Chapter 2-2 Bullet Rain
――ホテル・カストリオティ――
ラーズヴァリーヌ州の中心都市で最も高級かつ人気のホテル、DCやニューヨークにあるような風景を鮮明に反射するガラスの窓が無数に張り付き、ベガスのホテル・フラミンゴを彷彿とさせる甘ったるくも重く黒々しい雰囲気を漂わせている。
ホテル・カストリオティは当該国で80年代末に共産政権が崩壊するまで、政府機関の国家保安部が頻繁にカバー組織を通して取引の場として利用していた。その取引相手は日本赤軍、PLO、IRA、ETAなど世界中の組織に渡っていた。
共産政権の支配が頑強だった頃、この国では単なる犯罪組織も個人密輸業者も、中東やアジアとヨーロッパを繋ぐこの東欧の一国を密輸ルートとして勝手に利用することはできず、完全に政府及び国家保安部が管理を行っていた。もしそれらの流れの一部でも統制から外れれば即座に処分され品は回収された。
政権が変わるとホテルも民間のモノとなる、だがその経営者がアルバニア人のイストレフィ・ファミリーに変わった所でホテルの利用者は変わらず、しいて言うならカジノやクラブが大きく拡充されてホテルの名前がアルバニア人の好みになったぐらいしか変化は無かった。
そんな長く由緒正しい歴史を持ったホテルの前に黒い三台の車が止まり8人の人間が建物に入っていく。
40階に止まったエレベーターの扉が開き、7人分の革靴と1人分のヒールが絨毯の様な床を踏んで静かな人気の無い通路を進んでいく。その中にアレクセイ・サハロフも同行していた――。
僕は並んで歩いているヘレナさんとヨセフさんの後ろについていた、服装は例にも漏れず黒いスーツだが今回の装備は少し違っていた。
チラリと視線を下げると右手が握り、左手は撫でる様に添えているモノを見る――シグザウアー製MPX――黒いボディの大部分はカービン銃の様なデザインで全長は25.75インチ、ハンドガードにはパーツを装着する丸い穴、そして熱を放出する斜めの穴が等間隔に開けられている。
8インチバレルのA2コンペンセイターをフランクリン・アーミー製Triumvirという、3つの大きな切れ込みが入ったシンプルなデザインのフラッシュハイダーに交換し。それに元のスライド式ストックも折り畳み式スケルトンストックに換装。ちなみにこれは民間モデルではないからフルオート機能もちゃんとある。
弾薬は9mmの115グレインFMJ。マガジンは30発装填可能で予備を二本腰のマガジンクリップに差し込んである。
アンダーレイルにフォアグリップ、アッパーにはボルテックス・オプティクス製VENOM。薄いオレンジ色の膜が張ったような外見をしたレッドドットサイトだ。
この銃をコネクターでストックの付け根部分からスリングを繋げ一点式で携行している。
もちろん腰の4時方向にあたる部分にはVP9を入れたヒップホルスターがある。そして反対側の腰で11時の位置にあるマガジンポーチには予備マガジンがMPXと同じように2本、9mmの115グレインJHPが30発分だ。
左耳に着けたインカムから車に残った護衛が地下の駐車場に入ったという報告が来た。ヘレナさんの護衛を担当する人間は10人、その内4人が車に残っている。問題が発生した場合に備えてのことだ。
「大丈夫、今日は形式的な立ち合いだけだから」
左耳の無線に意識を傾けていた中、右耳に彼女が小さく囁いた。どうにも美術館以来、僕は彼女に遊ばれているみたいだった。
8人の集団が進んでいくと扉の前、演説台のようなものの裏に立ったスタッフが現れた。レストランの受付なのだろう。
スタッフは彼女の顔を見るやな否や媚びへつらった笑顔を浮かべた。
「ヘレナ・モグリッジ様ですね。お待ちしておりました、もうすでに他の方々もお越しになっておられますよ」
