すぐに黒いスーツの武装した男達を降ろした。彼らは突如現れたレッカー車を含める5台との間に、自分らのSUVを挟み盾とすると迎撃の体勢を取る。
だがその時、横転後に沈黙していた車から2度の銃声が鳴り響いた――。
――Chapter 5-1:Shots Fired――
ホテル・カストリオティの高層階。その中にあるオフィスで、ムハレムはデスクでじっと黙っていた。
たった一人の側近がドアの傍に立ち、感情など皆無だと言わんばかりの無表情を続ける。
赤い壁、黒いソファやテーブル。金の額縁に囲まれて壁に吊るされた絵画。どんな感性の死んだ者であろうと部屋に入った瞬間、その部屋の主はあらん限りの権力と富を持っているのであろうと考える。
だがその主であるムハレムは、あまりの震えにタバコを吸う事すらできないでいた。
彼はじっと、デスクの上に置かれたスマートフォンを見下ろしている。
それはコカインやヘロイン、アルコールの禁断症状でもない。精神を確実に摩耗させる本物の恐怖に直面したからだ。
骨を冷水に付け込んだかの如く体中は震えが走り、それは如何なる覚悟や思考、思い込みをもってしても抑えられない。恐怖という冷気に晒され、ムハレムは無力に体の芯からただ震え、報告を待ち続けるしかできない状態だった。
今マリファナを包んだタバコを指でつまみだしても、1秒と持っていられず、震える指から落としてしまうだろう。
その時不意にスマートフォンが振動し、鳴り始めた。
ムハレムは鷹が獲物を地上から攫うかの如く、一瞬の速さで掴んで耳に押し当てた。
『始まりました』
聞こえてきたその一言で十分だった。
ムハレムはスマートフォンを再びデスクの上に置き、大きく息を吐きながら俯いた。その待ちに待った知らせが来たところで、震えは止まることが無い。当然だった、今のはクラスニークルーグへの襲撃が開始されたという報告であり、事態は今まさに始まったというだけの事だから。
震えの本当の理由、それはアレクセイ・サハロフという恐怖の根源の生存からだ。ムハレムはその人物が生き続けている限り、頭に最悪の事態をハッキリと、生々しく思い浮かべてしまう。
それは本国で療養していた父を惨殺した彼が、今度は子供たちをもその毒牙に掛け。あの可愛らしい、神の祝福と言うにふさわしい2人を、神の御許に送ってしまうであろうという事……。
それだけは絶対にあってはならない。必ず阻止し、奴の息絶えて舌を垂らした生首を、街中に晒してやるまで安心できないのだ。
そして今その目的を果たす為に動いている部下たち、その中にはユリアナも含まれているのだ。彼女の目的は俺と同じ、子供たちを絶対に守り抜き、如何なる危険な要素をも取り除くこと。
だが彼女は恐らく、俺が危惧しているもう一つのことまで考えが及んでいないのだろう。
「俺はお前のことだって、酷く心配しているんだぞ……」
――――
レッカー車に衝突された直後の車内。そのあまりに激しい衝撃に、乗っていたヘレナ、ニコライ、ヨセフ、そしてアレクセイは苛烈な勢いで揺さぶられていた。
衝突された側の車体は大きく内側にひしゃげ、ヨセフとヘレナに直撃。各人は頭部を窓柄にぶつけて出血し、ヨセフは腕を体と車体に挟まれて複雑骨折を。またヘレナはあまりの衝撃に、自分の歯で口内を切り裂いてしまい、口の端から血を垂らしていた。
酷い波に揺られた船のように左右に跳ねた車は、サスペンションでバウンドしつつ動きを止める。
車外の前後では護衛のSUVが停車し、護衛達が素早く降りる。だがイストレフィの襲撃者たちからの銃撃によって、車から離れられずにいた。
赤いスーツの襲撃者たちはアサルトライフル、サブマシンガン、拳銃など多くの銃器を携えて現れる。集中的で統率された銃撃によって護衛達を抑えており、少しずつその包囲網を狭めようとしていた。