男は穏やかなながらも口早に言うと大きな扉を押し開き僕たちを中へ促す、そこからは先程の閑散とした通路と大違いな空気だった。整った身だしなみでサングラスを着けた大きな男達が短い通路に2人立ち、そこを抜けていくと100人ほどが入る様な大きな空間が現れた。
左右対称に開いた長方形の部屋に四角の白いテーブルクロスを掛けたテーブルが幾つも並んでいるが、今は中央を避ける様に移動させられている。避けられた空間には一番大きな長方形のテーブルがあり。その上には磨き上げられた銀食器に真っ白い皿、そしてその上に盛られた色鮮やかな料理がそれ自体が美術品の様に整然と並んでいた。
だがそのレストランの美しい食器と料理が醸し出す気高いオーラは客たちの放つ異様なオーラで塗りつぶされていた。
中央の大きなテーブルを囲む様に距離を取って護衛達が12人たたずむ。もちろん彼らは各々銃器を携えている、この場では当然のドレスコードだ。
テーブルの一番端で主催の席には赤いシャツの上からジャケットを羽織った、アルバニアマフィア現ボスであるムハレム・イストレフィが気怠そうな様子で椅子に身を預けている。その態度は叱られているが全く話に関心が無い子供の様でもあった。
そのすぐ斜め後ろには、ユリアナ・ジュベリがやや露出の多い赤いドレスと、浅黒い肌で暴力的な形態を持った筋肉を間接的に晒しながら彼に付き添っている。
そして彼の一番近くの席にはイタリアマフィア、サルヴェッティ・ファミリーのボス。黒い髪を艶のあるオールバックで固め、シミの無い真っ白なスーツをまとったクレメンテ・デルヴェッキオが座っている。彼は目を細め、僅かににやけながらグラスの中の赤ワインを揺らし眺めている。完全に重い空気を意に介していない様子だ。
そしてムハレムの離れた真正面にあたる席には男が一人。頭頂部が禿げ上がり左右側頭部には殆ど白色の髪を垂らし、顎には少しうねった煙のような白い髭を多く蓄、穏やかな表情を浮かべた老人が座っていた。柔らかな表情だが顔に刻まれた無数の皺が言いようのない貫禄を滲みだしている。
彼は何も食事に手をつけていない様子で静かにそこにいた。
だがこの静かでタールのような黒く重々しい空気を全く気に掛けない人物がもう一人いた。
顔を上げずにガチャガチャという耳障りな金属音、それに不快感を与える湿っぽい咀嚼音を立てながら高級料理をまるで一か月ぶりの食事の如く貪っている男。エゴール・ラヴェレンチェヴィチ・ラスプーチン。カップラーメンのような茶色い癖毛、頬や口の周りには短い髭が無様に残る。銀縁の大きなレンズの眼鏡が神経質な印象を受けさせた。彼は静かな老人の近くでクレメンテとは反対側に座っていた。
ヘレナさんがテーブルへと近づいていくと真っ先にクレメンテが反応し、彼女を見つめ眉を上げた。
ムハレムもチラッと彼女を見るが、直ぐに視線をテーブル方向に向ける。だが何かを見ている様子はない。
エゴールは手を止め、睨むように彼女の全身を眺める。老人は穏やかな表情のまま軽い会釈をした。
クレメンテがグラスを置き、芝居じみた声と身振りで会合を始める。
「おやおや、やっと全員そろいましたね。お久しぶりですミス・モグリッジ、相変わらず美しい」
「あら、デルヴェッキオ久しぶりね。それで話はもう進んでいるのかしら?」
彼女はクレメンテの口説くような発言を反応するまでもないと言わんばかりにあっさり流す。
「いいや、まだだ。一応あんたが来るまで何も進んじゃいない」
ムハレムが目も向けず、不満そうに語った。
不意に隣を歩いていたニコライが後ろの護衛四人に目配せすると、彼らもまた離れていきテーブルを囲む危険な壁となって待機した。
ニコライは元々、ラーズヴァリーヌ州のレスリングジムに居たが。スリルが足りない、自分の暴力衝動を発散できない世界に飽き飽きし犯罪の世界に飛び込んだらしい。そして彼の恐れ知らずの性格が功を奏し殺し屋として成り上がることになった、それからやがて彼はヘレナさんの目に留まることになり、彼女の護衛を指揮する立場となっていた。
部分的に茶色くも見える麻のような金髪を乱雑に纏めているが。彼の顔の前には髪の束が一つ垂れている。時折振り子のように髪が眼前を横切るが、その彼の眼は鋭くまるで獲物を探すハイエナ。何もかもに敵対心を抱いているようだ。まさに護衛らしい人相。
彼もスーツ姿だが。ネクタイも締めず、白いシャツで開けた襟に皺が幾つか見て取れるジャケット。
手にはKBP社製PP2000が収まっていた。44連マガジンがグリップ部から長く突き出し。アッパーレイルにはロシア製サイトEKP―8―02が乗せられているようだ。銃の後部にはストックは無く、その代わりにスリングが伸びて彼の体に繋ぎ留められている。
ヘレナさんはクレメンテの隣に、ヨセフさんは彼女の隣に黙って座る。僕は彼女の右斜め後ろに立ち、ニコライは僕の隣にいた。
そこでエゴールがクレテメンテに視線を送り、話を聞く態度を示した。
ふと僕は視線をムハレムと呼ばれるボスの方向へ向けると、彼は僕の事を見つめていた。まるでお気に入りの絵画に染みらしき違和感を見つけたような、不快感が滲みだす目だ。
彼はその目をこちらに向けたままユリアナの耳元に何かを囁いている。彼女も僕のほうをチラリと覗き、微かに頷いて彼の背後に下がった。そして彼はまた視線を元の位置に戻す。
「それでは今宵の会合を始めましょう。我々は多忙である身。無駄な時間を過ごすのは好ましくない」
クレメンテは大げさな身振りを交えて会合の始まりを宣言する。
まるでヘレナさんを待っていたこと自体が無いような口ぶりだ。
「会合の議題は一つ。今現在ここラーズヴァリーヌは抗争状態にあり。その中で我々、連合シンジゲートとスレイマノフ・ファミリーの講和を進めること――」
今ラーズヴァリーヌでは大規模な抗争が巻き起こっている。その渦中で多くの市民や組織の人間が死んでいるのだ。
その対立勢力は3つ、正確に言えば4つでもある。
アルバニア人のイストレフィ・ファミリーとイタリア人のサルヴェッティ・ファミリーからなる連合シンジゲート。
そしてチェチェン人のスレイマノフ・ファミリー、メキシコ人のシエラ・マドレ・カルテル。
サルヴェッティ・ファミリーは元々イタリア南部のプッリャ州を中心に活動する聖冠連合系列の組織。彼らはその場所を利用し、ユーゴ紛争時にユーゴ各地からの密入国者受け入れ、武器、麻薬、たばこ、窃盗車等をイストレフィ・ファミリーと多く取引をし多額の利益を上げ彼らとの固い繋がり持っていた。
前抗争が終結直後。ムハレムの父親、ミュルテザは彼らに空白の地域を与え、疲弊したイストレフィ・ファミリーの援護をさせようとラーズヴァリーヌに招き入れたのだ。彼らの目的はアルバニア人への支援。それ以上の行為は許されず、連れてきた戦力も大きくなく当地においてはアルバニア人の傘下であることは変わらない。
僕やヘレナさん、ヨセフさん達のいるクラスニー・クルーグは連合シンジゲート系列の組織。彼らの資金がこの組織の運営に使われている。
抗争の理由は支配圏の奪い合い。今も昔も変わらない単純なもの。
だが、その舞台となる支配地はラーズヴァリーヌ州の70%以上という広大なものであった。
かつてそこの支配者はロシア・マフィアのベリエ・サユース――彼らは一企業と主張していたがこの国ではその判断は曖昧だし。実際、彼らが行う事業拡大のやり口はイメージとしてのマフィアだった――と呼ばれる組織。