「護衛は一人残らず殺せ! その中でもニコライ・ラスコーワとアレクセイ・サハロフは絶対に逃がすな、この場で必ず始末して2人の首を持って帰れ! だがヘレナ・マーガレットは傷一つ付けずに、ムハレムの元に届けるんだ!」
レッカー車に続いて現れた車から降りた女性、ユリアナ・ジュベリが部下全員に大声のアルバニア語で吠えたて、指示を飛ばした。
アレクセイは衝撃でぼんやり混濁した意識と視界の中、なんとか手で顔を抑えながら頭を持ち上げた。車内には全員の呻き声が聞こえる、だがヘレナの声だけは聞こえない。
激痛の走る頭を動かし、ヘレナの方向を見ようとするアレクセイ。
だがその時――。
「あのクソ野郎……」
そう毒づきながら同じタイミングで目を覚ましたニコライは、右手で腰からMP443を疾くと引き抜いて持ち上げる。そして腕を押さえながら、頭をもたげようとしていた助手席のヨセフ。そのこめかみに銃口を、皮膚に触れる寸前までの距離で突きつけた。
激しい激発音が車内に轟き、傾いていたヨセフの右側頭部が爆発四散、弾丸に連れられて毛髪の生えた頭部片と脳味噌が噴き出す。その刹那、頭部が揺らぎ虚ろな目のヨセフ。うな垂れた頭部の射出孔からは、トロリと赤黒い血液と脳漿がほとばしる。
そしてニコライは硝煙を吐く銃口をよどみなく動かし、俯いているヘレナの頭部に照準を合わせた。
だがその直後目をカッと見開いて覚醒したアレクセイが、左手でニコライの拳銃を握る右手首を掴み、右掌底で手の甲を打ち抜き銃を弾き飛ばす。その瞬間暴発した弾丸がヘレナの傍を抜けていった。さらに左手で後部席に引き込みつつ右の拳で鼻を殴りつけ、右腕をそのまま引かず、上腕を掴んでからさらに引き込む。続いて後部に引き込まれてシートの間に現れたニコライの首に、上半身の捻りの勢いを乗せた左肘鉄を突き刺した。
喉頭隆起、喉仏に肘を打ち込まれニコライは窒息寸前になり、苦悶の表情で大きくむせた。だが甲状軟骨を破壊することは叶わず、致命傷とはならなかった。
そこで険しい顔で歯を食いしばったニコライは左手でレバーを引き、シートを勢いよく押し倒しつつ腕を振り払う。ダッシュボードから落ちていたPP2000のグリップを掴んだ。
アレクセイも同じタイミングで、スリングに吊られたMPXのグリップを掴む。
そして再び、今度は2人同時にドアを開けて飛び出した、イストレフィの襲撃者たちと乗っていた車を隔てる側に。
ニコライは開けられた後部ドアの前で素早く立ち上がり、後部座席に視線とPP2000の銃口を向けるが、そこに彼は居ない。
ハッとした表情で、窓ガラスが抜けたドアの裏を覗こうと、PP2000と共に下を覗き込む――。
甲高い破裂音が数度、一瞬の間に弾丸と共に銃口から吐き出された。
9mm弾は真っ先にPP2000のバレルに命中して引き裂き、後に続いた弾丸も銃をめちゃくちゃに粉砕した。だがニコライは初弾を受けた時点で反射的に左手から離し、手も一緒に破壊されることは奇跡的に免れる。
ニコライとの間を隔てる後部ドアの下で、仰向けにMPXを構えていたアレクセイ。ニコライの銃を破壊したとわかると、素早く膝をついて立ち上がろうとした。
だがニコライがドアを勢いよく蹴りつけ、彼はドアに打ち付けられて思い切り吹き飛ぶ。
アレクセイは疾く立ち上がり、MPXの銃口を持ち上げつつニコライに向き直った。
だが銃口がニコライに向けられる寸前に、左手でガッチリと上からバレルを掴まれてしまう。眼前にまで一瞬で距離を詰めていたニコライは、MPXの動きを制し、2人の視線がぶつかった。
そこでニコライが不意に掴んだバレルを引上げ、MPXの排莢口と向き合う形で銃口を上に向けさせた。