ベリエ・サユースは政変からから解雇された諜報員や国家保安部の人間を多く囲い、彼らの使っていた密輸ルートやネットワークを丸ごと飲み込んでいた。そして彼らはユーゴスラヴィア紛争でアルバニアマフィアと組み更なる莫大な利益を上げた。
しかし、彼らは紛争終結後ラーズヴァリーヌで甚大な被害を生んだ抗争を引き起こし、やがて敗者として姿を消したのだった。
ところが彼らはその支配地の継承権を曖昧にしていった為にその奪い合いが起きてしまったのだ。
共産政権時代から裏社会で活動していた古参のスレイマノフ・ファミリーは自分達の元のシマだと主張し。突如メキシコから乗り込んできたカルテルは長い間取引相手であったロシア・マフィアから引き継ぐ権利を得たと述べている。
彼らの頑固な姿勢から抗争は沈静化の兆しが全く見えていないのだ。
俄然、老人が静かに立ち上がった。
「今回、我々の申し出の為に集まっていただきとても光栄です。私の名はアフメド・ハンビエフ。お初にお目にかかる方々は以後お見知りおきを」
とても恭しく、そして礼儀正しく。アフメドという名の老人は挨拶をした。
突き出した腹を持っているが、若いころはガッシリとした体格であったことが予想できるシルエットをしている。
その外見の印象は優しいおじいさんといったところ、とてもじゃないけどこの場では違和感を感じる。
そして彼以外は自己紹介などしない、そんな必要は無いのだった。
「かのロシア・マフィアの跡地。その支配圏の内4割を抗争が終結した暁には保証していただきたい。そうすれば我々はあなた方と手を取り合うでしょう」
彼は単刀直入にそう穏健に発言した。
エゴールはニヤニヤと頬を釣り上げながらも黙って連合シンジゲートの幹部たちの顔を覗き込んでいる。
クレメンテが嗤笑するような表情で腕を組み、静かにアフメドを見つめる。
「4割、4割だと? 我々が獲得した支配領域の4割を要求するとは――」
そこでアフメドはクレメンテが言い切る前に発言した。彼は礼儀正しくするがどんな立場でも押し負けないという意思が感じられる。
「元々は我々の支配地域だったのを彼らが奪った。そのうちの4割だけを返還していただければ良いのですよ? 現在私たちの敵である連中。シエラ・マドレ・カルテルは途方もない暴力性と戦力を誇る。たとえあなた達イタリアの友人をも引き込んでいようと、以前の抗争から途切れることもなく戦い続けているあなたたちは一人でも敵を減らし、一人でも味方を増やしたいと考えているはずです」
シエラ・マドレ・カルテルはメキシコ南端部のチアパスを発祥の地とする麻薬カルテルであり、現在はロス・セタス傘下もしくは彼らの取引相手だとされている。80年代は中南米からの麻薬を、90年代は武器を――主にエルサルバドル、グアテマラ、ニカラグア――メキシコに持ち込む時にその窓口として莫大な利益を上げ。サパティスタ民族革命軍や革命人民軍へ武器を売買して、彼らの行動を容認する対価として南部の秘密麻薬工場を管理させていた。その勢力は依然メキシコ内でも強力で、シナロア・カルテルと利権を巡り争いながらも国外での活動を拡大させようとしている。
「一体いつの話をしているのですかね?我々、いえ。彼らイストレフィ・ファミリーがあのロシア人達を追い出したのですよ。その時あなたたちは何をしていたというのですか?」
クレメンテが小馬鹿にしたような声色で言う。
そこで黙って聞いていたエゴールが彼をナイフで指し、口から唾や咀嚼した物を飛び散らせながら怒鳴る。
「ガタガタうるせえな、外来種のゴキブリどもが。突然あのくそったれイワンに引っ付いて来た虫とその寄生虫がここを好きにできると思うんじゃ――」
「おい」
突然押し黙って話を聞いていたムハレムが一言発し、室内の空気を変えた。それは一瞬で室温が下がったと錯覚する程だった。
「この会合は俺の親父殿と、そこのアフメド爺さんが親しい仲だったから実現した奇跡みたいなものだ。あんたはそれをぶち壊したいのか?」
彼は姿勢を一切変えないまま低く落ち着いた声で警告し。その言葉を言い切るとエゴールに対して怒りの感情も感じられない、底抜けの奈落の様な目を向けた。
ムハレムの父親ミュルテザ・イストレフィはイストレフィ・ファミリーの大ボスであり、かつてのラーズヴァリーヌ支配者でもあった。だが今では抗争の疲れや高齢化から母国に戻り、療養しながら組織運営を行っている。
ムハレムはユーゴ紛争時にコソボやクロアチア、セルビアの紛争地で行った多くの働きを認められて、今のラーズヴァリーヌにおけるボスとして据えられているのだ。
彼の父親とチェチェン人マフィアのアフメドは紛争終結直後から同じ古い世代として親しい友人なのだ。2人とも犯罪者であり、イスラム教徒でもあったのも交流を持った理由の一つだった。
彼らの領地に対する考えはともかく、イストレフィ・ファミリーはカルテルとの抗争の中で敵を減らしたいのは事実。
だが、彼らの手にかかれば地元のギャング風情だったチェチェン人達は簡単に捻りつぶせる。面子や敬意を重んじる彼らに対して度が過ぎた態度をとればそれは現実になりかねない。
ムハレムの気迫に押され口を閉じたエゴールがアフメドを見る、彼はたしなめるような目で見つめ返しエゴールは姿勢を正して傍聴者に徹することにした。
「それに、あのロシア人を本当に追い出したのは彼らクラスニー・クルーグの方たちではありませんか? 当時あなたたちは劣勢を強いられていた中、彼らと契約したからこそやっとの思いで勝利したのでは?」
依然堂々としたアフメドの発言に、今まで静かに食事しながら話を聞いていたヨセフが焦ったように姿勢を直してムハレムの表情を伺う。
当時、前抗争でイストレフィ・ファミリーは別系列のロシア・マフィア――ブラート・ラーズヴァリーヌ――と手を組みながらベリエ・サユースと争っていた。
しかし、二対一でありながらも多くの軍人や諜報員を抱えていた彼らに押されていた。
その時東欧を中心とした殺し屋のネットワークとして存在していた、クラスニー・クルーグの前身となるものから「多額の報酬金と、組織として運用するための支援と引き換えにベリエ・サユースの要人を殺害する」という申し出を受け。それを承諾したお陰でイストレフィ・ファミリーは抗争に勝利して当地における最大勢力となった。
その後アルバニア人は誘致したイタリア人と共に連合シンジゲートを組織し、その下にクラスニー・クルーグが置かれた。だが彼らは凡庸な組織――マフィア――にはならなかったのだった。
東欧、ラーズヴァリーヌ州に限らずロシアなどのシマで事業を行う者はその地の支配組織に必ず手数料を支払う。その引き換えにもし手数料を払っている事業者と別の者で争いが発生したり、事業者にマフィア等の他勢力が干渉した場合。ストレルカ――小さな矢――と呼ばれる会談の場を設けて組織から派遣された者たちが交渉、時には暴力を伴いながら話をまとめる。これが一般的な支配地域を持ったマフィアの活動である。
だがクラスニー・クルーグはその手数料の代わりに連合シンジゲートから送られる資金と、他の組織や個人からの殺害依頼からなる利益のみを得ていた。
アフメドは抗争を勝利に導いた功労者に一切シマを与えないのは問題ではないのか? と揺さぶりをかけているのだ。だが実際はクラスニー・クルーグ自体が根本的にマフィアではないからこそ求めなかっただけなのだが。
「こいつらは本より傭兵みたいなもの、目的は存続しつづけることだけ。だからそんなモノを必要としなかったんだ」
だが当時ムハレムはその話に携わっていた訳ではない。全て父親から聞いた話だった。