その突然の動きにアレクセイが体勢をやや崩す。そしてニコライは伸ばした右手でMPXのマガジンを掴んで引き抜いた、さらにその細身なマガジンを握りしめた、堅牢な拳による右フックで彼の顔面を打つ。
アレクセイがいくら力を込め、歯を食いしばろうとその勢いや衝撃があまりに激しく。殴られた頭部を振り、上体を仰け反らせてしまう。
それでも意識を喪失することだけは耐え抜き、唇から血を流しながらも歯を食いしばり、青い瞳を鋭利に覗かせる厳しい目つきで向き直る。
突きつけるのはその眼差しだけでなく。引き抜いたマガジンを投げ捨てるニコライの顔面目掛けて、MPXの銃口を敏捷に突き出した、その銃口には三枚のカミソリじみた突起からなる、フラッシュハイダーが装着されている。
しかしニコライは突きを、右手刀の弧を描く動きで逸らし掴む。さらに左肘による打ち上げるような肘打ちで右手を弾き、アレクセイの右手をグリップから剥がした。
ニコライはバレルから手を離した右腕による、刈り取る様な肘打ちを彼の顔面目掛けて放つ。
アレクセイはそれを両腕でガードする。そこで間髪入れずニコライの右膝蹴りが鳩尾目掛けて放たれるが、彼は低姿勢による打ち下ろした肘打ちでそれを受け止め相殺。
続けてニコライが左フックを打つ。彼は姿勢を伸ばして持ち上げた左前腕を、相手の左前腕とぶつけてフックを逸らした。
さらに続けてニコライは左フックを、アレクセイの側頭部目掛けて振るう。しかし彼はそれを予期していたレベルの素早さで屈んで避け、それと同時に踏み込んで脇の近くに頭部を潜らせる。その上体の動きによる捻りを利用し、容赦のないパンチを鳩尾に叩き込む。
ニコライの顔が苦悶の表情に変貌する。だがギラリとした目で彼を見下ろすと、即座にフックを外した右腕による右肘鉄を、彼の頭部狙って突き刺した。
けれどアレクセイは持ち上げた左前腕で再び防ぎ、続けて捻じ込むような右ストレートを顎側面に叩き込んだ。
素早い攻防が繰り広げられ、攻撃と防御の動作一つ一つには一瞬の間も無い。
顎に注ぎ込まれた激甚な衝撃は脳に伝えられ、ニコライは大きく体を揺らして後方に後ずさりする。
その隙にアレクセイはジャケットを翻し、腰のVP9に手を伸ばした――ところが想像以上に素早く持ち直したニコライは、彼がグリップを握る寸前に左手で右手首を掴んでドロウを止めさせた。
お互いが手を引き合い状態になる。そんな中でニコライは2度顔面目掛けてパンチを繰り出し。アレクセイはそれを左腕のガードでなんとか防ぐ。
そこでニコライはボディアッパーを放った。アレクセイは掴まれていた右手の力を一瞬だけ抜いて引かせ、次の瞬間では右腕をニコライの左腕ごと振り、ボディアッパーを腕同士で絡ませるように防いだ。
さらに左手でニコライの左上腕を掴み、また右手で相手の左手を掴んで大きく外側に回して肘関節を極める。ニコライは左腕を完全に極められて、前屈み状態にさせられた。
アレクセイはさらに膝蹴りを左脇に打ち上げ、左チョップを首に叩き込んだ。そして極めた腕を使ってニコライの体を大きく、180度降り振り回して顔を車に打ち付ける。
そこで前腕を掴んでいた左手を離し、肘鉄を肘関節の側面に打ち下ろそうとする――。
しかしニコライは関節の極めが僅かに緩んだ瞬間、腕を曲げつつ体を捻ってアレクセイの足元に潜り込み、膝裏を抉るように殴りつけた。
彼はそのパンチで体勢を崩され、頭部を大きく下げてしまう。そこに躊躇なく捻りを加えた拳が、側頭部に打ち下ろされた。
「ガンッ」という頭骨と中手骨が、薄い皮膚越しにぶつかる鈍い音が鳴る。その衝撃はお互いに波及した、アレクセイはしゃがみ込んで倒れかけるのを何とか耐え、ニコライはその反動を利用して仰け反りながらも立ち上がる。