「私たちは敵を減らしたい、だがそれ以上にさっさと抗争自体を終わらせたいんだ。彼の父上に免じて2割までなら譲歩しよう。具体的な引き継ぎに関しては全てが終わった後、あなた達の働きで話が決まると思ってくれたまえ」
クレメンテが素早く話を引き継ぎまとめた。彼ら自身多少なりともクラスニー・クルーグに一切シマを与えなかったことを後ろめたく思っているのだろうが、実際はそれで良しとしている様子の彼らを怪しいとも思っているのかもしれない。
「なっ――」
エゴールが音を立てて椅子を押しのけながら立ち上がりかける。
だがアフメドは静止する、彼はエゴールの怒りと疑念がにじむ目を向けられながら。
「ありがとうございます。ミスタークレメンテ、ミスタームハ――」
そこで不意にムハレムは立ち上がり、先程からは想像できない疲れた目でアフメドを見据えると力なく言った。
「爺さん、俺はあんたの話を親父から聞いている、だから信用するんだ。頼むから期待は裏切らないでくれ」
その一瞬から覗き見えた彼の心は長い抗争に疲れ切っている様子だった。だからこそ切実にこの抗争を終結に向かわせようとしているのだ。
彼はそれ以上何も言わないままユリアナと護衛達を連れてレストランを出ていく。彼が出ていった数秒、そこは粛然とした空間だった。
「彼の決定なら私は文句などない、我々も失礼するよ」
クレメンテは飄々とした顔で立ち上がり、前ボタンを閉めながら言うと出口へと向かう。
「おっとそうだ」
卒然彼はあからさまな声を上げて通り過ぎかけたヘレナへ体を向け直す。
「例の案件だが素晴らしい精妙な仕事だった、引き継ぎも滞りなく済んだ。彼の代わりに礼を言っておこう。すまないが私はこれで……」
彼はそれだけ言うと僅かに会釈しながら、彼と同じように整った身なりの護衛達と共に出ていった。やけに恭しく胡散臭い男。
するとヘレナさんは立ち上がりアフメドへ歩み寄っていく。僕とニコライもそれに追従する。
緊張が解けたのか息を吐いていたアフメドは近づいて来た者の気配から振り返り、ヘレナを見ると驚いた表情を浮かべたが、すぐさま立ち上がる。真っ先に手を差し出したのは彼のほうだった。
「アフメド・ハンビエフ、どうぞよろしく。こっちはエゴール・ラヴレンチェヴィチ・ラスプーチン。あなたは――」
「ヘレナ・モグリッジ。クラスニー・クルーグの運営を行っています。こちらはヨセフ・ニカノーロヴィチ・ポドロフスキー。今回の講和が成立した、ということはあなた方も私の取引相手になるかもしれませんね」
「あなたがあのクラスニー・クルーグを……」
抗争の中で猛威を振るっていたベリエ・サユースの幹部たちを次々と殺害した殺人代行機関。その長となれば只者ではないはず、前抗争経験者の彼は身構える。
「そんなに緊張しないでください。私はただの経営者ですから」
彼女はいつも通りの美しく危険な香りがする微笑みを向ける――。
そしてヘレナさんは挨拶を済ませレストランを出ていく、2人の男達の視線を背に感じながら。
ホテルの正面玄関に向かっている中、不意にヘレナが人差し指で小さく合図しニコライを傍に寄せると。
「アリョーシャと彼の父親について改めて調べて」
彼の耳元に小さく囁いた。一瞬、彼は眉間にしわを寄せて不快感を示すが彼女の命令を拒否することはしない。
「わかった。だがなぜ――」
彼が純粋に疑問に思ってヘレナに質問しようとする、だが彼女の目も意識もすでに彼には向いていなかった。ここでわざわざ自分の興味本位の為にボスを煩わすなんてことはできない。
ニコライはさらに不快感を抱く、それはまるで吐き気を催すような感覚だった。彼の目が横に並ぶアレクセイを見据えたそれは間違いなく同僚に向ける目では無かった――。