ニコライは後ずさるも直ぐに前へと歩み出し、アレクセイの顔目掛けてつま先を蹴り上げた。しかししゃがんでいる彼もバネの様に、仰け反っていた上体を前に引き戻して。その勢いを利用して左手の拳を右手で包んで組み上げた、両腕による堅牢な肘鉄を打ち下ろした。それはニコライの蹴り上げた右足首に直撃し、苦しみ溢れる短い呻き声を上げさせた。
その刹那、反動によって2人に距離が生じた。
ニコライは足首の激痛を抑え込み、腰からロシアのKizlyar製Aggressor D2ナイフを抜いた。グリップから刃先までナイフの背は真っ直ぐ、マットな黒い刃はストーンウォッシュ処理によってざらついた模様。
ナイフを持ったニコライが一歩大きく踏み込む、大腿を狙った軽い右から左への横一線のスラッシュ。さらに顔目掛けて反対方向からの横にスラッシュ。
それをアレクセイは軽い身のこなしで、上体と脚を動かして避ける。
2動作を軽く避けられたニコライは、肩の高さでナイフを突き出し。彼の顔に向けて素早くナイフを持った腕を伸ばした――。
ところが今度の動作は避けることなく、逆に刃先に向かってアレクセイは突っ込んでいく。両手でニコライのナイフを握る右手を掴み、そのまま自分の胸に向かって引き寄せた、刃先が彼のジャケットに押し付けられた瞬間――ニコライの右手を掴んだ両手を捻る。
ナイフを持った右手首は彼の胸に押し付けられたまま、手首の関節を極められてしまう。その影響でニコライは肘を曲げて体勢を崩し、アレクセイの眼前に前のめりで突っ込んだ。
それを真っ向から受け止める様に、アレクセイの突き出した左の拳がニコライの右頬を打つ。
その時彼は怯むニコライの顔を捉えていたが、彼はナイフを右から左に手品の様な鮮やかさで持ち替えていた。
そして左順手に構えたナイフを勢いよく斜めに、顔目掛けて振り下ろす。アレクセイは間一髪両手を離して、身を引くことによって回避。
続けて振り下ろしたナイフを左順手のまま、腹に目掛けて突き出そうとする。しかしアレクセイは突き出す寸前の左手首を、正面から降ろした左手刀で抑えて阻止。すると次の瞬間にはナイフが右手に、逆手で持ち替えられている。
フックに似た右逆手ナイフの横一線スラッシュが放たれる。それを上に向けた右手刀の前腕で受け止めた、押さえたニコライの腕を下から上とU字を描く様に大きく逸らす。
ニコライは右腕を逸らされ、左側の頭部程の位置にナイフが移動、。すると今度は左順手に持ち替え、刃先を首に向かって突き下ろそうとする。
アレクセイはその腕が降ろされる直前、左手で相手の左手首を掴んで封じる。
そこでニコライはナイフを持った左手を大きく引きながら、内側に捻り掴んできた彼の左手首を極め始める。
彼の顔が痛みに歪んだ瞬間、掴んでいたナイフを右に逆手で持ち替える。右拳を持ち上げる様に、下方に向けられた刃先を縦に切り上げようとする。
アレクセイの右手がニコライの右手を、下方へ押さえつけるように掴む。
一瞬の間だけ、持ち上げようとするニコライの右腕、下に押さえつけようとするアレクセイの右腕による力比べが生じた。
ニコライはわざと咄嗟に力を抜き彼の体勢を崩させる。それから左順手に持ち替え、首筋の頸動脈を引き裂こうと腕を振った。
首に刃が触れる寸前。ニコライの左腕を左手刀の前腕で受け止め、またも大きく下方U字に回していく。だが今度は頸椎に向かって鋭い、断頭するようなチョップを同時に打ち込む。
ニコライが小さく苦痛に呻く、それでも素早く顔目掛けて左肘を突き出し、同時にナイフを右逆手に持ち替える。続けて肘打ちの為に曲げていた左腕を伸ばしつつ、顔に裏拳を放ち、同じタイミングで逆手ナイフの横一線を腹に振るう。
アレクセイは肘打ちを左手で逸らし。続けて放たれた裏拳を上に向けた右前腕で止め、逆手ナイフのスラッシュも降ろした左前腕で押しとどめた。大きく左腕でナイフの刃先を今までとは上下逆のU字に回す。
ニコライは上方で回された腕から左手に順手でナイフを持ち替えた。
だがそれを突き立てる前に、アレクセイはその左手首を右手で掴む、それから左拳槌を相手の左膝裏付近のふくらはぎに振り下ろし、足から体勢を崩させる。
続けて左手で左二の腕を掴み。左手首を取った右手と同時に持ち上げるような、連動した動きで肩と肘の関節を極めて、今度は引きずり下ろす。
ニコライに膝を付かせかけるような姿勢に追い込み。アレクセイは右手でニコライの左手が掴むナイフを、鎖骨辺りに突き立てて深く押し込んだ。
「パキリ」という鎖骨が裂けて割れる音が漏れ、刺傷部からは鮮血が漏れ出した。
ニコライが吠えるような叫び声を上げる、血を流しながらもさらに吠え続けて、アレクセイに視線を険しい顔で定める。
ナイフを鎖骨に突き立てられたまま、彼は左腕を掴むアレクセイの両手を振り払い、斜め後ろに立つ彼の腹に固い左拳槌を叩き込んだ。
重い衝撃が内蔵に流し込まれ、反射的に吐き気を覚えたと同時に、肺から空気が押し出される。
それからニコライは彼の腰と右二の腕を掴み、大きく腰を捻って浮腰を放つ。放り投げられたアレクセイ、開いたままだったSUVの運転席ドアの内側に叩き付けられ、頭から地面に落下した。
しかし崩れ落ちた彼はその瞬間にMPXのグリップを掴み、仰向けに銃を腹の上で構えてニコライに向けた。
ニコライは咄嗟に防弾仕様の後部ドアを開き盾にする。しかしアレクセイは照準を大きく下げ、ドアと地面の隙間から右足首を打ち抜いた。
ボコンと黒い射入孔が足首に穿たれ、射出孔から噴出した血液が地面を扇状に赤く染める。ニコライは叫び声を上げ、倒れ込んでドアの背後から転げ出した。
低い激発音で咆哮を放ったMPXは、マガジンを抜かれていたので薬室の一発を発射させると、ボルトは後退したまま静止。
立ち上がりながらMPXのハンドガードを手で添えて脇に退かし、VP9を引き抜いてニコライに照準を向ける。
だがそのフロント、リアサイトの向こうに映る、ニコライの顔には痛みによる脂汗と醜く頬を歪めた笑みが浮かんでいた。その視線が自分の背後に向かっていると気が付く、彼は素早く銃口と共に振り返った――その瞬間、激しい衝撃が彼の胴体前面に襲い掛かる。
SUVのすぐ隣でアレクセイとニコライが攻防の末、その決着をつけた時。ヘレナは意識を取り戻し、ゆっくりと目を開いた。俯いていた彼女の視界に入ったのは、ヴァイオレット色の石。ゴールドのペンダントに埋め込まれたその石は、自分の頭部から垂れる血をペットリと受け止め、車による追突の衝撃で入ったヒビから吸い込んでいた。
そしてゆっくりとヘレナは顔を上げるが――。
銃撃戦により人も車も姿を消した交差点、その中目掛けて猛然と疾駆してきた大型のゴミ収集車が、横転して大破したSUVの顔面に正面衝突した。
潰れた顔のSUVはビリヤードのボールの様に弾き飛ばされ、開かれていた運転席のドアはアレクセイをはたき飛ばした。車は勢いよく追突されたが車体の重さ故、街灯にぶつかるとそれを大きく傾けて停車した。
胴体の前面で突っ込んできたドアを受け止め、吹き飛んだアレクセイは咄嗟に両手で頭部を庇いつつ道路を転がる。
背中を強く打ち、体中も打撲。また顔や手も切り傷が無数に刻まれ、アレクセイは額から垂れる血を無視しながら、ふらふらと立ち上がろうとした。朦朧とする意識に、霞みがかった目で突然の乱入車を見定めようとする。
真っ先に見えるのは黒い靄――先程まで乗っていたが、数メートル離れてしまったSUV。その奥に見えるのは大きなゴミ収集車、キャブと荷台はくすんだオレンジ色。だがキャブのドアや前面に鋼板が、ボルトか溶接によって強引に装甲が施され。荷台にはタイヤを隠すスカートのような装甲までもが、地面スレスレにタイヤを保護していた。
それから降りようとする男の姿を見定めると。アレクセイはどこを痛めているかもわからなくなった、ボロボロの脚を強引に動かし駆け出す。そしてSUVより近くにあった、四角錐台の上に軍服の男が立つ、大きな記念碑の陰に飛び込んだ。
運転席から降りてきたのは以前戦った男――ジェイク・アーチャーであった。
モスグリーンのジャケットを羽織り、その下には防弾チョッキが見て取れる。そして手にはスリングによって吊るされたロシア製LMGのPKP "ペチェネグ"。
機関部から舌のように垂れる弾帯は、大きなボックスマガジンまで伸び。バイポッドは外されていた。車から降りた彼は右手でグリップを握り、バレルに沿って付けられた簡易なハンドルを左手で掴んで腰の位置に構えた。
石造りの記念碑に背中を預けたアレクセイは確認するまでも無く、次の瞬間に何が起きるか予測して身をひそめる。
銃声の金切り声が雷のように、記念碑の広場や十字路に轟き、大きな7.62×54mmRのくすんだ薬莢が零れだす。空になった弾帯は下へと延びていった。
銃口からは9mm弾の約7倍に匹敵する運動エネルギーを抱えた弾丸が、毎分600発でマズルフラッシュを見せぬままガスと共に噴出。記念碑はその弾丸を浴びせされ、削岩機に襲われたかの如く無数の撃砕痕を穿たれた。飛び散る石片と粉塵。
陰に隠れるアレクセイの足元にも、記念碑の肉片は飛び散り顔を出すことも叶わない。
ジェイクは車から降りた直後、ゴミ収集車の前輪近くから歩きながらアレクセイ目掛けて制圧射撃を行う。そこで不意に向きを変え、突然の乱入に困惑していたイストレフィの襲撃者たちにも躊躇なく掃射する。
襲撃者たちの車はせいぜい5.56mm弾程度を想定した防弾能力しかなく、エンジン部以外をPKPは射抜いては撃ち砕いた。襲撃者たちの数名はその車か弾丸の破片に、または弾丸そのものを直に身に受け、吹き飛んで行った。
一通り弾丸の嵐を巻き起こし、襲撃者たちが混乱しながら車の陰に隠れると、今度は90度銃口の向きを変えた。その先にはSUVを盾に襲撃者たちに応戦していた、クラスニークルーグの護衛隊員たちがいた。
眉を顰めることもなく無表情のまま、ジェイクはPKPを持ち上げてストックを肩に押し当てた。そしてごみ収集車の後部の陰から5,6発ごとに発砲してく。
隊員たちは体に最初の弾丸を受け、倒れ込む前にさらに数発の弾丸で撃ち抜かれる。背中や脇、胸から骨片とそれにこべりつく肉片、ジュースに見間違える量の血潮をぶちまけていった。
それら彼らの一部と体は地面、または車内のシートや車体に降り注いでいく。
隊員達をミンチに変え、イストレフィの襲撃者とアレクセイ交互に制圧射撃を加えながら、ジェイクは悠々と地面に倒れたニコライに近づいて行った。
「くそ、さっさと俺を助けろ! あのクソガキのせいで俺は歩けねぇんだぞ! !」
ジェイクは言葉を返すことも、表情で応答することもなくニコライに肩を貸して立たせ、振り返りながら腰だめの構えでPKPを撃ち続ける。
2人はゴミ収集車の傍にまで寄るが、ジェイクはニコライを連れたまま車の後部まで移動する。
「今すぐここから俺を連れ出しやがれ!」
そうニコライが言うと、ジェイクは黙れと言わんばかりに素早く彼の襟首を掴み。開いたままだった車の大きな口――圧縮板が止められたごみ搬入口に放り込み、ボタンを押して閉じた。バリケードじみた装甲で覆われたトラックは、イストレフィの襲撃者たちからライフルや拳銃で攻撃を加えられるも。鋼板はあまりに分厚く、一発も貫通せずタイヤすら被弾しない。
ニコライをトラックに積み込んだジェイクは、アレクセイに向けてPKPを発砲しながら運転席に乗り込んだ。そしてPKPをドアの窓から突き出し。窓枠にバレルを乗せて狙うこともせず、イストレフィの襲撃者たち方向に発砲し続けて、同時にトラックを発進させる。
アレクセイはその隙に飛び出し、ヘレナの元に走り寄ろうと身構えた。だがいざ動こうと遮蔽物の陰から身を乗り出した瞬間、運転席から襲撃者たちの居る左方向と、前方を見ていたジェイクの目がアレクセイに向いた。
同時に彼に向けられたのは、キンバー製1911クローンのGrand RaptorⅡの銃口だった、咄嗟にアレクセイは身を引く。
ジェイクは巧みに窓縁に乗せられたPKPと、1911を交互に撃って襲撃者たちとアレクセイ双方を抑え込み、トラックを発進させる。
アレクセイは陰からなんとかトラックの方向を覗き込む。イストレフィの襲撃者とアレクセイを隔てていたトラックが動き出し、彼らの姿と車が視界に入り始めた。
するとその中で堂々と立ち、指揮官であることを隠そうともしないユリアナの狙いを定めた獣の眼光と視線が交わった。
「今はあの男は放っておけ。二手に分かれ、相互に援護しつつヘレナ・マーガレットの身柄を確保しろ」
忠実な彼女の部下たちはその場で素早く二つの部隊に分かれ、片方がアレクセイに銃撃を加えつつ、片方の部隊は前進し始めた。
二つの部隊による包囲網が素早く広がり、また距離を詰めてくるとあっという間にヘレナの乗るSUVに到達し、やけに慎重な手つきで車から運び出してった。
「お前らは先に帰還し、この女をカストリオティに連れていけ。そして――」
再びアレクセイとユリアナの目が合う。
「アレクセイ・サハロフを殺せ」
その命令が発せられ、部隊が銃撃を始めた。そして片方の部隊が記念碑を回り込むように進み始める。
アレクセイは素早く記念碑の裏で動き、片膝を付いた姿勢で頭部と腕の最低面積を晒して、近づき始めた男達にVP9を発砲した。頭部を狙う余裕もなく、ただ一発だけでも体のどこかを穿ち、怯み倒れて数を減らすことを狙う。
2,3発を数回、ほぼ連続に聞こえる間で連射し、距離を詰めようとする男達に反応されるより先に弾丸で襲い、一人残らず体のどこかを血で染めさせる。
やがて包囲網の崩壊を恐れ、銃撃を加えていた人間数名が進路を変えて移動し始める。
このままでは押し切られる、アレクセイはそう考えて飛び出す。迅速に大きな記念碑を巧みに盾としたまま移動し、隙の無いリズムで男達に銃撃を浴びせた。また撃ち続けるように見せかけたフェイントも挟んでいく。
記念碑を中心に広がる広場、またその周囲を囲む4,5階建ての石造りの建物群、それらの間に走る道に飛び込んだ。銃撃が一瞬前まで彼のいた場所を襲い、その延長線上にある壁やドア、柱をボロボロに損壊させる。
幸い一発も被弾しなかったものの、トラックに撥ねられたことで全身が激しく痛み、飛び込んだ勢いで建物の壁にぶつかる。だが倒れることだけは踏みとどまり、VP9を固く握りしめ、広場に続く背後の道の角目掛けて撃ちこみつつ、先を目指して走り出した。
ユリアナは複雑な街の中に姿を隠そうするアレクセイの背中を見た。そして車に乗せられてムハレムの待つ、ホテル・カストリオティにヘレナが送られるのも見送る。
「ここら一帯の地図を用意しろ。それと他の動ける者を集めて二つの部隊に分かれ、片方は私と先回りし、他の連中は真っ直ぐ追え。適時報告を忘れるな、絶対に逃がすなよ」




